中村剛彦の「甦る詩人たち」ファイル

*この続きはこちらで読むことができます。

37.「詩への跳躍について」

 

 夏がいつの間にかやってきて、今朝も小さな庭に住み着いた野良猫が蝉を生け捕りにし、羽だけを残してその胴体をむしゃむしゃと食べ尽くすのを見ると、詩人とは、詩とは、この喰われる蝉と残された羽のごときものではないか……などと、妙な考えにとらわれはじめた。

 実は3月11日以降この連載を以前のように定期的に書き続けることができなくなったが、それはこれからこの連載がどこへ向かうべきかをもう一度見直す必要に迫られたためであって、やみくもに「書く」ことより、「読む」ことへ重心を移してみたいという欲求が高まったからである。しかしまた書き始めようと思う。そして一気にこの立原論も最終段階に入る。

 

 街には蒼ざめた人間が白けた花のように生き、

 娑婆(しゃば)苦にあえいで死んでいく。

 だが、誰ひとり、ゆがんだ死人の悲しみをみようとはせぬ。

 人々のやさしい微笑が、名前のない不安の夜に

 強いて奇態な表情にゆがめられるのをすこしも知らぬのだ。

 

 彼らは苦役に身をさらしながら、

 無意味な事物にずるずる引きずられて 右往左往するのみだ。

 彼らの衣服はすでに案山子(かかし)のように枯れ朽ちている。

 そして、彼らの繊(ほそ)い手が早くから老い萎びてしまう。

 

 ひしめく雑沓がみじんの容赦もなく

 ひ弱な、おとなしい人間を踏みつぶす。

 すみかのない臆病だが、そっと見え隠れに

 しばらく彼らのあとについていく。

 

 彼らは百の苛責者の無慙な手にわたされ、

 絶えず時の鐘にどなり散らされ、

 さびしげに病院の周囲をうろつく。

 そして、不安におののきながら ただ入院許可をまっている。

 

 施病院には「死」があるだろう。しかし、その死は

 少年のころ、ふと荘厳なこえをきいた、偉大な「死」ではない。

 病院にあるのは ちっぽけな「死」……区別のない「死。」

 「わたしの死」は未熟な果実のように

 汁気のない青い実のまま、どこかの枝に わすれられている。

 

  *       *

 

 主よ、それぞれの人間に「わたしの死」をあたえたまえ。

 愛と意味の切迫した危機に生きる、一個の「生」から、

 偉大な「死」が実らねばならぬのです。

                                       (尾崎喜八訳)

 

 これはリルケ30歳のときの長編詩集『時禱集』(1905年)からの引用である。この詩集については後に詳細に述べるが、ここに描かれた「偉大な『死』」を詩人は追い求めるが、最終的には20世紀以降の人類はついにそれを果たせなくなったことを悟るのである。延々と続く自問自答のくり返しとも言えるこの詩集は、リルケの作品の中では評価は低いが、現在の私には成熟期の名作『ドゥイノ悲歌』や『オルフォイスのソネット』より、この詩集がしっくりと馴染む。それは私が3月11日以降、似たような場所で逡巡していたからである。

 私がこれから書くことの中心はこの「死」である。立原論の最終段階は、結局ここに尽きる。いかに立原がリルケ、堀辰雄の影響下に、自ら幼少より抱えつづけた「死」の想念を、あの整然とした「詩のかたち」、ソネットへと昇華させたかを、詩それ自体をしっかり見つめなおして終えたい。まず立原のソネットの発生の謎を垣間見ることができる興味深い詩を挙げてみる。

 

 或る夜に

 

    初雁のとわたる風のたよりにも

    あらぬおもひを誰につたへむ――定歌歌集

 

 私らはたたずむであらう 霧のなかに

 霧は山の沖にながれ 月のおもを

 矢のやうにかすめ 私らをつつむであらう

 夢のやうに……

 

 私らは別れるであらう 知ることもなく

 知られることもなく あの出會つた

 雲のやうに 私らは忘れるであらう

 水脈のやうに

 

 その道は銀の道 私らは行くであらう

 ひとりはなれ…… ひとりはひとりを

 夕ぐれになぜ待つことをおぼえたのであらう

 

 私らはまた逢はぬであらう 昔おもふ

 ねざめの月はあのよるをうつしてゐると

 私らはただそれをくりかへすであらう

 

 これは第1詩集『萓草に寄す』の詩「またある夜に」の初稿である。昭和10年の夏、掘辰雄、三好達治、津村信夫らと会うために訪ねた軽井沢の油屋旅館滞在中にスケッチブック(角川版全集第4巻所収)に書かれたもので、立原のソネット作成の最初期にあたるものである。詩集に収められた完成稿と比較しても、殆どこの段階で完成していたようみ思える。以下に完成稿を引く。

 

 またある夜に

 

 私らはたたずむであらう 霧のなかに

 霧は山の沖にながれ 月のおもを

 投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう

 灰の帷のやうに

 

 私らは別れるであらう 知ることもなしに

 知られることもなく あの出會つた

 雲のやうに 私らは忘れるであらう

 水脈のやうに

 

 その道は銀の道 私らは行くであらう

 ひとりはなれ…… (ひとりはひとりを

 夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

 

 私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ

 月のかがみはあのよるをうつしてゐると

 私らはただそれをくりかへすであらう

 

 この初稿と完成稿との比較は、立原研究者がどこかで試みているであろうが、私はただ一点、この前者と後者を隔てる決定的な違いがあることだけを述べたい。それは前者が「散文の集約」であり、後者が完全なる「詩への跳躍」を示しているということである。例えば前者が形式の上ではソネットとして完成されているにもかかわらず、以下に挙げるようなスケッチブックに走り書きされた様々な散文的思考に引きずられるようにして書かれていることを見ることができる。

 

「僕と一人の少女が、何のかかはりもなく、おなじ屋根の下にくらしてゐる。秋は澄んで、僕らもし語るとすれば、それは空や雲の氣候の物語や秋草の花のことだけたつた。とほい山のたたずまひを眺めてくらす心は、それだけでよかつた。いつかこのひととも、空に出會う雲のやうに、別れるだらう。知ることもなく 知られることもなく。」

 

「私は憎まれることが大きらひだといつて、私には誰から愛せられるだけの値があるだらうか。――私の母、あの近くでだけしか見たことのない私をみつめてゐる眼。鮮やかな群靑の空、若々しい夏の白雲。天使のやうな、愚かな弟、それだけが私を愛しそれだけを私は愛する。」

 

「小さな橋がここから村に街道は入るのだと告げてゐる

 その傍の榧の木かげに古びて黑い家……そこの庭に

 緊がれてある老いた山羊 可哀そうな少年のかなしげな歡びのやうに

 誰彼にとなくふるへる聲で答へてゐる山羊――

 いつも旅人はおまへの方をちらりと見てすぎた」

 

 これらの断片のあとにぽつんと置かれている初稿の詩「或る夜に」を読むと、まるでそのソネット形式が散文を吸いこんでいるように思えてくる(実際このスケッチブックは8月から9月という短い間に書かれたものであるから、その詩と散文には心理の重層性があるはずである)。そのように「散文の集約」として読めば、この詩は「叶わぬ恋」を淡く謳った恋の歌であると言える。

 たとえば一つ目の散文の断片にある「一人の少女」に思いをはせて述べられた、「別れるだらう。知ることもなく 知られることもなく」という言葉が、そのままソネット第2連に転記されているのが分かる。そしてその「はじめからの別離」の理由は二つ目の断片で述べられている。「私には誰から愛せられるだけの値があるだらうか……私の母……愚かな弟、それだけが私を愛しそれだけを私は愛する。」と。詩人にとって「家族」、特に「母」の巨大な存在は、他者への愛(または欲望)を去勢してしまう。他者は「一人の少女」という名を奪われた人称代名詞へと化し、いつでも「エリーザベト」「アンリエット」……という風に架空のメルヘンの人物に変換可能になる。この詩人特有の「血」に縛られた不能性は、自らの内に芽生えた他者への愛を、まるで親への裏切りであるかのように、すぐさま忘却へと葬る。だから二連目の「私らは忘れるであらう」という詩句はそうした自身の精神構造を、すでに諦めに近い、習慣化されたものであることを物語っている。

 ここからソネット三連目の「その道は銀の道」という転調に入るが、これも三つ目の散文にある「緊がれてある老いた山羊」に自己投影した視点への変化と言える。それも「可哀そうな少年のかなしげな歡びのやうに」という表現にあるように、少年は突然老いるのである。しかしこれも必然である。他者への愛を奪われ、常に目の前の現実を過去へと投げ入れ忘却し続ける少年は、すでに老いることを強いられるのである。この老境の精神は、そのままソネット第4連の「……昔おもふ/ねざめの月はあのよるをうつしてゐると」という唐突に時間が飛躍する詩句にそのままつながる(この若年から老境への飛躍的移行は、立原の「死」の想念と深く結びあう重要な詩精神であるのでもう少し詳しく述べたいが、いまは詩篇の分析を先にしてあとで述べたいと思う)。

