谷川俊太郎氏揮毫

★ミッドナイト・プレスからのお知らせ

*「聴無庵日乗」(↓)を更新しました(2018.11.30)。

*久谷雉さんの「詩の教室」第八講の講評を掲載しました。今回の入選作品は、奥間埜乃さんの「[もんじ]の策略」、参考作品は、谷口鳥子さんの「楠」、佐野豊さんの「シタ」です。なお、今回をもって、「詩の教室」は閉講となります。これまでご投稿してくださったみなさま、そして講師を務めていただいた久谷雉さんに御礼申し上げます。ありがとうございました。また別なかたちで再会できる日を楽しみにしています。

*第11回山羊塾講義録「田中冬二 「詩の力 近代の眼」」を掲載しました。こちらで読むことができます。

★新刊のお知らせ 里中智沙詩集『花を』

定価:本体2700円+税 装丁・大原信泉

詳細は、表紙をクリックしてください。

 このたび里中智沙さんの新詩集『花を』を刊行しました。これは、『手童(たわらは)のごと』(2008年 ミッドナイト・プレス)に続くものですが、日本の古典文学や古典芸能に造詣が深い里中さんの詩法はさらに奥行きを深め、時間的には過去と現在とを往還し、空間的には叙事と叙情とを行き交う、ことばの舞いは一段と深みを増して、読む者を堪能させます。一人でも多くの方々に、この詩集をお読みいただければうれしく思います。

 ここでは巻末に置かれた短い詩を紹介したいと思います。

 

 

  花を

 

 

えぐられた大地の

血のような赤土に

花を植える

一輪の

花は風にそよぎ やわらかに

傷口を撫でるだろう 

 

そして花は

蝶を呼ぶだろう 瑠璃いろの蝶を

蜂も呼ぶだろう 黄金(きん)色に翅ふるわせる蜂を

空から

鳥も降りてくるだろう

羽搏きの音に

ひとが足を止めるだろう

そして次の花が

 

ひとの手に抱かれて

一輪、また一輪と

血のにじむ大地をおおって やわらかに

お花畑がひろがるだろう

太陽()も もどってくるだろう

ひとはやっと

微笑むだろう

お花畑を囲んで

やっと 語りはじめるだろう

岡田幸文の「聴無庵日乗」

*これまでの「聴無庵日乗」はこちらで読むことができます。

聴無庵日乗50(2018.11.30)

エゾギクと秋の七草フジバカマ

 このところ下村康臣の第一詩集『石の台座』を手の届くところに置いて、時折読み返している。冒頭の「PRÉFACE」から、続く「エクリチュール」を読んだだけで、たちまち引き込まれ、この詩集の〈謎〉を解明したくなるのだが、いま気になっているのは、「失われるものはないのに 失われるものがある」という詩句に始まる19行の散文詩である。この冒頭の詩句を目にして、思い出すのは、ジャニス・ジョプリンの(クリス・クリストファーソンの)Me and Bobby McGeeの一節、Fredom’s just another word/For nothing left to lose(自由というのは、失うものがなにもないってことさ)である。ジャニスが歌うMe and Boggy McGeeが発表されたのは1971年だった。(失われるものはないのに…)という詩が収められた『石の台座』を出版したとき(1988年)、下村康臣のなかで、この歌は流れていただろうか。この詩は、lifeについて考えた詩というよりは、loveについて考えられた詩ということができるが、その詩を、いま読むと、「失われるもの」についての考え方が、歳とともに、変化していくことが知られる。いまこの詩句を読んで、想起するのは、「ひよつと一切のことは不生(ふしょう)で調(ととの)ふ物を、今日まで得知らいで、さてさてむだ骨を折つた事哉」と悟った盤珪のことばである。どのような道を経て、このことばにたどりついたのか、深く考えていかなくてはならないなあ……と思っていると、昨29日、高取英が26日に亡くなっていたことを知り、そして今朝は、入沢康夫氏が1015日に亡くなっていたことを新聞で知る。高取英と、そして入沢康夫氏と、はじめて会ったのは、ジャニスのMe and Bobby McGeeが流れていた頃だったのではないだろうか。

 

  *

 

夢を見ながら、その夢について考えている

これは戯論だろうか

世界は一枚の絵だ

その絵の中を後退していく者がいる

                (四行詩 6

A5変型・上製・函入り 定価 本体2800円+税

井上輝夫さんの『聖シメオンの木菟』の書評(高樹のぶ子氏、黒川英市氏)はこちらをごらんください。

中村剛彦編集による「特集井上輝夫」をアップしています。既刊詩集抄に加えて、映像、翻訳詩抄、拾遺詩篇・散文抄からなるもので、詩人・井上輝夫氏の全体像を浮かびあがらせる入魂の特集です。ぜひごらんください。