倉田良成の「古今詩語」ファイル

 7「梁塵秘抄 我が身さへこそ動がるれ」

 

 中世のころよりその存在のみが知られていて、テキストの伝わらない時代が長かった『梁塵秘抄』の伝本は、明治の末に発見されたが、それは全編ではなく巻一と巻二、および「口伝集」六巻のみである。このうち巻二にもっとも豊富な質・量の歌謡の集中が見られる。同巻はぶあつい釈教・法文歌のパートからはじまり、神歌、霊験所歌、雑とつづくけれど、ここはかなり周到な編集の手が加わっているようである。

 さてこういう具合に分かたれたパートのうち、一般になんとなく避けられてしまうのが法文歌のたぐいであり、つぎに神歌、そしてもっとも好んで取り上げられるのが雑の、今昔物語風に言えば本朝世俗の部であろう。次のごときものが面白いものとしてよく引かれるし、当時の世俗風俗を知る上で貴重な証言とされる。

 

三三五 思ひは陸奥(みちのく)に、恋は駿河に通ふ也、見初めざりせばなかなかに、空に忘れて已(や)みなまし。

三四二 美女(びんでう)打見れば、一本葛(ひともとかづら)ともなりなばやとぞ思ふ、本より末まで縒らればや、斬るとも刻むとも、離れ難きはわが宿世(すくせ)。

三九四 女の盛りなるは、十四五六歳廿三四とか、三十四五にし成りぬれば、紅葉の下葉に異ならず。

四六三 我は思ひ人は退(の)け引く是(これ)や此(この)、波高や荒磯の、鮑の貝の片思なる。

四七三 東(あづま)より昨日来たれば妻(め)も持たず、此の着たる紺の狩襖(かりあを)に女(むすめ)換へ給(た)べ。

  

このうちでもっとも名高く、ことわざ風の位置にまで据えられている歌謡は以下であることは、たぶん異論のないところと思う。

 

三五九 遊びをせんとや生(うま)れけむ、戯れせんとや生(むま)れけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。

 

 西郷信綱氏などは、その『日本古代文学史』において、「遊び」という概念を、それまでの、春をひさぐ意味での「アソビ」で捉えた、遊ぶ子供の清らかさに引き比べた我が身(のケガレ)を悔いる、という観点から大きく転回させて、「遊び」とはむしろ純粋な「play」、たしか遊芸のこともその中に込められていたような気がするが、そういったものとして無垢な子供の遊び戯れる声のうちに自分を呼びいざなう声を聞き、身がゆるぐ、といった解釈をされていたような記憶がある。

 しかるに、この歌謡の主格がどのようなもの(ひと)かは重要なところだろう。西郷氏は先学の考えを引き継いで、それをアソビメ、白拍子のたぐいと考えておられたようだが、この歌謡集のじっさいの歌唱を誰が担ったかという点を鑑みれば、この線は概ね動かないのではないか。芸能の世界においては、歌い物語る者がそのまま歌われ物語られている当の主人公と二重写しで見られることは、むしろごく普通の現象である。この歌謡を担った芸能者たちがどのようなものであったか、精しくは知られないものの、『梁塵秘抄』の世界が、後世に見られる芸能の源流と考えることはできて、そういうことからいえばこの三五九番の「我が身」と現じているものの姿を、仄かながらかいま見る思いである。

 とするなら、「遊び」というものをどう捉えるか、今一度考えておきたい。『梁塵秘抄』中には、実はまことに豊富な「遊び」「遊ぶ」の用例が見られるのだ。三五九番と同質の「遊び」の例には、たとえばこんなようなものを引くことができる。

 

三〇九 嵯峨野の饗宴は、鵜舟筏師流れ紅葉、山蔭響かす箏のこと、浄土の遊(あそび)に異ならず。


ここに三五九番の主格たる白拍子様の存在を置いて眺めれば、まことに王朝末期の宴にふさわしい景色が現れるだろう。「遊び」は、ここでは遊芸をふくむ宴席で、屋外でおこなわれる、後世のたとえば江戸期なら川遊びなどようのものでもあろうか。ただ、これが「浄土の遊」であるという点がやや注目される。

 「浄土の遊」は、次のごとき光景ででもあろうか、以下に引く。

 

三一八 海には万劫亀遊ぶ、蓬莱方丈瀛洲(えいしう)、この三つの山をぞ戴ける、巌に練ずる亀の齢をば、譲る譲る君に皆譲る。

三一九 海には万劫亀遊ぶ、蓬莱山をや戴ける、仙人童(わらは)を鶴にのせて、太子を迎へて遊ばばや。

三二一 須彌を遥かに照らす月、蓮(はちす)の池にぞ宿るめる、ほうくわう渚に寄る亀は、劫を経てこそ遊ぶなれ。

 

明治以前にはつねのことながら、仏門の語である浄土は神仙によって忌まれる対象ではないし、互いを排斥するものでもない。同じく「聖」saintに属する対象として考えられていて、「遊び」はそのうちに現ずるのである。

 ところで、こういった歌謡のおこなわれる宴席に呼ばれた白拍子たちなどは、娼妓や酌婦のたぐいというよりは、いくぶんか以下のわざをもおこなう者たちではなかったか。

 

二四六 金(かね)の御嶽(みたけ)にある巫女の、打つ鼓、打上げ打下し面白や、我等も参らばや、ていとんとうとも響き鳴れ鳴れ、打つ鼓、いかに打てばか此の音の絶えせざるらむ。


