山羊塾2019年のプログラムが決定しました。

 

詩を新しく読み直すことをテーマとしてきた、八木幹夫さんが講師を務める「山羊塾」も、2019年で開講4年目を迎えることになりました。新たな気持ちでスタートする「山羊塾」2019年のプログラムが下記のとおり決まりましたので、お知らせいたします。

 

13回(2月9日)入沢康夫「『詩は表現ではない』と言い切った真意」(終了しました)

14回(6月8日)金子光晴「松本亮金子光晴にあいたい』を読んで」(終了しました)

15回(8月10日)石川啄木と若山牧水「現代詩に受け継がれるべきその近代性と流浪」(終了しました)

16回(11月9日)井上輝夫「詩と哲学と安曇野」 (終了しました)

★2019年第16回「山羊塾」のお知らせ

井上輝夫「詩と哲学と安曇野」 

日時:2019年11月9日(土)13:00〜15:00

場所:東京芸術劇場5階ミーティングルーム7

東京都豊島区西池袋1-8-1

電話03-5391-2111

http://www.geigeki.jp/access/index.html

会費 2000円(資料代含む)

 

*お申込み方法

下記の事項を明記して、

ミッドナイト・プレス宛てメールで(email@midnightpress.co.jp)までお申し込みください。

なお、電子メールを使用できない方は電話048・466・3779(ミッドナイト・プレス)までお申し込みください。

 

・件名「山羊塾申込み」

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折り返し、こちらからご連絡いたします。

 

申込み締切:2019年5月31日

二〇一八年度「山羊塾」開講にあたって

   ——「批評と実作とのあいだ」——

                     八木幹夫

 

 近年の批評の欠落は足場の不安定な場所での、とび職のタイトロープのような状況です。一人の飛び抜けた天才的とび職人が風雨や雷鳴の中で壮大なバベルの建築作業に当たるようなものです。天の怒りに触れるたびにバベルの塔は崩れ去り、彼あるいは彼女はふたたび再挑戦します。そこには徒労感も漂います。学生時代、小林秀雄や加藤周一、埴谷雄高や 森有正らの著作を読み漁り、なにか確実なものに摑まりたいと迷いつつ、批評の足掛かりを願ったものです。一九六〇年代後半に学生であった私に助言を与えてくれたのが、当時アメリカ文学の詩分野で活動をされていた新倉俊一先生でした。私は詩だけを書きたい一心で研究室に通うようになりましたが、先生は「詩と批評は車の両輪、どちらが欠けても大きく発展することにはならない。」と言われました。そこで私はいつも詩を書きつつ、他人の詩を批評するスタンスを保ってきました。最近の詩の混迷は批評の欠落によって起こっているのではないかと思います。大岡信は早くからこの批評の重要性を説いてきた詩人です。その代表的な成果が「うたげと孤心」です。萩原朔太郎もまたエドガー・アラン・ポーの『詩の原理』にならって日本の詩歌に欠けている詩の根本的な原理を論じています。 

二〇一八年度は批評と実作のあいだにまたがる諸問題をとりあげ、詩が先細りしないための、バベルの塔にならないための、個人ではなしえない地平に到達するための検討を加えてみたいと思います。とはいえ、詩は理屈ではありません。詩の楽しみは読む喜びと創造的なものに触れる喜びです。皆さんとともに詩人の宝箱を開けてみましょう。 

講師:八木幹夫(やぎみきお)

1947年、神奈川生まれ。著書に、『野菜畑のソクラテス』『八木幹夫詩集』『川・海・魚等に関する個人的な省察』など8冊の詩集、歌集『青き返信』ほか。

山羊(さんよう) という俳号で俳句を詠む。

2014年、『渡し場にしゃがむ女 詩人西脇順三郎の魅力』をミッドナイト・プレスから刊行。

★これまでの山羊塾の歩み(2015.5〜2017.11)

 

山羊塾開講にあたって  八木幹夫

 

