★編集者の手帖(詩を読む日々)

11月10日(火)雨

 「詩の目的は真理や道徳を歌ふのでない。詩はただ詩のための表現である。」と言つたボドレエルの言葉ほど、芸術の本質を徹底的に観破したものはない。——と書いたのは、萩原朔太郎であるが、そのような詩が——つまり、ただ詩のための表現である詩が——、時として、われわれの生きている時代をふと描出している場面に立ち会うことがある。平田俊子さんの『戯れ言の自由』のページを繰っていて考えたのは、そのようなことであった。なるほど、これは「戯れ言の自由」を思うままに享受している詩集であるが、「美しいホッチキスの針」に始まり、「寒い春」に終わる、その詩集を読んでいると、いま、われわれはどのような時代に、世界に生きているのか、いつのまにか考えている自分に気がつかされるのである。最初に読んだのは、「はじめて新座キャンパスにいくのに/新座駅ではなく志木駅で降りるようにいわれて/混乱する」という詩である。東武東上線を利用する者には、なじみのある駅であったからだが、冒頭の「あした新座に来てください/志木で降りて新座に来てください」から絶妙に展開していくその詩の最後の八行を記したい。

 

新座と志木の関係はどうなってなって鳴って

ベルが鳴り終わりますとドアが閉まり

発車します

春夏秋冬

死期に向かって

疾走します

どなたさまも

ご乗車にならないでください

10月18日(日)晴れ

 小川三郎の新詩集『フィラメント』は、いささか詩に厭いていたときに届けられた。そのとき、なぜ詩に厭いていたのか、それはひとまず措いて、いまは『フィラメント』について、思いつくままに書いてみたい。そのとき、思わずこの詩集を手にとったのは、その詩集の装丁に惹かれてであった。半透明のフィラメント地のカヴァーの下に、オモテには花の蜜を吸うアゲハチョウの写真が、ウラには観覧車の写真が印刷された表紙があって、それを開くと、雨の夕暮れの交差点のぼかした写真が印刷された扉が目に飛びこんでくる。観覧車の写真は、デヴィッド・リンチの「ブルー・ヴェルヴェット」冒頭の青空を想起させるものだが、この既視感は小川三郎の詩に特徴的なものだ。雨の夕暮れの交差点の写真に惹かれて、冒頭の詩「日常」を読み始めた(小川三郎の詩集では、目次が巻末に置かれている)。その一連から三連を書き写してみよう。

 

 晴れた日に

 あなたとふたり

 日常を歩いた。

 

 公園では 

 ひとが宙返りをしていて

 路上では 

 ひとが寝転がっていて

 学校には

 ひとがよじ登っていて

 お寺には

 ひとが何人も立っていた。

 

 晴れた日に

 町を歩いたことなどなかったから

 なにもかもが珍しかった。

 

 そのとき直観したのは、この詩は、百年後の視点から読まれるべき詩であるということであった。なぜそのようなことを考えたのかといえば、そのとき——つまり、詩に厭いていたそのとき——読んでいた本に引用されていたバンジャマン・コンスタン(1767—1830)のことばを反芻していたからかもしれない。すなわち、コンスタン曰く、「自分の時間をもっと有意義に過ごせるのではないかという感情を抱き、わたしの時間が流れ去ってゆくのを見ながら何ひとつしないのを後悔し、しかもわたしが何をしたところで何にも役立たず、五十年たてば結局同じひとつのことに帰着するという確信からはなれられない……」と。実際、百年後の視点に立って——つまり、2115年から、この「日常」という詩を読み返すと、ある広がりを感受することができたのだ。詩集の真ん中あたりに、「武蔵野」という詩が置かれている。その一連は、「世界が滅亡することについて/あなたは考えたことがあるだろうか。」というものである。ここから、詩集の巻末に置かれた「回想」という詩の最終六、七連の、

 

 私は

 今は

 瞬間

 それは

 速さで

 名残の

 明滅としての

 

 身体はもうすぐ

 崩れるはずです。

 

という、絶妙な改行にたどりつくとき、これらの詩は、書かれるべくして書かれたものだと思うしかなかった。

9月28日(月)晴れ

夏の終わりの三島・浅間神社

 買って付箋を貼ったのにそのまま忘れていた「現代詩手帖」9月号が、ふとした拍子で目の前に現われて、思わず読み始めた。付箋を貼っていたのは、62ページの瀬尾育生の「純粋言語機械」だった。一読、ではなく何度か読み返したが、谷川俊太郎を歴史的に論じる論考は読み応えのあるもので、谷川俊太郎の「逆説」「カデンツ(終曲和音)」についての考察は、谷川俊太郎を長く読んできた者にとって、その先へと促す力をもっていた。これは「谷川俊太郎『詩に就いて』を読む」という特集のために書かれたものであるが、瀬尾さんの論考からは、いつもそうであるが、たえず詩の現在へと登っていく者の声が聞こえてきて、これが瀬尾育生を読む魅力になっている。今回の論考でも、例えば、「牧歌の全体は、詩的言語作業の内在的な高度に見合った市場を見出すことができないままで、恐ろしい速度で縮小している」というあたりに、いまの課題を見たが、この論考の主題的なところは、「詩句の真理性ということを規定しようとしたら、それが一人の詩人の詩作品化の力学を超えている、ということをもってその定義としてよいかもしれない。だがそれは詩人自身が希求してやまない無名化や非人称化とは少し違うことかもしれない」と書かれるあたりだろう。瀬尾さんは、いまの詩(の閉塞)を考える上で、きわめて重要な視点を提示していて、自分なりに考えていかなくてはと思った。

