★「聴無庵日乗」アーカイヴ(〜2017.12)

聴無庵日乗27

師走の浅草寺

 河合酔茗の次にくるのは……といきたいところだが、今年も残り少なくなりなにかと気ぜわしくなってきた今日は、気分を変えて(?)、今年最後の日乗を、といっても毎日書いているわけではなく、また、詩の感想のようなものを思いつくままに書いているだけで、とても日乗と云えた代物ではないのだが、それでも、『あの頃、あの詩を』に掲載された詩を読み続けていると、日々去来するものがないわけではない。『あの頃、あの詩を』に収録された詩篇を読んでいると、「人生詩」ということばが生まれるべくして生まれてきたようにも思えてくる。だが、同時に、どうも、日本語では「人生」ということばが正当な場所を与えられていないような気もしてくる。ふとしたきっかけから『あの頃、あの詩を』に収録された詩を読み始めたのだが、読み進むにつれて、思わぬ山あり谷ありで、詩の奥深さを知らされることになった。例えば、大関松三郎の詩にみられる、「とっくん とっくん」ということばの、活潑潑地(かっぱつぱっち)ともいうべき、そのありようをどのように考えたらいいのか。……などなど、考えるべきことは多々あるのだが、いまは、道元の次のことばにならうときであるようだ。

 

 所以(ゆゑ)に須(すべか)らく尋言逐語(じんげんちくご)の解行(げぎゃう)を休(きゅう)すべし、須らく回光返照(えくわうへんせう)の退歩を学すべし。

 

                                                  (2017.12.29

聴無庵日乗26

 田中冬二の次にくるのは、河合酔茗の詩二篇である。「ゆづり葉」は、河合酔茗の詩としてよく取り上げられるものなので、「山の歓喜」を書き写してみる。

 

 山の歓喜  河合酔茗

 

あらゆる山が歓んでゐる

あらゆる山が語つてゐる

あらゆる山が足ぶみして舞ふ、躍る。

あちらむく山と

こちらむく山と

合つたり

離れたり

出てくる山と

かくれる山と

低くなり

高くなり

家族のやうに親しい山と

他人のやうに疎い山と、

遠くなり

近くなり、

あらゆる山が

山の日に歓喜し

山の愛に点頭(うなづ)き

今や

山のかゞやきは

空一ぱいにひろがつてゐる

 

 さて、この詩を読む前に、「ゆづり葉」を読み返してみようとそのページを開くと、その右ページに田中冬二の「山への思慕」という詩がおかれているではないか。それを書き写してみよう。

 

 山への思慕  田中冬二

 

しづかな冬の日

私はひとり日向の縁側で

遠い山に向つてゐる

 

山は父のやうにきびしく正しく

また母のやうにやさしい

山をじつと見つめてゐると

何か泪(なみだ)ぐましいものが湧いて来る

そして心はなごみ澄んで来る

 

しづかな冬の日

私ひとり縁側で暖い日を浴びて

遠い山に向つてゐる

 

 ふたつの詩を並べて読むと、ともに山への畏敬の念が感じられる一方で、山との向かい合い方においてそれぞれの個性を味わうことができる。冬二の静に対して、酔茗の動というか、冬二は山を「父のやうに」「母のやうに」見つめているのに対して、酔茗は「あらゆる山が歓んでいる」と見ている。そういうふうに読みくらべながら、それぞれの詩の世界に分け入っていくのも、詩の読み方のひとつであろう。

 それもひとつの道だが、いまは「山の歓喜」において、ルフランや対句、あるいは頻出するa音の交響などすべてが「あらゆる山が歓んでいる」一点に向かって収斂していくそのことばの動きを味わいたい。ここで、「太陽の廻るかぎり/譲られるものは絶えません。」という「ゆづり葉」の一詩句を思い出してみるのもいいだろう。

 河合酔茗は、明治7年に生まれ、昭和40年に亡くなった。享年90という、長命の人であった。夫人であった島本久恵は回顧している。「世間ではこの三人(註・酔茗、伊良子清白、横瀬夜雨)を文庫派という。だがあれは派であったろうか。(中略)沢山の投書の中から病少年の夜雨を発見し、やがて清白となる伊良子暉造を励まし、そうしていつかならんだ三人であるが、とりわけ酔茗の一生を見渡す時、文庫派の謂いは当たらないであろう。『文庫』はその公器の性格から、生まれるものを限定しなかった。それ故にこそ白秋も露風もここに芽生え、詩の口語化の運動も、この母胎からの新段階である酔茗の『詩人』で成り得た公器の公平さであったと思う」(2017.12.19

聴無庵日乗25

渋谷にて

 大関松三郎の次にくるのは、田中冬二の詩七篇である(「雪の日」「春」「ふるさとにて」「若葉の朝」「秋の灯ともし頃」「晩秋小景」「山への思慕」)。

 

  ふるさとにて  田中冬二

 

ほしがれひをやくにほひがする

ふるさとのさびしいひるめし時だ

 

板屋根に

石をのせた家々

ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする

ふるさとのさびしいひるめし時だ

 

がらんとしたしろい街道を

山の雪売りが ひとりあるいてゐる

 

 この「ふるさと」は、田中冬二が生まれた福島のことではない。銀行員であった父の郷里、富山県黒部市生地(いくじ)のことである。七歳で父に、十二歳で母に死別した田中冬二がいかなる十代を過ごしたかは、その年譜の一端から窺い知ることができるが、父の郷里をわが「ふるさと」としているこの詩では、日本の寒村のわびしい風景が的確に描かれている印象がある。だが、この一篇で(あるいは、「春」で、または「秋の灯ともし頃」で)、田中冬二を読んだとしてはならない。

   田中冬二の詩を読むとき、思い出すのは安東次男氏の「田中冬二・人と作品」という文章である(新潮社版『日本詩人全集』18)。いささかクセのある文章であるが、田中冬二の詩について、いや詩一般について、これほど精緻に書かれたものはないだろう。そこで、安東次男は「詩を読むとは、いってみればこの両極の振幅のあいだで、身を起こすもの、屈するものの気配に、虚心に耳を傾けることだが、田中冬二の詩は、作品とのそういう知的な関わり方の、むつかしさと同時にたのしさをおしえてくれる点で、一文体をつくりだしたといえる」と書いている。それはまた、「私は十数年間の間に、言葉の制約を学んだ。(略)私の希(ねが)うのは、高度の詩精神を、最もやさしい清新な言葉によって示すということである」という田中冬二のことばを思い出させる。

 このたび、田中冬二の主要作品をざっと読み返してみたが、「私は苦心に苦心してつくっている。推敲に推敲を重ねる。一行二行の詩にも、数ヵ月を要することさえある」「極端に言えば、詩作の前には斎戒沐浴すべきであると思う」という詩人のことばが、一篇一篇の詩から聞こえてくるようであった。上掲の「ふるさとにて」にしても、一行一行ゆっくりと読んでいくと、措辞に細心の注意が払われていることに気がつかされる。いま惹かれているのは、「故園の萊」、あるいは「ウヰスタリア」、また「草愁詩社」など、田中冬二独特の奥行きを伝える詩篇である。(201712月7日)

聴無庵日乗24

日日草

 『あの頃、あの詩を』に掲載された詩を読み始めて、ようやく半分までたどりついた。123ページから131ページに紹介されているのは、大関松三郎の詩四篇(「水」「虫けら」「夕日」「雑草」)である。大関松三郎と聞いて、誰?と思った人は少なくないだろう。まずは、その一篇、「水」という詩を読んでみよう。

 

  水  大関松三郎

 

大きなやかんを

空のまんなかまでもちあげて

とっくん とっくん 水をのむ

とっくん とっくん とっくん とっくん

のどがなって

にょろ にょろ にょろ つめたい水が

のどから むねから いぶくろへはいる

とっくん とっくん とっくん 

にょろ にょろ にょろ

息をとめて やかんにすいつく

自動車みたいに 水をつぎこんでいる

のんだ水は すぐまた あせになって

からだじゅうから ぷちっとふきでてくる

もう いっぱい

もう ひと息

とっくん とっくん とっくん とっくん 

どうして こんなに 水はうまいもんかなあ

こんな水が なんのたしになるもんかしらんが

水をのんだら やっと こしがしゃんとした

ああ 空も たんぼも

すみから すみまで まっさおだ

おひさまは たんぼのまんなかに

白い光を ぶちまけたように 光っている

遠いたんぼでは しろかきの馬が

ぱしゃっ ぱしゃっと

水の光をけちらかしている

うえたばかりの苗の頭が風に吹かれて

もう うれしがって 伸びはじめてるようだ

 