このように初稿の詩の場合は、散文における心理の流入が、はっきり示されることになる。では、完成稿「またある夜に」は、このように読んでしまったあとに、どれほどの違いがあるのであろうか。見比べれば幾つかの詩句の異同、括弧の導入がみられるだけであるが、まず目につくのは、完成稿で削除されているエピグラフの藤原定歌の歌「初雁のとわたる風のたよりにもあらぬおもひを誰につたへむ」という恋歌である。ここにある「あらぬおもひ」とは「誰にも伝えられない恋心」と解し、「一人の少女」への密かな恋心をこの歌に託しているとみるのが妥当であろう。しかし、前にも述べたように、立原が定家から学んだものが、その言語至上主義的な「人工」の美であることを踏まえれば、この歌を掲げた理由を単にそうした自らの恋心を代弁しているからだけとは言えない。むしろ私は、「一人の少女」以外の「母」「弟」「山羊」などに言及しながら詩人が抱え込んでいる、ある言い表し難い孤絶感、これまで私が立原詩の背後に見てきた「狂気」や「虚無」といった抽象的な負の概念をすっぽりと包む言表が「あらぬ思ひ」であると言える。そして定家のみごとな手さばきでこの「あらぬ思ひ」を風景の中に「風」として具象化させる人工の歌の姿は、詩人の中で堂々巡りに連なる散文的断片を、一気に詩へと昇華させる引き金となっている。言うなれば立原にとって詩と散文の結び目としてこの定家の歌の位置づけはあるのである。しかし完成稿ではこれは切り落とされる。ここに一つ「詩への跳躍」への契機がある。

 ここで初稿と完成稿の違いを見てみると、

 第1連は2点、「矢のやうに」→「投箭のやうに」、「夢のやうに」→「灰の帷のやうに」、

 第2連は1点、「知ることもなく」→「知ることもなしに」、

 第3連は2点、「ひとりはひとりを/夕ぐれになぜ待つことをおぼえたのであらう」→「(ひとりはひとりを/夕ぐれになぜ待つことをおぼえたのか)」、

 第4連は2点、「また」→「二たび」、「ねざめの月は」→「月のかがみは」、

となる。つまり合計7点の、それぞれの連に均等な形で修正が行われている。ここに詩人は何を意図したのであろうか。

 詩を書いた経験のある者ならば誰もが経験するが、ある一語を変えると、予期せぬところの語が変化していく。細部をいじり、作品全体を俯瞰し、部分部分を何度も修正していく内に殆ど原型を留めないところまで変化してしまう。しかしこの過程は単に見栄えとか語呂の良さを整えると云った問題ではない。詩人がはじめ何らかの詩的インスピレーションを受けてノートに書いた初稿段階から、より別の段階への跳躍を志向する。これを先の説明に則れば当初意識にある「散文の集約」の段階から完全なる「詩への跳躍」と言っていい。しかし立原のこの詩の完成までの異同を見ると、初稿から完成稿への跳躍が、極めて均質な形で極力抑えられて成立していることがわかる。これはソネット形式そのものの構造が、はじめから「詩への跳躍」を可能ならしめることを立原は理解していた上で、初稿の段階からソネットを使用していることの証といえる。煩を厭わずもう少し詳しくこの異同について考えてみる。

 先ずこの第1連の「矢」がなぜ「投箭」にならなければならなかったのか。これを考えるとこの「投箭」がかすめる「月」に着目しなければならない。そしてすぐに気がつくのは、このソネット全体がこの「月」を軸にして展開されているということである。つまり第1連「月のおも」と第4連「月のかがみ」の対称性である。もういちどここで完成稿全体を引く。

 

 またある夜に

 

 私らはたたずむであらう 霧のなかに

 霧は山の沖にながれ 月のおもを

 投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう

 灰の帷のやうに

 

 私らは別れるであらう 知ることもなしに

 知られることもなく あの出會つた

 雲のやうに 私らは忘れるであらう

 水脈のやうに

 

 その道は銀の道 私らは行くであらう

 ひとりはなれ…… (ひとりはひとりを

 夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

 

 私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ

 月のかがみはあのよるをうつしてゐると

 私らはただそれをくりかへすであらう

 

 おそらく立原が最初に手を加えたのは、第1連の「投箭」ではなく、第4連の「月のかがみ」だったと私は考える。初稿では「ねざめの月」であったのが、この変更によってソネット後半は「光」の世界、前半を「闇」の世界、とシンメトリックな明暗構造がはっきりと与えられる。

 ここから第1連の「月のおも」を覆うものが「投箭」であれば、単なる「矢」であるより月は複数が飛び交う「投箭」によって暗く覆われることになる。そして3行目の「夢」を「灰の帷」に変えることで第1連全体が暗い灰色の世界となる。

 次に第2連の異同を見ると、「知ることもなく」が「知ることもなしに」にだけ変えられているが、これは明らかに第1連の「霧のなかに」と同じ韻を踏むための変化であり、同じモノトーン色を継続させたままこの第2連が灰色の世界と地続きにある効果を与えている。

 そして第3連冒頭の「その道は銀の道」での転調は、第4連の「月のかがみ」から照らされた、輝きの世界へ通じる道である。それは立原が憧れたあの中世の、人間存在が「鏡」の作用によって影一つなく照らし出される光のみの世界、人間がいまだ神々や自然と不可分の世界といえばよい。だから次の「(ひとりはひとりを夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)」という括弧の挿入と、その中の「おぼえたのであらう」を「おぼえたか」へと変えた理由は、単にこの詩に一貫している「……であらう」のモノローグの脚韻に変化を与えるためだけでなく、「光」の世界にある「鏡」によって反射され返されてくる詩人自身の声の谺として解することができる。さらに最後の第4連の「また」が「二たび」に変えられることも、「鏡」に反射される生の一回性を強調し、最終行「私らはただそれをくりかへすであらう」という鏡面の中での生の反復性へつなげていく。この「鏡」の中の生の永遠の反復は、題「或る夜に」が、「またある夜に」へと変えられたことにもよく言いあらわされている。

 要するに立原は「月」の対称性を軸に、わずか7点の修正を加えることで、現実の「一人の少女」への「叶わぬ恋」をモチーフにした詩から、世界を「光」と「闇」、とに分断したシンメトリー構造を持つ形而上詩へと「跳躍」させたのである。だからもはやこの詩の主語「私ら」は「詩人と少女」という二人を意味するだけでなく、無限定なより不特定多数の「私ら」である(ソネット文法上の主語の複数形については、『ロマーン・ヤーコブソン選集.3、詩学』(大修館書店、1985年)所収のボードレールのソネット分析「猫たち」(レヴィ・ストロースと共同執筆)ですでに指摘されている。ソネットのシンメトリー構造含め、文法上の様々な「決まり事」が持つ意味は、「現実」と「超現実」、「外」と「内」、「経験」と「神話」の「二重化」をもたらすものであるとして、この詩形式の不死性の根拠を示す。また同書のダンテのソネット分析(パオロ・ヴァレシオと共同執筆)、シェイクスピアのソネット分析も精緻を極めているので参照されたい)。

 果たしてこのように立原のソネット一篇を取り上げて、「散文の集約」から完全な「詩への跳躍」を成していることを証明したとして、では立原にとって詩はなぜ「形而上詩」でなければならなかったのか、なぜそのためにソネットを選んだのか、とも問われるであろう。この答を考えていくと、立原が他の日本のソネット作者よりも優れたソネットの使い手となれた理由が浮かび上がってくる。

 これまでの日本の詩史の常識に照らせば、私たちはソネットに限らず日本語による「音韻定型詩」の試みを失敗とみなしてきた。立原の影響を受けた福永武彦、加藤周一、中村真一郎らの「マチネ・ポエティック」の試みは単なる西洋詩形の「ものまね」であって詩の「形骸化」に過ぎず、無思想の詩であるとするのがいまや通念である。90年代初頭に飯島耕一が再度「定型詩」を復権させようと試み論争となったが、結果的にはモダニズムから戦後詩、現代詩へと連なる「非―定型」の前衛性、いわば「詩の自由」ともいうべきイデオロギーにインパクトを与えることはできなかった。いや立原の時代であってもそうである。大正期の「自由」思想を幼少期に堪能し、萩原朔太郎、室生犀星に相当に入れ込んでいたのであるから、口語自由詩であってもよかったのではないか思われる。例えば明治30年代の薄田泣菫、蒲原有明ら象徴詩人によって試みられたソネットは、難解な「言語実験」の領域を出ないとして、口語自由詩を進める詩人たちから過去のものとして扱われていた。また昭和初期の立原と同時代では中原中也が群を抜いたソネットを書いているが、中也においてのそれはあの自由自在な7・5調のレトリック同様に、ソネットでも「何でもござれ」的な、むしろ「型破り」の詩精神がソネットでは収まりきらない観がある(ちなみに蒲原有明の『有明集』冒頭のソネット群については、むしろ近代の日本語の根本にある「歪み」を露出させた記念碑的ソネットといえる。これについては別途考察せねばならないところであるが、参考になるのはこの定型詩論争の際に提出された瀬尾育生の詩論「ポラリザシオン―定型を生みだし移行させる力」(「現代詩手帖」1990年3月、4月号)、のち詩論集『われわれ自身である寓意―詩は死んだ、詩作せよ』思潮社、1991所収)である。詩とは元来、母語と非母語との間の「振幅」によって成立するため、象徴詩の難解奇異な相貌が、近世までに日本語が抱えていた和語と漢語の間の振幅に加え、近代以降の西欧詩形がもたらした行分けによる振幅が重なることで必然的に生まれたものであるとし、単なる西洋詩形の模倣による形骸化ではないとする指摘は、現在も詩が「日本語」で書かれている以上常に詩の書き手は頭に入れておく必要のあるものである)。