 瀬尾さんの文章を読み終えて手にとったのは、小田島隆の『ポエムに万歳!』である。この本は時々読み返しているのだが、「詩は人によってはっきり好き嫌いが分かれる文芸でもある。ある人々の心を動かす詩が、ほかの人々にはまったく響かなかったりする例は珍しくない。(略)こんなふうに評価がバラけるのは、詩の言葉が、情報を伝達するための言葉ではないからだ。詩の言葉は、発言者の内部でただただ反響している。(略)逆に、意味が正確に限定されていなかったり、きっちりとコースに投げ込んでいない言葉だからこそ、異様に共鳴する人が現れたりもする」などというところは、詩を書いてきた人だからこそ書けることばではないだろうか。

 上の小田島隆の引用は長すぎただろうか。だが、いま迂生が考えていることのひとつに、「引用と〈私〉」というテーマがある。これからも引用しながら考えていきたいと思っている。

9月20日(日)晴れ

広隆寺の蓮

 midnight radio「小さな夜の読書会」第一回放送で、伊東静雄が取り上げられた。伊東静雄は、僕にとって、懐かしい詩人であり、忘れがたい詩人である。伊東静雄といえば、夏を思い出す。それは、もう帰ってこない夏であるが。

 久しぶりに伊東静雄の詩を読み返して、あらためて、伊東静雄の詩には「詩作」(あるいは「詩」「詩人」……)ということばがよく(?)出てくるなと思った。『わがひとに与ふる哀歌』に収められた「帰郷者 同 反歌」の「詩作を覚えた私が 行為よ/どうしてお前に憧れないことがあらう」はよく知られた詩句であるが、これが「詩作」という語彙の初出であろうか。

 伊東静雄は、日々のなかで、詩を書くこととはなにかと、たえず思索していたのだろう。「詩作」とはなにかと、詩において、「詩作」を対象化する、その心の動きの拠ってきたるところを考えることは、伊東静雄の詩を読むとき、避けることはできない。

 『反響』という詩集がある。このなかの、「訪問者」から「詩作の後」「中心に燃える」へと流れていく時間を僕は愛惜する。「詩作」と対峙している伊東静雄の息遣いが聞こえてくるのだ。この「詩作の後」の冒頭七行などは、詩を書いた人であれば、一度ならず覚えがあるものだろう。

 

 

 詩作の後  伊東静雄

 

最後の筆を投げ出すと

そのまゝ書きものの上に

体をふせる

動悸が山を下つて平地に踏み入る人の

足どりのやうに

平調を取り戻さうとして

却つて不安にうちつづける

窓を開け放つた明るい室内に

いつの間にか電燈が来てゐる

目はまだ何ものかを

見究めようとする強さの名残にかがやきながら

意味もなくそれを見てゐるうちに

瞳は内なる調和に促されて

いつか虚ろになつて

頭脳を孤独な陶酔が襲つてくる

庭一杯に茂り合つた

いろんな植物の黒ずんだ葉の(かさな)りや

花の色彩(いろどり)

緻密画のやうに鮮やかに

小さく遠のいてうつる

やがて夜の昆虫のむれが

この窓をめがけて

にぎやかに飛び込んで来るだらう

瞼がしづかに垂れる

向うの灌漑池では

あのすこやかに枯れきつたいつもの老農夫が

今日も水浴をしてゐる頃だらうか

濃いい樹影が水に浸るやうに

睡りにふかく沈んでゆく

9月8日(火)雨

パンパスグラスとナナカマド

  中国の詩(それはおおむね「漢詩」のことをいうが)を読もうとするとき、思いだすのは、「詩は志の之(ゆ)くところなり。心に在るを志となし、言に発するを詩となす。情中に動きて言に形(あら)わる」という「詩経」の序の一節である。この、詩の「定義」は、一般にも受けいれられやすいものかもしれない。李商隠(811858)の詩を読むとき、去来するのは、それとは少し違うもののようである。

 

 楽遊原  李商隠

 

向晩意不適  晩(くれ)に向(なんな)んとして意適(かな)

 わず

駆車登古原  車を駆(か)りて古原(こげん)に登る

夕陽無限好  夕陽(せきよう)無限に好(よ)し

只是近黄昏  只だ是れ黄昏(こうこん)に近し

 

 高橋和巳の訳を読んでみよう。「日暮に近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。馬車を命じて郊外に出、西のかた、楽遊原に私は登ってみた。陵(みささぎ)があちこちにある歴史古き高原の空はいましも夕焼に染まり、落日は言い知れぬ光に輝いている。とはいえ、その美しさは、夕闇の迫る、短い時間の輝きにすぎず、やがてたそがれの薄闇へと近づいてゆくのだけれども。」

 起句において、「意不適」をどのように訳すかによって、その後の詩の読み方も変わっていくと思われるが、結句の「只是」をどう訳すかも、この詩を読む上で大事なところだと思う。高橋和巳は、「只是」を、「そうではあるけれど、しかし、という語気」と注しているが、ここは川合康三のように「ただひたすらに」と、即ち「夕日は限りなく美しい。ひたぶるに日暮れに迫りゆくなかで」と読むほうが、「限りなく美しい」時間をいつまでも留めておきたいという切なるものが感じられ、詩に奥行きが生まれるように思う。