さっき とんでいったかっこうが

村の あの木で 鳴きはじめた

 

 一読、水のうまさが伝わってくる詩だ。この詩は、大関松三郎が小学生のときに書いたものだが、読む者を黙らしめる力をもっている。

 関根弘は、この詩について次のように書いている。

「大関松三郎も、小学生のうちから働らかなければ、ごはんの食べられないこどものひとりだったのだ。だがかれはその事実を直接訴えているのではなく、百姓仕事そのものをかくことによって、その現実をより生き生きとわれわれの前に示している。いうまでもなく大関松三郎の意識のほうがより高いのである。そればかりではない。大きなやかんを空のまんなかまでもちあげて水をのむとか、のんだあとであたり一面の青さにきがつくあたりに、精彩を放っている。この詩を読むと苦しい労働が楽しいもののようにさえ思えてくるから不思議である。自己が自己を解放する意識のはたらきとは、まさにこのようなものをさすのであろう」

 いささか長い引用であったが、このことばにつけくわえるものはなにもない。

 大関松三郎の生涯は、おおよそ次のとおりである。1926年、新潟県古志郡にて、農家の三男として生まれる。高等小学校で生活綴り方運動に従事していた教師、寒川道夫の指導を受けて、詩を書き始め、卒業時に手作りの詩集『山芋』をまとめる。卒業後、新潟鉄道教習所に進み機関助手となるが、その後、軍属を志し、海軍通信学校に入学。1944年、南シナ海にて輸送船が魚雷攻撃を受け、戦死した。(2017.11.19

聴無庵日乗23

 だいぶ時間があいてしまった。今回取り上げるのは大木実の詩である。が、大木実?と思った人も少なからずいるのではないだろうか。僕もそのひとりである。手元にある現代詩事典(三省堂)によれば、1913年、東京・本所で生まれ(1996年没)、電機学校在学中に詩作を始め、1939年詩集『場末の子』を刊行した後、1941に刊行された『屋根』で詩壇に迎え入れられたという。その跋文で丸山薫が生活との密着を指摘しているそうだが、『あの頃、あの詩を』で紹介されている詩六篇は、いずれも「生活的な素朴な抒情を身上」(現代詩事典)としている。「路地の井戸」という詩を読んでみよう。

 

 路地の井戸  大木実

 

路地をはさんで家がある

路地の奥にも家がある

 

——その路地に井戸がひとつ

 

誰かしらいつも水を汲んでいた

朝は暗いうちから夕べは暗くなっても

 

——それはあるとき手あらに あるときは静かに

 

ある朝わたしは見た

だれもいない井戸ばたに

雀が一羽遊んでいたのを

またある夜ふけ流し場に

月の光がこぼれていたのを

 

 この詩を選んだのは、僕も昭和30年代の東京で「路地の井戸」を見たことがあるからである(ちなみに、『あの頃、あの詩を』が取り上げたのは、昭和33年から42年前後までの中学校の教科書に採用された詩である)。この詩にむずかしいところはなにもない。注意しないと、読み過ごしてしまう詩かもしれない。だが、この詩を読んでいると、「あの頃」の懐かしい映像が喚起される。次の詩も、そういう一篇である。

 

 初秋  大木実

 

秋は夜店の中を歩いていた

物売るひとのうしろにいたり

のぞいて歩くこどもたちの目のなかや

すれちがう少女のたもとにかくれたりした

北ぐにの小さな町の

八月の宵

空には星が美しく

風がないのに涼しかった

裏通りにある氷屋で飲んだソーダ水

そのストロウのなかにも秋はいた

 

                   (2017.11.3

聴無庵日乗22

 室生犀星の詩で、当時の(昭和33年前後からから昭和42年前後までの)、日本全国の中学校で使用された教科書のうち、三つ以上の教科書に採用されたものは、次の六篇である。「鶯のうた」「鮎のかげ」「本」「朝の歌」「こほろぎのうた」「夏昼」。

 ところで、いま僕が惹かれる犀星の詩は、「昨日いらつしてください」など、晩年の詩である。読んでいて思うのは、詩人室生犀星は死ぬまで一歩たりとも後退していないという事実である。いまはそれについて書く場所ではないが、そういう観点から上記六篇の詩を読むと、「鮎のかげ」が印象に残る。

 

 鮎のかげ  室生犀星

 

背なかにほくろのある鮎が

日のさす静かな瀬のうちに泳ぎ澄んでゐる

幾列にもなつて

優しいからだを光らしてゐる

 

その影は白い砂地に

かげ絵のやうに

大きくなつたり小さくなつたりして

時には暈(ぼや)けたりする

水のかげまで玉をつづつて

底砂へ落ちてゆく

 

ちひさい物音にさへ

花のやうに驚いては散つて

またあつまる鮎

すらりと群をぬいた大きな鮎が

ときどき群を統べてゐるのか

すこし瀬がしらへ出たり

ほこらしく高く泳いでは水面へ

ぱちりとはねくり返る

しんとした波紋がする

あとは土手の上の若葉の匂ひがするばかり

 

 この詩は、大正11年に刊行された詩集『星より来れる者』に収録されているものであるが、この詩を読んでいると、ここには詩人室生犀星の過去から未来までが蔵されているように思われる。この詩を読んでいると、先日、あるホテルの池で「花のやうに驚いては散つて/またあつまる」大きなニシキゴイたちをぼんやりと眺めていた時間が思い出される。犀星についてはもっと書きたいことがあるのだが、少しアタマの整理をする必要があるようなので、別の機会にしたい。

 (付記)犀星といえば、絶対にはずせないのは、『我が愛する詩人の伝記』である。この日乗を書くとき、たえず手元に置いているが、詩人について書かれた文章で、これを越えるものはないだろう。(2017.10.11

聴無庵日乗21

 千家元麿の次にくるのは、山村暮鳥である。「人道主義」の詩人が続く。と、思わず書きたくなるのは、紹介されているのが、「雲」「朝」「朝」「春の河」「一日のはじめに於て」「郊外小景」「なぎさで網を引いている」「万物節」「西瓜の詩」の九篇で、『聖三稜玻璃』収録の詩は取り上げられていないからである。九篇も取り上げられながらも、『聖三稜玻璃』から一篇も選ばれていないというのは、教科書の詩とはなにかについて考えさせるものがある。

 『聖三稜玻璃』が出版されたのは大正4年(1915年)。ちなみに、萩原朔太郎の『月に吠える』は大正6年、室生犀星の『愛の詩集』は大正7年に、それぞれ出版された。作者自ら「小生は今の文壇乃至思想界のために、ばくれつだんを製造してゐる」と語った『聖三稜玻璃』はしかし酷評にさらされた。「その世評の一般はかうであつた」と朔太郎は回想する。いわく、「難解! 晦渋! でたらめ! ヨタ! 思ひつき! 不可解! ガラクタ! 詩の冒瀆者! 遊戯作家! 本質なき詩人! 葬れ! ウソ!」。そして暮鳥は、「自分の芸術に対する悪評はその秋に於て極度に達した。或る日自分は卒倒した」(「半面自伝」から)。

 だが、『聖三稜玻璃』に収められた詩は、果たして「思ひつき」の「でたらめ」の詩であったのだろうか。

 『聖三稜玻璃』が出版される前に書かれたと思われる詩のひとつに、「断崖」という作品がある。

 

 断崖  山村暮鳥

 

かけわたす

つりばし

空中一列の僧

断崖(きりぎし)

僧のあたまを

てりかへす

谿(たに)のそこ

ひかりをながし

ひかりをながす山山

山山山

僧のあたまを

てりかへす断崖

 