 しかしながら立原の場合のソネットは他の詩人たちとは様相が違う。そこには象徴詩が持つ難解性や「歪み」は一見なく、また詩心が収まりきらないような窮屈な印象も与えず、ソネットそれ自体で完結している。むしろ立原はソネット以外では詩人として成立し得なかったとさえいえる。実際、立原のソネットは意味が通らない語と語の「ずれ」や「歪み」、多声性と失語性に満ちていることについては前に述べたが、それさえソネットの幾何学文様の一部へと織り交ぜられてしまっている。これはなぜだろうか。

 その理由の一つはよく言われるその「音楽性」にみることができる。ただこれはそのソネットに「音韻」があることとは別のことのように思われる。確かに上の詩「またある夜に」でも、「あらう」「やうに」という韻を繰り返すことによって、音楽的効果を上げていることは確かである(立原詩の「音楽性」については近藤基博の論文「十四行詩の音楽性」(「国文学解釈と鑑賞」別冊「立原道造、至文社、2001所収」が、詩「またある夜に」を含め音律構造に的を絞って明晰に分析している)。しかし私が思うに、立原の「音楽性」とは、その楽譜に似せた詩集の装丁からも分かるように、あくまで「擬音楽」であって、決して実際に朗誦されたり伴奏をつけられて朗読されるためにつくられたものではない。私は実際に音源化されたレコードを昔買って聴いたことがある。誰による演奏と歌であったかは今手元になく忘れてしまったが、私には立原の「詩」はどうしても「詞」にはなれないと思われた。確かに立原はベートーベン、シューマンなど主にドイツ・ロマン派の文学性の強い音楽を愛し、ヴェルレーヌの詩に曲をつけたフォーレの歌曲「優しき歌」はそのまま自らの詩集のタイトルにして晩年に推敲をしていた。このドイツ・ロマン派から生まれたソナタ形式や、リート(歌曲)の形式は、立原のソネット作成には大きく影響したことは間違いないが、それがロマン派の音楽家たちが詩を題材にして「音楽を文学化」させたのとは逆に、詩人が音楽を題材にしてあたかも歌っているように「文学を音楽化」するという精神とは、近いようでいてかなり隔たっている。あのウォルター・ペイターが述べるところの「音楽への憧れ」であったといえばそれまでだが、むしろ前に述べたように、立原には音楽への憧れと同時に、定家同様に世界を言語で埋め尽くしたい衝動、いわば言語至上主義の側面があり、音楽という不可視の捉えどころのない時間芸術を、言語でもって可視化し、「今」の一点に刻印し空間化しようとしたと思われる。(この「音楽の文学化」と「文学の音楽化」については、九鬼周三『文藝論』(昭和16年、岩波書店)所収「文学の形而上学」が参考となる。「音楽が音響芸術であり、文学が言語芸術である限り、時間性格の単層性は音楽の特色であり、重層性は文学の特色である。更にまた声楽が音楽と文学との混合形式であることは言ふまでもないことである。なお、ここに注意を要することは、音楽が音そのものによつて時間の重層性を示さうとする場合には、本来の単層性を否定することによって、自己を文学化することであるのに反し、文学、特に詩が音楽性を強調する場合には、自己本来の重層的性格により、上層の観念的時間を否定することなしに、下層の知覚的時間の音楽性を開示することである。描写音楽の形に於ける音楽の文学化は自己以外の他者となることであるが、文学の音楽化は自己の本質的内奥の発揮にほかならない。何等かの形で音楽を含まない文学は存在し得ない。特に詩にあっては……」云々。この書で九鬼は日本詩における音韻定型詩の可能性について、今読むとかなり強引なこじつけのように万葉から現代にかけてのあらゆる詩にメスを入れて切り開こうとしており、立原のソネットについても触れて、未だ西洋の模倣段階に過ぎないが優れた試みであると述べている。しかしこの書の重要性は音韻定型詩の形式とリズムのさらに向こう側に、詩によって開示される「永遠の今」を見据えている点である。先の立原の詩「またある夜に」における「鏡」の中の「生」の反復性に通じるが、詩の「形而上学」を近代詩史上では吉田一穂と並び最初に明文化した詩論ではないだろうかと考える。そしてこの詩の「形而上学化」が当時の軍国主義国家日本の「神話化」といかに呼応しているかは、あの『新万葉集』への多くの言及でも明らかであるが、その検討は別の機会に譲ることにする)。

 つまり立原のソネットは「文学の音楽化」ではなく、むしろ言語至上主義的な「文学の言語化」、さらに言えば「物体化」であり、あの楽譜を模した詩集の装丁、文字の組み方などにそれは反映している。そして詩人自身も、そうした自らの詩の「非音楽性」を明確に把握していた。決して自らの詩は「歌えない」詩であると。

 

「生涯のひとつの奇妙な時期に、僕の詩集≪暁と夕の詩≫が完成した。風信子叢書第二篇である。僕の憶ひのなかにこの本がイメージとなつて凝りかけた夏の日から今、かうしてひとつの物體になり終へて机の上におかれる冬の夜までに、その短い間に、僕の生は、全く不思議なジグザグを描いた。…(略)…これら意志と寂寥とのほかの場所でうたはれた幾つかのソネツトの喘ぎながらうたひかねてゐるひとつの状態はもう僕のあちらにゐる。…(略)…ソネツト十篇「或る風に寄せて」にはじまり、「朝やけ」にをはる、すべて暁と夕のあひだに光なく眠る夜の歌だつた、光の線が闇をてらす、しかし闇ばかりそれを知らなかつたといふなつかしい夜、だが眠りは潤澤な忘却に縁取られて夜一面にひたしてゐた。眠りのなかで見た夢ではなしに、夢のなかで、生も死も忘れうたつてゐた、オルフオイスの琴。うたひかねて、手の指からは、砂粒はみんなこぼれ落ちてしまつた!」

 

 これは詩集『暁の夕の詩』ができあがった直後、雑誌「四季」(昭和12年7月号)に書かれた「風信子(一)」というエッセイからの引用であるが、自らの詩が「喘ぎながらうたひかねてゐる」ところで書かれる詩であることを吐露している。そしてここで語られるのは「生と死」の問題である。詩人にとって音楽とは「生と死を忘れ」させる「夢」への「跳躍」であるが、「言葉」は「生と死」を紙上に刻印するしかなく、それゆえどんなに歌を真似ようとも、ソネットは一つの塊りのごとく「物體」化したものとして現れざるをえない。むしろ音楽に憧れれば憧れるほど、詩人の「喘ぎ声」は大きくなる。立原のソネットは、まさにその逆説を端的に示しているといえるのである。

 このとき、先に分析したソネット構造を思い出せば、この詩人の不気味といえるほどの特異性が浮かび上がる。それはこの詩人が詩作の中で「死との遊戯性」を示しているところである。ソネットの幾何学構造の構築に執心し、まるでパズルで遊ぶように自らの「生と死」の模様を言語化していくということは、ある生の痛みの感覚が欠落したところで詩作が行われていると考えざるを得ない。そこには極めて冷たい不感症質があるのではないかと。このことを突き詰めると、これまで述べたように立原が必然的に抱え込んでしまった「生」と「死」の「中間者」という観念、また「ロマン主義」が到達した「冷徹さ」とも密接に結びつくことであるが、さらに言えば、「立原道造」という存在そのものの不確定さにまで行き着く。そしてこの点こそが、立原と他の日本の他のソネット作者との決定的な違いである。

