midnight press WEB No.5アーカイヴ(HTML版)

midnight press WEB No.5 2013 March

contents

 添ゆたか

山羊散歩 その二

「八木重吉の産土」 八木幹夫

midnight critic 大家正志「詩は詩人の外部に?」

 連載 浅野言朗 小林レント 中村剛彦 「そよ風」

 

*midnight press WEB No.5は、PDFで読むこともできます。

踏切 添ゆたか

 

踏切の音が聞こえる町に住んでいた

カンカンカンカン

カンカンカンカン

空襲だ、空襲だ、と時折祖父が騒いだ

 

あなたは死んだほうがいい

 

やさしく声をかけながら

衰えた皮膚を撫でた

汚れなかった指の腹をていねいに洗い

今はまだ美しい手のひらを

浅はかに誇る

未来など恐怖でしかないと、怯えずに思う

 

踏切の向こうには魔物が住んでいるから

決してちかづいてはいけません

幼い頃、母に言われた言葉に

いまだ捕らわれている

 

カンカンカンカン

カンカンカンカン

空襲だ、空襲だ、と祖父の耳元で囁く

あなたが人間の顔になるのが嬉しくてたまらない

 

ねぇ、お母さん

踏切の向こうの人々にとっては

私たちが魔物なのでしょう

 

平和な空の下でも

穏やかに眠れる日はこなかったね

あなたに触れた指の腹だけは

汚れなかった

 

頭の中で鳴り響く警報機が

死んだほうがいい、死んだほうがいい、と

やさしく声をかけてくる

 

未来など恐怖でしかない

 

カンカンカンカン

カンカンカンカン

空襲だ、空襲だ、と

踏切の向こうへ駆け出した

 

山羊散歩 その二 八木重吉の産土

 今回の「山羊散歩」では、山羊(八木)さんが生まれ育った相模原ゆかりの詩人・八木重吉の生家などを巡ります。山羊さんにとって重吉は、子どもの頃から親しんだ同郷の詩人であるばかりでなく、この土地にいまも多く住む「八木」姓の人々とともに、遠い昔に同じ祖先を持つかもしれない詩人として特別な存在です。

 前回紹介した詩人・辻征夫さんもまた八木重吉の愛読者で、かつて山羊さんほか数名の詩人たちと、この土地を訪れたことがあるそうです。(辻征夫さんは「八木重吉の肉体論」というすぐれた詩を残しています)

 今回は、八木重吉の詩を愛する郷土史家の田中次雄さんの先導のもと、重吉の魂の足跡を辿りました。

 

まずは八木洋服店から出発

 今日は重吉さんゆかりの地をいろいろ巡るから車でドライブだよ。さあ、出発。

 そうだ、ちょっとついでだから通りますが、私の生家「八木洋服店」、またの名を「テーラーヤギ」をお見せしましょう。父が創業して、今は長男が継いでいます。家の真ん前に神明神社があって、山車が神社前に設置され、いつもお祭りは家の前でやってました。

 この橋本の周辺に今でもたくさんの親戚があります。叔父が東京の小学校の先生で、重吉さんの詩を生徒にガリ版刷りにして教えてました。子どものころに重吉さんの詩に出会ったのも叔父さんの影響です。はじめて知った詩は、詩稿『み名を呼ぶ』のなかのこの詩です。

 

 こどもが

 なぜによろこんでゐるかって?

 なあんにも

 あとへのこそうとしないからさ

 

あともう一つは「冬のある日」、 

 

 くさがかれたんだから

 わたしのおもひだって

 すなほにかれたらいい

 

 最初の詩は叔父さんが大好きな詩でね。父も重吉さんの詩はよく知っていました。私たちは「八木重吉」って呼び捨てにせず、親しみを込めて「重吉さん」って「さん」を付けて呼びます。呼び捨てにするとよそよそしくなってしまう。これから重吉さんの生家に向かいます。

 

重吉さんの生家と墓

 ここが重吉さんの生家で、いまは「八木重吉記念館」になっています。この町田街道沿いは、いまは住宅がたくさん建っていて、車もたくさん走っているけれど、昔はなんにもなくて、澄んだ小川が何本か流れているところだった。そういう美しい自然のなかで重吉さんが生まれ育ったことは、詩に大きな影響を与えていますね。記念館のなかは撮影できないけど、重吉さんの自筆の詩のノートや、高村光太郎との書簡などが見られます。なかでも驚くのは、重吉さんの二人の子ども、陽二と桃子の書です。まだ小学生、中学生の頃に書いたものだと思いますが、とても立派な書です。これを見ると、重吉さんが子どもの教育にいかに心血を注いだかが伝わってきます。道路を隔てたあの、目の前に重吉さん一家のお墓があります。

 ほら、桃子と陽二は真ん中、奥さんの登美子さんは左に一緒に入ってる。墓石に十字架が彫られていますでしょ。登美子さんは重吉さんの死後に歌人の吉野秀雄と再婚しますが、二人でここを訪れたとき、吉野が「重吉の妻なりしいまのわが妻よ ためらわずその墓に手を置け」と歌った。大きな歌人だね。重吉さんが昭和二年に死んだ後、十四歳で桃子、十五歳で陽二が同じ結核で死亡。登美子は昭和二十二年に吉野の後妻となります。だから重吉さんの子孫はこれで絶えちゃったんですね。ではこれから重吉さんゆかりの場所をいくつか案内します。

 

重吉さんの詩碑を巡る

 まずは重吉さんが最初に通った旧大戸尋常小学校を通りましょう。今は相原幼稚園になっています。園内に詩碑が一つありますが、おじさんたちは幼稚園には入れませんから、遠くから覗くだけですね。

 

 ふるさとの川よ

 ふるさとの川よ

 よい音をたててながれてゐるだらう

 

 いいですね。近くの大戸小学校近くにも詩碑があります。行ってみましょう。

これですね。この「ねがひ」を読んでみると、最後の「疲れてはならない」の一行がすごいですね。私たちは疲れちゃうよ(笑)。重吉さんの詩は非常に平明なんだけど、こういう一行に奥深さがあるんです。子どもたちがこれを読んだとしても、後々考えさせられる一行だと思う。「うつくしくみよう」までならなんてことはない。最後は重い一行だなあ。まして「ねがひ」ですから。

 重吉さんはどちらかというと付き合いのいい人ではなかった。職場でも先生たちがストーブを囲んで金儲けの話なんかを職員室でしていると、居たたまれなくなってその場から離れたって話がある。宮沢賢治と似ているところがあるんだね。一種のミザントロピー(人間嫌い)だね。だからときどき恐ろしい詩がありますよ。「ぐさり! と/やつて みたし」とかね。重吉さんは、単なる子ども向けのやさしい言葉遣いの詩人ではない。

 さらに重吉さんの奥深さで言うとね、キリスト教詩人と括ってしまいがちだけど、実はこの津久井の一帯にはたくさんのお寺があります。あとで普門寺へ行く予定ですが、この仏教的風土のなかで重吉さんが生まれ育ったことの意味は案外、見過ごされがちです。重吉さんの詩にはこの郷土が持つ信仰心の篤さが背景にあるんですね。

 (田中氏による補足:ここのすぐ近くの町田街道沿いにある圓林寺は、重吉さんの実家の菩提寺。重吉さんはクリスチャンだが、そこで仏式でお葬式をあげている。キリスト教式の葬儀は亡くなった茅ヶ崎で行われた。)

 そうなんだね。重吉さんは登美子さんをもらうときに長兄や父親の反対を押し切って一緒になった。親族は結婚式に誰も出なかった。その後重吉さんは亡くなるまで実家には帰らない。だから亡くなってはじめて帰ったんだ。そういう悲しみの経験を重吉さんは抱えている。これはとても重要なことです。だから「ふるさと」を思う気持ちは尋常ではなかったでしょうね。

 さて次は重吉さんの詩を世に出した人との出会いの場所に向かいます。

 (一同、車に乗る)

 さあ、着きました。重吉さんが通った川尻小学校です。ここにも詩碑がありますね。「飯」という、これも短い詩ですが、不思議な詩です。

 

 その飯が無ければ

 その飯を欲しいとだけ思ひつめるだらう

 

 一度ストレートにすっと入ってくるのですが、果たしてどういう意味なんだろう、ともう一度考えさせますね。こういうところが重吉さんの詩の魅力だね。

 特にね、この詩から伝わってくるのは、その当時の津久井の村全体の貧しさです。重吉さんの詩は決して抽象論で書かれているのではなくて、基本に具体的な経験があるんです。かといってそこにべったりと張り付いているのでもない。さっき寄った相原幼稚園にあった「ふるさとの川」の詩も、実は最後にもう一行

「母上のしろい足をひたすこともあるだらう」とあったんですけれども、この一行があると日常にくっつきすぎるんでそれを潔く切る。一見技巧がないようで、実は推敲が充分されているのが重吉さんの詩なんです。そこがすごいんです。