むろん白拍子と巫女とは異なるが、これらのわざは「遊び」の内実を、多少なりとも窺わせるものであるような気がする。打ち響く鼓の調子拍子に、むしろ遊芸の持つものと同質の「聖」が立ち現れるようである。

 「遊び」とは、ここからは単なるplayに留まらない。語の用例として、たとえば神がヒトの前に現れて、何かのわざをおこなうことも「遊ぶ」と言えると思う。たとえば、「神遊び」という言葉の直接に意味するところは、「神前で歌舞を奏すること。またその歌舞」(大辞林)ということだが、それは神に捧げるというよりは、むしろ神自らの振る舞い、わざでもあるような気がする。ヒトが奏するのは幾分かその譬喩やモドキの意味をふくんでいる。さっきも述べたように、演ずるものはその演ずる対象とある意味同一なのである。次のごときはその消息を伝える。すなわち神自らの振る舞いであると同時に、幾分かヒトのわざをも偲ばせるものだろう。


二六九 大しやうたつといふ河原には、大将軍こそ下りたまへ、あつらひ廻り諸共に、下り遊(あそ)うたまへ大将軍。

三二七 武者(むさ)を好まば小やなぐひ、狩を好まば綾藺笠(あやゐがさ)、捲り上げて、梓の真弓を肩にかけ、軍遊(いくさあそび)をよ軍神(いくさがみ)。

 

二六九番の詞章には大分不明なところがあるが、それでも三二七番とともにこれらは最も厳粛で恐るべき神の示現と言うことができよう。歌謡の軽さのうちに「東の山王恐ろしや」(二四三)などとも歌われるのだ。

 これらからひるがえって三五九番の「遊びをせんとや」の歌謡を考えるとき、身がゆるぐ思いを致すことにはある種の示現、神来たって憑依する身体という要素を容れざるを得ない気がする。さきに、西郷氏の所説として「無垢な子供の遊び戯れる声のうちに自分を呼びいざなう声を聞き、身がゆるぐ、といった解釈をされていたような記憶がある」と言ったけれど、巷間に流れるいわゆる「童謡」が、隠れた神意の発露であることは、古代や中古社会の現実でもあった。「我が身さへこそ動がるれ」とは、やはり一つの降臨状態と考えたほうが自然かと思う。(10.5.8)

 

                         (『梁塵秘抄』岩波文庫)

 

 

6「智慧の言葉 I have wasted my life

 

 先日、神田神保町で伊藤博明氏、正津勉氏などをパネラーとした、ジェイムズ・ライト詩篇『カワカマス』(ミッドナイト・プレス刊、2009年)をめぐる小さな集まりがあった。あまり精しくはない欧米詩の中でも、とりわけて昧い米国詩ではあるが(また、その内容を訳でしか知るよしもないが)、訳者で詩人の伊藤氏より恵与されたこの本を読み、私は深い悦びに満たされた。それは、ここに収められた十八篇の詩のすべてにあてはまる、といってよい。なかで、とりわけで『ミネソタ、パインアイランド、ウィリアム・ダフィーの農場で、ハンモックに寝そべって Lying in a Hammock at William Duffy`s Farm in Pine Island, Minnesota』という作品に、勘えるべき多くがあると感じられた。全行を引く。

 

頭の上では 青銅の蝶が

黒い樹の幹にとまって 眠り

緑陰の葉のように 風に吹かれている

谷をくだった 空き家のうしろで

牛の首につけた鐘が この午後に

遠く近く 連なっていく

わたしの右の

二本の松の木にはさまれた 光の野原で

去年の馬たちの 糞が

燃え上がって 黄金の石になる

夕暮れが迫ると わたしは身を沈める

ノスリが一羽 空に身を浮かべて 帰る家を探している

わたしは 一生を むだにしてしまった

 

 末尾三行につき、伊藤博明氏は「ほとんど中国の王維(Wang Wei)を思わせるような自然描写後の突然の独白が心にしみる。しかも、その独白は、そこでとぎれたまま永遠に開かれている。経験の驚きが言葉の驚きである幸福と言ったらいいだろうか」と述べている。最終行「わたしは 一生を むだにしてしまった I have wasted my life.」についてのほぼ間然するところのない解だと思う。これに付け加えるとしたら、伊藤氏も触れている古典中国詩との関連であろう。共に翻訳詩だが、共通和語の富への寄与にも関わる問題だ。

 「突然の独白」以外にも、中国詩を思わせる要素はこの詩を含むジェイムズ・ライトの作品には多々あって、『ミネソタ、パインアイランド、ウィリアム・ダフィーの農場で、ハンモックに寝そべって』というようなタイトルのつけ方は、たとえば李白の『終南山を下り斛斯山人を過ぎりて宿し置酒す』とか、杜甫の『孔巣父の病を謝して江東に帰遊するを送り、兼ねて李白に呈す』などといった類を思わせる。作品の内容とタイトルとの関係が相当に自由というか、緊密でない、といったところが両者相通じているのではないか。これはライトにおいて、かなり自覚的におこなわれたのではないかと私は思う。

 また同じく伊藤氏の言う「自然描写」は、意識のメスを以て鋭く対象を腑分けしてみせるごときではなく、「自然描写」というよりは「自然観照」というにふさわしい奥深さを擁していて、宋画や南画にもかよう中国古典詩の典型的な風景や、ひいては日本の古典詩(彼らにとってはほぼ一義的にHAIKUであろうけれど)を思わせるものがある。