 ソネットという詩形式に盛られることが可能な詩語とは、詩「またある夜に」の分析で示したように、「散文」の流入を拒絶、いわば「生者」の思考を拒絶したものであり、「銀の道」の先の光に満ちた「死後」とも呼べる世界を開示するものである。いわばこの詩形を成功させうる者は唯一「死者」のみでしかないということである。ソネットの長い歴史の中で、これを最初に行ったのは、宮廷恋愛詩を書いたペトラルカでもダンテでもシェイクスピアでもなく、ジョン・ダンである。その詩集「Holy Sonnets(聖ソネット)」中「Divine Meditations(神聖なる瞑想)」詩篇で、ダンはもはや「死者」となってソネットを書き、「神」との交感を果たす。ここにいたってソネット形式は「形而上詩」へと変貌し、近代詩へと命脈を保ち、ボードレール、ネルヴァル、マラルメ、リルケ、さらにはボルヘスの「形而上詩」へと受け継がれていくことになった。つまり蒲原有明、薄田泣菫、中原中也といった詩人のソネットの試みは、端的に言ってしまえばその詩作の寄って立つ場があくまで「生者」の側から書かれていたということであり、立原に至って初めて「死者」の側から書かれ成功したと言っていい。この観点を推し進めれば、戦後から現在まで縛られていた「抒情詩人・立原道造」のイメージを、「形而上詩人・立原道造」として捉えなおすことも可能ではないかと考える。

 では「死者」の側から書く、とはどういうことなのか。以前「死にながら生きる」という表現で立原の「中間者」の特性を述べたが、果たしてこれは「生」が先にあって「死」があとから「生」に浸潤してきたことによるものであるのか。通常の時間のベクトルを考えればそうであろう。また多くの「形而上詩」としてのソネット作者も、およそ老齢にいたってこの領域を切り開く。しかし立原の場合、その詩人としてのスタートからすでにソネット作者として完成してしまった。つまり立原は「生と死」の時間軸が逆である。はじめから「死」が立原の精神を完全に支配していた状態で詩作が行われ、「生」が後からやってきたのではないかと考えざるを得ない。詩「またある夜に」の第3連以降の「月のかがみ」に照らされた世界、あれは初稿段階ではすでに「老いた山羊」の視点であった。そこから詩人はこの世にはない「死後」の世界へと読者を「銀の道」によって導いている。詩人はすでにその案内人として「銀の道」の向こう側からやってきているのである。よって立原ははじめから生きていなかったのではないか、という奇想にまで至るのである。そして第1詩集『萓草に寄す』、『第2詩集『暁と夕の詩』、未刊詩集『優しき歌』と、少しずつそのソネットは乱れてゆき、その崩壊の裂け目から立原の「生」の痛みが噴出しはじめる。

 リルケは30歳で『時禱集』において「死」の完全なる支配を悟り、その後「死後」の詩として『ドゥイノ悲歌』『オルフォイスへのソネット』へと至る。立原の不幸は、若年においてすでに『オルフォイスへのソネット』をわが精神として感受してしまっていたことにある。そして「老境」におけるかのごとく「形而上学」の中で、死との遊戯的反復をソネットにおいて示してしまった。20歳の若さでのこの「死との遊戯性」において、完全なる「詩への跳躍」を成すこと、それ自体は奇跡のようであるが、実はこれは何も珍しいことではないように思える。おそらく現代の若者たちの中にも共感を催してしまう者がいる。私もその一人であった。そしてそれはある「快感」をもたらすものである(やや話がずれるが、ガス・ヴァン・サントの傑作映画『エレファント』(2003)を最近見直して改めて感心した。現実に90年代のアメリカでおきた銃乱射事件が題材ではあるが、ベートーベンのピアノソナタ「月光」「エリーゼのために」を弾く少年が「快感」をおぼえなら人を撃ち殺していく心性を、綿密な時間の反復作用を駆使してシンメトリックな映像美へと昇華させたこの映像作家は、単なるヴァーチャルリアリティに浸った少年犯罪という社会学的括りを超えて、「死との遊戯性」が「形而上学」へと至るソネットを映像で作ったとさえ思えた)。

 ここまで来て、やはり今回だけではまだ終わることはできそうもない。この「死との遊戯性」を巡っては、最も重要な人物についてまだ触れていないからである。次回はさらにリルケについても掘り下げつつ、そのリルケを立原に手ほどきしたあの「死の作家」堀辰雄を取り上げて、「立原道造」という詩人がなぜ誕生したのかを見極めて、立原論を終えられたらと考えている。(11.8.7)

36.「「詩のかたち」について」

 

 大地震の発生後この一カ月あまり、神経の張り詰めた日常生活の挟間でリルケを読みなおしていた。これまで私はリルケについてはよく理解できていなかったが、いま読みなおしてみると、私にとって切実な問題をリルケは語っていると思えてきた。立原道造がリルケから大きな影響を受けていることもあるが、いま自分の周りの様々な人間がある得体の知れない圧力に動揺するなかで、リルケの詩が私たちに示唆するものは何であろうか考えてみたい。まずはひとつ引用する。

 

詩人

 

時間よ、お前は私から遠ざかる。

お前の翼搏(はばたき)は私を傷つける。

しかし、私の口を、私の夜を、

私の日をどうしよう。

 

私は持たない、恋人を、

家を、その上に立つ処を。

私が自己を与える万物は

富むでまた私を出し与える。

 

 これは日本で最初にリルケ詩の紹介としてまとめられた『リルケ詩抄』(茅野蕭々訳、1927、第一書房、現在は岩波文庫、2008)中の、リルケ中期の『新詩集』(1907)の詩である。リルケに心酔していた立原道造も読んでいた痕跡がある『リルケ詩抄』(角川版全集第4巻所収のリルケ詩の翻訳はこれを参照した形跡がある)を数年前にはじめて読んだとき、それまで馴染んでいた富士川英郎や手塚富雄訳によるリルケ詩との印象の差に戸惑った。両者の訳はそれぞれ差はあるものの、どれも語一つ一つが石碑に刻まれているかのような硬質さを持ち、リルケという詩人があたかも山中の誰もいない秘境でひとり言葉を杭で穿つ「修行僧」かのようである。しかし茅野訳の場合は、朴訥とした話し言葉であり、どことなく自分に近い場所で語りかけてくれる「隣人」のような親近感が湧いてくる。しかし、それゆえにこそ、逆に翻訳の柔らかさの背後から迫ってくるリルケの峻厳な存在認識にぶつかると、突然つき放されたようにうろたえてしまう。この詩の場合、最後の2行「私が自己を与える万物は/富むでまた私を出し与える。」の部分である。

 二連目の二行目までは、「詩人」という存在は、「時間」の外に立ち、所有するものなく、どこにも属さない「単独者」として示され、「詩人」の孤高のイメージとしては我々には馴染みやすい。ただ最後の2行で読む者を立ち止まらせる。「私が自己を与える万物は/富むでまた私を出し与える。」は読む通り、「私」⇔「万物」の循環論が展開されており、それまでの「単独者」としての詩人像が、どうしてこのような「万物」との循環に至るのか論理的にうまく読み取れない。ここでふと頭に浮かぶのはボードレールの、極小な存在と極大の存在が混然一体となる「万物照応(コレスポンダス)」の象徴領域であるが、リルケの詩には、ボードレールのような激しい神への呪詛、理性の破壊、そしてデカダンスの果てに開示する、あの忘我的な、恍惚的な宇宙との合一感は感じ取れない。リルケの詩はどれも極めて思慮深く、理性を杖に歩むような印象を持つ。それゆえに、この「私」と「万物」との循環がなぜここで突然なされているのかが論理的に読み解き辛い。

 正直に言えば、私は長くこのリルケ詩の論理的な難解さに長く躓きつづけて来た。例えばリルケの詩には常に「なぜなら」という根拠付けが付きまとう。例えば有名な『ドゥイノ悲歌』の冒頭、

 

ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が

はるかの高みからそれを聞こうぞ? よし天使の列序につらなるひとりが

不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその

より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は

恐るべきものの始めにほかならぬのだから。……

                    (手塚富雄訳)

 

 このようにリルケの「なぜなら」は、常に自明のこと、ア・プリオリへの回帰によってそれまでの直線的なロジックをひっくり返す。この一種の「先祖がえり」とも呼びたくなるような自明性への回帰がいつも私には引っかかっていた。がしかしこの1カ月ほど、何度も読んでいるうちに、このリルケ的循環あるいは回帰が少しずつではあるが分かるようになってきた。それはひとえに、いま、動揺する世界の中で私たちにとって「原点」とは何かを問われていると感じているからである。とはいえ、それは単純に「ふるさと」であるとか、「自然の力」であるとか、さらには「この国の力」といった、まるで戦争期の「浪漫派」のそれを髣髴とさせる「起源」への回収を指すのではなく、むしろそれを反省的に思考する「現代」における孤立した「私」とは何かへの問いとしてである。