 この川尻小学校では重吉さんは十歳年上の、又従兄の加藤武雄という人に勉強を教わりました。この人は重吉にとっては重要な人物です。加藤武雄はその後、新潮社の主幹になりさらにベストセラー作家となって、一世を風靡します。重吉さんの生前唯一の詩集『秋の瞳』を新潮社から世に送り出したのがこの人です。また重吉さん没後四カ月たらずで『貧しき信徒』を野菊社から出したのもこの人です。重吉さんの詩が公に読めるようになったのは加藤武雄の尽力があったからこそなんですね。今じゃ忘れられちゃってるけど……。私の父はよく、加藤武雄という農民文学を支えた人物が津久井から出たんだって自慢してましたよ。ではその加藤の碑がある城山湖へ行きましょう。いいところですよ。

 (一同、車に乗る)

 

津久井を望む 

 さあ、着きました。ここが城山湖です。実は加藤武雄の甥にあたる加藤正彦さんはこの湖の手前一帯の城山町の元町長さんで、先日案内してもらったんです。最初に寄った八木重吉記念館にも同行してくださり、館長から取材の許可をいただきました。 この城山湖は人工の湖なんですけど一人でくると、しーん、と静かな気持ちになっていいんですね。春は桜が芽吹いて素晴らしいですよ。向こう側には高尾山が見えます。あそこに薬王院も。

 (田中氏による補足:ここから尾根伝いに高尾山まで徒歩で大体三時間ほどで行けます。湖も一時間くらいでぐるっと回れます。)

 そうですか。では、ここから少し歩いたところに加藤武雄の碑がありますからちょっと行ってみましょう。なかなか立派なものですよ。

 (一同、山道を行く)

 これですね。「わが日は暗し わが夢ははるか也」。字がまたいいですね。この「暗し」には農民文学をこころざし、夢半ばにして果たせなかった加藤の哀愁が現れています。これはあの建築家の丹下健三がデザインして建てたんですよ。丹下は加藤武雄の三女と結婚しているんですね。その後離婚して、加藤家とは付き合いがなくなってしまったみたいですけど。これは昭和四十一年、加藤武雄の没後十年を記念して建てられました。その除幕式には錚々たる面子が揃ったと聞いています。女優の木暮実千代とかね。当時加藤武雄の小説が映画化されていたんです。まさに大流行作家だった。逆に当時ほとんど無名だった重吉さんが、いまや広く知られるようになった。不思議なものです。それでは、とっておきの場所にお連れしましょう。

 (一同、山を下り車に乗る)

 ここは普門寺という真言宗のお寺の権現堂です。この一帯の中沢という部落から、私の八木家の先祖は出ているんです。どうですか。絶景でしょう。あのキラキラした湖が津久井湖です。大きな橋が三井大橋です。この津久井湖は昭和四十年に完成したダム湖で、その底には塩民集落が沈んでいます。私の母や父の実家も湖の向こう側の中野町にあったんです。そうそう、養老孟司さんもすぐ近所で育っています。お母さんが開業していた医院で私の叔母は若い頃受付をやっていたという話です。

 この津久井からは何人かそうした著名な人が出てますが、加藤武雄はその中でも中央で功成り名を遂げた人で、そのため他の作家たちに妬まれたとも言われています。反面、新潟県の無産農民学校建設に多額の資金援助をしたり、重吉さんのように恵まれない無名の詩人を、同郷人として大切にしたんですね。作家たちにも重吉さんの詩集を読むように勧めたようです。また、この普門寺は古い由緒あるお寺なんですが、生き仏が祀られています。飢饉によって民衆が飢えに苦しんだとき、ここのお坊さんが自らを地中に埋めて即身成仏をした。この辺りにはそうした民衆と宗教者との固い結びつきが古くからあることを物語る話ですね。 

 ではここで重吉さんの詩を朗読しましょう。

 こころ 暗き日

 

やまぶきの 花

つばきのはな

こころくらきけふ しきりにみたし

やまぶきのはな

つばきのはな

        (『秋の瞳』より)

 

  人を 殺さば

 

ぐさり! と

やつて みたし

 

人を ころさば

こころよからん

        (『秋の瞳』より)

 

 

まことの詩人は しづかにて死すべし

けがれなからんがためには

わが名を むしろ水にかくとも

わが名を ひとに しるすべからず、

詩人は 短きを 悔ゆる なかれ

うるわしきものは すべて みじかし、

    (詩稿『我子病む』より)


しやかむにの

そのこころは

しづかなる

せかいならずや

きりすとの

そのこころは

かなしみのすだまなりや

    (詩稿『み名を呼ぶ』より)

 

 重吉さんの詩は、先にも述べたように極めて平易に書かれていて、また経験を基礎に書かれているけれども、決して人生訓の詩ではないってことですね。普通の人生の時間軸を超えたものがあるんです。重吉さんは二十九歳で亡くなっている。若いですね。しかしね、私のような六十歳を過ぎた者の心を鷲掴みにします。この力はなんだろうと考えると、もしかしたらランボーの詩の力に近いものがあるんではないかと思いますね。重吉さんの詩は、事物とのコレスポンダンス(照応)によって生まれる。事物と主体が交感してもはや主語、述語、といった文法が消えてしまっているのです。

 

 山吹を おもへば

 水のごとし

 

 これなんか、もう個人的な主体が消えています。重吉さんはね、しきりに森に入りたい、などと書いてますが、重吉さん自身のなかに自然が広がっているんです。そして永遠の時間を生きている。そういうところに私たちは引きつけられるんです。このような詩人はめったにいませんね。平明な表現で奥行き深く、難解なんです。難解で薄っぺらで内容が単純という詩人もいますけどね(笑)。 

 さてこれからは、先ほど見下ろした津久井湖に寄って、次回の予告をしましょう。

 

「ゴーガンの村」

 昭和十一年、二・二六事件があった年の八月の末に、西脇順三郎がこの津久井湖に水没した寸沢嵐すあらしから荒川という村まで相模川を小さな舟で下っているんです。「ゴーガンの村」というエッセイに、「この八月の末頃、ムシャクシャしたので」という書き出しで書いてます。西脇さんは、この津久井の自然がとても気に入ったみたいで、『旅人かへらず』や『近代の寓話』という詩集でたびたび言及。西脇研究の第一人者である新倉俊一先生と私は三〇年ほど前にここに来ています。まだ西脇さんが生きておられたころで、相模川の風景を写真に収めて見せようとしたのですが、既に西脇さんの見た風景は津久井湖に水没。壮麗な相模川の風景はありませんでした。新倉先生によると、西脇さんはこの辺りに家を買おうと思っていたらしいんですね。でも実現しなかった。「夏のだるき夢」のごとく消えてしまったらしい(笑)。次回は、その西脇順三郎を巡りたいと思います。

 (田中さん、今日は一日先導していただきありがとうございました。)

 帰りは町田の青柳寺に寄りましょう。青柳寺の元住職は俳人の八幡城太郎です。友人の詩人田中冬二と野田宇太郎のお墓が並んであります。この町田市と相模原市が隣接した青柳寺には文人墨客色々な方々が集まったようです。そうだ、野田宇太郎は文学散歩の先駆者だってさ。挨拶して帰りましょう。

                                   (文・構成 中村剛彦)

 

八木幹夫(やぎ みきお)

1947年、神奈川生まれ。著書に、『野菜畑のソクラテス』『八木幹夫詩集』など7冊の詩集、ほか。

山羊(さんよう)という俳号で俳句を詠む。

タイトルページ
タイトルページ
八木さんの車
八木さんの車
田中次雄さんと八木幹夫さん
田中次雄さんと八木幹夫さん
八木洋服店
八木洋服店
相原幼稚園の詩碑
相原幼稚園の詩碑
大戸小学校近くの詩碑
大戸小学校近くの詩碑
八木重吉生家
八木重吉生家
八木重吉の墓
八木重吉の墓
城山湖
城山湖
川尻小学校詩碑
川尻小学校詩碑
重吉の詩を朗読する八木さん
重吉の詩を朗読する八木さん
普門寺権現堂
普門寺権現堂
普門寺権現堂からの風景
普門寺権現堂からの風景
加藤武雄碑
加藤武雄碑
津久井湖に水没した町
津久井湖に水没した町
八木重吉像
八木重吉像

midnight critic

詩は詩人の外部に?  大家正志

 

 岡田さんから、詩と詩でないものを分かつものについて考えてみないか、といわれて引き受けてしまったが、いざ、その境界線について書こうとするとみょうに身構えてしまってうまく書けない。個人的には、詩とそれを分かつものなどなし崩し的に、ぼんやりとした存在であればいいとおもっているが、そのことを書こうとするとどうも言葉にできないもどかしさがある。締切も迫ってきたので、エイヤーという気分で書きはじめる。

 