 さて、「わたしは 一生を むだにしてしまった I have wasted my life.」の一句、その「突然の独白」に関して、直ちに連想が及んだのは次の杜牧の詩である。

 

 「歳日 朝より迴(かえ)る」

星河猶(な)お在りて 朝衣を整え

遠く天門を望んで 再拝して帰る

笑って春風に向かう 初めて五十

敢えて言わんや 命を知り 且つ非を知ると

 

 前半の二行は、百官が居並ぶ王宮における歳旦の儀式に参列して、帰ってきたことをいう。星河とは天の川を指す。式典はそういう早朝におこなわれるのである。問題は後半二行であるが、「笑向春風初五十 敢言知命且知非」は次のように訳される。「本日、五十歳となり、春風のなかで笑う。/私のような未熟者には、とうてい口にできないのだ。五十歳になって天命を悟り、さらにまた、四十九年の人生がすべて誤りだったことに気づいたなどと。」(岩波文庫『杜牧詩選』松浦友久・植木久行編訳)。ライト詩の最終行に、この詩の最終行を重ね合わせたい誘惑を私は覚えずにいない。

 注意深く読んでみれば判ることなのだが、詩人にとって「知命且知非」(命を知り 且つ非を知る)は達人の言と見なされている。これは、詩の解釈のポイントとなるところだろう。詩の意を無理やりにあらわすとすれば、恐らく、「人生に意味を求めることはできない、ただ祝福するに足るだけだ」といったところであろうか。「笑って春風に向かう」のだ。この、「笑向春風初五十」(笑って春風に向かう 初めて五十)から、最終行へのかかり方、接続具合は意味的に、ライト詩の「夕暮れが迫ると わたしは身を沈める/ノスリが一羽 空に身を浮かべて 帰る家を探している/わたしは 一生を むだにしてしまった」に重ね合わせられるものがあると私は考える。

 「知命」は『論語』による孔子の言葉であるが、「知非」は『淮南子』の伯玉の言葉によるとされる。この「知命且知非」の一句は、詩人にとって「とうてい口にすることができない」智慧の言葉であって、さっきも無理やりに解を与えたように、決して否定的な文脈のもとで言われているものではないと考える。あんまり言いたくはないが、「敢えて言う」とすればやはり東洋的な思惟に連なるものであることには違いあるまい。淵源をたどれば当然老荘や巫祝の世界に触れてゆく。ライトがそこまで考えていたかどうか分からない。だが、この似通いは指摘しておくべきだと考えた。

 伊藤氏の言うごとく、ライトの独白は、「そこでとぎれたまま永遠に開かれている」のではあるが、中国古典詩とクロスさせてみるとき、いまだ名づけざるものを指し示すメタファーの光と、意外に遠くまで遡及してゆくことが可能な、或る有意味的な水脈が共に現れていて、ジェイムズ・ライトの天上的な詩のゆたかさとなっていることに気づく。そして、それは、読むわれわれの側にも同時にもたらされるゆたかさでもあるのだ。詩を好むものとして、こういう経験をすることが極度に少なくなっている現今は悲しむべきことなのだが。(10.2.11

 

 

(ジェイムズ・ライト詩篇『カワカマス』伊藤博明訳・ミッドナイト・プレス、『杜甫詩選』『杜牧詩選』『唐詩選』以上岩波文庫、中国詩人選7『李白上』岩波書店)

 

5「翻訳について 問余何意棲碧山」

 

 

 答山中人

問余何意棲碧山

笑而不答心自閑

桃花流水杳然去

別有天地非人間

 

 これは李白の詩だが、ふつうに読み下すと次のようになる。いわゆる漢詩では見慣れた表現であろう。

 

 山中の人に答ふ

余に問ふ 何の意ぞ碧山に棲むと

笑ひて答へず 心自(おのづか)ら閑なり

桃花流水杳然(えうぜん)として去る

別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り

 

 この文体は、言うまでもなく所謂文語なるもので、歴史的に日本の共通語表現の主流をなしてきたと言っても過言ではあるまい。公家の日記や公文書、寺社文化、学者や、下って明治期の(男の)文学者なども盛んにこれを使用した。女房言葉や雅語のたぐいは、当時の世間としてはむしろ少数派と言われなければならなかったのである。とはいえ、掲出のこれは、詩の言葉である。文語なのは好んでそうしているわけ、とばかりは言えまい。まず、これは日本語ではない、という基本的な事実がある。一読で判るはずもなく、また一語に凝縮されてある故実・典故のこともあり─であるからして漢詩集を披けばぎっしりと訳注が並んでいるのを見ることになる。同じ詩を現代語訳で読むとどういうことになるのか。中国詩人選集7(武部利男注)の李白・上によればこうである。

どんなつもりで奥山にすむかと人はたずねるが、わたしは笑って答えない。なんともいえないよいきもち。

桃の花びら水に浮き、ずっとはるかに流れ去る。また格別の天地です、人里離れた世界です。

 