 一般的にリルケがハイデガーはじめ20世紀の実存主義哲学に与えた影響は大きいと言われる。つまり西洋におけるキリスト教的贖罪観念と、神の救済の観念を拒否し、ひたすらに孤独な人間存在を凝視し、神に頼らない実存の全的肯定へと至った西洋での最初の詩人であったと。冒頭に引用した詩「詩人」にもどれば、最後の二行「私が自己を与える万物は/富むでまた私を出し与える。」に見える「私」⇔「万物」の循環はそのことを示している。もし神の救済の論理でこの詩を締めくくるなら、最後の行は例えば「お前(時間)とともに消え去っていく」といったものになるだろう。つまり「万物」は「時間」とともに「単独者」としての「詩人」から遠のき、「詩人」は「非―時間」の「神」の領域に引き上げられ無時間の領域を彷徨う……。とはいえリルケが「神」を完全に拒否しているかといえば間違いであろう。「富むで」という言葉がそれを暗示する。むしろこのリルケの循環は一神教であるキリスト教より、仏教的な「万物」に神が宿っているとする汎神論に近い。このリルケの「私」⇔「万物」の循環を『リルケ詩抄』の訳者茅野は、巻末解説でこう説明する。

 「自我とは何であるか。リルケは先ずそれを知ろうと思った。自我を以て肉体的個人と考えた人々は遂(つい)に郷土芸術に赴(おもむ)いた。感覚の微妙な魔術に捕えられたものはホオフマンスタアル等のように「美の僧院」に遁世(とんせい)して、新しい夢に没入して行った。リルケも暫(しばら)く之等幾多の方向の間に彷徨(ほうこう)した。…(略)…総べての自己を求める者の苦しみが彼の上に来たのである。そして事物の凝視者であった彼はまた自己の分裂崩潰(ほうかい)をも凝視するの外はなかった。その一つ一つの異なった姿を深く極めて、其奥底の唯一普遍なものを求めようとするのが彼の戦(たたかい)であった。」

 ここからリルケは「感情の重みから脱」し、「物」そのものを凝視し、「自己と万物が漸次親和融合する」認識に至ったと説明される。茅野によれば、この「自我」の解剖から、「自己と万物の融合」へと至るまでに、リルケはロダンの秘書を務めることで、対象を凝視し、対象そのものに内在する生命の躍動を感知する「眼」を学び取ったとされる。実は私にはこの「眼」の獲得がどうしても今まで理解ができなかった。いや今もよくわからない。「自己の分裂崩潰」の先には全くの闇しか見えない。その闇を凝視するとき、それは「盲目」に至ることではないのか。そして詩人とは人々が見過ごしてしまうそうした盲目の世界の「呪われた者」として、世界の外あるいは陥穽に落ちていくのではないのか。だから私にはリルケはどこかで「自我」の闇から眼をそらし、やはり「神」の後光の射す「明るみ」へと出てしまった観が強く感じられてきたのである。これはしかし、私の何とも未熟な読み方であった。さらに一つ『リルケ詩抄』から引く。

 

女等が詩人に与える歌

 

すべてが開かれるのを御覧なさい。私だちもさうです。

私たちはさうした祝福に外ならない。

獣の中で血と闇とであつたものは

私たちの中で魂に育つた。そして

 

更に魂として叫んでゐる。あなたへも。

あなたは勿論それを風景のやうに

眼に入れるだけだ。軟かく、慾望もなく。

それ故私たちは思ふ、あなたは

 

呼ばれる人ではないと。しかしあなたは

私たちが残りなく全く身を捧げる人ではないのか。

誰かの中で私たちはより多くなれませうか。

 

私たちと一緒に無限なものは過ぎ去る。

あなたはゐて下さい。口よ。私たちが聞く為に。

あなたはゐて下さい。私たちに話す人よ、あなたはゐて下さい。

 

 この詩は、冒頭に挙げた詩「詩人」同様、リルケの詩人論でもある。ここでも私はしばし戸惑う。「詩人」は「呼ばれる人ではな」く、ただ「私たち」を見る「眼」であり、「私たち」が聞く「口」である。一体これはどういう意味なのか。この詩も一見論理的な構成を成しているように見え、実に難解である。だからどうしても断片的に意味が分かる詩句を、ある共通語に振り分けて自分の中で組みなおすしかない。たとえば先ずは冒頭の「すべて」に共通する詩句である。

 「すべてが開かれるのを御覧なさい。」「……しかしあなたは/私たちが残りなく全く身を捧げる人ではないのか。」「私たちと一緒に無限なものは過ぎ去る。」しかし結局これだけでは「すべて」とは何のことか、「残りなく」とは何を指すのか、「無限なもの」とは一体、等々、曖昧な印象のまま、この詩に「詩人」の位置を明確に知ることはできない。ただこれらの詩句を何度も重ねて見つめる時、抜き取らなかった詩句が一つのまとまりとして浮かび上がる。

 「……私たちはさうした祝福に外ならない……私たちの中で魂に育つた……あなたは勿論それを風景のやうに/眼に入れるだけだ……誰かの中で私たちはより多くなれませうか……」

 これらは「…中へ」という極めて限定された領域に纏わる詩句である。つまりこれは先に挙げた「すべて」に共通して連想される「外部」への広がりとは逆の、「内部」への極限性である。この相反する「外部」と「内部」の統合に「詩人」の存在位置がある。そして私なりにここに決着をつけるならば、「呼ばれる人ではない」者、「眼」のみであり「口」のみの「詩人」とは、結局すべての人間の「内部」にいる者であるということである。しかしそれは、茅野の言う「自己の分裂崩潰」に至ってなお、「凝視者」として「内部」にとどまりつづける存在である。つまりリルケは徹底して「盲目」を拒否し「凝視」を続ける。そして内部の闇においてなお開かれた「眼」のみの存在となったとき、「すべてが開かれる」。このとき自らの「口」が話すことは、あたかも幼児が初めて眼を見開いた時のような、「万物」を新しく言語化した言語=「詩」である。ここに自己の内の「詩人」が誕生する。つまりこの詩の冒頭二行「すべてが開かれるのを御覧なさい。私だちもさうです。/私たちはさうした祝福に外ならない。」とは、まさにこの最終段階の自己の闇の中から「詩人」が「眼」を開く瞬間からはじまっているのである。それゆえの読みの難解さであろうが、さらに穿って考えるならば、逆説的にこの世には人間の内部以外に固有の「詩人」など存在しないということをリルケは語っているのである。

 ここまで考えると、先に述べたリルケ特有の「なぜなら」の自明性への回帰が一貫したロジックによって、「理性」によって導かれた結果であることがわかるだろう。ただこの自明性への回帰が、果たして「神」の問題とどのように論理的に結びつくかは今後考えなければならないが、少なくとも今の段階ではリルケが到達した『ドゥイノの悲歌』の「天使」や、『オルフォイスのソネット』の「オルフォイス」に象徴される「神的」存在は、徹底した論理性の先の「超論理」の領域への跳躍であったとだけ述べておく。

 ただこのような解釈は、例えばハイデガー流のリルケ解釈に近いかもしれない。ハイデガーはそのリルケ論『乏しき時代の詩人』(『ハイデッガー選集5』手塚富雄、高橋英夫訳、理想社、1958)で、「神」なき現代において、人間は「庇護なき存在」であり、これを守るものは「庇護なき存在自体」しかないと言う。しかしそれは「最も広い世界内面空間の内面性と不可視性の最奥所の中へと守りこ」み、「内的な不可視的なものとしてのその本質に、開かれた世界への離反を転回せよとの合図を与える」という道筋を通らなければならない。ここからハイデガーの有名な概念である「言語」=「存在の家」が展開される。「自己を貫徹してゆく庇護なき存在の領分は、理性の支配を受けているのである」から、その「理性」の賜物である「言語」が「庇護なき存在」を覆う。つまり現代のすべての「存在」は「言語」によって守られる。

 

 「存在は存在自体として、存在の区域を踏破する。そしてその区域は、存在が言葉の中に住んでいるということによって、くぎられるのである(τέμνειν くぎる、それと関連してtempus 《くぎり、時、情況》を考えよ)。言語は区域(templum 聖域、神殿)、すなわち存在の家である。言語の本質は、意味ということで汲みつくされるものでもなく、また単に符牒的なもの、暗号的なものでもないのである。言語は存在の家であるから、われわれは常にこの家を通り過ぎてゆくことによって、存在者に到達するのである。」

 

 私はドイツ語もできず、この難解なハイデガー哲学を訳語で独学でしか読んできていないから、常に語源を見つめながら言葉と存在の関係を思考していくハイデガーの真意はある部分見落としているかもしれない。穴があればどなたかにご指摘していただければと思う。ただ最も重要で、明快なことは、ハイデガー自身が付言しているが、「ただ形而上学の内部においてのみ、そういう論理は発生するのである」という点である。私が長く躓いていたリルケの「自己」⇔「万物」の循環、また「なぜなら……」という自明性への回帰への疑念は、おそらく私がそうした「形而上学」的な領分でリルケ詩を読み切れなかったところにある。つまりどうしても「形而下」でのこと、私自身が生きている現実の「経験」が詩の読解に入り込む。ここがこれまでの私の限界であり、かついまも迷っているところでもある。