 ここ数年、地元の公民館の高齢者を対象に「詩」についての話をしてほしいという依頼を何度か受けて、さてどんな話が午後の一番居眠りしたくなる時間に興味をもっていただけるか。考える。「現代詩」と呼ばれるものを読んだこともなければ、聞いたこともないというのが聴衆の大半だ。幸い、神奈川県の相模原市には津久井郡(現在は相模原市に合併)から生まれた『八木重吉』という詩人がいる。名前は私と同姓だが、全く血縁関係はない。ただ八木姓がこの津久井に多いのは確かだ。この名前と作品は小学生の時から知っている。市在住歴の長い方は詩人八木重吉を知っている方が多い。特に「素朴な琴」はうろ覚えではあってもその詩的感動を味わった経験のある人がいる。

  

 素朴な琴  八木重吉

 

このあかるさのなかへ

ひとつの素朴な琴をおけば

秋の美しさに耐えかねて

琴はしづかに鳴りいだすだらう

 

 この詩を糸口、導入にして私は喋りはじめる。それには次の理由がある。八木重吉の詩はまず、一つも難しい言葉を使っていない。短く、平明であり、かつその内容が深い。現代詩と呼ばれるものは、この正反対に意味が不鮮明、個人の内面を書くと言っても、読者との共通項が少ない。内容は浅いのに長く難解な語彙をだらだらと使う。さらに云えば、自らの経験や思考をこれ見よがしに垂れ流すかその反対に自らの経験や実感から離れすぎて抽象韜晦に走る。自分の持つ感性や感覚を大切にしない。表現への野心だけはあるが、実質を伴わない架空の経験に読者を振り回す。

 こういった傾向が近年ますます激しさの度を増している。大袈裟で、過度な表現が多すぎるのだ。生き方がこぢんまりと保守的であるのに、言葉だけが過激な独り歩きをしている。もちろん実験的であることは面白いことだ。しかし隠喩法等の過剰が現実の「自己」を貶めていることに気付かない。隠喩や換喩が世界を把握する方法だと思い込んでいるフシもある。

 こうした異常事態を山羊塾では、もう一度丁寧におさらいをしようというのだ。新鮮な感性、感覚を取り戻す試みを考えていきたい。人が「詩」を書くとはどういうことなのか。「詩の言葉」と日常会話や新聞・スマホ・ライン・ケータイ・パソコンで交わされる言葉とはどういう質的な違いがあるのか。ロマンチックなことを歌うというのが「詩」の役割とは限らない。深刻な現実と対峙して歌われるものも「詩」になるものはある。こうして考え始めると「現代詩」が抱えている問題は次々に出てくる。 山羊塾では様々な観点から詩の魅力を取り上げてみたい。

1.近代・現代の詩人たちの魅力的な作品にふれ、その滋味

 を味わう。

2.詩を書く以前に、作品を分析する力を養う。批評力の向

 上。

3.構造をもった散文や詩。構成力を詩や散文を通して学

 ぶ。

4.感動はどのようにしてやってくるのか。

5.常識と非常識。論理と非論理。日常と非日常。表現の根

 底にあることを読み取る。

6.作品における「私」とは誰か

 ほぼ以上のようなことを前提にその都度、聴講者の意見なども取り入れながら講座を進行させていきたいと考えている。皆さんの「詩」に対する情熱に応えられる講座にしたい。(2015年10月)  

これまで取り上げられた詩人(2015年10月〜2019年11月)

 

第1回(201510月) 宮沢賢治

第2回(20163月) 梶井基次郎

第3回(20167月) 西脇順三郎

第4回(201610月) 辻征夫

第5回(20172月) 山本かずこ

第6回(20175月) 平田俊子

第7回(20178月) 高橋順子

第8回(201711月) 与謝野晶子 

第9回(2018年2月)萩原朔太郎  

10回(2018年5月)大岡信 

11回(2018年8月)田中冬二 

12回(2018年11月)下村康臣 

13回(2019年2月)入沢康夫

14回(2019年6月)金子光晴 

15回(2019年8月)石川啄木と若山牧水 

16回(2019年11月)井上輝夫