 なんだか訳し込みすぎているような、手を抜いているかのような、どっちつかずの感じで、消化不良を起こしたみたいな感覚を覚える。ここに柏木如亭の訳注聯珠詩格というものがある。訳注とあるとおり、訳と注とが一体となった翻訳詩集で、現代口語を用いるわれわれとすれば、はじめ目を驚かすような言葉遣いではあるけれど、馴れるに従ってこれが非常に精妙繊細にして精確な表現であることが分かってくる。同じ詩の訳注聯珠詩格による訳を以下に示す。

 

何意(どういふき)で碧山(やまおく)に棲(すむ)と余(おれ)に問(きく)から

笑而(にこにこもの)で不答(あいさつもせ)ぬぐるみ心が自(しぜん)と閑(ひま)だ

桃の花が流水(ながれ)へちつて杳然(とほく)へ去(いく)ところ

別な天地(せかい)が有て人間(うきよ)とは非(ちがつ)たものさ

 

 漢詩と言うから身近に思えるだけで、本質的に英詩や仏詩を翻訳するのと変わらないと思う。語順も音韻も文法も、和語から見た異質さという点ではまったく同じことだ。ただ和語に対するに圧倒的な存在として中国語があり、その影響下、彼我の見分けがつきがたくなるまで日本共通語が「被曝」しているという事実がある。

 訳注聯珠詩格の「訳」を見ていると、こうした事情の中、自ずから概念や幻想がまとわりついてくる漢語に即いて詩が訳し込まれるのだが、ふと、むしろそうした漢字や観念が邪魔になるとさえ思っている自分にも気がつく。「人間」(じんかん)は字を介さずに、「うきよ」というだけでよいではないか、と。それくらい自由に振る舞っているように見えるのは、何も俗語訳というからばかりではあるまい。訳注聯珠詩格においては、実はほとんど音読みというものが使用されていないのである。漢字などがうるさく思えてくるのも、そうしたからくりがあるせいだとも考えられる。しかしまた俗語とは言い条、その言葉は単なる斜傾地低回的な俗情とは端から違った、天衣無縫なたかさをともなっているのは不思議なことなのだが。

 もう一つ、こんどは杜牧の詩からとる。

 

 

 贈別

多情恰似総無情

唯覚樽前笑不成

蝋燭有心還惜別

替人垂涙到天明

 

 ふつうの読み下し文ではこうである。

 

多情は恰も似たり 総て無情なるに

唯だ覚ゆ 樽前 笑ひの成らざるを

蝋燭 心有りて還(かへ)つて別れを惜しみ

人に替(かは)つて涙を垂れて天明に到る

 

 一読明快なようであるけれど、よくよく考えると一行目の「多情恰似総無情」というのをどうとるか、どう訳すか、ちょっとひと筋の道ではないような気がする。「多情は恰も似たり 総て無情なるに」では、実は何を言っているのか判らない。当然のことだ。これは日本語ではないのだから。では訳したものを見てみなければならない。訳注聯珠詩格の訳ではどうなるか。

 

多情(なさけしり)ほど総無情(みんなやぼ)に恰似(みへる)が

樽前(さけのなか)でも笑不成(まじめでゐる)から唯覚(しれ)る

蝋燭も有心(なさけしり)で還別(やつぱりわかれ)を惜んで

天明(よあけ)に到(なる)まで替人(おれがゝはり)に涙を垂(ながし)てゐたと

らふそくのながれをみたてたのなり

 

 

 「多情」というのはまず浮気で移り気という意ではなく、感じやすく心が深いことと捉えられている。「無情」もそれの対義と考えてよく、感受性鈍く心が表に見えないという点が押さえられている。「多情」を「なさけしり」、「樽前」を「さけのなか」と訳したのは見事で、「笑不成」を「まじめでゐる」としたのと同様、まことに細心大胆な意訳とは言えよう(だが、意訳でない訳などあり得るか?)。傑作なのは最終行で、これは原詩にはないものだ。この詩を(訳詩を)読み進んできて、結局この「らふそくのながれをみたてたのなり」という最終行に至ったとき、よくできた噺を聴いたときみたいな、そんな痛快な肩すかしを食った気がして思わず唸らされてしまう。

 さっき述べた俗語訳のことについて言えば、ひとえに俗語だからハードル低く、それゆえに気易く自由に遊んでいられるというものではない。さっきも言ったけれど、訳注聯珠詩格に見る俗語の、その洒脱さを否定しない香気には否応もないたかさというものが感じられる。そして、そこに酒の香りと脂粉の匂いも幾分か漂うのは、やはり江戸の天地(せかい)というわけであろう。思えばある文化の最高の時期には、この酒と脂粉の香気は必ず出現するものだと言えよう。ここで俎上に載せている李白にせよ、杜牧にせよ、またオマル・ハイヤームを始めとするアラビアの飲酒詩にせよ。そして当然、柏木如亭らがいた(訳注聯珠詩格出版は享和元年=1801年)、江戸のハイヌーンとも言える季節にせよ。

 

 これがわれわれ後生のいる時代では次のように訳し込まれることになる。杜牧詩選(岩波文庫、松浦友久・植木久行編訳)からとる。

 

あまりにも感じやすい心は、かえって冷たい心の表情に似てしまうのであろうか。

別離の宴席で、にこやかに笑おうとしても、顔がこわばるのを感じるばかり。

ろうそくは、意外にも別れを惜しむ、優しい心を持つかのよう。

黙然と向きあう二人に替わって、夜が白みゆくまで、熱い涙を流してくれる。

 