 というのも立原道造を読む上でも、またその他の20世紀以降のあらゆる詩を読む上でも、このリルケの「形而上学」は何だか極めて重い十字架のように感じる時がある。ある意味でリルケの「理性」が到達した「形而上学」はその強靭さゆえに迷い苦しむ者を「救済」する詩であるとも言えるが、逆にその何者にも拠らない「存在」自体の肯定性の中には、とてつもない否定性が含まれているとも思えるのである。つまり「万物」=「世界」をどうしても見出せない者にとって、「盲目」のままの者にとって、「理性」ではなく、「狂気」に支配される者にとって、リルケ的「形而上学」は却ってその者の全否定を強いることになるのである。そして私の極めてざっくりとした考えでは、20世紀以降の詩人は、リルケ的な循環論などできず、詩は自己と世界が分裂し、両者への懐疑と否定の認識の上に書かざるを得なかったのではないかと言える。私が若年のころから縋るように読んできた詩は、自己否定の先の自己拡散へと引きちぎられて、意味不明の言語に至った様々な詩人たち(例えばシルヴィア・プラスやヘルダーリンなど)の錯乱の詩であって、そこには「詩の不在」のリアリティ、「非―詩」のリアリティともいうべきものがあった。そしてそうした詩を読みながら「現実」において、前に述べた「オウム事件」など自分が大人になる過程で眼にした様々な事件は、何かそうした「詩の不在」の、リルケ的「形而上学」から、またはハイデッガーの「存在の家」から零れおちてしまった者たちの必然の姿のように思え、私もその一人であると認識していた。

 いやむしろこの「存在の家」から零れおちた者たちが、「形而下」において、「存在の家」の構築を図ろうとした結果起きたのがあの「オウム事件」であったとも言える。あの「ポア」に代表される様々なチベットから借用され再構築された「共通言語」域で彼等は饒舌となる。これは倒錯といえば倒錯であるが、当時の私には何か自分の中の「詩」に通じる心性を感じていた。ハイデッガーの述べる「庇護なき存在」が、「庇護なき存在自体」による「言語」=「存在の家」によって守られるという「形而上学」的思弁を、そのまま「形而下」に落とせば、「オウム」は出現するのである。

ここで以前私が「オウム事件」が、「ロマン主義」の「イロニー」、いわば「敗北の精神」に通じるものであると述べたとき、これに対して批判があったことに触れたい。批判された方は、あれは80年代に流行した世紀末ハルマゲドン思想によって打ちたてられた人類の「生存」を目指した世界救済思想が根本にあり、「敗北の精神」ではないと述べる。またあくまであれは「現代」の問題であって、一つの「ロマン主義」といった抽象論に収斂させることは、何か危険な原理主義的思考であると。例えば「無差別テロ」という犯罪行為の「現実」が、「敗北」だとか「生存」だとかという精神論そのものを無化してしまう以上意味がない。そもそも現代に起こる様々な現象は、社会を構成する多様な諸因子が複雑に絡み合いながら立ち現れるのであり、グローバル社会においてそれはますます複雑化している。9.11以降の世界像を捉えるとき、一つの精神論に収斂させることは極めて危うい逆差別を生む原理主義的思考である。

 さらに私が述べた「戦争」についての認識にも批判があった。つまり「日本浪漫派」の問題を扱いながら、ここでも「ロマン主義」の「敗北の精神」に拘泥するあまりに、「戦争」についての具体的視野が欠けているというものである。例えば経済と政治の問題はどうであったか、あの「大東亜共栄圏」とは一体具体的に何であったか、なぜ日本は「戦争」をしたのか、やはり一部の為政者による「犯罪行為」ではないのか、等々私にはまだ記述に欠けている点が多いと。立原道造含め、「詩」と「戦争」との関連を考える際にも、当然 「戦前」「戦中」「戦後」そして「現在」までのあらゆる文献等に当たり、さまざまな立場の「具体的な」声を聞かなければならない。ここでも私はやはり一つの「精神論」、あるいは「観念論」で片付けようとしている節がある。

 確かに、私の思考の傾向として観念的な側面が強いことは否めない。しかしここで許してもらえるなら、「詩」について語るとき、私の中ではどうしても「詩」を「虚構」の世界のものとして捉え語らざるを得なくなる。そこから発展して「オウム」にしても、「戦争」にしても、私が今語れるのはあくまでその「虚構」のレベルでのみである。おそらくこのことは、文学と社会学の断絶とも言える。以前も書いたが、文学にはどうしても、現実を正確に分析する社会学的観点、またはジャーナリスティックな観点では解決できない、人間のどうしようもない「主観」が中心にある。簡単に言えば「客観的事実」より「主観的事実」が優る。例えば最近数カ月かけてようやく読み終わった桶谷秀昭『昭和精神史』(文春文庫、1996)は、その意味で極めて「具体的」な取材による「客観」と、桶谷氏自身の文学作品に抱く「主観」が見事に交叉しており勉強になったが、やはりこれは桶谷氏の原点にある「戦争体験」が起点となり、そして「詩」への氏の熱い想いが底流している。「精神史」とはやはりその名のごとく、「書き手」の「主観」に重きが置かれてしまうものである。

 だから、私がここで述べていることは私の「主観」に傾いた「机上の空論」であるかといえば、社会学的観点からは明らかにそうであるが、やはり詩的観点からすれば、これはただ「虚構の中の真実」として成立する。だからもし私が過ちを犯すとすれば、むしろこの「虚構」と「現実」を無意識的に取り違えてしまうことである。つまり先に述べた「形而上学」でのみ成立する理論を、「形而下」に持ち込んでしまうこと、それは両者それぞれで完結するはずの論理を破壊する。「オウム」のエリート崩れたちが、「虚構」を肥大化させ、「現実」にそれを投下する結果になったことは、常に「詩」という「虚構」に浸っていた20歳前後の私にとって背筋が凍るようなリアリティがあったということである。おそらく「国家」そのものが「神ながらの国」という「虚構」の祝祭集団となって戦争に突入していった時代に、スーパーエリートであり「詩」という「虚構」を生きていた立原道造の心境は、私のそれをはるかに超える恐怖に満ちていたと私は想像するのである。ただ私は今までリルケを理解できなかったように、徹底して「虚構」と「現実」を分けて詩を読み、書いてきたわけではない。そしてそれがよいことなのかどうかも疑わしい。場合によってはその危険もある。しかし今は、特に今は、「詩」はあくまで「虚構」において語られ、書かれなければならないと考えている。これが以前いただいた批判に対する現在の返答である。大震災後、いま「詩人」はどこにいるのか。「現実」の中で「ふるさと」の標語のもと人々が参与する共同体へ根を下ろすのか、それとも自己の内面の裂目を開く「虚構」において、「存在」の「原点」を、その「無」を、「非―詩」を見定める道を歩くべきなのか。

 そうした意味で、「観念の詩人」という自省的自負を持っていた立原が、リルケの「形而上学」に多大な影響を受け、立原の代名詞とも呼べる「ソネット」をリルケから学び取ったことは、立原が単なる西洋の伝統詩形の模倣をしたというだけでは片づけられない、より危機的存在認識に関連したものと思えてくる。そもそもこのイタリア・ルネサンス期のペトラルカからはじまり、シェイクスピアによって完成する十四行の西洋伝統詩形には何が秘匿されているかは、それ自体一つの大きなテーマであるが、私はここではリルケの詩を丹念に読みながらその意味を考えたい。なぜなら上で述べたようにリルケの詩から分ってきたことは、闇の中で「自己崩潰」していく者が、「無」を凝視し、それでも何かを「書く」のであれば、目の前にはいかなるスタイルであろうとも必ず己の「詩」が現れ、そしてそれは確かな「かたち」を持つということだからである。その驚くべき「無のかたち」は、「自己の崩潰」の果てにでさえ否定しようがなく明らかに残される主体の「経験」の痕跡である。「無のかたち」、などというと変な言い方であるが、これは今まで私がこだわってきた言語化不可能な錯乱と狂気が最後に招来する詩の「秩序」である。リルケはそのことをも詩の中で述べている。

 

これこそがあなたのものだった 芸術家よ これらの三つの

鋳型(いがた)こそ。ごらん ここに第一の鋳型から

打ち出されたものがある あなたの感情をかこんでいる空間が。それから

あの第二の鋳型から 私はあなたのために凝視を打ちだそう

なにも望まない 偉大な芸術家の凝視を。

そしてふるえている地金(じがね)の最初の流出が

心の灼熱から その中へまだほとんど注ぎこまれないうちに

あなた自身があまりにも性急に打ちくだいてしまった

第三の鋳型の中には――見事な死の

凹(くぼ)みが形づくられているのだった 私たちをあんなにも必要とする

あの固有の死の。なぜなら 私たちはこの死を生きているからだ

また この地上でほど 私たちがそれに近くいるところは他(ほか)に何処にもないからだ

            