 たとえば、映画監督のアンドレイ・タルコフスキーは「映像の詩人」といわれている。その特長は感傷的、抒情的な画面のなかに、写実主義を超える情緒的な美しさがあって、そのなかに思索的なヒントが含まれているような素振りをしている映像だからだとおもうが、延々とつづく長廻しの映像などは「詩的な映像」といわれている。ぼくは、タルコフスキーの感傷的な映像は嫌いではないが、あれを詩的な映像といわれるとあまりにも安直な区分のしかただとおもってしまうのだが。一見散文的に見えるジム・ジャームッシュ(初期の作品)やアキ・カウリスマキの映像が、写実的である画面の意図を裏切るような装いが見えてそれらの画面に「詩」を感じてしまうのだが、世間の評価は、散文的な語りではないものを「詩的」と呼んでいるようにおもわれる。感傷的に美学的な画面を「詩的」と呼んでいるようにおもわれる。(高知は田舎だが、映画だけはいろんな映画が公開される)

 あるいは太田省吾という演劇家が、言葉を排した演劇舞台をつくりあげた。役者の独特な動きとともに、演劇の散文性を排した舞台で、その身体表現が観客には「詩的」なイメージを与えた。音楽と照明のなかで、役者の肉体が極限に省略された動きを見せることで観客はみずからの内面と対話できた。だから「詩的」といわれたのだろう。(高知にいるので、NHK教育TVの劇場中継というので何本か見ただけで、実際を見ていない)

 ジャズ音楽の世界ではビル・エヴァンスがピアノの詩人と呼ばれている。かれの演奏は、演奏が終わったあとの沈黙までも耳を傾けなければならないといわれていて、ぼくはあまりそういうことをおしつけられるのが嫌いな性格だが、たしかにぼくの好きなクリフォード・ブラウンやジョン・コルトレーンよりは「詩的」な印象を受ける。騒々しさがない。リリカルである。かれのピアノの音に「詩」を感じる、といってしまったらそれはもう感覚の世界の話で説明のしようがない。(ビル・エヴァンスは一度だけ高知に来ている。七八年ごろだったとおもう)

 

 詩の世界では、比較的詩を読んでいるひとたちに知られている詩人は男性では谷川俊太郎、女性では茨木のり子あたりだろうか。近代詩では中也や朔太郎、賢治あたりだろう。普段は詩とは無縁なひとたちに「ブーム」がおこることがある。東北の震災後TVで流された金子みすゞや、一〇〇歳詩人という柴田トヨ「現象」がおきたことがあったが、世間のひとが「詩人」といえば真っ先におもいおこすのは相田みつをではないかとおもう。ぼくなど相田みつをの「処世訓」は権力や制度の側にうまく利用されているだけだとおもうのだが、世間のひとは、相田みつをの「人生をつごうよくわたっていけそうなひと言ひと言」を、苦しい人生のひとときの救いのようにおもってしまうのだろう。そして、明日からまた体制のなかで生きていく術を自分自身に言い聞かせる「装置」になっていることに気づかないのだろう、きっと。(まあ、気づかないことで生きていけることはたくさんある)

 

 ぼくの周りには俳句をやっている詩人がたくさんいる。小説を書いている詩人もいるが、俳句をやっている詩人のほうが圧倒的におおいだろう。言葉による世界のとらえ直しという作業は詩も俳句もおなじだろうが、俳句は定型のなかにきっちりとイメージをつめこんで、過剰な、余剰な言葉はすっぱりと切り捨てている潔さがある。レヴィ=ストロースは「俳句は、短い形式に還元された豊かな思念ではなくて、一挙にその正当な形をとった短い終局である」といっている。俳句がその骨格をきっちりと見せるような終熄をしているのにくらべ、詩は一種軟体動物のような動作でかっこよくない姿態をさらせているようにおもう。俳句なら書かないだろうことを詩は書いてしまう。その余剰、過剰な言葉のみっともなさに耐えて、それでも詩は、詩という形式でしか表現できない言葉の立ち姿をみせている。そこらあたりが俳句と詩の境界線だとおもうのだが、自信はない。

 では、散文と詩の関係はどうだろう。形式の長さでいえば、俳句と詩の関係をひっくり返せばいいだろうが、そうはうまくいかない。詩は散文にくらべて言葉を端折ってしまうことでむずかしくなっているが、そのむずかしさが俳句のように潔いむずかしさになっていないように感じるのはぼくだけだろうか。俳句もけっこうむずかしい。しかしそのむずかしさは言葉を読者になげうっているむずかしさ、読みを読者にゆだねているむずかしさであって、読者次第でなんとかなりそうなむずかしさのような気がするが、詩のむずかしさは、作者が読者に言葉をなげうたないことでおこるむずかしさではないだろうか。いってしまえば、言葉が作者の手もとから離れずに、いつまでも作者をめぐる物語として作用しているため、読者がそれらの言葉の受け取り方をためらっていることで生じるむずかしさのような気がする。作者が自分の言葉を無条件に手放せるかどうかではないだろうか。その点、散文は言葉を存分に読者になげうって、作者の構築する世界像を手放しに開陳しているとおもうのだが。だから読者は作者の世界像と自分の世界像を重ねたり離反させたり、修正させたり微調整させたりして、作者と一緒にその世界の住人として登録される。だから、読者の想像力の再生産が容易におこなえるのではないかとおもう。そこのところが詩と散文の境界線のような気がするが、自信はない。

 

 などと思考にもならない駄考をさらけ出してしまったが、ほんとうは、そうではなく、こういうことが詩と詩でないものを分かつことであるといっていいのかもしれない、とおもっていることがある。

 詩と詩ではないものを分かつものは、詩の内部にあるのではなく詩の外部にあるのだ、と。

 詩人は「詩集」と銘打った一冊の本を作る。自分は詩を書いたのだと宣言して、それを読者は「詩集」として読む。それは「詩」以外のなにものでもない。詩人みずからが「詩」と標榜しているものを読者が「詩ではないもの」として読むことはない。詩人のなかで詩は予定調和的に詩として書かれ、読者のなかで詩はどんな疑義をはさむこともなく詩として読まれる。そのことに詩人も読者もなんの疑問ももたずに、流通している。だから、「詩」という現象は詩人と読者のあいだで無自覚的に、無分別的に、詩という制度をなぞることをなんともおもわないことで、「詩」は詩人の外部に無作為的に投げ出されているものでしかない、とそんなふうにおもってしまうのは岡田さんの質問意図をおおきくずらせることになるのだが、この詩人と読者の共犯関係によって無作為に構築されたものが詩と詩ではないものを分かつ唯一の要因であるとおもわずにはいられない。

 


詩情と空間 4  浅野言朗

 

10:建築のスケール/分節の明示

 建築家は、個別の施主と敷地を与えられた上で具体的な条件に合わせた設計を行う。その条件の中でも周辺環境や建物の用途と同様に、建物のスケールは極めて重要な要素である。それを、日本の近代建築の確立に重要な役割を果たしたアントニン・レーモンド(一八八八ー一九七六)に即して見てみよう。

 レーモンドは一九一九年に来日して程なく独立する。日本での活動は、第二次世界大戦の前後にアメリカで活動した時期を除いて、一九二〇年頃から晩年の一九七〇年頃までである。特質すべきは、実作もさることながら、その事務所から前川國男(一九〇五ー一九八六)と吉村順三(一九〇八ー一九九七)という資質の異なる優れた建築家を輩出したことだろう。前川國男は公共性の高い建築の設計を活動の中心として、さらに弟子の丹下健三(一九一三ー二〇〇五)へと受け継がれて行く、日本における現代建築の王道を作って行った。吉村順三は住宅の設計を基礎に据えつつ、正統的なモダニズム建築からは零れ落ちた和風も適切に取り入れながら、土着性と普遍性を融合させた格調高い建築を作って行った。レーモンドから分岐した二つの流れが、その後の日本における建築デザインの全てを網羅したといっても過言ではない。

 さて、レーモンドは、人が集う意味を空間化するように規模も構造も異なる幾つもの優れた教会やホールを設計した。とりわけ、規模としては住宅と差がないこぢんまりとした軽井沢の聖ポール教会(一九三五)は、今日に至るまで長く軽井沢を表象する建築であり続けている。例えば、パリと言えばエッフェル塔、バルセロナと言えばガウディの聖家族教会、というように、軽井沢と言えば聖ポール教会を思い浮かべる人も多いだろう。単体の建築と街に流れる雰囲気との、幸福な関係がそこにはある。

 レーモンドの特質は、作風の振れ幅の大きさにある。決まったスタイルを持たないその姿勢は批判の対象でもあったが、異国の地における近代建築の旗振り役として多大な影響を与えた。その作品群は、実に多くのスタイルの質の高い模倣であり、サンプル帳のようにも思える。だからこそ、全く相反する資質をもった二人の巨匠をそこから生み出したのだろう。

 例えば、軽井沢の聖ポール教会(一九三五)、聖アンセルモ目黒教会(一九五四)、群馬音楽センター(一九六一)という、集うことを主題とした三つの建築を並べてみると、同じ建築家の設計とは思えない程、規模や立地の異なった条件に対して多彩な設計手法を用いている。東欧からそのまま運んで来たような木造の素朴な教会、鉄筋コンクリートによる箱形の聖堂、鉄筋コンクリートの折版構造を駆使した大空間…。その他にも、建物ごとに採用された空間の作り方とその質は実に多彩であり、独創性においては疑問符が付くものも多いが、様々な手法をどれもオリジナルと見分けが使いないくらいの精度において消化している。