 訳注聯珠詩格との細かな違いは措いておいて、これもすばらしい「訳」だと思う。巧緻繊細なものである点は、訳注聯珠詩格とはまた違ったところに展開していて、これにも私は息を呑む。

 だが……少々肌理が細かすぎはしないか。原詩の持つ物質的とも言える手触りを、平明で温雅な作風である杜牧といえど決して手放してはいないことに注意したい。杜牧詩選の訳はやや線の細みを逸脱して「弱さ」とは映りかねないだろうか。最後は感情を排して原詩の物質感から訳詩を再構成したと思しき如亭訳に、精神の高さ、勁さという点で一歩及ばないものがあるような気がする。(10.2.1)

 

 

(『訳注聯珠詩格』『杜牧詩選』以上岩波文庫、『中国詩人選集7』岩波書店)

 

 


4「歎けとて 月花における西行」 

 

 月花とくれば代名詞みたいにその名が挙げられる西行法師の、その月の歌である百人一首の「歎けとて」の詠は意外に不人気であるようだ。私も、ほかに彼の月の名歌はいくらでもあるだろうに何でよりによってこんな屈折した歌が撰ばれたものかと、長年考えてきたのだが、さいきんそうとも限らないぞと思うようになってきた。現在比較的手軽に入手できる文庫本で、委曲を尽くして格調高さを疑い得ない本である島津忠夫訳注『百人一首』(角川文庫)によって、ちょっとこの歌を見てみたい。

 

歎けとて月やは物をおもはするかこちがほなるわがなみだかな

 

現代語訳・嘆けといって月がもの思いをさせるのであろうか。いやそうではない。それだのに、それを月のせいにして、恋しくなつかしく恨めしくこぼれ落ちるわが涙であることよ。(184頁)

 

 ちなみに新明解古語辞典の現代語訳では、こうである。

 

[月は何も嘆けといって物思いをさせるわけではない、それなのに(月を)見るとそのせいで悲しい恋を思い出させられて、涙が落ちることである]

 

 一首のうちで上の句の反語的な言い掛けが問題なのではない。一首の読みを厄介にしているのはたぶん「かこちがほ」なのだと思う。託ち顔とあてるその言葉は、二様の意味を含んでいて、一つには何かに文字どおりかこつける、ことよせる、口実にするなどの意であり、もう一つは嘆きや恨みを(大声でなく)訴える義がある。どうしてこの二様の義がおなじ言葉の中で分かれているのか、恐らく二つが一つである深い理由が存在するはずであるが、今の私の手には負えない。ただ、西行は明らかにこの二つを一つの言葉のうちに掛詞みたいに使役していて(かこつける・恨み嘆く)、この言葉の読みのいわば匙加減によって、一首がつまらなく見えたり面白く見えたりもするのだろう。

 

 たぶんこれまでこの歌を私につまらなく見せていたのは、恨み、嘆きに重きを置いた解釈や訳だったのではないかと思う。もっと言えば、西行を単なる多情多恨の感じやすい恋愛歌人という肖像で描出する一連の解釈が、私以外にも無数にいる西行好きからこの歌を遠ざけていたのではないか。問題は「我」が恨み嘆いている相手は「誰」であるのか、ないのか、ということではないか。また、その恨み嘆く感情のよってきたるところは何かと。『千載集』恋の部に「月前恋といふ心をよめる」として見えるこの歌の、いわば難解さともかかわってくるのだが、私の考えでは恐らくそれは都にいる(仮託された)女人の誰それについてではない。そのやってきた感情は女人への恨みつらみではない。この歌ばかりではなく、西行の月花、恋の歌は、実はある宗教感情というべきものに深く関係しているのではないかと私は考えているのだ。

 同じ『百人一首』で島津忠夫氏は、大僧正行尊の吉野大峰山中で得た歌、「諸共に哀と思へ山桜花より外に知人(しるひと)もなし」について《定家が『八代抄』(雑上)に、『金葉集』の詞書を変えて、「修行し侍りける時」とし、この歌と「草のいほをなにつゆけしと思ひけむもらぬいはやも袖はぬれけり」の歌を並べているのも、やはり、これらの歌に宗教的な崇高な感覚を味わっていたものであろう。》と述べている(144頁)。山桜の花に「あはれ」を観ずるのも、もらぬいわやに袖を濡らすのも、何と恋情の表現に近いのだろうかと思う。西行の月花の歌をちょっと引いてみても、この感情(崇高な感覚)の側から見た方が鮮明な像をむすぶような気がしてならない。

 

 

かげさえてまことに月のあかきには心も空にうかれてぞすむ

ながむればいなや心の苦しきにいたくなすみそ秋の夜の月

世のうさに一かたならずうかれゆく心さだめよ秋の夜の月

よしの山花をのどかに見ましやはうきがうれしき我が身なりけり

花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける

もろともに我をも具してちりね花うき世をいとふ心ある身ぞ

 

 宗教的感情をいうのなら仏教のそれとばかりは限定されない。役小角や良弁が山中修行中に覚えたであろう「感情」は仏教以前のものを多分に含んでいたであろうし、またそういう心の古くて巨大な堆積がなければ大きな意味での仏法の東漸はありえなかったはずである。西行の、ここに見られる「(心も空に)うかれゆく心」や「うきがうれしき」我が身、花を見て理由もなく苦しくなる心など、それらに意外に近代的な抒情、感性を発見して驚いてみても、何となく空しい気が私にはする。これらは近代的感傷というよりは、むしろ巫祝のトランス状態に近いものがあるのではなかろうか。しばしば忘れられがちな、西行が宗教者であることの側面をもっと重く受け止めるべきかと私は思う。

 無謀を百も承知のうえで現代語訳を試みてみる。以下。

 

 

歎けとて月やは物をおもはするかこちがほなるわがなみだかな

 

試訳・嘆けといって月が人に物思いをさせるということがあろうか。[月に計らいはないのだ]かがやく夜の月にかこつけ誣(し)いるようにしてあふれ出る、わが嘆きの涙よ。

                                                      (10.1.1.)