 これは『鎮魂歌』(1909)の長詩「ヴォルフ・フォン・カルクロイト伯のために」(富士川英郎訳)の一節である。これこそリルケの「詩のかたち」を論じた詩論と呼べる。「第一」「第二」「第三」と「鋳型」は書かれているが、「第一」が「感情の空間」、つまり喜びや悲しみ、怒りといった「自我」の煩悶の段階であるとすれば、「第二」はまさに「凝視」を必要とする「自我の崩潰」の段階である。そして「第三」は「死」つまり「無」そのものの開示である。この「第三」の段階において、リルケの独自性は、「私たちをあんなにも必要とする」と述べるところである。つまり「死」、「無」とは、本来かたちのないものであるはずである。しかし、リルケはそれすらも対象化し、この「死」からの要請によって、「私たちはこの死を生きている」という「生」の認識を獲得する。これもまた例のリルケの循環論である。そしてこの詩の後半でリルケは他の多くの詩人について、「彼等はどこが痛いかを語るために/悲鳴にあふれた言葉を使うのだ/そして伽藍を築く石工が 片意地に/無関心な石と化してしまうように/厳しく自己(おのれ)を言葉に変えることをしないのだ/ だがこれこそが救いであったのだ」と嘆く。

 煩雑にリルケの詩について書いてきてしまったが、私が拘る理由は、もしいま「詩」が求められるならば、それは安易な共同体、または「世界」への祈りや嘆き、そして参与の声ではない。これは「第1の鋳型」に過ぎない。そうではなくて、生きている者が、自らの存在理由に眼を凝らし、なぜ「死」がこの世界にあまたあり、そして「生」があまたあるのかを問い続け、そして自らは「死を生きている」という認識に立つ詩であってほしいと考えるからである。私にとってあの戦争前夜を生きた立原の「ソネット」は、あきらかにそうした認識に立ちつつ建築された陽炎のような言葉の「石柱」と言える。今回は最後に立原によるリルケ詩の翻訳を引用して終えるが、次回はこの「詩のかたち」の発生の謎と功罪について様々に考えていきたい。

 

≪オルフエへのソネツト・Ⅱ≫

 

そしてやうやくそれは少女であつた

これらの幾つかの 歌と琴とのしあはせからあらはれ

そして 明るくきらめいた 春の面紗を透し

そうして ベツトをつくつた 私の耳に。

 

そして眠つた 私の内に。そしてすべては眠りであつた。

樹木よ、それを私は或る時感嘆した、これらの

感じられる遠い景色、感じられた牧場、

そしてあれらの驚き、それが私にやつて來た。

 

それは世界を眠つた、うたの神よ、どうして

それをつくられたか、少女が覺めてゐるのを望まなかつた

世界を? みそなはせ、少女は蘇生しながら眠つてゐる。

 

どこにあるのだらうか、死は? おお、この主題(モチーフ)を

なほ創られるだらうか、あなたの歌の終らぬうちに?

どこに沈むのだらうか、それは私から? ……その、ほんの少女……

 

                    11.4.25

 

 

35.「言葉とのたたかい―津村信夫と立原道造」

 

 立原道造との比較において津村信夫の詩を読みながら、不思議な感覚に襲われることがある。「ロマン主義」精神を脱した成熟した詩人として見定めながら、一読して素朴かつ簡潔、生活にしっかりと根を張っている津村の抒情詩から流れ出てくるものは、ある安心感とともに、巨大な空洞内にいるような孤独感、一種の「おそれ」に似たものである。これは立原の「冷徹」な人工の詩からは感じ取れない。ときどき私はこうした感覚を、詩や絵画、映画などを鑑賞して感じるときがある。例えば清宮質文の版画を観るときや、アンドレイ・タルコフスキーの映画を観るときである。一体この感覚は何であろうか。

 前回の最後に引用した津村の詩「ローマン派の手帖」は、ささやかな小品とも言えるが、私にとってはそうした「おそれ」を感じる顕著な詩の一つである。もう一度引用する。

 

ローマン派の手帖 

 

その頃私は靑い地平線を信じた

 

私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト

復活の日の白鳩を讚へた。私の藳蒲團の温りにはグレーチ

ヱン挿話がひそんでゐた。不眠の夜が暗い木立に、そして

氣がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。

 

 このロセッティら19世紀ラファエル前派の宗教画を思わせる詩は、現代詩を読みなれた私たちにしてみれば、立原の詩以上に単調な古風な詩に思えるかもしれない。ただ私はこの詩を読むたびに、詩人の卓越した技術によって、あたかも100行の長編詩が6行内に密封されたような印象を受け取る。つまり長大な時空のうねりがこの詩の内部には隠されていると。人によって読み方は色々であろうが、私なりに分析してみたい。

 まず意味内容を辿れば、この詩は何ら難解なところがなく、詩人は「ローマン派」であった自身の過去を回顧しているだけだと受け取れる。しかし読後には何かざわざわとした感覚が残る。なぜであろうかとこの詩をしばらく眺めていると、一つの周到な仕掛けに気がつく。それは最後の「氣がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。」の部分である。この「オルゴオル」は一体どこで鳴っているのか。「氣がつくと」という言葉によって、詩人はこの「オルゴオル」がどこか見知らぬ場所で鳴っていたと述べている。それも「いつも」である。これはどうやら第一行目の「その頃私は靑い地平線を信じた」の「その頃」と関係がありそうである。「その頃」とはいつか、そして「靑い地平線」とは何を示しているのか。一体この詩はいつのことを述べた詩なのか。

 そのように考えていくと、この詩はすべて過去形で書かれているのであるが、実は単に過去の一点の出来事を述べているのではないことに薄々気づいてくる。「その頃」という曖昧な表現は、「靑い地平線」という表現が加えられることによって、無限大のどこまでも遡れる過去の広がりを示し、「キリスト復活」、「白鳩」、「グレーチヱン」(ゲーテ『ファウスト』に出てくる少女の名)といった信仰に纏わる記号によって、この詩はもはや神的領域から流れている永遠性を帯びた「時」を読者に感じさせる。そして最後に何気なく置かれた「氣がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた」が、その広大な「過去」を一気に「現在」へと折り返させる。なぜなら音は映像より現在性を帯びるからである。詩人のこの絶妙な修辞技術によって、読者は不思議と現在もこの「オルゴオル」が鳴っているような錯覚に陥る。実際は聞こえないが、ある時「氣がつくと」それは神的領域から響いてくるものであると。つまり詩人は広大無辺の「過去」と「現在」をわずか6行によって二重化させるという離れ業をここで成し遂げていることになる。

 するとここでさらなる疑問が浮かぶ。この詩のタイトル「ローマン派の手帖」である。「ローマン派」とは一体、このような壮大な「神」の問題とどのように繋がるのか。そしてなぜそれは「現在」と二重化されるのか。その点について考えながら、再度この詩を読むと、実は詩人が「ロマン主義」精神に対する類稀な理解を持っていることに気がつく。そしてそれは「ロマン主義」の根本を支える「イロニー」という極めて難解な問題を私たちに突きつけることになる。

 そもそも「ロマン主義」を一言で述べること自体不可能である。「イギリス・ロマン主義」「ドイツ・ロマン主義」などなど時代、国ごとにその精神の形成は相互的にかなり複雑な影響関係にある。そして日本のロマン主義もまた、明治期の様々な外来文学の影響下によって複雑な成り立ちの経緯を持ち、あの「日本浪漫派」にまで繋がっている。そしてさらに「イロニー」については、今でも議論がなされ続けるほど正確な把握ができない概念である。しかし敢えてここで「ロマン主義」が抱えている矛盾律のようなものだけを簡潔に語ってみるならば、「ロマン主義」とは、近代の所産として「神」に代わる「個」の精神を謳いあげたものであり、その「個」の理念がロマン主義の最高位=「絶対者」に到達するためには、結果「個」の解体を齎すことになるという矛盾を抱えている。とはいえそれは「神」と同化することでは決してない。ここで「イロニー」という概念が生まれる。そのような「絶対者」=「個の解体」という矛盾律を、この「イロニー」という認識が、詩人の「反省」的思考、つまり「批評」的思考から生まれることによって、客観的に把握できるというものである。いわば「絶対者」という「神」の領域に至って「解体」されたはずの「個」が、「イロニー」という一語によって、その存在を留保できてしまうのである。もはやこれはロジックを超えているとしか言えないが、それゆえにこの「イロニー」はその後様々な憶測によって様々な立場から利用されてしまう危うい概念でもある。

 前にも触れたヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』では、シュレーゲルら「ロマン主義」詩人の批評の根幹に「神秘主義」の語が散りばめられていることに注目している。つまり「ロマン主義」が固執した「個」を支える「イロニー」の元素が、すでに「神」の領域から拾われている点である。ベンヤミンはこう結論づける。

 

 「個別作品の限定された形式は、イロニー的解体の犠牲となる。ところが、イロニーは、この限定された形式の上方に、永遠なる形式の天空を開示するのだ。それは、もろもろの形式が抱く理念、<絶対的な形式>と呼んでよいであろう理念である。そしてイロニーは、作品の<存(ながら)える生>というものが存在することを証明する。(略)叙述形式のイロニー化とは、いわば嵐、すなわち、芸術の超越論的な秩序の前に掛かる幕を吹き上げ(aufheben)、この秩序を顕わにし、そしてこの秩序のなかに、作品がひとつの秘儀(Mysterium)として直立的に存立している、その直截的な存立を顕わにする嵐、にほかならない。」