 こういう詩を読むと、『聖三稜玻璃』一巻を「でたらめ! ヨタ! 思ひつき!」と決めつけてよいものかと思わないわけにはいかない。瀬尾育生は、「山村暮鳥と萩原朔太郎」という論考で、『聖三稜玻璃』に収められた「A FUTUR」を読み解いて、「少しもわかりにくいところのない、湧き出してくるイメージの必然がよくたどれる詩だと思います。でも発表当時それが気づかれるはずはないし……」と書いている。たしかに、『聖三稜玻璃』に収められた詩は、一行一行ゆっくりと読んでいけば、決して「難解」ではなく、読み解いていくことができる。詩集冒頭に置かれた「囈語(たはごと)」の鮮烈な印象が無用な反感を呼んだのだろうか。

 ところで、僕の暮鳥に対する関心が真に生まれるのは、その後、つまり、『聖三稜玻璃』以後なのである。しかも、それは異和からなのである。『聖三稜玻璃』以後の暮鳥の詩をどのように読めばいいのか、僕はよくわからないのである。「垢ぬけのしない衒気をもつてゐた」(朔太郎)暮鳥に、この退行、この諦念はどのようにしてやってきたのだろう。これはこれから考えなくてはならない課題である。

 

 上記九篇のなかからひとつ選ぶとすれば、「雲」という詩である。さびしい歌ではあるけれども。

 

 雲  山村暮鳥

 

おうい雲よ

ゆうゆうと

馬鹿にのんきさうぢじゃないか

どこまでゆくんだ

ずつと磐城平(いはきたひら)の方までゆくんか

 

 暮鳥の詩を読み終えたいま、僕は良寛の詩を読みたいと思っている。(2017.9.23

聴無庵日乗20

夏の終わり、鎌倉・長谷寺の蓮の花

 丸山薫の次にくるのは、千家元麿の詩である。ちなみに、「雁」「初めて子供を」「飯」「海」「村の郵便配達」「小さい笑ひ」の六篇である。ここまでなんとか書いてきたが、ここにきて大きな壁にぶつかったような気がする。千家元麿。この人の詩をこれまで知らなかったわけではないが、どこかで敬して遠ざけていたところがあった。どこから、どう読んでいいのか、そのとっかかりをみつけることができなかったのである。

 例えば、「飯」という詩がある。この九行の詩は、このように始まる。

 

 君は知つてゐるか

 全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを

 

 この冒頭の二行を読んだだけで、異和を覚える。「全力で働いて頭の疲れたあと」とは、どのような状況をさすのだろうか。頭を使ったことはないが、ただひたすら身体を動かしてクタクタになる生活を続けていたとき、五臓六腑に沁みたのは、「飯」の「うまさ」ではなく、一杯の酒の「うまさ」(?)であったことを思い出すと、この「飯」という詩にはどうしても異和を覚えてしまう。よし、「飯」の「うまさ」がほんとうだとしても、それをこれほど無防備にいっていいものだろうか……。

 今回あらためて千家元麿の詩と向かい合って、僕が選んだのは次の詩であった。

 

 村の郵便配達  千家元麿

 

村の郵便配達は深夜の雨の中を遣つて来る。

角灯を片手にさげて

全身鱗のやうに雨と光りにたらたら濡れて

鎧を着て遣つて来る。

うしろには銀の征矢(そや)を一杯背負つてゐるやうに

篠突く雨が入り乱れ

寝鎮つた家の前に息をはずませて立止る。

眠つたところを起されて、恐々戸を明けた人は

闇の中に飛沫に打たれて明るく立つてゐる彼を見る。

人気無い山道や森や畠の中を暗い雨夜にたゞ一人

永い間黙つていそいで来た彼は

淋しさや恐ろしさや村に辿り着いた嬉しさに

心気亢進して輝くやうだ。

黒い頭巾の蔭のその顔は燃え上つて透き通つた瑪瑙(めなう)の

 やうに赤るみ

異様な大きな清々しい眼を光らして

鱗のやうに光りの流れるカッパの蔭から貴さうに手紙や葉書をと

 り出す。

雨はざんざん降りしきり

郵便配達は熱い息をはずませ 受取る人も沈黙し

闇と光りの中で眼を集めて選り分ける濡れない葉書や手紙の美し

 さ

光りの中に浮んで闇に消え入る人の宛名の美しさ

人はその中から自分に宛てられた手紙を受取つて感謝する。

 

村の郵便配達は暗い雨夜をたゞ一人

カッパの蔭に角灯をひそませて

寝鎮つた村を一人で輝き横切つて行く

 

 千家元麿の父は、出雲大社宮司であった男爵千家尊福(たかとみ)で、後に埼玉、静岡県知事、東京府知事を経て、司法大臣を務めた。母豊は、両国料亭の長女で日本画家だが、正妻ではなかった。千家元麿が自家の女中であった赤沢千代子と結婚したのは二十五歳の時。以後、筆一本で暮らしをたてる道に入ったという。千家元麿の詩は、むずかしいところはひとつもない、実にわかりやすい詩である。詩のいき方として、ひとつの道であると思う。が、ものたりなさを覚えるのもほんとうのことである。なぜ、ものたりないのか? それは千家元麿の詩には批評精神、というか認識する力が欠けているからである。「飯」の「うまさ」に感動するのはいいが、なぜうまいのか、それが書かれていない。追求されていない。そこに千家元麿の弱さがあるような気がする。

 だが、一方で、「村の郵便配達」のような詩を読むとき、別の眺望がえられることもたしかなことである。この詩に解説はいらないだろう。ただ読めばいいのだ。だが、それでこの詩がわかるかといえば、それはまた別のことであるが。ここには、生の弁証法——もちろん、それは意識的なものではないのだが——を生きた者の迹(あと)が見られる。この無意識の弁証法は、おそらく彼の出生とともに動き始めたものだ。それは、個/孤に徹する道を選んだ者を揺るぎない確信に導くものだったに違いない。「村の郵便配達は暗い雨夜をたゞ一人/カッパの蔭に角灯をひそませて/寝鎮つた村を一人で輝き横切つて行く」。千家元麿は、若くして、悟ることがあったのではないだろうか。この詩を読んでいると、道元のことばがゆくりなくも思い出された。いわく、「悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々(ちょうちょう)出(しゅつ)ならしむ」。このむずかしいことばを、ひろさちやは次のように現代語訳している。「悟りの痕跡すらとどめずにおいて、その痕跡なき悟りを長く長く顕在化させるのである」。

 千家元麿は60歳で亡くなった。もう少し生きていたら、千家元麿の「弱さ」が弱さにとどまらない、なにか新しい精神を生んでいたかもしれないことを考えると、その早世を残念に思わずにはいられない。2017.9.9

聴無庵日乗19

神田明神・天野屋にて

 『あの頃、あの詩を』の第二章冒頭に置かれたのは丸山薫の詩六篇である。すなわち、「北の春」「汽車にのつて」「朝」「風」「島」「春の朝早く」の六篇である。いま、このなかから僕が選ぶとすれば、「汽車にのつて」になるだろう。

 

 汽車にのつて  丸山薫

 

汽車に乗つて

あいるらんどのやうな田舎へ行かう

ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし

日が照りながら雨のふる

あいるらんどのやうな田舎へ行かう

窓に映つた自分の顔を道づれにして

湖水をわたり 隧道(とんねる)をくぐり

珍らしい顔の少女(をとめ)や牛の歩いてゐる

あいるらんどのやうな田舎へ行かう

 

 この詩を選んだ理由は単純である。いま僕がアイルランドに行きたいからである。いま、アイルランドにはヴァン・モリスンがいるのである。極東日本にヴァン・モリスンがやってくる可能性はほとんどゼロであるいま、ヴァン・モリスンの生の声を聴くにはアイルランドに行くしかないのである。もちろん、この詩は「アイルランドへ行かう」と云っているわけではない。「あいるらんどのやうな田舎へ行かう」と云っているのだ。「あいるらんどのやうな田舎」では、「ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし」ているかもしれない。「あいるらんどのやうな田舎」では、「珍らしい顔の少女や牛の歩いてゐる」かもしれない。それはわからない。たぶん、実際のアイルランドはこのようにのどかなところではないだろう。ただ、この詩を読んでいると、まだ見ぬ「あいるらんど」が見えてくるのだ。それから、この詩を読んでいると、萩原朔太郎の「風船乗りの夢」という詩を思い出す。丸山薫はよく朔太郎と飲んだようであるが、それらの日々を回想する丸山薫のことばは愛情に満ちている。(2017.8.29

