〈詩人の発言 25〉

詩を書く恥ずかしさ   高橋英司 

 


 詩を書き始めて、ン十年になる、などとは、とても人前では言えない。職歴よりも長い時間、詩と向き合ってきたのは事実で、自分でも不思議なくらいだが、詩壇とおぼしき狭い世界では、中堅とかベテランとかに分類され、それなりの実年齢に達した。しかし、未だ世間に対して、堂々と詩人を自称することはできないし、腕で壁を作ってこっそり飯を食うように、こそこそと詩を書いている。 

 自分の詩がなんぼのものか、秘かな矜持は抱いていても、世間の目からは、その程度のものかと鼻であしらわれる。ン十年のキャリアは一瞬にして萎むのである。詩は、職業的な技能のように、年月と共に向上するとは限らないようなのだ。作品の体を為す技量は身につくようだが、必ずしも良い詩が書けるとは言えない。頭に浮かぶ想念も、歳月と共にハイレベルになるとも言えない。子どもの詩を読んでいて、はっとする新鮮な発見に驚くこともあり、そんな時、感覚の鋭さでは敵わないと思ったりする。 自分の過去の作品を読み返してみても、粗削りで下手糞であっても、近年の作品よりも繊細で豊かな内容を持つものもある。これでは衰退・衰弱しているのではないかと肩を落とす。 

 詩を書くことは恥ずかしい。正確には、書くこと自体が恥ずかしいのではなく、自分の手の届く守備範囲の外に、作品が晒されることが恥ずかしいのだろう。小心者だから、世間一般からの視線が恐ろしいのだろう。だから、詩集や詩誌も、特別な理由がない限り、世間一般の人には配らなかった。親にも親戚にも、職場の同僚にも、地域の人にも、とにかく畑違いの場に、自分の文学が顔を出すことのないように気を配ってきた。 

 このような態度は、詩の世界が秘密結社のようで、世間一般に詩が広がらない要因になるという批判を受けるだろう。詩を書こうとする人間などは、せいぜい千人に一人程度だから、世間一般では少数者、肩身の狭い思いをするのもやむを得ない。 

 このたび、『ネクタイ男とマネキン女』なる詩集の刊行にあたって、親戚のおじさんの目に触れても、にやりとしながら読んでもらえるように、少ーしだけ笑えるような内容にし、通俗な素材に比重を置いた。恥ずかしさは消えないが、詩集に限らず、書きものは読んでもらえてなんぼのもの、という考え方は変わらない。とはいえ、自分は、読者が不在であっても、自分のために詩を書こうとするだろう。

 

*たかはし えいじ 

1951年、山形県河北町生まれ。新詩集に『ネクタイ男とマネキン女』(ミッドナイト・プレス)。詩誌「山形詩人」編集。