 やがて日本における個々の現代建築家の業績の確立において、住宅から出発して公共建築に至るという道筋が常態化された。スケールの異なった建築を横断すること、そして、それぞれのスケールにおいてどのような解法を用いるか、が問われる。節操もないほどに様々な構法やデザインの語彙を用いて様々な種類の建築を設計したレーモンドこそは、スケールや文脈ごとに解法を豊かに変えて行く建築家の嚆矢となったのだと思う。建築家の作家性と空間スケールの対応関係における、余りに豊かな実例であるというべきだろう。

 

(参考文献:『JA33アントニン・レーモンド』新建築社、『新建築1991年6月臨時増刊建築20世紀PART2』新建築社、『JA59 吉村順三』新建築社)

 

11:社会のスケール/詐称の技法

 少し前に映画『鈴木先生』(河合勇人監督/二〇一三)を見た。『鈴木先生』は武富健治による漫画の原作を基にテレビドラマ化(二〇一一)されて、低視聴率であるにもかかわらず高評価を受けた秀作である。これは鈴木先生が担任を務める中学校の1クラスを主たる舞台としており、出演者の一人が言うように、学園ドラマというよりは社会の模型としての学級の有り様を描いている。社会全体から一つの学級への、スケールの変換が行われている。映画では学内での生徒会選挙が描かれ、投票を棄権しようとする生徒を通して〈社会〉への参加の方法を問うていた。具体的には、生徒会選挙への投票を強要する教師に対して、選挙システム自体に疑義を表明するために戦略的に選挙破壊工作を行おうとする生徒を幾分理屈っぽく描いている。ここでは、沈黙の強度が問われている、と感じられる。実社会においても、昨年末には衆議院の総選挙が行われた。昨年末の総選挙でもまた、国民の意思を反映するには不完全とも思われる選挙制度において、どう投票行動を行うのか/行わないのか、沈黙の強度あるいは方法が問われていたのだと思う。

 近代民主主義国家は、教育と政治との連動において、自らの意志において判断することができる主体的な市民を育成し、その総意を、選挙を介して政治的に結集して社会を形成する、ということが前提になっているのだろう。つまりは、一人一人の市民は自分の意見を明瞭に示すことが求められている。けれども、実際には多数の市民は沈黙している。それは、言うなりになる流されやすい大衆、という含意とも全く異なっている。選挙を介して自らの思いが、自動的にスケール変換されてしまうことを拒絶するように、積極的に沈黙しているということだろう。そもそも考えたことを指定の場所で表明しなければならない理由はない。意見表明のために指定された場所自体が錯誤である可能性があり、誰もが考えを公的に表明しなくてはいけない、ということも誤りである。公共的な場での意見表明には、自動的なスケール変換がなされるからである。考えを巡らして結論を留保している圧倒的な数の優れた人たちにとって、声を制度に届けるシステムは、現在のあり方においては必要ないかも知れない。声を発する人よりも沈黙する人の多い社会において、声を発する人のみの意志を反映させる制度のあり方は、もはや破綻している。その破綻を超克するような動きが出始めているのだろう。内に籠った声が染み出て行くように…。表明することは意思のスケール変換であるから、意思は原寸のまま滲み出て行くものでなくてはならない。

 政治の基本的な構図は、一億人いる国民の意志のスケールを、主に選挙を介して国会という機関や首相という個人へと集約していくことだと思う。しかしながら、そのスケールダウンに乗って来ない沈黙した無数の点を、もはや現在の機構では集約できない。いや、沈黙した諸点は集約を望んでもおらず、表向きのスケールダウンの機構とは別の方法において、変革するべき社会の全体像すら拒みながら、ひたすら至近距離をたくし込むような方法において、もはや社会ともいえない体感的な人の集まる場所がデザインされようとしている。 

 このような、例えば憲法に書かれた社会の成り立ちとは異なる社会の作り方への志向性は、スケールが階層的により上位へ上位へと繰り込まれる社会を拒絶して、全く異なったスケール感覚を持って社会が炙りだされることを、予感させてくれる。

(参考文献:中北浩爾著『現代日本の政党デモクラシー』岩波新書)

 

12:詩/原寸化

 さて、これら二つの話は一見無関係であるが、スケールを巡る技法に関して、二つのベクトルを描いている。政治とは、スケールを結局のところ一人あるいは一群の為政者の下に集約させていくための詭弁の技術であるとも言える。誰も首相が自分たちの意志の代弁者だと思ってはいない。せめて、致命的な崩壊を招かなければそれでよい、という便宜的な代行者という程度の位置付けが望まれる。にもかかわらず、為政者は社会の構成員全ての代弁者を詐称し続けることが許された(求められた)。しかしながら、そういった社会の仕組みは、やがて解体されて行く、ないしは表層的なものとして弾き出されていく途上にあると考えられる。

 それに対して建築(空間)は、スケールの変位を忠実に定着することを目指している。身体を通して空間のスケールは適切に分節されており、それぞれの空間のスケールに応じた技術的解法の上に建築は作られる。映像技術等の発達によって身体感覚が変容し、スケールがその変位に添った装いを保つことの重要性が解体されつつある、と言われているが、人間を取り巻く空間(建築から環境まで)の実体的なスケールの分節性は人間が人間である限り、残って行くだろう。

 ここで、漸く詩の具体的な局面の考察に入って行く。これらの例と相反して、スケールを原寸のまま保持するという詩情の機能について、最初に吉岡実の初期の詩編を見てみたい。言語は、それが日常的なものであれば、スケールの詐称に満ちている。人間を取り巻く事物や人間そのものを、実際に存在する尺度から遠ざけて、あるものはより大きく/あるものはより小さく描こうとする。

 一方、吉岡実は、事物を原寸のまま捉えようとしている、と感じられる。これがいかに困難なことであるだろうか。

 「夜はいっそう遠巻きにする/魚のなかに/仮りに置かれた/骨たちが/星のある海をぬけだし/皿のうえで/ひそかに解体する/灯りは/他の皿へ移る/そこに生の飢餓は享けつがれる/その皿のくぼみに/最初はかげを/次に卵を呼び入れる」(「静物」/詩集『静物』より)

 「それらのもろい下部構造の一角を/暗い鏡へ映しながら/やがては/まだ形をなさぬ胎児の手足/画家の心象の岸べの馬/計算されない数字/類似の抽象まで/他の部屋 他の次元へ/はこび入れる」(「静物」より/詩集『静物』より)

 これらの詩を読みつつ驚かされるのは、日常的に使用された言語とは正反対のベクトルである。日常的に誇張されて歪曲されて使用された言語を、原寸に戻して同じスケールとして切り揃えるための丹念な努力がなされていると感じられる。そこにおいて、感得される一つ一つの言語の震えは、たとえようもなく美しい。そして、それらの原寸化の精度は、それぞれの語彙を基盤に据えつつ再び震えながら羽搏いて行くための前提となっているのだろう。

(引用出典:『現代詩文庫14 吉岡実詩集』思潮社) 

聖ポール教会
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群馬音楽センター
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目印のないページのために 4

ショー・ウィンドウの世界観  小林レント

 

 『帰ってきた寺山修司』という展示会に赴く。彼の仕事を回顧するというよりは、そこに至るまでの道程、とりわけ友人や恩師に宛てた手紙によって会場は埋め尽くされていた。小学校の通信簿や、学校新聞の小文、金の無心に至るまで曝されている場にあって、見知らぬ人間を整序された物語と見なそうとする自己の視線に、文化的なものにおきまりの単調な野蛮を感じていた。自分のなかに根深くある「大英博物館」のまなざし。のぞきは堂々とやれば調査になり、墓あばきは資料の発見と見なされる。窃盗は保護の名目で行われ、当の生活や物は傷つけられ失われた度合いによって貴重さを増す。前提知識なく、宮本常一の『日本の詩情』という牧歌的かつ剣呑な名称の映像作品を観たとき、タイトルコールの後に「隠れキリシタン」という題目が表示されて仰天したが、知ることの責務とは別のところで、対象に途方もないまぬけの残酷さで接近している気分になる。滅ぼしながら、価値をあてがい観光資源にする、天然記念物の倒錯感。

 「作りかえのきかない過去なんかない」と断じた人と、資料の集積から明瞭な新事実を彫り上げたいという強迫観念の落差と和解。資料体としての物の露出と無名の観察欲の結託には、幕開けまえの劇場の消灯や、窃視者・永山則夫の節穴や、路地をゆくファインダーの暗さ、そこを潜り抜けたら、もといた世界に戻れなくなるかもしれない、かぼそい夢の通路がない。筆跡や物品そのものが、現在時に「よそ」への裂け目をもらたしている感覚はたしかにあるのだが、すみずみまで照らす電光と説明文のもとで、主体を危機に曝す「帰りはこわい」の唄はかき消される。しかしあらゆる記録の空間の構成もまた、作りかえと呼びうるとするならば、彼の言葉は自身の肉筆をも巻きぞえとしているだろう。その人にとって「寺山修司」が一個の職業であったとするならなおのことだ。データの極度の露出性は反転し、それが指す実体の不在を示すものとなる。もし展示によって、そこにいない人物像が動いたとするならば、それこそ彼の言っていたことではなかったか。「見ること」の欲求を簡略に満たす莫大な装置としての現代が、他人の生活をゴロ寝のソファ上にまで流通可能なものとすべく貼付けた「文化」のキャプションが、その人の顔ごと剝がれる。