聴無庵日乗18

ガーベラ

 という次第で、鹿島茂編『あの頃、あの詩を』の第一章を読み終えた。この本がどんな本であるかについてはすでに書いたので(「聴無庵日乗 092017.5.22)、ここでは繰り返さない。これから第二章に入っていくのだが、その前に第一章を読み終えてひとつ気がついたことを記しておきたい。第一章はこれまで見てきたように、近現代詩のビッグネームの詩人の詩が紹介されているのだが、萩原朔太郎がいない。その理由は不明だが、「団塊の世代が教科書で読んだ詩は、とりわけ中学校の教科書の詩は、編者によって特殊なドライブがかかっている」(鹿島茂)からだろうか(上記の引用文にある「編者」とは、中学校の教科書の編者のことである。念のため)。その理由について考えることは、「詩とはなにか」を考える上でも興味深いテーマであるが、いまは先を急ぐ。

 いま、「先を急ぐ」と書いたが、それがかんたんなことではないことはすぐにわかる。これから向かう第二章に登場する詩人は、丸山薫、千家元麿、山村暮鳥、室生犀星、大木実、大関松三郎、田中冬二、河合酔茗、草野心平、百田宗治、八木重吉、竹内てるよの12人。仮に週イチのペースで読んでいくとしても、読み終わるのが11月半ばか。それから、第三章、第四章と読んでいけば来春までかかるだろう。(もっとも、翻訳詩を紹介した第三章ははずすつもりだ。その理由については、そのとき書こう)

 それでも、つまり時間がかかっても、しばらくはこの『あの頃、あの詩を』を読んでいこうと思う。「詩の現在」を考えるとき、まずなによりも、いま書かれている詩を読むべきであるという態度がひとつあると思う。僕もそう考えるひとりであり、この「聴無庵日乗」で紹介するべく、最近読んだいくつかの詩集をパソコン近くに置いている。置いているのだが、この『あの頃、あの詩を』を読み始めてから、まずこのアンソロジーをコンプリートすることだなと思い始めている。詩について、なにか考えるときの材料として、山本健吉編『日本詩歌集』、西郷信綱・廣末保・安東次男編『日本詞華集』をはじめとして、いくつかのアンソロジーを手元に置いているが、この鹿島茂編『あの頃、あの詩を』も読み進むにつれて独自の味わい深さを増している。『あの頃、あの詩を』を読み継ぐことで、その味わい深さを少しでも伝えられたらと思う。それもまた、「詩の現在」を考えることであろう。(2017.8.23)

聴無庵日乗17

イネ

 小諸なる古城のほとり  島崎藤村

 

小諸なる古城のほとり

雲白く遊子(いうし)悲しむ

緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず

若草も籍(し)くによしなし

しろがねの衾(ふすま)の岡辺

日に溶けて淡雪流る

 

あたゝかき光はあれど

野に満つる香りも知らず

浅くのみ春は霞みて

麦の色はづかに青し

旅人の群はいくつか

畠中の道を急ぎぬ

 

暮れ行けば浅間も見えず

歌哀し佐久の草笛

千曲川いざよふ波の

岸近き宿にのぼりつ

濁り酒濁れる飲みて

草枕しばし慰む

 

 『あの頃、あの詩を』の第一章の最後にくるのは島崎藤村の詩、「小諸なる古城のほとり」「椰子の実」「春の歌」の三篇である。藤村については、いまさら僕があらためて書くほどのこともないだろう。以下、備忘録代わりに記す。明治30年『若菜集』、同31年『一葉集』『夏草』、明治34年『落梅集』、この四冊の詩集をもって、藤村は詩と別れたのである。「小さな経験がすべて詩になった。一日は一日より自分の生涯の夜が明けて行くやうな心持を未だにわたしは思ひ起すことが出来る。何を見ても眼がさめるやうであつた。新しい自然、新しい太陽、そして新しい青春。」藤村の詩業は、明治29年、仙台に始まり、明治34年、小諸で終わった。『落梅集』を読んでいると、詩でやるべきことはやり終えた、そして詩では書き尽くせないものがあることを知った詩人の姿が見えてくる。「私は別れなければ成らない時が来て別れたので、決して浮いた心で詩を捨てたものでは無い」(大正2年、山村暮鳥『三人の処女』「序」から)。藤村の、このいさぎよさを僕は愛する。この「小諸なる古城のほとり」は、あふれるままに青春の歌をうたってきた詩人が、青春との別れ、詩との別れをうたった詩である。この憂愁の詩はこれからも人の心を捉えてはなさないだろう。(2017.8.17

   (*詩の表記は、『あの頃、あの詩を』の表記に従った)

聴無庵日乗16

パンパスグラスとヘリコニア

 北原白秋の次にくるのは、三好達治の詩、「大阿蘇」「揚げ雲雀」「雪」の三篇である。さてしかし、この稿をどのように書き始めたものか思いあぐねている。

 三好達治といえば、桑原武夫編の岩波文庫版『三好達治詩集』をいまも大事にしている人が少なからずいることに驚く(迂生より上の世代に多いが)。『測量船』が出版されたときの反響はいまでは想像できないほど大きなものであったようだ。その感傷的な「抒情」が多くの人々の心をとらえたのであろうか。とりわけ詩集冒頭の四篇は読む者に深い印象を残したようであるが、さて、いま、その四篇を読んで思うことは複雑である。まず「春の岬」。この短詩(「短歌」?)を詩集劈頭に置いた詩人の「志気」について思うところはあるけれども、それ以上に語りたいという気分にはなれない。続いて、「乳母車」。この詩を読むと反射的に思い出すのは、吉田一穂の「母」である。だからどうだというわけではなく、ただ思い出すのである。それから、「雪」。この詩については、いろいろと語られているが、これまでこの詩をいい詩だと思ったことはない。そして、「甍のうへ」。これは悪くないが、室生犀星の「春の寺」との違いについて考えることのほうに興味がいく。

 今回、三好達治の詩をひととおり読んでみたが、強く惹かれる詩にはついにめぐりあえなかった。だがしかし、読みながら、これらの詩を書いた三好達治というひとは、いったいどのようなひとであったのだろうという思いから逃れることはできなかった。どの詩でもいい。そのひとつひとつがなにごとかをつぶやいているのである。それらを読んでいて思ったのは、三好達治における「幽暗」なるものである。これは、「露伴さん雑記」という三好の文章に出てくることばである。曰く、「露伴文学には、人生のダーク・サイドへの嗜好がない。そこで又露伴文学には、人の心を幽暗の世界へつなぐ哀愁の要素がない」云々。だが、いま三好達治について考えるとしたら、「捷報臻(いた)る」ほかの「戦争詩」から始めるしかないだろう。そこで、いまは三好達治がどのような時代を生きたのか、「四季」創刊から終刊までの時期を中心に記してみたい。

 

昭和三年(一九二八年) 二十八歳 三月、東大仏文科を卒業。

 萩原アイと結婚するため、アルス社に就職したが、アルス社破産のため、まもなく職を退き、結婚も断念して文筆生活に入る。

昭和八年 五月、「四季」創刊。(三好が同人となったのは、翌

 九年、月刊化されてからである)

昭和九年 一月、佐藤智恵子(註・佐藤春夫の姪)と結婚。

昭和十三年 国家総動員法成立。

昭和十五年 大政翼賛会創立。

昭和十六年 太平洋戦争

昭和十七年 五月、萩原朔太郎死去。

      六月、ミッドウェー海戦。

      七月、詩集『捷報臻る』刊行。

昭和十八年 二月、ガダルカナル陥落。

昭和十九年 六月、詩集『花筐』刊行。

      七月、サイパン陥落。

昭和十九年 五月十八日、佐藤智恵子と協議離婚。

      同三十日、萩原アイと結婚。(註・佐藤惣之助は萩

      原アイと再婚していたが、朔太郎死亡の四日後に急

      逝)

