倉田良成の「古今詩語」

 8「命なりけり 詩と旅すること」

 

 現代歌人のうちで、塚本邦雄氏あたりはあまりお好きではなかったと聞くが、古来西行の歌の中でも絶唱とされているものに、次の歌がある。

 

 あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたりける、思い出でられて

年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山   (山家集・羇旅歌)

 

  この歌の本歌とされるものに、古今集春下・題知らず・よみ人知らずの「春ごとに花のさかりはありなめどあひみん事はいのちなりけり」という歌がある。この「命なりけり」の語義を確かめてみるに、「生きていたからこそだ」というのが本来だそうだ(大辞林)。だが、この「命なりけり」を含む歌の先行例は、実はこの歌ぐらいしか見当たらないらしい。西行においても決して少なくはない本歌取りの作例の中で眺めてみても、この「命なりけり」の一句は特異に感じる。みなが絶唱と呼ぶゆえんであろう。

 西行は歌僧であると同時に宗教者でもあるから、東海道の難所である佐夜の中山を行き来することに象徴されるあまたの旅は、物見遊山の酔狂でない、厳しい行脚の修行でもあった。この「年たけて」の東下りの旅の折、時に西行六十九歳。平重衡によって焼き討ちされた東大寺再建のため、俊乗坊重源が指揮を執る大勧進の一翼を担って、奥州へ赴く旅の途次の詠である。吾妻鏡の伝えるところによると、このとき鎌倉に寄って源頼朝にも会っている。このときのことを、少し長くなるが、引いておく。

 

此間、歌道并びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り、西行申して云ふ、弓馬の事は、在俗の当初、憖(なまじい)に家風を伝ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法は焼失す、罪業の因たるに依つて、其事曾て以て心底に残し留めず、皆忘却し了んぬ、詠歌は、花月に対して動感するの折節は、僅に卅一字を作る許なり、全く奥旨を知らず、然れば是彼報じ申さんと欲するも所無しと云々、然れども恩問等閑ならざるの間、弓馬の事に於ては、具に以て之を申す、即ち俊兼をして其詞を記し置かしめ給ふ、縡(こと)終夜を専にせらると云々、(『吾妻鏡』文治二年八月十五日条)

 

 要するに、歌の道のことについては殆ど多くを語らず、「弓馬の事」を夜を徹して語ったというわけである。このあと、拝領した銀の猫を、遊んでいる子供に与えて去ったとか、伝説的な語り口になっているのは、吾妻鏡が後世である十四世紀の成立になる書物のためであろう。

 しかるに、その「詠歌は、花月に対して動感するの折節は、僅に卅一字を作る許なり、全く奥旨を知らず、」という点については、五百年ののち、芭蕉一統が詩にしている。中世の時代を通じて西行は完璧に伝説化を遂げ、堂上の歌のみならず、連歌、地下連歌、談林などの詩的閲歴を経た心性には、むしろ西行をテーマにすること自体に陳腐さを感じていたふしがある。芭蕉が老荘、李杜、白居易などと並んで、定家と西行を言挙げし、とりわけて西行を尊崇したことはその作例に徴しても明らかで、ここで西行は中世の伝説的存在から新しい規範へと変貌を遂げているのである。また引用が長くなるが、去来抄より引く。

 

  草庵に暫く居てはうち破り  ばせを

   命嬉しき撰集の沙汰     去来

初めは「和歌の奥儀を知らず」と付けたり。先師曰く「前を西行・能因の境界(きょうがい)と見らるはよし。されど、直に西行と附けむはてづゝならん。たゞおも影にて附くべし」と直し玉ひ「いかさま西行・能因の面影ならん」と也。

 

 ここで言われている「奥儀を知らず」は、上に引いた吾妻鏡の「奥旨を知らず」に同じであろう。芭蕉の「草庵に暫く居てはうち破り」の僧形のイメージに対して、実体としての西行を付けたのではいかにも拙劣である、ここは西行に特定されないが、その面貌を排除せず、同じく「旅」がキーワードの、能因法師などとも思わしめる面影付けで作句をしなさいという、連句付け合いの教材に「西行」が使われている。そして「直に西行と附けむはてづゝならん。」とあるのは、「附けやうのあんばい」であるとともに、西行を陳腐化から逸れさせる蕉風の配慮をも思わせるものである。

 いま「その作例に徴して」と言ったが、芭蕉の立句や付句や「おくのほそ道」ほかの俳文に鏤められた多くの西行像のうちから、冒頭に掲げた「命なりけり」の歌にかかわるものを見ておく。そのかかわりが明快に認められる立句は生涯に三例あって、詞書とともに以下に引く。