 「世界は観様でいろいろに見られる。極端に云えば人々個々別々の世界を持っていると云っても差支ない。同時にその世界のある部分は誰が見ても一様である。始めから相談して、こう見ようじゃありませんかと、規約の束縛を冥々のうちに受けている」(「創作家の態度」夏目漱石一九〇八)。百年後の人間にはありきたりのものと思われる考えを、漱石が再三述べざるをえないのは無論、個々人、あるいは一つの規約を共有する共同体ごとに、世界の展望が異なるという「世界観」という発想そのものが、当時のこの国において目新しかったということだ。ちょうど日本鎖国への移行期に、西方の旅人は「われわれとはまったく反対な考えをもつ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、われわれと同じくらいにあるいはわれわれ以上に、理性を用いているのだ」(『方法序説』デカルト一六三七)と記していた。「われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く慣習であり、先例である」(同)。しかしルネサンスの放浪者が、その経験ののちに、ひかえめな口ぶりで普遍的理性の基礎の建立を目論んだのに対して、近代西欧の歴史の爛熟から帰還した日本人、「デカンショ」をひとまとまりに吸収せざるをえなかった知性は、エゴの実在に対しても猫の展望からこう寸評せざるをえない。「人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ」(『吾輩は猫である』一九〇五)。この作を書いていたとき、読者としての漱石が格闘していたのは、すでにニーチェであった。

 漱石は上述の講演のなかで、ロンドンを共に歩いた老画家が「色」を通じてしか町並みを見なかったこと、退役軍人が往来でブリキの玩具の匙ばかり拾い集めてくるが、自分にはいっこうに発見できず「爺さんの世界観が杓子から出来上がっている」ことに感心した次第を述べている。彼より三歳年長のドイツの生物学者は、どれだけの木が有用なものとして切り出せるかを合理的に計測し、「人間に似たこぶのある樹皮にはたいして注意も払わない」熟練の木こりと、少女の「魔術的環世界」を対比させる。「彼女の森にはまだ地の精や小人が住んでいる。カシワの木が怒った顔で少女を見つめるので、彼女は思わずぎょっとする」(『生物から見た世界』ユクスキュル一九三四)。少女に恐怖のトーンを与える、同じカシワの木の根かたは、狐にとって屋根であり、保護のトーンを持っている。梟も同じトーンを示されるが、それは根かたからではなく、うろからである。

 

 科学に主観的視野や目的という観察しえない領域の権威を再導入したともいえるこの書物は、動物行動の一説明原理、証明も反証もしえないがしばしば有用な作業仮説といった地位に押しこめられた。しかし、その擬人的とも言える思考は逆説的に、不条理と見える他者の行動への接近方法でもあるだろう。ここではモグラもヒトも、ある分譲しえぬ視野の構成を持つ点では峻別されない。極論するならば、道を行き過ぎる見知らぬ人々、都会の隣人の展望を想像することは、魚類や鳥たちのそれを想像することに等しい。近代人はここからはじまる。のぞくことができない死角にある他者の風景、散乱する無数の鏡のなかで、自己は人間の形をなしていないのではないか。便利な道具であったり、殺すべき敵であったり、なにものも支えていない空虚な柱であるのではないか。たとえば宮本百合子がブルジョアを、あるいは男性作家を論じるとき、打倒されるべきは個々の行為や言説の暴力ではなく、それを暴力とさえ見なさない世界観であった。革命は単なる政治的転覆ではなく、世界をプロレタリア的世界観に一元化することであった。

 狐や梟とともに、ノームやコボルトがいつまでも生きる世界は、子どもと老人のかすかな息づかいのなかにしか、その揺らめく持続の場をもたない。お互いに見知らぬ市民たちの共有材である科学的世界観と、ぎっしりつまった歴史資料の連関と操作が、息づかいを不要にした。これが西欧の一側面であり、日本も遅ればせながらこれに追従した。「妖怪の種類に四とおりあることを述べねばならぬ。その第一は、人為的妖怪すなわち偽怪にして、人の偽造したるものをいい、第二は、偶然的妖怪すなわち誤怪にして、偶然誤りて、妖怪にあらざるものを妖怪と認めたるものをいうのである。この二者は古今の妖怪談中に最も多く加わりおるに相違なきも、その実、妖怪にあらざるものなれば、これを合して虚怪と名づく。つぎに第三は…(後略)」(「迷信解」井上円了一九〇五)。労力を惜しまぬ合理的分節化のしつこさを前にして、妙多羅天女、蛇持ち、土瓶、金長狸、芝右衛門狸だの、負われ坂だの、土地の経験に根ざしていないと意味のわからない名前たちは、記録庫のなかに退散した。残ったのは街灯に照らされ、イメージのディティールを欠いた物の死体である。逆説的な形で「妖怪博士」であった円了はしかし、論の最後に「真怪」を残す。「余は人の真怪の有無を問わるるに対し、日月星辰、山川草木ことごとく真怪なりといいて答えておる。かかる大怪に比すれば、狐狸、天狗、幽霊などは妖怪とするに足らぬものである」(同)。科学的世界観が地ならしした諸存在は、翻ってその全体が謎に没落する。存在論や形而上学の明確な契機がこの国に切り開かれる一方、狐狸や天狗の物語は、もはや経験的な危険や恐怖や畏敬を告げない。顕微鏡と航空写真、歴史の膨大なデータが結託する説明機構の全体性の推移のなかで、怪異は自己と不気味な自然の循環の織りなす系を失い、了見の狭さと詐欺が生み出した幻像として、博物学的好奇心の対象と化す。

 その時代のなかで、言葉は自らをどのように表象するか。「正しくうつされた筈のこれらのことばが/わづかその一點にも均しい明暗のうちに/(あるひは修羅の十億年)/すでにはやくもその組立や質を變じ/しかもわたくしも印刷者も/それを変らないとして感ずることは/傾向としてはあり得ます/けだしわれわれがわれわれの感官や/風景や人物をかんずるやうに/そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに/記録や歴史、あるひは地史といふものも/それのいろいろの論料といっしょに/(因果の時空的制約のもとに)/われわれがかんじてゐるのに過ぎません/おそらくこれから二千年もたったころは/それ相當のちがった地質學が流用され」…(「春と修羅・序」一九二二)。「心象スケッチ」という概念に固執した宮沢賢治が、土地の言葉とエスペラントを共存させ、狐狸のつぶやきと科学の語彙とをひとしく扱いえたのは、「組立てや質」の変化のすばやさ、また言語の置かれた「地質」への意識によるだろう。「論料」の集積を前にした、この極度の視野の広さと見えるものも、ひとつの地盤の位相に過ぎない。彼や寺山ほどその「言語感覚」と「世界観」の「個性」が話題になる書き手もいないが、それは閉じた空想風景ではない。むしろわれわれの言語が被っている破滅的経験に根ざしているだろう。

 

 近代化の初期に生じる旅や地層のスケープ、あるいは多数の理性や世界観という発想は、それを経験するものが帰属していた自前の全体性を、小さな断片にする。この意味で、他なる世界観へのまなざしは、単なる旅行者的、観察的なものではなく、世界へと差し向けられた他の表象群を、自己と共通する世界として「真剣にとる」ことであっただろう。しかし現代が、たとえば賢治や寺山の書いたものを「独特の世界観」という言葉で処理し、展示できるとするならば、「多様な世界観という単一の世界観」の絶対的統治に、わたしたちがやすらっているからではないか。ここにも、漱石のいう「規約の束縛」が、それが前提としているきな臭さや世俗性なしに、自明の理念として浸透しているのではないか。「世界観」という言葉の使い勝手の良さ、これを口にするだけで他人の自由を保証しているかのような気分……。他者の見解が理解しえぬときの仮説、謎に自己の内面が脅かされないための説明書き。文化や芸術表現において、世界観の特殊性がそれそのものとして賞揚され展示されるとき、あまりにも自分と無関係であるがゆえ、また政治的力を欠いているがゆえ、奇妙なものの刺激を求める欲望と、物騒な利害関係ぬきに和合しうるという算段が透けて見える。「人々個々別々の世界」と言ったときに、なにかしら豊かなものを感じるとするならば、それは自己と乖離した対象を、よそごとのイルミネーションとして鳥瞰しうる立場に身をおいているからなのだ。きみの世界観は素晴らしい、みなに紹介しよう、だからどうか、それをわれわれの世界の現実に対するまじめくさった意見書だなどと言わないでほしい、というわけだ。