      六月、詩集『花筐』刊行。

         「四季」終刊。

      七月、サイパン陥落。

昭和二十年 二月、萩原アイと離婚。

      六月、詩集『干戈永言』刊行。

      八月、敗戦。

 

 この年譜を見ていると、さまざまなことを考えさせられるが、このとき思い出すのは、三好達治の「乳母車」と「捷報臻る」を対比するに際して、瀬尾育生が記した次のことばである。

「支配的な思想が大きく変容したり断絶したりするときに、内面と外面、主観と客観を反転させるようにして、それに呼応すること。それは転向という政治的な形をとらない場合でも、戦争期の詩人たちにはっきりとした表現上の変質をもたらした」

 いまわれわれが考えなければならないことが、ここにあるような気がする。

 

 ところで、このまま三好の詩を引かずに終わるのはさびしいので、ひとつ書き写してみたい。これは昭和十九年十二月、手摺りの私家本詩集として刊行された『春の旅人』からの一篇である。

 

 松子(「春の旅人」より)

 

昨日こし松の林に

けふもまた来りてひろふ

松ちちれ籠(こ)にはみてれど

空しただ遠きこころは

 

一人すいむ旅の仮屋(かりや)に

一人焚(た)く松のちちれ火

赤あかと飯(いひ)かしぐ間も

空しただ遠きこころは

 

ものなべてゆくへは知らず

赤あかともゆるちちれ火 

澳(おき)となり尉(じよう)となりゆく

ものなべてゆくへは知らず

 

海のこゑ枕にききて

うたたねの夢は宮居の

王ならね廊か渡らむ

海のこゑ枕にききて

 

                  (2017.8.6)

聴無庵日乗15

キキョウ

 この『あの頃、あの詩を』というアンソロジーは、「昭和三〇年代の中学国語教科書に載った詩という大前提」のもとに編まれたもので4つのパートからなっているのだが、パート1には宮沢賢治、高村光太郎、北原白秋、三好達治、島崎藤村という5人の詩人の詩が収められている。賢治、光太郎に続いて、今回は北原白秋だが、取り上げられているのは、「落葉松(からまつ)」「薔薇二曲」「からたちの花」の3篇である。このなかでは、「からたちの花」も捨てがたいが、ここはやはり「落葉松」でいきたい。

 

 落葉松(からまつ)  北原白秋

 

   一

からまつの林を過ぎて、

からまつをしみじみと見き。

からまつはさびしかりけり。

たびゆくはさびしかりけり。

   二

からまつの林を出でて、

からまつの林に入りぬ。

からまつの林に入りて、

また細く道はつづけり。

   三

からまつの林の奥も

わが通る道はありけり。

霧雨のかかる道なり。

山風のかよふ道なり。

   四

からまつの林の道は、

われのみか、ひともかよひぬ。

ほそぼそと通ふ道なり。

さびさびといそぐ道なり。

   五

からまつの林を過ぎて、

ゆゑしらず歩みひそめつ。

からまつはさびしかりけり、

からまつとささやきにけり。

   六

からまつの林を出でて、

浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。

浅間嶺にけぶり立つ見つ。

からまつのまたそのうへに。

   七

からまつの林の雨は

さびしけどいよよしづけし。

かんこ鳥鳴けるのみなる。

からまつの濡るるのみなる。

   八

世の中よ、あはれなりけり。

常なれどうれしかりけり。

山川に山がはの音、

からまつにからまつのかぜ。

 

 これはもうなんの説明もいらないだろう。書きたいことがないわけではない。でも、いまは、一行一行、ゆっくりと、味わうように、ただ読んでいたい。驚くのは、いま、この2017年の暑い夏のなかで読んでいても、少しも古さを感じさせないことだ。(2017.7.19

聴無庵日乗14

クリスマスローズ

 宮澤賢治の後に置かれているのは、高村光太郎の詩六篇である。参考までに記すと、「道程」「冬が来た」「山からの贈物」「少年に与ふ」「山のひろば」「牛」の六篇である(最初の詩集『道程』から3篇、最後の詩集『典型』から2篇)。冒頭の「道程」は、宮澤賢治の「(雨ニモマケズ)」と同様、いかにも教科書向きな詩である。「未来への希望に輝いていた」時代のツァイト・ガイストが「生のままで保存されているような気がした」と、編者の鹿島茂氏が云うとおりであるが、さて、いま「道程」という詩とあらためて向かい合ってみて、われわれはなにを思うだろう。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という二行の見事さにうなりつつも、いま「僕の前に道はない」と肯定的に語ることはできるのかと思わないわけにはいかない。上記6篇から、いま僕が取り上げるのは次の詩である。

 

 冬が来た  高村光太郎

 

きつぱりと冬が来た

八つ手の白い花も消え

公孫樹(いてふ)の木も箒(はうき)になつた

 

きりきりともみ込むやうな冬が来た

人にいやがられる冬

草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た

 

冬よ

僕に来い、僕に来い

僕は冬の力、冬は僕の餌食(ゑじき)だ

 

しみ透れ、つきぬけ

火事を出せ、雪で埋めろ

刃物のやうな冬が来た

 

 この詩も一見教科書向きであるが、それだけでは片づけられないものをいまもなお秘めているように思われる。僕はここで、高村光太郎にとって、「冬」とはなんであったのかと考える誘惑に逆らうことができない。高村光太郎は「冬」の詩をいくつか書いているが、「冬の言葉」という詩の最終連は、「冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、/一生を棒にふつて人生に関与せよと。」という激しいものである。詩集『典型』の冒頭にも「冬」の詩が置かれている。

 

 雪白く積めり  高村光太郎

 

雪白く積めり。

雪林間の路をうづめて平らかなり。

ふめば膝を没して更にふかく

その雪うすら日をあびて燐光を発す。

燐光あをくひかりて不知火(しらぬひ)に似たり。

路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき

松林の奥ほのかにけぶる。

十歩にして息をやすめ

二十歩にして雪中に坐す。

風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り

万境人をして詩を吐かしむ。

早池峰(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども

わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何(いか)にせん。

わづかに杉の枯葉をひろひて

今夕の炉辺に一椀の雑炊を暖めんとす。

敗れたるもの卻(かへつ)て心平らかにして

燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。

美しくしてつひにとらへ難きなり。

 

 この詩は、高村光太郎が昭和二十年、花巻の山小屋に移ってから書かれたものだが、これを読んで思い出すものがふたつある。ひとつは、「満目蕭条の美」という文章である。これは昭和七年、智恵子が自殺未遂をした年に書かれた文章であるが、「冬の季節ほど私に底知れぬ力と、光をつつんだ美しさとを感じさせるものはない」「私はその満目蕭条たる風景にこそ実にいきいきした生活力を感じ、心がうたれ、はげまされ、限りない自然の美を見る」と書かれている。

 いまひとつは、道元のことばである。

 

 人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫漫は大地なり、大地は雪漫漫なり。雪漫漫にあらざれば、尽界に大地あらざるなり。(『正法眼蔵』「梅花」)

 (人界と天界とにはものの見方に異なるところがあろうと、凡聖の情に隔たりがあろうとも、雪漫々たる大地には見方が別れることはない。大地はみな雪漫々である。大地が雪漫々と観想されないならば全世界に大地はないのである。/石井恭二訳)

 

 道元が京都・深草から越前の山奥に移って見たものと、光太郎が東京・駒込のアトリエから花巻の山奥に移って見たものは、果たして、同じものであっただろうか。この「雪白く積めり」という詩を読んでいると、考えなくてはならないことが次から次へと去来する。(2017.7.10

聴無庵日乗13

 『あの頃、あの詩を』の冒頭に置かれたのは、次の詩である。

 

 (雨ニモ負ケズ) 宮沢賢治

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラツテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジヨウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ陰ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ツテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ツテコハガラナクテモイイトイヒ

北ニケンクワヤソシヨウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

 この、あまりにもよく知られた詩について、いまさら、いったいなにを云えるというのだろう……。以下は、したがって、メモのようなものである。

 ところで、この詩と向かい合うとき、いつも思うのは、そもそも、これは「詩」なのだろうか……ということである。いま書き写していても、なにやら写経しているような気分になる。この述志的なことば、祈りのようなことばにどうしても異和を覚えてしまうのだ。詩とはなにか、ということで、いま僕が考えているのは、美しいものへの渇仰、あるいは、せつなさへの愛惜というものである。これは洋の東西を問わず、すぐれた詩にはみいだされるもので、あのランボオの「永遠」という詩からしてそうである。こういう考えをもつ者からすると、詩は述志ではない、述志は詩ではない、ということになる。では、この、(雨ニモマケズ)は「詩」ではないと断じることができるのかといえば、う〜むと絶句せざるをえないのもほんとうのところである。いまも書き写していて思ったのだが、なるほど写経しているような気分を覚えつつも、この詩句から伝わってくる身体の波動のようなものを感じないわけにはいかないのである。その波動とは、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」ながら、「サウイフモノニ」に向かう者が避けることができないもの(せつなさ)を含意しているものといえばいいのだろうか。谷川徹三氏が、この(雨ニモマケズ)を、「この詩でない詩、そして同時に詩の中の詩であるこの詩」と語ったことばをあらためて反芻するばかりである。(2017.7.1

聴無庵日乗12

夏ハゼとカーネーション

 青空  城左門

 

 よく晴れた空だなあ

 どこにも雲一つない

 高く 高く

 広く 広く

 限りなく ああ 大きな青空!

 

 そうだ こういう世界があったのだ

 一つも曇りのない

 明かるい 高い

 美しい 広々とした

 限りなく ああ 大きな世界が……

 

 よく晴れた空だなあ

 どこにも雲一つない

 自分が小さくなる

 そして 大きくなる!

 限りなく ああ 大きな青空

 

 草野天平の「秋」とともに取り上げた城左門の「青空」をあらためて読んでみよう。草野天平の「さうか/これが秋なのか」を認識のことばと云うならば、城左門の「そうだ こういう世界があったのだ」は発見のことばと云うことができるだろう。ただ、この「発見」は、単純なそれではない。この詩のポイントは、「自分が小さくなる/そして 大きくなる!」の二行にあると思う。つまり、「限りなく」「大きな青空」と対峙したとき、青空と隔絶したおのれの「小ささ」に気がつくと同時に、青空と一体化している「大きい」おのれに気がつく。これは実際に大地を背にして、目の前の青空を見上げたことがある者ならば、だれにも覚えがあることだろう。この発見が、「そうだ こういう世界があったのだ」ということばを生んだのだ。

 ところで、『あの頃、あの詩を』には、「青空」のほかにも、「朝」とか「太陽」「春」など、明るい希望を象徴したことばがよく出てくる。この「明るい希望」が失われたとき、その「共同幻想」の表現である詩も過去の遺物となったのではないか、と編者の鹿島茂氏は「あとがき」で書いている。それはいつごろのことであったかと考えると、一九八〇年代中盤から一九八〇年代末にかけてのことがあらためて思い返されるのであるが、これはいまだから云えることであり、当時はなにも考えずにただ流されるままに生きていたというのが現実だろう。そのあたりも意識しつつ、さらに詩を読んでいきたいと思う。(2017.6.21)

聴無庵日乗11

マツバギク

 中桐雅夫訳による、オーデンの「一九三九年九月一日」という詩を読んでいたら、訳稿が二種類あることに気がついた。長い詩なので、冒頭の5行だけ書き写してみる。

 

 ぼくは五十二番街の安酒場にすわっていた、

 確信もなく

 心配しながら、

 低劣で不正な十年間のために

 人のいい希望も消えているから。

       (1967年刊、『詩の本』Ⅲ(筑摩書房)から)

 

 五十二番街の、とある安酒場、

 そこにすわっているぼくは

 低劣で不正直な十年間が

 不安で心配で、

 人のいい希望も消えていくのだ。 

       (1969年刊、世界詩人全集19(新潮社)から)

 

 ところで、僕がこの訳詩を読んでいたのは、訳し方の違いが気になったからではない。「人のいい希望」とはなんだろうと考えていたのだ。原詩にあたってみると、As the clever hopes expireという一行があった。the clever hopes、すなわち「人のいい希望」か……。

 しかし、冒頭の、I sit in one of the divesOn Fifty-second Streetという二行を、「ぼくは五十二番街の安酒場にすわっていた、」と訳すか、「五十二番街の、とある安酒場、/そこにすわっているぼくは」と訳すか、ということについても気にならないことはない。

 そのとき僕の念頭にあったのは、中桐雅夫の次のことばであった。「外国の詩を読む場合、原語で読むか、邦訳で読むかという問題がある。もちろん、原語で読めるに越したことはないが、原語でなければいけないというのは極端である。(略)わたしはあらゆる外国の詩について、邦訳がないより、あった方がず  っと、わが国の詩人および一般読者に、いろいろな点で有益であると信じている」。中桐雅夫が、オーデンの「一九三九年九月一日」の訳詩を最初に試みたのはいつであったのかわからないが、そのとき、「一九三九年九月一日」を書いたオーデンと「一九三九年九月一日」を訳す自分とを重ねながら、どのように訳すか考えていたにちがいない。この冒頭の5行を読んだだけで、そのときの訳者(詩人)の息遣いが聞こえてくる。そして、ここにはたしかに詩への入口がある。そう思われた。

 

 これからしばらく、『あの頃、あの詩を』(鹿島茂編)に掲載された詩を読みながら書いていくことにしたのだが、それだけでは一本調子になるので、時々息抜きをしながら書き継いでいこうと思った。そして今回は、このところ中桐雅夫の詩や訳詩、散文(「lost generationの告白」など)を読んでいたので、こんな文章になった。(2017.6.15   

聴無庵日乗10

野に咲く花々(クリックすると拡大されます)

(承前)

 

 秋  草野天平

 

さうか

これが秋なのか

だれもゐない寺の庭に

銀杏の葉は散つてゐる

 

 この詩を読んで思いだされるのは、室生犀星の「春の寺」と、藤原敏行の歌である。犀星の詩については、いまは措くとして(といっても、この詩を読むと、どうしても犀星の詩が思いだされる。そのとき思うのは春や秋のことではなくて、「寺」のことであるのだが)、藤原敏行の「あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」はよく知られた歌なので、いまさら云うことはなにもないのだが、この歌の要諦が驚きにあるとすれば、草野天平のそれは認識にあるといえるだろう。

 「昔、東洋と西洋は、或ひは一つのものだつたかも知れない。恐らくはさういふものだつたやうな気がする。この分裂は本当は詩ではないのだ。肉体と精神が別々になるといふことは成長の過程であつて、誰一人文句をいふことは出来ないが、然しこの矛盾は決していい気持ちのものではなく、いい気持ちでないからこそ詩ではないのだ。」(草野天平)

 天平が詩をどのように考えていたか、見えてくるようなことばだ。

「だれもゐない寺の庭に/銀杏の葉は散つてゐる」のを見たとき、詩人は、秋のなんたるかを認識したのだ。「さうか/これが秋なのか」。それは、例えば「凋落」という一語で片づけられるものではなかっただろう。つまり、そのとき、「詩人は何時もかうして天上と地上とそして人間世界を観、確かに立ちながら、全体を一にし、この一を完全な相とする為に歩」いていたのだ。                    (2017.5.30)