 

 佐夜中山にて

命なりわづかの笠の下涼み    (延宝四年)

 

 風瀑を餞別ス

忘れずば佐夜の中山にて涼め   (貞享元年)

 

 越の中山

中山や越路も月はまた命     (元禄二年)

 

 前の二つはじっさいの佐夜中山をふまえたもの。一句目は江戸に出て俳諧宗匠として立机して、初めての帰省時に詠んだとされるもの。二句目は伊勢の御師である風瀑が郷里の伊勢度会に下るのを餞別した、芭蕉庵における発句。どちらも東海道の行き戻りにおいてのもので、旅の難所でむしろ「涼む」ということが句眼になっている。三つ目は越路にもある中山なる地名に掛けて、むしろ前二者より直接的に西行を偲んだものといえる。いずれにしても、佐夜の中山は東海道の一難所という枠を超えて、旅そのもののメタファーとなってゆくさまが、時間を追って見えてくるようだ。この旅というメタファーが芭蕉の中で成熟し、西行をつうじて最高度に発揮された句と私が見るものがある。別に「佐夜の中山」も「命なりけり」という言葉も使われているわけではないけれど、どうしても西行と二重写しになった芭蕉の絶唱と取るしかない。元禄七年、江戸から東海道を上るさいごの旅の途次、名古屋の荷兮邸で詠まれたものである。

 

世を旅にしろかく小田の行戻り

 

 ここから再び江戸に戻ることはない。その年の冬、芭蕉は大坂で客死する。句は、西行歌の高潮に比し、ぶつぶつと呟くような感じであるが、胸に落ちてくるものは西行歌と同じように深い諦念であり、痛切な逃れがたさである。それにしても、彼らは何のためにかくまで旅ということに囚えられていたのか。そのヒントを私は次の文章に見た。

 

 彼らは、土地や主従関係に縛りつけられた定住者の小さな安定よりも、襲いかかる寒さと飢え、盗賊と野獣の危険に満ちた旅の苦難のほうを選んだ。流動こそ生であり、停滞こそ死であるという確信を捨てず、昨日も今日も明日も歩きつづける一所不住の漂泊者を、私は畏敬をこめて永久歩行者と呼ぶ。ここに「歩く」ことのもっとも深遠な意味が鮮明になる。/これら異端の永久歩行者は、世の落伍者とさげすまれ、賤民とあざけられながら、自らの生涯を通して、庶民信仰や民間芸能を開花させ、保持し、後世に伝えた。

                       (谷川健一『賤民の異神と芸能』より)

 

 むろん、西行や芭蕉はこれらの情動を持つものの遥かな末裔と言うべきである。それまでの言語遊戯めいた貞徳・談林風から、俳諧を文学にまで高めたと言われる芭蕉でさえ、折口信夫の所謂「非文学」、信仰や交友や贈答といった生活の実用品という側面から、その「作品」は完全には逃れることはできない。それが伝統文学の現実である。

 また、月花に物狂いのような愛着を寄せた西行のその物狂いようは、いっぽうで宗教者の恍惚に近い。教理や呪文のようなものでなく、その恍惚の実態を詩としてはじめて都人の歌壇にもたらしたのも、新古今集の新しさであると同時に、滅亡に向かってゆく王朝歌壇自体を象徴するものでもあったろう。そこで宗教は詩のための素材ではない。宗教者の感覚の現実から初めて詠まれた歌である、という点が新しいのだ。

 しかるに修行者である西行はおろか、宗匠たる芭蕉さえ旅の思念に衝きうごかされて「漂泊の思ひやま」なかった(『おくのほそ道』冒頭)のは、かの俳諧者流が非定住者にほかならなかったことを示していて、後世の理解のように生活が芸術であるというよりは、誤解を恐れずに言えば、まさに無名の賤民性を、自らのうちに新鮮な感覚として発見したものと考えられる。

 冒頭でも述べたが、彼らにとり、旅は物見遊山ではない。「『歩く』ことのもっとも深遠な意味」の中を歩きつづけて果てることなのだ。(10.8.14)

 

 

(岩波文庫『山家集』『新古今和歌集』『古今和歌集』『芭蕉俳句集』『おくのほそ道』、今栄蔵『芭蕉年譜大成』角川書店、ほか)

 

*くらた よしなり 1953年、川崎市生まれ。横浜市在住。詩集は『神話のための練習曲集』(私家版、2008年)ほか。芸術エッセイ集『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』(笠間書院、2006年)。