 多種の理性、物の見方、「外」を認めた初期の人間には、むしろ絶望と葛藤があったはずだ。自身の過去の作りかえを押し進めた人も、その傲慢にもみえる能動性と公言に先立って、おのれの過去さえ、あるいは歴史さえ、編集されたものに過ぎぬという「われわれの世界」への虚無感と抵抗があっただろう。利害関心に少しでも抵触するならば、それまで異なる世界観や個性という名をあてがわれていたイメージは、すぐさま誤謬と野蛮さのサンプルとなり、蒙昧として攻撃の的になる。多種の世界観の博覧会的きらびやかさを認めない鎖国的世界観こそ、第一の根絶対象である。しかし開国を自明のものとして強いる精神は、それ自身もっとも鎖国的なのだ。他人の生活圏に土足で立ち入り、文化だニュー・リソースだと喜びながら写真を撮って、内輪でひそひそ話をする。気まずい視線を察知するやいなや、十分な金は渡したはずなのにと首をひねる、文明の、都市の田舎根性。地元に帰ればさっそく、なくした物を見つけた式の自慢話とアルバム作成にいそしみ、自らが殲滅しつつある生活様式を、当の殲滅の進捗に応じて、文化財や故郷として尊ぶ、進歩的精神。

 その視線の刃はすぐさま自身の滑稽さに翻るはずなのだが、誰よりも豊かで、鎖のない地平の向こうに消えたきりになる。この己自身しかいない展望の静けさと安楽こそ近代であり、極限までスケールダウンすれば個人である。もはや「観」という言葉で維持されるのは他者ではなく、極肥大した内面ではないか。角のないデータに彩られた卵殻の内側で、陶然としながら出荷待ちの。ゆえにこそ、「世界観」の豊穣さとヴァリエーションの裏側で、「世界」という言葉があたえるもっとも痛烈でありきたりのイメージは、灰色で非人間的な紛争地帯でありつづけるのではないか。

そよ風 #3  ほどよい健康さ

 今から十数年ほど前だろうか。「活字」を相手にセックスする少女を描いた「酩酊文学少女」という短篇漫画を読んだことがあった。少女がひそかに恋心を寄せる少年の読んでいる官能小説の頁から、活字の連なりが触手のようにしゅるしゅると飛び出して、少女の肉体を縛り上げそのワンピースの下へと伸びてゆく……作者は『ハクバノ王子サマ』や『お慕い申し上げます』等の作品で知られている女性漫画家、朔ユキ蔵。当時は「快楽天」等の成人雑誌を中心に活躍していた。

 文月悠光が詩句の提供を手がけた三種類のタイツ(tokoneより発売)の宣伝用の写真を見ながら、つい、こんな漫画があったことを思い出した。たとえば「原稿用詩」というタイツは、原稿用紙のマス目の柄が脚線のゆるやかなカーブに密着することによって、その直線性をおびやかされる。また直線性の敗北の予感に勢いを得たかのように、文月の詩句の断片がゆがんだマス目の上を生き生きと泳いでいる光景はとてもエロティックだ。「活字」という観念性と物質性のあわいにあるものが、現実の肉体に接触し生理的反応を引き起こすという倒錯した夢への志向性が、朔の漫画にも文月の今回の試みにも共通して感じられる。

 しかしながら、文月の「言葉」そのものがこの夢にどれだけの貢献をしているかどうかについては、写真で確認できる詩句をみた限りではあるが、留保せざるを得ない。「もう試すように触れたりしないで。」「かかと と かかとを合わせて、戦闘待機。」等等、いずれも「脚」という部位が帯びている向日性やエロスを巧みにすくい上げたフレーズではあるのだが、むしろこの巧みさが今回のコラボレーションをポピュリズムの枠組みに閉じ込めてしまっているようで物足りない。ほどよい健康さに止まってしまっている。もちろん、文月自身はそれを承知の上で、あえて職人的な態度に徹したのであろうし、それでよしとする受け手も多いことだろう。けれども、主体性をたやすく放棄してしまうことへの憧憬へ人間を駆り立てることさえある、そんなエロスの仄暗い引力の気配をもっと濃く匂わせてくれてもよかったのではないか。また、そのようなテクストがそれでもなおファッションとして通用するのかどうか、試みてほしかった。成功するにせよ、破綻してしまうにせよ、詩のみならずファッションの概念の枠組みに対しても、問いを突きつける可能性があっただけに惜しまれる。(爪先フェチ)

 

中村剛彦のPoetry Review ⑤ 不気味なる現代の「日本の詩」

 前々号で、母方の祖母が、戦前に横浜で美容室を開いたことは既に触れたが、実は着付師としても、山下公園前のホテル・ニューグランドほか横浜市内の結婚式場で働いていた。

 その祖母に幼い頃からよく連れて行ってもらった山下公園を、先日ふらふらと一人で歩いていたら、ある見慣れない石碑に目がとまった。それは「リカルテ将軍記念碑」というもので、その肖像の下に、「アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘が鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。……」といった説明が刻まれていた。さらに読みつづけると、「一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令(ママ)と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。」とある。

 一九四三年の祖国の「独立」とは、私が受けた戦後民主主義教育では日本軍による「侵略」であったが……。これが書かれた日付を見ると「昭和四六年十月二十日」とあり、戦後二十五年を経ている。さらに説明文はこう続いて終わる。

 「リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地に訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。」

 著名は「財団法人フィリピン協会会長 岸信介」。なるほど、としばらく碑の前に立ち、その背後に建つ、かつてGHQ最高司令官マッカーサーが戦後最初に牙城にしたホテル・ニューグランドを眺め、あの時代を懸命に生き抜いた祖母の面影を思い出した。

 それにしても、幼少期から何度も訪れたこの山下公園で、これまでまったくこの碑に気がつかなかったのはなぜだろう。おそらく今、私が日本人であることの宿命を深く考えるようになって目にとまったと言える。

このことは、今、私が「日本の詩」について、ある角度からもう一度見直したい欲望に駆られていることにも通じる。特に近代以降に限れば、一般的に言われる「近代詩」「戦後詩」「現代詩」といった区分では見えてこない「日本の詩」である。果たして「近代詩」と「戦後詩」の断絶の間にあるはずの「戦中詩」とは何だったのか、単にそれを戦争翼賛の暗黒時代として、「戦後詩」による断罪の対象として抹殺してよいのか、考えることが多い。なぜかといえば、昨今のナショナリズムの台頭を鑑みるに、実に日本人の戦後から現代の精神史のなかに、「リカルテ将軍記念碑」がいたるところに建っていると考えられるからである。当然ながらそこには「戦後詩」「現代詩」がもっとも忌み嫌う「愛国」と「英雄」という言葉が刻まれている。

 ここでまた個人的なことを述べると、まだ祖母が生きていた中学、高校時代に私は三島由紀夫の作品を片っ端から読んでいた時期がある。なにも右翼少年だったわけではない。ただその華麗な文体の過剰さに酔っていたのである。普段はマイケル・ジャクソンやブルー・ハーツを聴き、世界の映画に熱中していたごく普通の少年であった。またお金がなくなれば小遣い目当てに祖母の美容院を訪れて、「おばあちゃんに会いたくなった!」などと嘯くような救いようのない小僧でもあった。祖母は何も言わず、帰り際にそっとお札を握らせてくれた。

 とはいえ、もっとも多感な時期であったから、三島の影響は甚だしくあるはずである。例えば私が当時鉛筆で線を引いている一部を挙げると、小説「詩を書く少年」(『花ざかりの森・憂国』、新潮文庫、一九六八)中の、「彼は詩人の薄命に興味を抱いた。詩人は早く死ななくてはならない。」といった、詩作品よりも詩人の生き方に重きを置く三島の思考は、知らぬうちに私の詩人観に伝播していた。また、「文化防衛論」(『裸体と衣装』、新潮文庫、一九八三)中の、「そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治とのもっとも古い対立がひそんでいる。文化を全体的に容認する政体は可能かという問題は、ほとんど、エロティシズムを全体的に容認する政体は可能かという問題に接近している。」といった、詩と政治システム、さらにはエロティシズムを同列に並べて思考する方法も私に伝播した。やがて三島熱も冷め、さまざまな本と出会ってきたが、思春期の読書体験とは恐ろしいものである。やはりその「詩」の把持の方法論は、どうにも自分のなかで未だ打ち崩せていない。

 

 三島と「詩」に関する詳述は紙数の関係もあるので別の機会に譲るが、一言述べるなら、三島の「詩」は、あたかも「近代詩」「戦後詩」「現代詩」の歴史区分の地下水路をいまも流れているように思えるのである。そこでいま読み始めているのは、そのどす黒い地下水路の水源に座するある者の「詩」である。