8月31日(月)曇り

8月も終わろうとしている。25日夜、井上輝夫氏逝去。27日午後、松本市・神宮寺で行われた葬儀に出席。週末には、平井弘之詩集の入稿作業を終え、本日、印刷所に送稿した。そして、本日24時、「なにぬねの?」を終了する。2007年開設だから、8年経ったということだ。井上輝夫氏の詩を読み返し、平井弘之の詩を読み返しするうちに、8月が終わろうとしている。明日からは9月だ。See You In Septemberという歌を思い出す。

https://www.youtube.com/watch?v=iu-7DXBiVsA

8月28日(金)曇り

井上輝夫氏が、8月25日午後8時23分、亡くなられました。享年75歳。井上さんのご冥福をお祈りいたします。

8月24日(月)晴れ

 ふと思いついて、『断腸亭日乗』昭和十二年六月廿二日の項を読み返す。「掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ、鉄道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を囲らしたる寺即ちこれなり」。三ノ輪の浄閑寺を尋ねたのはいつのことだっただろうか。たしか、辻征夫さんも一緒だった。小沢信男さんに案内されて、荷風の詩碑と向か合い、「今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と……」と読み始めたとき、なにか、ある独特の情念のようなものを感じたことを覚えている。あれからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」。荷風の望んだごとく、荷風の墓は浄閑寺に建てられなかったが、代わりにこの詩碑が建てられた。この詩は、当初、「明治の児」と題されたようだが、関東大震災そして東京大空襲を経て、「震災」とあらためられた。20158月の末近く、久しぶりに読み返すとき、この詩が開こうとした方角に思いをいたす。

 

 

 震災  永井荷風

 

今の世のわかき人々

われにな問ひそ今の世と

また来る時代の芸術を。

われは明治の児ならずや。

その文化歴史となりて葬られし時

わが青春の夢もまた消えにけり。

団菊はしをれて桜痴(あうち)は散りにき。

一葉落ちて紅葉は枯れ

緑雨の声も亦絶えたりき。

円朝も去れり紫朝も去れり。

わが感慨の泉とくに枯れたり。

われは明治の児なりけり。

或年大地俄にゆらめき

火は都を燬(や)きぬ。

柳村(りうそん)先生既になく

鷗外漁史(おうぐわいぎよし)も亦姿をかくしぬ。

江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ。

明治の文化また灰とはなりぬ。

今の世のわかき人々

我にな語りそ今の世と

また来む時代の芸術を。

くもりし眼鏡ふくとても

われ今何をか見得べき。

われは明治の児ならずや。

 去りし明治の世の児ならずや。 

8月18日(火)曇り時々晴れ

 昨日、平井弘之詩集の編集作業をほぼ終えた。「詩を読む」ということでいえば、この夏はずっと平井弘之の詩を読んでいたことになる。

 夏の思い出といえば、八月あたまの、大阪から奈良、京都への駆け足の旅であろうか。39.5度という炎天下、京都・下鴨神社の摂社、河合神社境内で、復元された鴨長明の方丈庵を見る。四つの小川が流れているという糺の森を歩いていると、川の流れを眺めている長明の姿が見えてくるようであった。


  *


 8月16日、奥成達氏が亡くなられた。享年73歳。奥成さんのご冥福をお祈りいたします。

8月10日(月)曇り

 連日の猛暑で、アタマがとろけて、なにもかもが鈍磨している。こんなときはなにをしてもだめなのだが、そのとき手にとったのは、先月刊行された岩波文庫版『原民喜詩集』である。


 わたしは熱があつて睡つてゐた。庭にザアザアと雨が降つてゐる真昼。しきりに虚しいものが私の中をくぐり抜け、いくらくぐり抜けても、それはわたしの体を追つて来た。かすかな悶えのなかに何とも知れぬ安らかさがあつた。雨の降つてゐる庭がそのまゝ私の魂となつてゐるやうな、ふしぎな時であつた。私はうつうつと祈つてゐるのだつた。

 

 これは、詩集の冒頭に置かれた「昼」という詩である。一読して、アタマに詩句が入ってこないのは、暑さのせいだろうか。しかし、「ふしぎな」ことに、この詩は僕を離さない。もう一度読め。繰り返し読め。そう促してくるのである。

 

 わたしは熱があつて睡つてゐた。庭にザアザアと雨が降つてゐる真昼。しきりに虚しいものが私の中をくぐり抜け、いくらくぐり抜けても、それはわたしの体を追つて来た。かすかな悶えのなかに何とも知れぬ安らかさがあつた。雨の降つてゐる庭がそのまゝ私の魂となつてゐるやうな、ふしぎな時であつた。私はうつうつと祈つてゐるのだつた。

 

 二度、三度と、繰り返し読むうちに、気がついてくることがある。「わたし」と「私」と、ふたとおりの表記がされているが、これはなぜだろう。あるいは、「しきりに虚しいものが私の中をくぐり抜け、いくらくぐり抜けても、それはわたしの体を追つて来た。」というパッセージ。これはやがて、「僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。」(『鎮魂歌』)という表出へと到るものであろうか(ちなみに、この「昼」という詩は一九四三年頃に書かれたもののようである)。あるいはまた……と、二百字にも満たないことばが、次から次へと僕を追いかけてくる。

 そして、気がつくのである。いま、僕は「詩」を読んでいる、と。これが、先ほどまで暑さに堪えかねて輾転反側していた時間とは別のものであることは云うまでもない。この時間——詩の時と名づけたくなるこの時間とはいったいなんであろう。そんなことを考えながらページを繰ると、「夕」という詩が目に入ってきた。

 

 夕  原民喜

 

 わたしはあそこの空に見とれてゐる。今の今、簷近くの空が不思議と美しい。一日中濁つた空であつたのが、ふと夕ぐれほんの一ところ、かすかな光をおび、淡い青につゝまれてゐる。病み呆けたはての空であらうか。幻の道のゆくてであらうか。あやしくもかなしい心をそゝるのである。

8月1日(土)0:00

グラジオラスとフトイとノバラとキノブランと

 このたび、201581日をもって、ミッドナイト・プレスのHPを全面リニューアルすることにした。変貌する「詩の現在」に向けての試行として、新たな一歩を踏みだすことにしたものだ。

 ごらんのとおり、すでに、61日から「詩を読む日々」と題して、少しずつ書き始めたが、この「詩を読む日々」では、いま書かれている詩、いま読まれるべき詩を、「現代詩」というワクから解放して、思うままに読んでいきたい。