 

(『百人一首』角川文庫、『山家集』岩波文庫)

 


3「かりにだにやは 歌と笑い」

 

野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ  伊勢物語第百二十三段

 

 この歌は伊勢物語も押し詰まった、さいごのあたりの章段に置かれたもので、しかも贈答・相聞の体裁を取ったやりとりの答歌にあたるという、いわば片はしものであるから、詩語のサンプルとするに適当ではないかもしれない。これとほぼ同じ形のものは古今和歌集の雑体の部に収められている。筆者としてこの歌に目が行ったのは、まず答歌であることによって贈歌より問答の形がきわ立っていること、加えて、これが伊勢物語という歌物語のコンテクストの中では、いわば尽きせざる歎きとみえているのだが、一歩足の踏み所を違えてコンテクストから外れると、そのまま大いなる笑いの構図に入ってしまうという、そういう可笑しさがややもすると見られるからだ。これは答歌であり、逆順のようではあるが、さいしょの言問いの歌を挙げれば、

 

年をへて住みこし里を出でていなばいとゞ深草野とやなりなむ

 

というものである。この歌のポイントは「深草(地名)にすみける女」のもとに歌を遣ることであって、長年住みなれた里、ここでは通いどころである女の家から、わたしが出て去ってしまったら、深草の里もさらに草深い野となって寂しくなってしまうだろうな、と詠みかけ、さてこの深草が深いブッシュの意味にかさなり、さらにそこから棲息している鶉の声が飛び出して、なぜあなたは「狩りにも」「仮にも」戻って来てはくださらないのか、とエスカレートする。いわば歎きに裏打ちされたコトバ遊びとも、コトバ遊びに裏打ちされた歎きともつかぬ贈答が出来上がる。この贈答に例えば私が感じるのは一種の口の減らなさであり、古い言葉で言えば「口疾(ど)さ」などというものであろう。この「口疾さ」はほぼ同時代の作例を収めた古今和歌集に顕著であって、例えば誹諧歌などを見れば一目瞭然である。

 

山吹の花色衣ぬしやたれ問へどこたへずくちなしにして

あきかぜにほころびぬらし藤袴つゞりさせてふきりぎりす鳴く

冬ながら春のとなりの近ければ中垣よりぞ花はちりける

春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つきじのほろゝとぞなく

世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ

 

3番目と4番目の歌は後世の「俳諧」と関係深いもので、これについてはあとで触れる。注意しなければならないのは詠んだ時点のさいしょから「誹諧歌」を詠むという意識があったか、どうか、という点だ。それ以前の古今和歌集における四季や恋、雑体の部立てなどを見ても、どれが誹諧歌でどれが恋で、というくっきりした区分けは、あるコンテクストからする読みでは、あんまり意味がないのではないか、という立場を私は取る。いわゆる誹諧歌と次のような歌との間に、本質的な、どんな違いがあるのだろう。ここにはどこかしら、笑いの種子が植えられている気がする。

 

こぞの夏なきふるしてし郭公(ほととぎす)それかあらぬかこゑのかはらぬ  夏歌

なに人かきてぬぎかけし藤袴くる秋ごとに野べをにほはす  秋歌上

むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな  離別歌

わが恋はみ山がくれの草なれやしげさまされど知る人のなき  恋歌二

 

あるいはここに、古今集「羇旅歌」の部に入っている「(か)らごこも(き)つつなれにし(つ)ましあれば(は)るばるきぬる(た)びをしぞおもふ」というような、「かきつばた」の音が織り込まれている折り句を考えてみる。その如きものを別に挙げてみると「くべき(ほど時過=ほととぎす)ぎぬれやまちわびて鳴くなる声の人をとよむる」、「なみの(打つ瀬見=うつせみ)れば玉ぞ乱れけるひろはば袖にはかなからむや」返し「袂より離れて玉をつゝまめやこれなんそれと(移せ見=うつせみ)むかし」などである。

 

 これらは巻十「物名」中の歌であるが、これを見るとコトバは「からごろも」以上の、さらに徹底的に長高い狂奔を見せているようである。先の伊勢物語の贈答や誹諧歌などの例を言えば、同音異義が「本来の」義を超えた文脈の脱臼により、あるナンセンスの光を発しているのに対し、「物名」では音による義の否定というところまでその(ナンセンスの)発光が亢進している。そこに透けて見える笑いの実体のようなもの。そのうすうすと感じたところを言ってみれば、コトバとして表れている限りの意や義の行きつく限界であり、そこでは遊びが遊ばれているわけだけれども、この目から鼻へ瞬時に抜けてゆくような「口疾さ」には、一種自動記述にも似た神異の揺曳があるとは言えないか。