「みえずみ江ずなる人かげをみおくりて/逢はれん思あはれぬ思」

「いなみかねかへしせんとて筆はとれど/あけの袖口、ただかみてのみ」

 これは明治三四年二月二三日発行の『明星』十一号に掲載された短歌である。また、

「老ひし若き世は皆斯くて暗にゆきぬ/彼も暗にゆく我も暗に行く」

これは明治三十六年六月と推定される知人への書簡のなかに添えられた短歌である。両者とも、あたかも仄暗い虚室で蝋燭一本の光のもとで書いている孤絶した人間の相貌が見えてくる。その者の名は、日本近代史上もっとも危険な思想家と言われ、二・二六事件の影の指導者、日本ファシズムの理論的支柱、などと呼ばれる北一輝のものである。北は多くの革命家に見られるように、若い頃「詩人」だったのである。詩は部分引用であるがこうである。

 「我れ茲に二十有五/世を挙ぞる迫害のもなかに、/怒り駆る筆は折られき/火もや吐かん舌は縛らる。//病骨志士の義を抱きて/浪々東又西、/亡命他邦の鬼やらん/梟首月蒼き獄門にか。//君は秀でし背もあれよ/うまし愛子も得つべし/風に花散る我世脆くも/天よ、光に君照らしませ。」(「俠少悲歌」明治四十年四月二三日「佐渡新聞」掲載、以上、詩歌の引用は、『北一輝著作集』第三巻、みすず書房、一九七二年)より)

 これは北の最後の詩である。歳は二十五歳。前年に発禁処分となった『国体論及び純正社会主義』を出したのち、警察のブラック・リストに載り「亡命他邦の鬼」とされた。詩の出来不出来はここでは問わないが、ここにも先の短歌同様の薄暗い孤絶者の「詩語」が記述されている。

 北がこれらの詩や短歌を発表していた時代、近代詩は蒲原有明、薄田泣菫、岩野泡鳴などの象徴詩人によって、日本語の「詩語」はそれまでにない「美」の領域を切り開いていた。その日本象徴詩の「詩語」の方向性を決定づけた記念碑的訳詩集である上田敏『海潮音』(明治三十八年)を、佐渡という日蓮流罪の孤島で北が実際に読んだかは定かではないが、私はこの『海潮音』の冒頭と巻末に二篇ずつ掲げられた詩が、あのイタリア・ファシズム運動の「英雄」 ダヌンツィオの死とエロティシズム賛美の退廃小説『死の勝利』などから取られたのものであることが、その後の北の思想形成、さらにはその後の「日本の詩」の運命といかなる因果関係にあるか大変興味がある。

 さらには、北が「詩人」であったとき、その名はまだ「北一輝」ではなかったことにも注視している。「北輝次」「なにがし」「VR生」「武蔵坊弁慶」「憤世子」等々さまざまに変容しているのである。一体これはどういうことか。松本健一は、単にそのときどきに影響を受けた本から取ったと述べるが(『評伝北一輝 1若き北一輝』二〇〇四、岩波書店)、果たしてそのような理由だけか。

 今のところ私は、後の「北一輝」という怪物的人格を生み出すまでに、無数の「詩人」が無数の人格を形成し北のなかにバラバラに存在していたと解している。なぜなら「詩」とは、自我の全体性の崩壊とともに立ち現れる名指せない「何か」であると考えるからである。北の場合、「詩人」は象徴詩の朦朧たる「詩語」によって、まさに「暗」に蠢く実体のない無数の「仮象」として立ち現れた。とすれば、私たちが今「ファシズムの首領」と見る「北一輝」とは、陽炎のごとく変容する「詩人」の容れ物の名に過ぎないとも言える。

 

 今のところ私は、後の「北一輝」という怪物的人格を生み出すまでに、無数の「詩人」が無数の人格を形成し北のなかにバラバラに存在していたと解している。なぜなら「詩」とは、自我の全体性の崩壊とともに立ち現れる名指せない「何か」であると考えるからである。北の場合、「詩人」は象徴詩の朦朧たる「詩語」によって、まさに「暗」に蠢く実体のない無数の「仮象」として立ち現れた。とすれば、私たちが今「ファシズムの首領」と見る「北一輝」とは、陽炎のごとく変容する「詩人」の容れ物の名に過ぎないとも言える。

 三島由起夫は割腹自殺の前年、北の思想を「冷厳」と呼び、その肖像写真を「不吉な映像」と述べ(「北一輝論」「三田文学」一九六九年)、その存在の仮象性を理性によって見抜いていたが、北の思想の奥に蠢く無数の「詩」が、戦前の少年期以来長く詩を書かなかった三島に憑依したとも言える。三島が晩年近くに書いた『太陽と鉄』(一九六八、講談社)の最後に置かれた詩「イカロス」の、「何故かくも昇天の欲望は/それ自体が狂気に似てゐるのか?」という疑問符は、北の最後の詩の、「天よ、光に君照らしませ。」への抗いか。「天」が何を指すかは言わずもがなである。

 いずれにせよ、このようなことは「戦後詩」とも「現代詩」とも無縁なる「詩」である。しかし今、人々の精神の中で「愛国」「英雄」という標語が復活しつつあるとすれば、これは地下水路を流れてきた不気味なる「詩」の横溢を予感させる。そういえば、先の「リカルテ将軍記念碑」の著名者岸信介は北一輝の思想を崇拝していたという。その孫は現総理大臣である。

 これから「日本の詩」とは何かを慎重に考えてゆかねばならない。

●midnight information

 昨年十二月二十三日、横浜の中島古書店で、元山舞さんの朗読会が開かれました。そのときの映像を、下の写真をクリックすると見ることができます。

 そして、三月三十一日に、同じく中島古書店で元山さんの朗読会が開かれることになりました。

日時 三月三十一日(日)

   午後七時三十分ー八時

会費 五〇〇円

会場 横浜・馬車道「中島古書店」

   http://kenjinakajima.com/

 

*元山舞さんの詩は左のサイトでも読むことができます。

「クリソコラ」http://kurisokora.tumblr.com/ 

「ずったま」http://zuttama.jimdo.com/

 

元山舞
元山舞

埋め草ポエトリーデイズ 第一回 北原白秋を読む

某月某日

 いま、目の前のノートには、一行の詩句が記されている。久しぶりに詩が書けそうな予感がする。一方で、こんどもまた、この詩句は打ち捨てられることになるだろう……という不安もある。打ち捨てられる詩句には、痕跡がある。いま目の前にある詩句にその痕跡はまだ見出されない。

 それにしても、と思わずにはいられないのは、わが詩との因縁である。ただ、気が向くままに好きな詩を読み、気がおもむけば詩を書く。それで十分ではないか。いったい、いかなる因果で、詩の雑誌を編集発行する日々を送るようになったのか。

 いま、一行の詩句を目の前にして、思うのは、例えば、蒲原有明である。もとより、深い意味はない。明治〈近代〉を生きる詩人であれば、だれでもよいのかもしれない。彼の葛藤は、我の葛藤である。だがしかし、葛藤をどう生きるかというところから、道は岐れる。そのとき、有明はなにを考えていたのだろう。そういうことが気になる。

 有明を読み始めたある日、今年は、北原白秋の『桐の花』が、そして斎藤茂吉の『赤光』が、刊行されて百年を迎えると知った(『桐の花』は大正二年(一九一三年)一月刊、『赤光』は同十月刊)。音楽の世界では、今年は、ワーグナー生誕二百年、ヴェルディ生誕二百年と云われているが、日本の詩歌史においても、今年は感慨深い年となるようだ。ちなみに、三木露風の『白き手の猟人』が出版されたのも百年前のことである。

 北原白秋の詩を読み返してみよう。そう思ったのは、上の事情にもよるが、白秋が『明治大正詩史概観』のなかで、上田敏を「近代詩壇の母はまさしくこの人である」と云い、蒲原有明を「近代詩の父」と云っていることにしばし立ち止まったからでもある。『桐の花』は実に味わい深い歌集で、白秋を代表する作品と云うことができるが、いまは、『邪宗門』や『思ひ出』などの詩集を読んでいきたい。白秋を読むことで、ある日の有明に近づくことができるかもしれない。そう考えて、ここしばらく白秋の初期詩篇を逍遥してるのだが、そのなかで目にとまった詩がいくつかある。いずれも白秋が「抒情小曲」と云うところのもので、目を惹いたのは、「梨」、「角を吹け」、「時は逝く」、あるいは「片恋」などである。それらに共通するものがあるとすれば、それを通して、白秋が新しい「発見」をした現場に立ち会えるということであろうか。それはつまり、白秋が、上田敏や薄田泣菫、蒲原有明の影響から脱して、独自の詩法をものにしていく過程を確かめるということにもなろう。具体的に読んでいこうと思うが、その前に確認しておきたいことがひとつある。白秋の年譜を見ると、明治四十二年(一九〇九年)『邪宗門』刊、同四十四年『思ひ出』刊、大正二年『桐の花』刊となっている。が、それらの詩歌は刊行年度とは関係なく、同時並行的に書かれていたということを覚えておきたい。『邪宗門』詩篇が書かれた後に『思ひ出』詩篇が書かれたわけではないのである。彼が短歌を作り始めたのは明治三十三年、詩を書き始めたのは明治三十六年の頃であった。

 

 梨

 