 今日取り上げるのは、ジョン・レノンの「STARTING OVER」である。気分を変えて、なにか新しく始めるときには、いつもこの曲を聴いてきた。

 

 

STARTING OVER   by John Lennon

 

僕たちふたりの暮らしは、ふたりにとってかけがえのないものだ

僕たちはよく生きてきた よく生きてきたと思う

僕たちの愛はいまもスペシャルなものだけれども

ここで もう一度ふたりでどこかに旅立とう

 

いろいろなことがあったけれども

誰のせいでもない 光陰矢の如しさ

いまこうして君と会っていると

僕はまた君に恋してしまいそうだ

はじめて君と会ったときのように

 

毎日 僕たちは愛し合ったね

これからはもっと自由に愛し合いたいな

羽根を広げて飛び立つときがきたんだ

時の過ぎゆくままにしてはつまらない

僕たちは生まれ変わるのさ

 

ふたりだけで出発しよう

遠い遠いどこかへ旅に出てみよう

僕たちはまた一緒になるんだ

知り合ったあの頃のようにね

そうだろ ダーリン

 

 ジョンの声を聴きながら、訳してみたが、youとは、「詩」のことであるようにも思われてきた。

7月20日(月)晴れ

(夏ハゼと野バラとクルクマと)

梅雨が明け、猛暑到来。厳しい暑さだ。この季節になると、毎日チック・コリアのRETURN TO FOREVERをかけるのだが、今年はそこにショパンのマズルカが加わった。

7月13日(月)晴れ

 八木幹夫さんの新詩集『川・海・魚等に関する個人的な省察』の初出一覧を眺めていると、ここに収められた詩篇は、昨年出版された『渡し場にしゃがむ女 西脇順三郎の魅力』に収められた文章とほぼ並行して書かれたことに気がつく。ただそれだけのことといえばそれだけのことかもしれないが、この詩集の底に秘められたものに思いをいたせば、目の前の風景はもう一回転して新たな風貌を見せることだろう。

 『渡し場にしゃがむ女』を読み終えたとき、そうしたように、今回もまた詩集を一読した後、八木さんの第一詩集『さがみがわ』を読み返した。この詩集こそは、八木幹夫の原点ともいうべきもので、手にすると、いつも粛然とした気持ちにさせられる。バッハの平均律クラヴィーアを聴くときのように。そして、あらためて、八木幹夫は川の詩人だと思った。「川の詩人」という云い方は、規定するそれではない。八木幹夫の身体の中には一本の川が流れている、ということを云いたいのである。もとより、この川はやがて海へと流れゆくものでもある。魚たちへの親和は、そこに淵源している。

 

 鮎と愛  八木幹夫

 

炎天下で

日がな一日

長い

長い

棒などどうして

振り回して遊んでいられるのだろう

 

あゆのことをずっと考えているからさ

でも

あいはむずかしい

あいとあゆはいとがからまるのだ

 

鮎の川が

愛の川に

変身した

渓流へ

夏になると

会いにいく

木漏れ日

光の散乱

水中にきらめく手裏剣

愛のむれ

 

愛だ

鮎がのぼってきた

 

 この本書初出の詩を読んだときは、そのみごとな詩句の展開に唸らされた。第一連から第二連への転換は、鋭角的というべきか、夢想から現実へと渡る自己省察の時間の密度は、改行のリズム、あるいは漢字からひらがなへの移行によって担保されている。そして注意深くかつ繊細に詩行が運ばれる第三連から第四連へのコーダ。それは、まさしく音楽の時間であった。

 

竿をたてよ

そして

川岸を静かに走れ(「水の声」から)

 

 川の日々——rivers daysといったらいいだろうか——、そうした日々の、一日の永遠を、永遠の一日を、みごとにことばにした「鮎と愛」という詩を僕は愛する。

7月4日(土)雨時々曇り

(てっぽう百合と南天と)
(てっぽう百合と南天と)

 8月1日にミッドナイト・プレスHPの全面リニューアルを予定している。文字どおり「全面リニューアル」というもので、いま、この「詩を読む日々」をほぼ週イチで更新しているのは、そのウォーミングアップというところもある。

 今日は一休みというか、南天の緑が目に沁みるので、その画像をアップしてみた。 

6月29日(月)晴れ

 最近は、ぼんやりとしていることが多い。昔、詩人のK氏がいつもぼんやりしていると云っていたが、その境地に到達したのであろうか。ぼんやりとしていることをそのまま受けいれることが少しはできてきたような気がする。

 とはいえ、煩悩から完全に解脱できていない凡夫は、気がつくと、ふと、文学とはなんだろう……などと考えていたりする。文学とはなにか……。それは、人間とはなにかと考える営為のことだろう。人間ほど不可思議なものはない、とは、この頃よく思うのだが、宇宙の不可思議も、人間のそれの比ではないだろう。

 そんなことをぼんやりと考えているとき、鈴木志郎康氏の新詩集『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』を読むと、これは、文学とはなんだろうと考える迂生の波動とシンクロした詩集ではないかと思われた。この詩集は、人間とはなにかと考える、根源的な思考の詩集、すなわち文学であると思った。この詩集を読んで思ったことはいくつかあるけれども、まず印象づけられたのは、冒頭に置かれた詩篇「遠くなった、道を行く人たちが遠くなった、あっ、はー」からも明らかなように、さまざまな人間が登場してくることである。バルザック的とでもいえばいいのだろうか、人間とはなにかと考える、その精神はまさに文学者のそれであると知らされる詩集であった。これからも繰り返し読むことだろう。