聴無庵日乗09

Sさんからの贈り物であるメガネケース

 どこから始めるか。——思えば、「詩の雑誌midnight press」の休刊以来、考えてきたことはけっきょくそういうことであった。そして、ようやく、やっと、それが見えてきたような気がする。それはなにか。かんたんに云えば、原点に返るということに尽きるだろう。だが、それはいかに、ということになれば、かんたんではなくなる。数日前、そういえばと、いつものように本棚を探し始めて、鹿島茂編『あの頃、あの詩を』という本を取り出して読み始めた。これは、編者によれば、「広い意味での団塊の世代(昭和二〇年から昭和二六年生まれ)が中学校時代の三年間に国語教科書で読んだ詩を集大成したアンソロジー」であるという。そして、「軽井沢のホテルに三日三晩籠もって、」「詩を片端から読ん」だ結果、「団塊の世代が教科書で読んだ詩は、とりわけ中学校の教科書の詩は、(教科書の)編者によって特殊なドライブがかかっていることが」わかった。「そのドライブは、ある種の「時代精神」(ツァイト・ガイスト)」のなせるわざ」であり、「つまり、昭和三〇年代という「未来への希望に輝いていた」時代のツァイト・ガイストが生のままで保存されているような気がした」と鹿島茂氏は書いている。上に引用した鹿島茂氏のことばは、「どこから始めるか」と考えていた迂生の気分にシンクロした。つまりそれは、私にとって、詩とはなんであったかを考えること、それはすなわち詩が「希望」でありえた時代について考えるということでもあるのだが、詩の現在の先に行こうとするならば避けては通れない道であると思われたのである。そして、そのとき、通俗に分け入ることも辞さないことが要求されるだろう。この「通俗」については、おいおいと明らかにされていくだろうから、いまは措く。とにかく始めてみよう。

 もとより、どこから始めてもいいのだが、『あの頃、あの詩を』というアンソロジーの229ページには次のような詩が置かれている。

 

 秋  草野天平

 

さうか

これが秋なのか

だれもゐない寺の庭に

銀杏の葉は散つてゐる

 

 ひとは、この詩を読んで、どんなことを思うだろう。

 この「秋」が置かれたページの少し前に、城左門の「青空」という詩が置かれていた。

 

  青空  城左門

 

 よく晴れた空だなあ

 どこにも雲一つない

 高く 高く

 広く 広く

 限りなく ああ 大きな青空!

 

 そうだ こういう世界があったのだ

 一つも曇りのない

 明かるい 高い

 美しい 広々とした

 限りなく ああ 大きな世界が……

 

 よく晴れた空だなあ

 どこにも雲一つない

 自分が小さくなる

 そして 大きくなる!

 限りなく ああ 大きな青空

 

 この二篇の詩に立ち止まったのは、いうまでもなく、「さうか/これが秋なのか」「そうだ こういう世界があったのだ」という措辞に惹かれたからにほかならない。(この項、つづく)                    (2017.5.22

 

聴無庵日乗08

 このところ、ソニー・クラークのSONNY CLARK TRIOをよく聴いている。冒頭のBE-BOPの胸のすくような演奏がすばらしく、繰り返し聴いてあきない。そして5曲目のSOFTLY AS IN A MORNING SUNRISEの完璧。ソニー・クラークのピアノ、ポール・チェンバーズのベース、フィリー・ジョー・ジョーンズのドラムスの三位一体のプレイを聴いていると、もうことばはいらなくなる。

 今日はソニー・クラークを聴きながら、小野十三郎の『詩論+続詩論+想像力』を読んでいた。この『詩論』は、著者によれば、「戦争中のつれづれに読んだ本をめぐるわたしのノートを無秩序、無整理のままに放りだしたようなもの」らしいが、著者の思考の跡を読むことができるもので、吉本隆明の「詩とはなにか」、谷川俊太郎の「詩人とコスモス」などとともに、いつでも手に取れるところに置いている。よく知られている「歌と逆に歌に」ということばは、詩論98に現われるが、そこでは「歌と逆に。歌に。」と記されている。これが本来の表記であったのだろうか。「逆に」の後に置かれた句点に、安易な連帯にはなびかないという著者の強靭な精神が感じられる。今日は、詩論181が迂生の目をとらえた。

 「詩についての小感——「詩を求める心が精神の弛緩を意味している。それにも拘らず精神の昂揚という外観を示している。」(金子光晴)」

                       (2017.5.3

聴無庵日乗07

 このたび中村剛彦が体調ほかの諸事情で副編集長を退くことになった。これまでミッドナイト・プレスのホームページの制作をはじめとして諸活動に尽力してきてくれた中村が去ることは残念だが、これからについて考えるところがあったのだろう。井上輝夫さんがいなければ、中村剛彦とも出会うことはなかったことを考えると、いろいろと思うところはあるが、いまはお互い前を向いていきたい。中村さん、ありがとうございました。このところ中村さんは身体の不調が続きましたが、くれぐれもお身体をお大事にされますように。まあ、これからも池袋で、あるいは横浜で、時々は酒を飲みましょう。

 という次第で、これからは迂生がホームページを運営することになった。幸い、迂生でもなんとか自力で運営できるようなシステムを中村がつくってくれたので、これから少しずつ勉強してホームページを活性化していきたいと思う。

 それにしても、この真っ白なトップページはいい。すぐに思い出したのは、ビートルズの通称“ホワイトアルバム”(公式のタイトルは“The Beatles”)のジャケットである。真っ白な地にThe Beatlesというタイトルが空押しされていたジャケットは新鮮かつ意味深であった。このアルバムが、ビートルズのディスコグラフィーにおいてどのように評価されているのか知らないが、肯定的な評価はあまり聞いたことがないような気がする。いま久しぶりにターンテーブルにのせたが、冒頭のBack in the U.S.S.R.からイカしていて、あれこれしゃべりたくなる。それはともかく、数日前、岩波の「図書」を読んでいたら、「今、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは訳詩をいっさい認めないのだそうだ」と池澤夏樹が書いていた。その真相は知るべくもないが、「ウクライナの女の子たちにはまいったよ/西洋なんてお呼びじゃないのさ/モスクワの女の子たちときたら/「わが心のジョージア」を大声で歌わせるのさ」なんてあたりは、チャック・ベリーを思い出させる。ジョンいわく、「全部ポールのさ。ぼくはこの曲で6弦ベースを弾いている」。Rubber SoulからRevolverSgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Bandと聴いてくれば、この“ホワイトアルバム”の理由もわかろうというものだ。

 この真っ白なトップページをクリックすると、空を飛ぶ孤鳥の姿が目に沁みる。思い出すのは、かの牧水のうたか。

 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

                      (2017.4.29)

聴無庵日乗06

 Mr.Sことスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが221日亡くなった。享年93歳。昨日、今日と、FMで追悼番組を聴いたが、今朝聴いたショスタコーヴィチの第五交響曲第二楽章は、ショスタコーヴィチと向かい合う若き日のスクロヴァチェフスキのテンションがリアルに伝わってくる演奏だった。いまでもザールブリュッケン放送交響楽団とのベートーヴェン第一交響曲を時々聴くことがある。聴くたびに、ベートーヴェンを再発見する。そんな演奏だ。

 

 

 詩の〈現在〉は、いま、ここにはない。そう考えることで、前に進めることもあるだろう。

 

 

偶成  ポオル・ヴェルレヱン(永井荷風訳)

 

空は屋根のかなたに

  かくも静かに かくも青し。

樹は屋根のかなたに

  青き葉をゆする。

 

打仰ぐ空高く御寺の鐘は

  やはらかに鳴る。

打仰ぐ樹の上に鳥は

  かなしく歌ふ。

 

あゝ神よ。質朴なる人生は 

  かしこなりけり。

かの平和なる物のひびきは

  街より来る。

 

君、過ぎし日に 何をかなせし。

  君今こゝに唯だ嘆く。

語れや、君。そも若き折

  なにをかなせし。

 

                       (2017.3.5)

聴無庵日乗05

極楽鳥花、サンシュ、クロメヤナギ、雪柳、アレカヤシ、ネコヤナギ

 詩について、書こうとすると、詩それ自体から遠ざかっていく。いま、詩についてよく考えるのは、送られてきた詩誌や詩集を読んでいるときだと思う。目の前に具体的に詩があるので、逃げる(?)ことができない。上昇と下降の像が交錯するとき、詩それ自体と相対している。

 

 

蜂  ポール・ヴァレリイ(堀口大學訳)

 

褐色(かちいろ)の蜂よ、汝(な)が針

かくも鋭く、かくも毒あるも

わが胸の美しき花籠を

われは思ひのダンテルをもて被ひたるのみ。

 

その上に「戀」の來て死にまた眠る

美しき瓢(ひさご)に似たる乳房をば刺せよ、蜂、

かくて紅(くれなゐ)のわれをして。いささかは、

圓(まろ)みある反(そむ)きがちなる肉の面(おもて)に滲(にじ)ましめよ!