 ひと日なり、夏の朝涼

 濁酒売る

 その爺の車に乗りて、

 市場へと。——にねむりぬ。

 

 山の、——ら物見の

 子ごころも夢にわすれぬ。

 さなり、また、玉名少女が

 ゆきずりのも知らじな。

 

 そのさ、木々のみどりに

 眼醒むれば、鶯啼けり。

 山路なり、ふとに見しは

 梨なりきしかりし日。

 

これは、明治三十九年に「明星」に「はなたちばな」と題して発表された詩十篇のうちの一篇で、後に『思ひ出』(明治四十四年)に収められている。発表当時、蒲原有明は一連の詩に対して「驚きましたあ」と云ったというが、いかにもこの詩を読んで驚くのは、その「新しさ」である。これは、その当時に書かれていた詩明治三十年島崎藤村『若菜集』、三十二年土井晩翠『天地有情』、薄田泣菫『暮笛集』、三十四年与謝野鉄幹『紫』、三十五年蒲原有明『草わかば』、三十八年石川啄木『あこがれ』、上田敏『海潮音』などと読み比べてみると、了解されることである。(ちなみに、この詩が「明星」に発表された五月に、同じく「文庫」出身の伊良子清白の『孔雀船』が出版されている)

 まず気がつくのは、むずかしいことば(綺語や雅語の類い)があまりないことである。この詩の背景について一言すれば、これは白秋が母の生家(「筑後境の物静かな山中の小市街」)で過ごした「思ひ出」の記である。「山の街、珍ら物見の/子ごころも夢にわすれぬ。」という二行には、「山の街」への好奇が含意されている。「珍ら物見の」あたりには、泣菫などの用字法が見られぬこともないが、その意味は大きく異なっている。続く二行、「さなり、また、玉名少女が/ゆきずりの笑も知らじな。」の「知らじな」という措辞が効いている。だが、この詩を詩たらしめているのは、五七調がもたらす流麗感、そして句跨がりの詩法などであろう。このアンジャンブマンの詩法は、有明の「朝なり」(その先には上田敏の『海潮音』がある)に学んだものであろう。「ふと掌に見しは/梨なりき」と記したとき、「梨」は「象徴」となったかのようである。もっとも、それが西洋の「象徴詩」と同じものであったかについては留保する必要がある。そのあたりのことを自分なりに解明したいという気持ちが、蒲原有明の再読三読へと促すのである。果たして、日本に「象徴詩」はあったのだろうか? 単純に、あったとは云えないであろう。それはなぜか? 「わたくしはこの見地から明治十五年に始めて詩の天に輝いた一新星は二重星であつたと観てゐる。幽かに白光を放つ星のうしろに重り合つて、闇く青い宿命の星がひそんでゐたやうに思はれるからである」という蒲原有明のことばがディストーションのごとく響いてくる。この「宿命」とはなんぞやと考え始めると、きりがなく、それこそ、日本の近代詩から現代詩への展開についての再検討が必至となる。もとより、僕のよくするところではない。とりあえず、いまは白秋の詩を読んでいきたい。

                 (以下、次号につづく)

ミッドナイト・ヴォイス

最近、ニクラス・ルーマンの『社会の芸術』(馬場晴雄訳・法政大学出版局、二〇〇四)を面白く読んだ。ルーマンはオートポイエーシスという比較的新分野の社会システム論を専門とするドイツの学者だから、新しい専門用語も多く難解であるが、私の読解力では、芸術を、これまでの伝統的美学や形而上学が議論してきた超越的領域で捉えるのではなく、社会システム上のあらゆるコミュニケーション・ネットワーク内で生起するものとして捉え直す。このように書くと、門外漢が芸術の価値を貶めていると捉える者もいるだろうが、興味深いのは、ルーマンは特に詩に言及し、詩は「過去」との、いわば「歴史」とのコミュニケーション・ネットワークを縦横に行き来することができる、と述べている点である。この時空間ネットワーク内で芸術=詩は永遠に生起・消滅を繰り返すのであるが、とかく今日における芸術の終焉、詩の終焉を説く知識人或は芸術家本人に対して、ルーマンはその言説自体がロマン主義以降連なるコミュニケーション・ネットワーク上の消滅因子に過ぎないとして、詩の永遠性を強調する。目を見開かされた。

 このmidnight press WEBもいわば「ネット」内を縦横に漂流するという意味で、ルーマンの説に当てはまる。しかしサイバー・スペースだけでなく、リアル・スペースにおいても、ネットワーク内を縦横に漂流したいという欲求は募る。

 そこで今年から、これまで三年間つづけてきたmidnight poetry loungeを発展させて、講師―聴衆の垣根を取り除いた、「リアル」のイベントとして、このmidnight press WEB発行後、 執筆者と読者が集い、お茶やお酒を飲みながら詩について自由に語り合う「ミッドナイトお茶会」をはじめます。年四回、それぞれの季節にあった場所で企画します。誰でも出入り可能。第一回は、春ということで、「ミッドナイト花見お茶会」です。

日時:四月六日(土)十三時〜

場所:都内。後日ホームページで告知。

会費:実費

予約:070-5579-1564,

mpweb2012@gmail.com 

当日は本誌執筆詩人による詩の朗読なども盛り込む予定です。この会によって新たな詩のネットワークが生まれることを期待しつつ。また本誌のご感想も気楽に右アドレス宛にお送り下さい。(中村)

 

○「山羊散歩」第二回は、八木重吉の故郷を訪ねた。八木重吉の詩については、八木幹夫さんが明快に語っているので、それを読んでいただきたい。僕がここで書きたいのは、「鞠とぶりき独楽(こま)」という一連の詩についてである。八木重吉というと、キリスト教と結びつけて語られがちであるが、重吉の詩を読み込んでいくと、キリストが消えていくように思われるときがある。例えば、次の詩。

 

  聖書

 

 この聖書(よいほん)のことばを

 うちがわからみいりたいものだ

 ひとつひとつのことばを

 わたしのからだの手や足や

 鼻や耳やそして眼のようにかんじたい

  ものだ

 ことばのうちがわへはいりこみたい

 

 これは「信仰」の詩であろうか。僕にはそう思えないのである。

 「鞠とぶりきの独楽」は、実に味わい深い詩篇である。まず、その冒頭に置かれた「憶え書」に惹かれる。「……皆 今夜——(〈註 一九二十四年〉六月十八日夜)の作なり」。つまり、一夜にして書きあげられたということであろう。「これ等は童謡ではない。むねふるえる 日の全(すべ)てをうたえる大人の詩である……」。ここから聞こえてくるのは信仰者の声ではない。〈もの〉〈存在〉のよってきたるところを尋ね、「日の全てをうたえる大人」の声である。目にとまった詩句をいくつか引いてみよう。「いろいろな/世界があることはたしかだ」「いったい/数というものが どうして できたか」「色は/なぜあるんだろうか」「かんがえるように/みることができよう」「森へはいりこむと/いまさらながら/ものというものが/みいんな/そらをさし/そらをさしているのにおどろいた」……神秘主義と接するかのように繰り出されることばは、信仰のそれというよりは、思想のことばと云いたいところだ。もとより、即断は控えなくてはならないが、「ことばのうちがわへはいりこみたい」欲望がやがて境界を越えることは必然であろう。

 このたび、八木幹夫さん、そして田中次雄さんに導かれて、八木重吉が生きた場所を「散歩」できたことは、貴重な時間であった。おふたりのご厚意に感謝します。ありがとうございました。

○midnight press WEBは、今号から季刊とすることにした。〈世界〉の速度に強迫されることなく、前に向かってゆっくりと進んでいきたい。次号は6月1日発行(岡田)

 

*編集室から

○ミッドナイト・プレスの詩集

川田絢音『ぼうふらに摑まって』2100円

『流木の人』から三年。詩人の精神が刻印された新詩集。

柵野初希『夢の揺りかご』 1890

過去と未来とのあいだを夢のように揺れる時間を独自の感性で捉えた第一詩集。

○詩の図書館

ミッドナイト・プレスのホームページ上では「詩の図書館」をオープンしています。現在、伊藤比呂美、井上輝夫、入沢康夫、川崎洋、川田絢音、清水哲男、辻征夫、中江俊夫各氏の初期詩篇を読むことができます。このたび新たに、倉田良成氏の『歩行に関する仮説的なノート』を収蔵しました。

○自費出版のご案内  

ミッドナイト・プレスでは、詩集をはじめとして、様々な書籍の自費出版をお引き受けいたします。どうぞ、お気軽にご相談ください。自費出版のご案内をお送りいたします。

○今号の執筆者

添ゆたか 一九八九年生まれ

八木幹夫 一九四七年生まれ

大家正志 一九四八年生まれ

浅野言朗 一九七二年生まれ

小林レント 一九八四年生まれ

 

midnight press WEB(季刊) 第五号 二〇一三年三月一日発行 編集人・中村剛彦 発行人・岡田幸文 発行 ミッドナイト・プレス 揮毫/谷川俊太郎 イラスト/永畑風人