6月20日(土)晴

 愛媛・松山の堀内統義が編集・発行する「不器男旬報」第二号が先日届けられた。「気がかりな不器男が残した文章等を巡」るとして創刊された、A4判10ページの冊子(季刊)だが、今号も味わい深く読んだ。この味わい深さはどこからくるのだろうと考えてみると、いくつか思いあたるところがある。ひとつは、芝不器男に関することであれば、どこまでも探求しようとする堀内氏の情熱である。またひとつは、文中に引用される詩句の魅力である。

 今号では、不器男のノートに残された次の詩句の引用から始まる。

 

 投げた石が

 波をすべらぬ、

 いくら投げても

 すべらぬ。

 

 ……ああ、曇り日の

 しらけた川

 

 強い風が吹く日、池の水面が吹き荒れる風に、白く波立ちざわめいているのを目にした不器男は、「妙に僕の心をひいた。たちまち大木氏の詩が頭に浮かんでくる」として、上記の詩句を記している。「大木氏とは? 不器男の友人だろうか」。ここから堀内氏の探求が始まり、それは大木惇夫の詩集『風・光・木の葉』という詩集に収められた「曇り日」という詩であることを探りあてる。

 大木惇夫といえば、戦争詩を書いた詩人として記憶されているところが大きいが、『風・光・木の葉』が北原白秋の序文をつけて出版されたのは、1925年、大木惇夫30歳、芝不器男22歳の時であった。堀内氏の意を尽くした文章は、「彼(大木惇夫)に詩的血縁を思い、自らを培おうとした不器男」の姿を浮かびあがらせる。この堀内氏の情熱の深さが、「不器男旬報」の魅力なのだが、そこに引用される詩篇も味わい深い。『風・光・木の葉』のなかから、「小曲」「風・光・木の葉」の二篇が紹介されているが、読むと、詩と出会ったときの、あの感興がよみがえってくるかのようである。


 小曲 大木惇夫

 

 想ひ

 かすかに

 とらへしは、

 

 風に

 流るる

 蜻蛉(あきつ)なり、

 

 霧に

 ただよふ

 落葉なり、

 

 影と

 けはひを

 われ歌ふ。

  

 この詩を評して、三好達治は云う。「こういう微かな、ありなしの、繊細な消息を現わそうとするのでありますから、それにはそれの特殊な行方が必要であり、いわゆる時代的な空気の外に、口語自由詩的な行方の外に立たなければならない理由がそこにあったのでしょう」

 「きっと不器男は『風・光・木の葉』の世界に没入して、その詩的感性と交感していたのでしょう」。大木惇夫を通して芝不器男の人を描出していく堀内統義氏の文章は味わい深い。「不器男旬報」は、 my favorite thingsのひとつである。

 

 北風やあをぞらながら暮れはてゝ  不器男

6月16日(火)曇り

井上輝夫氏の新詩集『青い水の哀歌』を刊行した。詩の現在を問い直す、注目の詩集です。ひとりでも多くの方々に手にとって読んでいただければ幸いです。

6月8日(月)曇り

 倉田良成編集発行の「tab44号。倉田良成の「鉄斎山河」と題された、出光美術館で開催された山岡鉄斎展鑑賞記と、「鉄斎詩篇から」として掲載された詩三篇を読む。「鉄斎山河」は委曲を尽くしたもので、会場に展示された山岡鉄斎の画をひとつひとつ見ていく筆者の心の動きが伝わってくる。

 「私の画を見て下さるなら、第一に画讃から読んで貰いたい。私は意味のないものは描いてゐないつもりぢや」とは鉄斎のことばであるが、これはもとより倉田が云うように、画と文字との無碍なる照応を語るものだろう。

 鉄斎の「漁夫図」にインスパイアされたと思われる「漁夫図」という詩を読む。その冒頭五行を引いてみる。

 

 ふいに呼ばれる

 漁網を持つ男から

 いや呼んだのは(おれ)

 その男から呼ばれる、という覚醒で

 己ははじめて存在する

 

 初期詩篇を想起させる書き出しだが、鉄斎の画と讃とセッションしながら繰り出される詩行の展開を味わい深く読んだ。

 61日(月)晴れ

 これから「詩を読む日々」と題して、いま詩について思うことなど書いていこうと思う。

 谷川俊太郎氏は、新詩集『詩に就いて』の「あとがき」で、「日本語の詩という語には、言葉になった詩作品(ポエム)と、言葉になっていない詩情(ポエジー)という二つの意味があって、それを混同して使われる場合が多い。」と書いている。これは、日頃から谷川さんが語っていることであるが、詩集の「あとがき」としてあらためて記されたことが目を惹いた。

 一篇の詩(としてのpoem)と詩情(としてのpoesie)を分けて考えることは、詩を考える上で、重要な視点だと考えてきたが、それは、詩(一篇の詩)と詩でないもの(詩情)との境界を考えることでもあった。一例として、思い浮かぶのは、一遍上人の挿話である。参禅して、詠んだ、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」を「未徹在」と評され、「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠み直されたこの一遍上人の「歌」こそは、詩(一篇の詩)ではないか。

 谷川俊太郎氏は「詩を書くには、自我がないっていうことが、ひとつの条件としてあるんだと、ぼくは思ってます。自分を空っぽにして言葉を呼び込むのが詩の書き方だというふうに思ってるの」と語っているが、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」には、まだ「われ」(自我)がある。「南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠まれて「われ」(自我)は「なかりけり」となる。前者は「詩ではないもの」(ポエジー)であり、後者は「詩」(一篇の詩)であると考えるゆえんである。

5月11日(月)晴れ

長田弘氏が3日亡くなられた。行年75歳。長田弘氏といえば、ビゼーの「交響曲第一番」が思い出される。という次第で、いま小澤征爾&水戸室内管弦楽団が演奏するビゼーの交響曲ハ長調を聴いている。長田弘氏のご冥福をお祈りいたします。