 

われは速(すみやか)なる苦痛を希ふ

あらはに激しき痛み

故知らぬ悩みよりは堪へやすし!

 

わが感覚よ、痛ましきこの金色(こんじき)の針により

汝(なんじ)目さめてあれ、これなくば

戀は死に、戀は眠らんに!

 

                    (2017.2.15

聴無庵日乗04

サンシュ、雪柳、アルストロメリア

 このところ、よく散歩している。というか、一週間ほど前、思いたって、毎日散歩するようにした。歩いていると、一日一日、日が長くなっていくのが実感される。このところ、「古事記」を読んでいる。意味がとりやすいのでつい翻訳を読んでしまうが、やはり原文で読まないと真実はつかめないだろうということで、原文と翻訳とを交互に読みながらの、遅々たる時間である。読んでいるとき、アタマをよぎっていくのは、〈起源〉へのノスタルジーであろうか。

 

 まだよまぬ詩おほしと霜にめざめけり  田中裕明

 

                       (2017.2.6)

聴無庵日乗03

2017年1月12日、富士宮

 正月も十日を過ぎれば、いや、過ぎなくても、いつもと変わらぬ時間のなかにいるのだが、それでもこの一月は、昨年秋からの生活の変化とあいまって、なにやら新しい、未体験の時間を生き始めたような実感を覚えている。

 ところで、年が明けてから、「3.11以後……」と始まる文章をいくつか目にした。2011311日から6年が経つが、次第にボディブロウのようなものがきているのかもしれない。最近は書店の人文書コーナーに行っても、買ってみたいという気持ちにさせる本が少ない。いま読んでおもしろいのは小説である。きっかけは、野上弥生子の『秀吉と利休』であった。小説とはなにか。文学とはなにか。それはけっきょく人間とはなにかを考えることであった。

 数日前、ふとしたことから、本棚にあった村上龍の『空港にて』という短編集を手にとった。村上龍の短編小説はどれもおもしろいが、この『空港にて』も、小説家・村上龍の力量が遺憾なく発揮されていた。

 村上龍は、その「あとがき」で書いている。「社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に絶望と退廃があふれかえっている。強力に近代化が推し進められていたころは、そのネガティブな側面を描くことが文学の使命だった。(略)近代化が終焉して久しい時代に、そんな手法とテーマの小説はもう必要ではない」

 もとより、これは近代文学史の一面を、作家である村上龍が2003年当時に語ったものであり、いまの僕の問題意識と直接重なるところはあまりないのだが、いま詩が直面しているものと小説のそれとが、どのように同じで、どのように違うのか、考えるべきことはまだあると思わせた。

 

 この「聴無庵日乗」を再開するに際して、「気の向くままに、一篇の詩を書き写していきたいと思う」と書いたが、日記(?)を書きながら「気の向くままに」一篇の詩を引用することなど、かんたんにできることではないと、すぐに気がつくべきであったと反省している。

 

 他の者に、魂について語ろうとすれば

 天使の舌が必要になる。しかしそうしようと思っても、

 ただ言葉の貧困を感じるだけだ。

 神聖な事柄を卑小な言葉で語り、

 そうすることで卑小なものにしてしまうことに

 おそれおののく。語ることが罪を犯すことになる。

   (ヘーゲル「エレウシス——ヘルダーリンへ」(高橋巖訳)より)

 

                                                  (2017.1.16

聴無庵日乗02

若松、行李柳、蠟梅、ドラセナなど

 生活の変化で、これまでのように電車で長編小説の類を読むことができなくなった。これからはそのときそのときに応じて読むしかないだろうということで、昨夜バッグに入れたのは、斎藤茂吉の『万葉秀歌』と『芥川龍之介全集』。芥川は、昭和29年に岩波書店から出版された、表紙が布クロスの新書判全集。これまで何度か読んできたが、次から次へと忘れていくので、読み返すたびに新たな発見がある。

 と、こういう雑文めいたものも時折交えて書いていこうかと思う。

 

 

戲れに(1)  芥川龍之介

 

汝と住むべくは下町の

水どろは靑き溝づたひ

汝が洗湯の往き来には

晝もなきづる蚊を聞かん

 

戲れに(2)

 

汝と住むべくは下町の

晝は寂しき露路の奥

古簾垂れたる窓の上に

鉢の雁皮も花さかむ

 

                      (2017.1.4

あけましておめでとうございます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2017年1月1日       ミッドナイト・プレス 岡田幸文

聴無庵日乗01

 いま、詩について書こうとしたら、どこから始めたらいいのだろう。かつて詩の入門書の類が書店に並べられていた時代があったが、いまは、そのような入門書も見られなくなったし、そもそも、いま詩の「入門」書が求められているのかどうかもはなはだあやしいところである。

 先ほどまで、僕は詩を書いていた。いや、詩を書こうとしていた。だが、そのときすでに、僕は途方に暮れていた。その、途方に暮れていることが、この文章を書くことを駆動させているのかもしれない。

 詩とはなんだろう? この問いを措いて、いまの僕には、ほかに惹かれるものはない。「まさに詩だけが、人間を回復できるのだ。」(ジュゼッペ・ウンガレッティ)

 ところで、いま詩はどのように語られているのだろう。思いついて書店の詩書コーナーをのぞいても、自分が知りたいことについて書かれた本をみつけることはむずかしい。また、最近はどんな詩集が出ているのかと書評記事など読むが、これがどうにもおもしろくない。取り上げられている作品よりも、それを取り上げている書き手(「詩人」)のほうが前面に出てきているからだ。そこに、「詩の現在」はない。あるのは、「詩人(たち)の現在」ばかりだ。

 詩とはなにか? それを徹底的に考えていかなくてはならないと思った。そのとき、なにを材料にすればいいのだろう。いかなる材料にもたよらず、独力で考え抜くという道もあるかもしれない。だが、それは僕の能力を超えている。やはり、なにかひとつとっかかりのようなものがほしい。そのとき、いま書かれている詩を材料にすることはむずかしいと思われた。詩とはなにかと考えるとき、対峙すべき「詩の現在」はそこにはないと思われた。「詩の現在」とはなにか。もとより、それは詩の現状を云うのではない。一篇の詩が不可避的に包含せざるをえない桎梏葛藤のありようを云うのである。そして、それを探るには、これまでどのように詩が書かれてきたのか、その一篇一篇をあらためて読み直していくしかない。そう思ったのは、最近刊行された、池澤夏樹編『日本文学全集』第29巻「近現代詩歌」で、池澤夏樹選による「詩」のアンソロジーを読んでいたとき、詩の歴史とはいったいなんなのか、とあらためて考えさせられたからである。これから書き継いでいこうと思っているのは、そのあたりのことである。日本の近現代詩がどこから始まったのか、もう一度よく考えてみたい。そこに、詩とはなにかを解く鍵が秘められているような気がしている。

 

 「聴無庵日乗」——この慣れ親しんだタイトルでまた書いていくことにした。それとともに、気の向くままに、一篇の詩を書き写していきたいと思う。第一回は中原中也の「寒い夜の自我像」にした。

 

 

寒い夜の自我像  中原中也

 

きらびやかでもないけれど

この一本の手綱をはなさず

この陰暗の地域を過ぎる!

その志明らかなれば

冬の夜を我は嘆かず

人々の憔懆のみの愁しみや

憧れに引廻される女等の鼻唄を

わが瑣細なる罰と感じ

そが、わが皮膚を刺すにまかす。

 

蹌踉めくままに静もりを保ち、

聊かは儀文めいた心地をもつて

われはわが怠惰を諫める

寒月の下を往きながら。

 

陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、

わが魂の願ふことであつた!

 

                     (2016.12.25)