 後代の芭蕉が顕揚し、蕪村が慕った俳諧の滑稽とは単なるくすぐりや馬鹿笑いのことではなく、こうした光(かげ)のさす発光体であったからこそ、近世近代を超えてその生命は猶ながもちしているのである。あるいは徹底的に対象をしゃれのめす側面がある江戸落語などにもその命脈がみとめられるが、古今はいったん下野したのだろう、しゃれのめしは天明狂歌などにも明らかだが、いまの形で落とし噺などがあることには僧侶や寺門の手が関わっている気がする。大雑把に言って、神のかげが仏門によって和らげられることは、古い由来を持つものではあるのだ。

 誹諧歌の3番目「冬ながら春のとなりの近ければ中垣よりぞ花はちりける」は、芭蕉の例の「秋深き隣は何をする人ぞ」(元禄七年)の発想の元というのが流火草堂先生安東次男の解である。いわく、伝統ある「春隣」を「秋の隣」にうばった「滑稽」であると。4番目の「春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つきじのほろゝとぞなく」の歌は蕪村の、発句ではなく朔太郎が絶賛した俳詩の一節に明らかに掠められたと思われる。すなわち、

 

 

友ありき河をへだてゝ住にき

へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹風の

はげしくて小竹原真すげはら

のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてゝ住にきけふは

ほろゝともなかぬ                       (「北寿老仙をいたむ」より)

 

というもので、これらに見られるように江戸の知性では古今は実に深いところまで解釈されている。また、芭蕉は延宝八年(1680)の『「常盤屋の句合」跋』では、当の古今集仮名序を徹底的にしゃれのめしている。江戸はある世紀の間、まさに「大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて今を恋ひざらめかも」(「空豆を仰ぎて、今此の時を恋ひざらめかも冬瓜[カモウリ]。」常盤屋句合跋)という至上の時を過ごしていたようである。(09.11.29)

 

 

(『伊勢物語』『古今和歌集』『蕪村俳句集』『芭蕉俳句集』以上岩波文庫、『芭蕉句集』岩波日本古典文学大系、『芭蕉文集』朝日古典全書、『与謝蕪村』安東次男・講談社文庫)

 

 


2「平家、謡曲、芭蕉 行きくれて」

 

行きくれて木の下陰を宿とせば花やこよひのあるじならまし

 

 これは平忠度(たいらのただのり)の歌。旅中、行き暮れて桜の木の下を仮の宿とすれば、咲いている花こそこの一夜の宿のあるじであろうよ、という意。夜の春意がふと強く迫ってくるような歌ぶりである。

 忠度といえば無賃乗車の「ただ乗り」に引っかけて、その官職の薩摩守で洒落とする連想を伴うが、本来は平家語り後半の、平家の主立った武将たちが次々に討たれてゆく哀切な場面の中に見えるものだ。これと同じ題材の修羅物の能『忠度』では、歌についてのいわくが語られる。藤原俊成と親しかった忠度はこの歌を俊成に託し、千載集に撰歌されたのだが、折しも朝敵となってしまった平家一門のことを憚って、俊成は忠度の名を削り、「よみびと知らず」としてしまったという。

 このように、平家物語中の一物語が歌の形にいったん縮約されて謡曲『忠度』に手渡される。この歌を目にし、多くは耳にすることで、中世以降の人々は、ああ、あの公達の物語かと、歌という核から水中花が開くように了解したのだと思う。それどころか、平家物語や『忠度』の、当の物語の内部でさえ、討ち果たした位の高そうな武将が誰なのか、最初判らずに、「箙(えびら)に結ひつけられたる文(ふみ)を取って見ければ」(平家物語)、そこにしたためられてある歌で、初めてその人と知ったといった具合だ。歌は人をあらわす。近現代詩以前の詩は、必ずそんなふうな、人格や物語の縮約・象徴として意識された側面があったようである。

 これは後世、文字どおりのメロディを伴った歌、とりわけて歌謡曲や演歌の世界で、講談、浪曲における物語(平手造酒や森の石松などの)なくしてはありえないような一連のものが、つい最近まで残照のように暮れ残っていた、という問題とも切り離せない(「大利根月夜」「俵星玄蕃」「王将」ほか)。

 ちなみにこのくだり、平家物語と謡曲とを並べて比較すればこうである。

 

「よい首討ち奉りたり」とは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙に結ひつけられたる文を取って見ければ、旅宿の花と云ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる。「行きくれて木の下陰を宿とせば花やこよひの主ならまし 忠度」と書かれたりける故にこそ、薩摩守とは知りてげれ。(平家物語「忠度の最期のこと」)

 

いか様是は君達(きんだち)の、御中にこそあるらめと、御名ゆかしき所に、箙をみればふしぎやな。短尺を付けられたり。見れば旅宿の題を据ゑ、行き暮れて、このした陰を、宿とせば、花やこよひの、あるじならまし、忠度とかかれたり。扨(さて)はうたがひあらしの音に、聞えし薩摩の、守にてますぞいたはしき。(謡曲『忠度』)

 

  この部分だけを見てみても、当然のことだが多数の相違と大筋での合同が認められる。比較して直ちに判ることだが、平家物語の直接的なパロディが、この謡曲なのではない。人々のあいだに伝承された無形の原テクストともいうべきものがあって、それが平家物語として現れたり、謡曲として現れたりしている、といったほうが実態に近いのではないか。平家物語の異本のおびただしさからも、そう推測できる。平家物語の成立の時期ははっきりしないのだが、世阿弥が謡曲『忠度』を作った時期とは、小さく見積もっても百年ほどの差があるとみられる。その三百年ほど後に、また一人の詩人によってこの歌は蘇るのである。