51日(金)晴れ

 54日は、平井弘之の命日である。彼が亡くなって一年が経つ。詩集の出版を一周忌に間に合わせることはできなかったけれども、数日前、ようやく詩集に収録する作品の第一次リストを作成するところまでたどりついた。3月半ばにmidnight press WEB13号を発行して、一月半が経とうとしている。しばし虚脱の時にあったが、5月を迎えて、ネジを巻き直し始めたところである。midnight press WEB以後を念頭に、HPの全面リニューアルを計画しているが、拙速は避けたい。そこで、まずこの「編集者の手帖」の定期的更新を実行していこうと思う。この「手帖」の趣旨は、詩を紹介することにあるので、不易流行、いま読まれるべき詩と、いま書かれている詩とを、交互に織り交ぜながら少しずつ書いていきたい。いま机上にあるのは、平井弘之の詩集収録候補作品の束、井上輝夫氏の新詩集の三校ゲラ、そして刊行されたばかりの谷川俊太郎氏の新詩集『詩に就いて』、それから『吉本隆明 最後の贈りもの』……。

 

 木と詩、事実の世界では全く違う二つの存在が、人間の心の世 界では相即の関係にある。詩もまたそこで生まれる。

               (谷川俊太郎「木と詩」から)

3月21日(土)曇り

 平井るみ子さんから、平井弘之の遺稿(の一部)を預かったのは、昨年の10月半ばであったか。以来、時間を見つけては遺稿を読んでいるが、ようやく全体、というか、これからどのように進めていけばいいのか、そのおおよそが見えてきたような気がする。

 「癌が再発しました。去年発生した頸頭部からの転移とは考えにくく、新たに発生した大腸癌が肝臓に転移しているものと思われます。「5年再発の危機を乗り切って営業勤務引退」の計画はあっけなく崩れました。「営業勤務」は引退します。癌専門の病院に転院し、何とか第5詩集は仕上げるつもりです。」

 これは、2014416日付の平井弘之のツイートである。同25日、帝京大学病院に見舞いに行き、そこで詩集のことを近いうちに相談しようと別れたのだが、54日朝91分、平井弘之は帰らぬ人となった。317日にマダムシルクで会ったとき、こんどの詩集について、どのような考えをもっているのか、その一端を聞いたが、もっと詳しく具体的に聞いておくべきだったとの思いは残る。残された原稿から、ジグソーパズルを組み立てるようにして、作業を続けている。

1月31日(土)晴れ

MIDNIGHT NEW YEAR TEA PARTY、八木幹夫、三原由起子、宮尾節子の三氏をお迎えしてのトーク「詩のふるさと」、その後はオープンマイクで多くの方々による詩の朗読とアコースティックギター&ヴォーカルのライヴ。考えつつ、少しでも前に進むことの大事さをあらためて確認した。

1月3日(土)晴れ

三が日も慌ただしく過ぎていった。年末から飾られていた蠟梅と椿の花の写真を撮った。

11日(木)曇り

 「故郷/ふるさと」ということばは、迂生にとって、複雑なもので、これまでまともに向かい合ってこなかったという思いがある。だが、いつまでもそうしてはいられない。そう思わせることが昨年の夏から秋にかけてあった。

 旧臘半ば、思いたって、京都を訪ねた。京都は、母の故郷であり迂生が生まれたところであるが、生後三年で北海道に渡ったので、ほとんど記憶もない。今回の京都行きはこれまでと違い、ある意識をもって、松ヶ崎から、くろ谷・金戒光明寺、下鴨神社と回ったのだが、いずれもその地に立つと鳥肌が立つほどであった。そのとき、これからもここを訪ねるであろうと思われた。そうやって、考えもかたちをなしていくのであろう、と。

 その日のことを思い出しながら、今朝は下鴨神社(加茂御祖神社)でいただいた御やくしゅを飲んだ。「邪気を屠り、魂を蘇らせる」屠蘇である。

2015年1月1日(木)


あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

              ミッドナイト・プレス 岡田幸文

(若松と千両)

20141231日(水)晴れ

 年の暮れを味わう(?)こともなく、ただ追われる如く散文的に時間が過ぎていく。いま机上にあるものを並べてみた。

 去年今年貫く棒の如きもの

2014年12月21日(日)薄曇り

このところばたばたしていて、HPの更新作業などが疎かになっていた。遅ればせながら、八木幹夫さんの『渡し場にしゃがむ女』が、「東京人」1月号の川本三郎氏「東京つれづれ日誌」で紹介されたこと、および「アムバルワリア祭」のご案内を記します。

八木さんも登壇される「アムバルワリア祭 西脇順三郎と萩原朔太郎 二人の詩法をめぐって」は、2015年1月24日(土)午後2時より、慶應義塾大学三田キャンパス北館ホールで開催されます。

12月2日、岩田宏さんが亡くなられました。享年82歳。岩田宏さんのご冥福をお祈りいたします。


11月17日(月)曇り

文学とはなにかと考えていたら、いつのまにか、人間とはなにかと考えていた。人間とは……、どこから来たかも知らず、どこへ行くとも知らず、ただ日々さすらうもののことか。

○11月15日、横浜・中島古書店で開かれた「ミッドナイト秋の小さなお茶会」で、シェアされた詩は下記の10篇です。 

・平井弘之「忘れ女」
・東君平「潜水夫の夢」
・柿本人麻呂「高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本人麻呂の作る歌一首」、『万葉集 巻第二』より
・多田智満子「葉が枯れて落ちるように」
・ルコント・ド・リール「リディア」、河本喜介訳(推定)、河本著『フォーレとその歌曲』より引用
・谷川俊太郎「地球へのピクニック」
・依田竜治「村にて 14」
・ルネ・シャール 詩集『兵器庫』吉本素子訳
・村上昭夫「象」
・ディラン・トーマス「月の道化師」中村剛彦訳
 

 

11月9日(日)曇り

 だがしかし、いま目の前にあるのは、平井弘之の詩稿(遺稿)である。少しずつ読んでいるのだが、そのとき、なにを考えているのかといえば、〈文学〉とはなにかということである。あるいは、〈人間〉とはなにかというべきか。〈詩〉とはなにかと考えることは、すでに無用であるようだ。

 平井弘之の原稿を読んでいると、目の前に平井弘之が現われる。マダムシルクで、次の詩集について意欲的に語る平井弘之が目の前にいるのである。平井弘之の、あまりにもあっけない死は、人間の一生とはなにかということを考えさせるものであったが、平井弘之は死んでいなかった。

 平井弘之が書き残したことばと向かい合うこと、それは迂生の「文学入門」なのかもしれない。

11月2日(日)

 絶えず、それも瞬時の、判断が迫られている。逡巡している時はない。逡巡、それは〈死〉だ。

 Life is very short and there’s no time

 For fussing and fighting my friend

 という次第だ。

 どういう風の吹き回しか知らぬが、「詩的日乗」なるものをこれから書いていこうと思いたった。毎日はもとより不可能で、月に二回も書ければ御の字であろう。この日乗の主題は——それがあればのことだが——、「いま詩はどこにあるのか」、それに尽きる。

 無駄な前置きはそれくらいにして。

 いま迂生の前には、あることばが置かれている。即ち、「作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、また他人に真似の出来ない詩を作り得るからかの場合に限る」。これは夏目漱石が云ったことであるが、そういうことはひとまず忘れて、このことばを繰り返し読んでみる。

 秋亜綺羅が編集発行する「季刊ココア共和国」16号が届けられた。久しぶりに読む宮園真木の詩に、アンニュイとその超克の精神を見出しつつ、秋亜綺羅の「寺山修司まで時速4キロ」を読んだ。秋亜綺羅が「寺山修司論へ向けて、ノート作りを始め」たのは、偶然であろうか、必然であろうか。それを考えることは、漱石のことばからそれほど隔たったことではないように思われるのだが。

1020日(月)晴れ後曇りから雨

 いくつかの仕事が片づいたので、平井弘之の詩稿を読み始めることにする。数日前、20096月に亡くなった奥村真の追想集『繚乱の春はるかなりとも 奥村真とオールドフェローズ』を、平井るみ子さんからいただいた。そこに平井弘之の奥村真追悼文「ひるがえるビトガン」が収録されているからだが、奥村真を追悼する平井弘之もいまはいないことをあらためて思い知らされる。詩稿をぱらぱらと繰っていると、こんな詩行があった。

 

世界の終りを

あたしたちは視ることができない

トシアキの

船旅は

もうとっくに終わっているのかもしれない

けれど

作戦会議だ

あたしは乗船した

ミネソタも

トロイヤも

海の彼方だ

midnight press WEB第11号

contents

・詩 川島洋「跳ねる」

midnight dritic 江田浩司「「短歌と自由詩が失ったもの—批評について—」

midnight autumn poem collection

・井上輝夫「宮崎駿監督『紅の豚』その主題と歴史的背景」

・追悼・平井弘之 倉田良成 渡辺一

・詩の教室 小林レント「詩の語る世界へ」

・映画を読む 兼子利光「〈恐怖〉をつくりだす アルジェント、そしてロメオ……」

・書評「吹き渡る佳き風 『呼吸ととのへり』を読んで」笹原玉子

・連載

浅野言朗「詩情と空間」10

宮尾店の「悪いようにはしないわ」2 「お宮の美学」 宮尾節子

添ゆたかの時間泥棒3 「お砂糖とスパイスとすてきななにもかも」

もふもふうさこ midnight children’s book review

「そよ風#9 匿名の効用」

中村剛彦のPoetry Review「自己サディズムと自己救済のひとり芝居——平井弘之の詩の本質」

8月1日(金)

咋日(731日)、当ホームページリニューアルの一環として、10年近く開いてきた「私の詩」掲示板を閉じることにしました。これまで多くの方々にご活用いただきましたことを御礼申し上げます。閉じるに際して、ごていねいなメッセージを残してくださった方々、ありがとうございました。みなさまのご健康とご健筆をお祈り申し上げます。

相変わらず試行錯誤の繰り返しですが、理想のかたちをめざして、このホームページをリニューアルしていきたいと思います。少し時間がかかるかと思いますが、今後ともどうかよろしくお願いします。

7月28日(月)晴れ

猛暑の夕べ(27日夕刻)、ふと、目の前に置かれた写真。このすずやかさ、そして水の動きの深さに、思わず、ここはどこ?と尋ねていた。それは武蔵野・吉祥寺の井の頭公園の池であったが、どこか、古都の池のたたずまいを思わせる映像であった。迂生がそのとき求めていたなにかを実現していたのだろうか。

6月11日(水)雨

虎の尾をはじめて見た

midnight press WEB第十号を発行しました(2014.6.9)

今号は、巻頭詩に五月女素夫「My musician in the early morning」、そして立原道造生誕百年小特集を組みました(道造詩20by浅野言朗&中村剛彦、元山舞が撮る、詩人が生まれた街 日本橋下町、浅野言朗「建築家としての立原道造について」、中村剛彦「立原道造の無言歌 そのソネットの魅力」)。

詳細は、上の画像からお入りください。

 

6月2日(月)晴れ

 詩人の那珂太郎氏が6月1日に亡くなられました。享年92歳。那珂氏といえば、その文字遣いがすぐに思い出されます。

 「自国語及び自国文化の未来のために、文学言語は新仮名遣を拒否しなければならぬ、これが、社会的有効性をもつと信じ得る、ほとんどただ一つの私の思想である。その余は夏炉冬扇。」(那珂太郎、一九六九年九月)