 

 はなのかげうたひに似たるたび寝哉

 

 貞享が元禄に替わる年(一六八八年)の春に、芭蕉が句に詠んだもの。おそらく大和の旅の途次にものされたのだろうが、案外実景に近いのかもしれない。このとき、忠度の歌は明らかに継承されている。少なくともその意識が、芭蕉にはある。だが、平家―謡曲―芭蕉という縦の単純な系列ではなく、繰り返すようだが、原テクストから流れ出すさまざまな変奏のひとつとして、これは考えたほうがよさそうに思う。「行きくれて」の歌にあった春意は、歌から句へとさらに縮約されることによって、いっそう幽玄に立ち上がり、蘇っているというところも見逃せない。伝統完成者としての芭蕉の手際であろう。(09.10.25 

(『日本古典選 謡曲集上』朝日新聞社、『平家物語下』角川日本古典文庫、『芭蕉俳句集』岩波文庫)

  1 「アイヌ神謡 銀の滴降る降るまわりに」

 

 

Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe

ranran pishkan” arian rekpo  chiki kane

 

(訳)

「銀の滴降る降るまわりに, 金の滴

降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら

                                                  「梟の神の自ら歌った謡」より

 

かつてこのような厳粛な神謡が、活きて謡われていた時と場所とがあった。同じ列島とはいっても北辺の、日本共通語を用いるわれわれとは言語も文化も異にする人々によってだが、それはさまざまな差異を含むにしろ、樺太からアリューシャンまでをも望見する広大な連続性の中にあると言える。アイヌ神謡とは、胆振、日高の沙流地方の言葉でカムイユカル、つまり「神のユカル」のことという。ユカルはユーカラと根を同じにする語。本土の歴史区分でいえば中世から江戸期に隆盛を極めたユーカラの、一段も二段も古い層にある最も神聖な詩といえる。

これを江湖に最初に知らしめたのは、知里幸惠という一少女である。金田一京助博士の援助こそ享けたではあろうが、彼女は単なるアイヌ神話のインフォーマント(情報提供者)にはとどまらぬ、その母方からの血を受け継ぎ、北の稗田阿礼を思わせる巫覡的稟質に富んだ詩人でもあったようだ。そのことは彼女が日本共通語に訳出した言語の美しさからよく理解できるだろう。その口移しにそらんじあらわされた『アイヌ神謡集』の刊行後二か月に満たず、生来の病により、彼女は地上からもろくも奪われた。行年二十であった。

 さて、掲出した詩句は、英雄叙事詩的なユーカラに比べると比較的短い形をとる神謡の、その冒頭に出現する。「銀の滴降る降るまわりに……」の句は、神謡中折に触れ、五回ほど繰り返される。繰り返しとは言っても、同じようなもの(テキスト解説では折返といっている)でありながら、より声調的で意味を求めることが困難なsakeheというものとは区別される。

 掲出句と似た繰り返しは、「石の中ちゃらちゃら/木片の中ちゃらちゃら」(狐が自ら歌った謡『トワトワト』)、「二つの谷、三つの谷を飛び越え飛び越え」(兎が自ら歌った謡『サンパャ テレケ』)などで、折返sakeheはタイトル部分のこの『 』でかこった「トワトワト」とか「サンパャ テレケ」などが相等すると思われる。後者の、意味を当てはめることが困難というのは必ずしも無意味ということを示しているのではない。それが言語の根源に触れているから意味を当てはめることが困難なのだ。

 さて、掲出の「銀の滴降る降るまわりに」が出現するときには決まった形がある。それは神がその動作行動を自ら語るときだ。これが出現する五回のうち最初の一回が、梟の「冑」を被って空を行く神が、人間の村を見下ろすところから始まる。それを神が自ら語るのだ。それから梟の神は貧乏人の子の放つ矢に当たってやり、生物の梟としては死んで貧乏人の家で手厚く祀られる。家の者みんなが寝静まった夜中、繰返句とともに神は奇瑞を起こす。「美しい音をたてて飛」びながら家の中を神の宝物でいっぱいにする。それからまた繰返句とともに貧乏人の粗末な家を、りっぱな「かねの家, 大きな家」に作りかえる。そして「昔の貧乏人が今お金持になっていて, 昔のお金持が/今の貧乏人になっている」という冒頭の、智慧の言葉が実現するのである。

 「銀の滴」の繰返句は、本土の古い詩における囃子詞や枕詞のように、本来の内容から逸れて空虚化してゆく流れの中にあるのかもしれない。訳文もそこをすくい取ってみごとだが、この繰返句には空虚なるものが持つ美しさが確かにあるのではないか。一方、詩の内容からすれば(空虚を「翻訳」すれば)、この繰返句によって、神の自己犠牲の深さが衝撃的なまでの純粋さで顕現しているとも言える。これは知里幸惠の明敏な憑依の資質と、たぐいまれな言語能力に負うところが大きいだろう。ちょっとニコライ・ネフスキーのことなど、思い出した。(岩波文庫版)(09.09.28)

 

 

*くらた よしなり 1953年、川崎市生まれ。横浜市在住。詩集は『神話のための練習曲集』(私家版、2008年)ほか。芸術エッセイ集『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』(笠間書院、2006年)。