 那珂太郎さんのご冥福をお祈りいたします。

5月17日(土)晴れ

ミッドナイト春のお茶会でshareされた詩は以下のとおりである。

コンスタンチン・シーモノフ「待つんだよ」(井上満訳)

ジャン・コクトー「学友」(堀口大學訳)

鷲巣繁男「ネストリウスの夜」

新川和江「記事にならない事件」

石原吉郎「辞書をひるがえす風」

草野心平「冬眠」

中原中也「一つのメルヘン」

石原吉郎「くしゃみと町」

松浦寿輝「サン=ルイ島へ渡りながら」

ゲイブリエル・ロゼッティ「聖燈」(蒲原有明訳)

511日(日)晴れ

昨日は、平井弘之の告別式の後、池袋「ライオン」で、中村剛彦、渡辺一、元山舞、山本かずこらと昼食。男たちは生ジョッキを重ねる。平井弘之がいなくなってから、心に大きな穴があいてしまったような日々が続いたが、ライオンでヱビスビールを飲んでいるボクのアタマの上で、オレの詩集を進めてくれよというチャーリーの声が聞こえてくる。わかってるよ、チャーリー。でも、いまはみんなとキミのことを話していたいんだ。いま、ここにキミがいてくれたらなあ!

5月9日(金)午後6時から7時 平井弘之の通夜 於北区セレモニーホール

5月10日(土)午前10時から11時 同告別式

54日(日)晴れ

 平井弘之が亡くなった。まだ信じられない。先週の金曜日に見舞いに行ったときは元気そうで、こんど出す詩集についても意欲的に語っていた。だが、今朝、届いたのは平井弘之が死んだという知らせだった。

 君とマダムシルクで最後に飲んだ317日の夜は忘れられない。あんなに楽しく話せた夜は久しくなかった。Charlie平井弘之よ、ありがとう。僕は君に感謝している。ほんとうに、ありがとう。君ともう会うことができないなんて、なんてかなしいことなんだ……

4月17日(木)晴れ

散歩の途中で見つけた雪柳。

3月31日(月)晴れ

 3月31日(月)晴れ……と書いて、外国人は日記に天気のことをあまり記さないという話を思い出した。いま、331日(月)晴れと記したのは、習慣のなせる業であろうか。いや、習慣と云えるほど、日記を書いていないことは、このページが示すとおりである。習慣というよりは、「定型」の安易な受容であろうか。いや、しかし、今日、「晴れ」と記したのには、それなりの理由があるような気がする。29日は上野公園でミッドナイトお花見会を開いたが、昨年のお花見とはうってかわって天気に恵まれ、昼から暗くなるまで芝生の上にブルーシートを敷いて一時を愉しんだ。明けて、咋30日は雨風の強い一日となり、コンビニにビールを買いに行く途中で傘が折れてしまった。そして今日は風が残っているがよく晴れた一日となり、あらためて自然の業に、人間の小なることを思い知らされた。そういえば、3年前の3月は、桜を愉しむ余裕などまるでなかったことを思い出した。いまも、基本的には当時の気分と大して変わらないように思う。が、同時に、それでも細胞がたえず生まれ変わっていくさまを、身体のどこかで感じているようにも思う。自然の業(わざ)と人間の業(ごう)との果てしなき弁証法に思いをいたしつつ、「331日(月)晴れ」と記した次第である。

 この次、「○月○日……」とここに記すのは、いつになるだろう。通奏低音のごとく、THE BEATLES ON AIR  LIVE AT THE BBC VOL.2のロックンロールが遠くから聞こえてくる。


3月5日(水)midnight press WEB第九号を発行しました。

contents

・詩 岸田将幸「Find the river、石狩」

・山羊散歩 その四 八木幹夫「西脇順三郎逍遥 観音崎編」 

・長篇詩 井上輝夫「青い水の哀歌」

midnight critic 玉城入野「詩の手前に、詩の向こうに。」

・映画を読む 兼子利光「闇の中の〈真実〉 ミヒャエル・ハネケの〈方法〉」

・詩の教室 小林レント「詩の空間と、その外と」

・連載

浅野言朗「詩情と空間」8

添ゆたかの時間泥棒(新連載)

「そよ風 #7」原理論の手ざわり

もふもふうさこ midnight children’s book review

中村剛彦のPoetry Review⑨「有心」——その右翼主義の極点

2月20日(木)薄曇り

1月31日(金)晴れ

1月21日(火)曇り

 読もうと思っていたウンガレッティの「詩の必要」をひとまず横に置いて、15日に亡くなられた吉野弘さんの第一詩集『消息』を読むことにした。一、二度お目にかかったことがある氏のたたずまいを思い出しながら、一篇一篇、読み進めていったが、「モノローグ」という詩が強い印象を残した。その詩は長いので、短い詩をひとつ引いておきたい。

 

冬の海  吉野弘

 

吹雪のなか 遠く 海を見た。

海は荒れていた。

そして 荒れているわけが 僕には

すぐ わかった。

 

海は 海であることを

只 海でだけあることを

なにものかに向って叫んでいた。

 

あわれみや救いのやさしさに

己を失うまいとして

海は狂い

海は走り

それは一個の巨大な排他性であった。

 

吹雪のなか 遠く 走っている海を見た。

そして

海の走っているわけが

僕には わかりすぎるほどよく

わかった。

 

 

 享年87歳。吉野弘さんのご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

 

  *

 

 20日、イタリア・ボローニャで、クラウディオ・アバド氏が亡くなった。享年80歳。彼が指揮したマーラーの第三交響曲の演奏は忘れられない。合掌。

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2014年1月1日       ミッドナイト・プレス 岡田幸文