 

 この「作品」とは、当然芸術家の「個」から生まれたことを意味するわけであるが、つまり「イロニー」とは、「作品」が「解体」されたのちに、さらにその「上方」にある「秘儀」を顕わにするものであると述べている。それも「解体」を「aufheben」=「止揚」することによってである。誰が「止揚」するのか。それは他者ではなく「作品」内にすでに埋め込まれている「非―個」の何かと述べる。それがまさに「ロマン主義」の根本にある神秘主義的精神である。

今の私にはこれ以上この難解な「イロニー」の概念について語ることはできない。ただ、これが「ロマン主義」の根幹に横たわる矛盾であり、さらに言えば「近代人」ひいては「現代人」そのものが拠って立つところの「個」を揺さぶる絶対矛盾につながることは分かる(しかしベンヤミンの諸論文は、自身が抱えている「神秘主義」を背景に書かれたものであるとも取れ、批判でき得る点もある。それはベンヤミンのその後の仕事で更新されていった問題であり、かつ現代の私たちに残された未解決の問題でもあるから、今後も考えて行きたい)。

 つまり私が言いたいのは、この「ロマン主義」の「イロニー」という矛盾の肯定が、津村の詩「ローマン派の手帖」に見事に反映されているということである。先も述べたようにこの詩で無限大の「過去」が、「現在」に二重に折り畳まれていると考えれば、これは単に「私はかつてローマン派であった」という過去を回顧する詩ではない。逆に、詩人が「絶対者」となり、そして「解体」された後に、「イロニー」によって「現在」も「秘儀」のごとく目の前に開かれている詩であると読むことが可能である。詩人という「個」はもう存在しない。しかし「手帖」は今も開かれて私たちの目の前にある。だからこの「手帖」は「不在証明」である。「私」はここに「解体」され、しかしここに「いる」、と。

 津村の詩に私が感じる「おそれ」はおそらくこの「イロニー」をいとも簡潔にやってのけてしまうところである。「個」とその「解体」の二重化、「現在」と「過去」の二重化、「神」と「人間」の二重化が、単に詩的言語のテクニックにおいてではなく、このような詩的精神において明晰に行われてしまう。

 人は本来、過去―現在―未来という単線的時間軸の中で生きるのが筋である。そして現在において「私」がここにいるという確かな実感において生きている。そして希望とは、そうした時間軸の中でのみ可能である。なぜなら希望とは、「未来」を見据えてのみ抱かれるものだからである。逆にそのように希望が見いだせるからこそ「現在」は成立してもいる。そして生きていける。この単線的な時間軸を折り畳んでしまうとき、そして「私」を「解体」させてしまうとき、希望も何もかも消えてしまう。立原の、ヘルダーリンに類似する「神聖にして冷徹」な境地は、ここに至っているとも言えるが、それは一瞬の時が停止した風景に過ぎない。時がねじれ、折り畳まれてしまうとき、彼らの生は「解体」してしまった。つまり「ロマン主義」の「個」を支え得る「イロニー」など、実際は不可能なのである。

 津村の詩を、「脱―ロマン主義」と述べたのは、この点である。津村が「ロマン主義」の「イロニー」をいともた易く克服できたのは何か別の「生」の支えがあったからに違いない。もう一つ「ローマン派の手帖」が収められた津村の第1詩集『愛する神の歌』から同タイトルの詩を引く。

 

愛する神の歌

 

父が洋杖をついて、私はその側に立ち、新らしく出來上つ

た姉の墓を眺めてゐた、

 

噴水塔の裏の木梢で、春蟬が鳴いてゐる。

若くて身歿(みまか)つた人の墓石は美しく磨かれてゐる。

 

ああ、嘗つて、誰が考へただらう。この知らない土地の靑

空の下で、小さな一つの魂が安らひを得ると。

 

春から秋へ、

墓石は、おのづからなる歴史を持つだらう。

 

風が吹くたびに、遠くの松脂の匂ひもする。

 

やがて、

私達も此處を立ち去るだらう。かりそめの散歩者をよそほ

つて。

 

 この詩もまた一読すると極めてシンプルで、意味も通っている。ただ読後の印象はその題に比してずいぶん淡泊で、ひと筆描きで書いたような、人によっては味気ない終わり方と感じるであろう。また一体この「愛する神」とは、死んだ姉のことを指しているのか、またはこの詩全体を包む「光」のようなものを言っているのか、掴み難い。ここにもやはり私は「ローマン派の手帖」と似た、妙な空間のゆらめきのようなものを感じる。その謎は丹念に読むと、「神」の位置が、この詩のなかで微妙な転位を成している点にあることに気がつく。

 まず最初の2連まではほぼ散文における現実の情景描写であり、ここまでは「神」は「姉」のことと読むことは可能である。しかし3連目「ああ」を起点として、この詩は韻文へと変貌し、「ア」と「オ」の押韻、「だらう」のリフレインで構成される。そして「神」は「姉」から「一つの魂」へと転位し、時間は「春から秋へ」とまるで空に半円を描くように急展開し、「墓石は、おのづからなる歴史を持つだらう」と、人智を超えた認識を導入する。しかし詩人は決してこの認識を拡大させ、壮大な長編詩へと展開させはしない。なぜなら詩人は「父と私」といまだ「生」の場にいるからである。むしろこの「おのずからなる歴史」は、もはや「神」の領域であるから、二人は無名の「かりそめの散歩者」と化して排除されねばならない。

 この詩において、「ローマン派の手帖」の「オルゴオル」と同じ効果を持つところは、まぎれもなく第5連「風が吹くたびに、遠くの松脂の匂ひもする。」である。この「匂い」もまた「音」同様に現在性を帯びる。「松脂」は今日の都市に育った私にはなかなか実感として分からないが、単に松から香るものではなく、松脂によって製造されたお香か蝋燭といったもので、墓苑にはそうした香りが風に漂っていたのであろうと想像する。これは「死者」の世界から漂ってきている感覚を読者に齎す。この一行の導入によって、この詩にも「現在」と「神の領域」=「永遠」の二重化がもたらされているのがわかる。

 しかしここでも不思議なのは、詩人が「神」の眼ともよべる視点を、いとも簡単に重ねることができるところである。「姉の死」という極めて個人的な領域が、わずか数行のうちに「神」の絶対領域と重なっていく。そして自らの存在を一瞬にして不在にさせるのである。まるで「個」と「神」の間に何ら境界線がないようである。

この津村信夫の詩集『愛する神の歌』が出版されたのは昭和10年、詩人はまだ27歳であったが、こうした職人芸とも言える修辞技術と透徹したロマン主義の認識を持つ詩は当時すでに玄人たちの間では評価を得ていたようである。『津村信夫全集』(角川書店、1974)に収められている詩集出版記念会の写真には、室生犀星、西脇順三郎、萩原朔太郎、三好達治、丸山薫、そして日本で最初にリルケの紹介をした茅野蕭々などの面々が映っている。津村が立原とともに「四季」派若手のホープとして昭和初期に活躍したことは詩史上で知られているが、立原より5歳年長の彼は、立原より先に詩の世界ではある程度知られる存在であった。詩「ローマン派の手帖」は昭和6年7月に「三田文学」に、詩「愛する神の歌」は昭和9年8月に「文芸」に発表されたものである。果たして当時津村の詩はどのように読まれ評価されたのか。まさに同時代は「日本浪漫派」が席捲する時代であった。

 立原道造はこの少し年長の詩人に対して、敬意とともに親近感をもっていたことは、幾つかの津村宛の書簡を読むとよく分かる。また詩集『愛する神の歌』の長い書評も書き、津村の詩への並々ならぬ関心を示している。

 「僕は、この詩集から一篇一篇の詩を讀まなかった。全體として、一つの物語(ロマン)を讀んだ。(略)はじめ、言葉といふ物に不思議な生命を見出した少年が、やがて歌、それは春鳥に誘はれおのづから調べをなすものへ、ひとつの人生の線に沿つて歩み行く物語(ロマン)である。」

 物語を愛する立原らしい視点である。さらに、

「愛惜を以つて言葉に近寄つた詩人は、或は傷ついたかも知れない。しかし彼には人生があつた、日を日に比べることなく、直接に萬事をそこから學ぶ人生であつた。そして、傷つかないうち彼は言葉を凭せることを諦めた。傷ついて捨てたのではない。ここに彼がすこしも浪漫派的でない所以があつた。おそらく言葉とたたかふことなく、『ことだまの幸はふ』としたこの國の血のかなしい諦念であつた。」と述べ、最後に「王朝以来のこの國の傳統した抒情(リリック)……」というぼやかした一行で締めている。

 このある種の言語論は興味深い。ときにこれが書かれたのは昭和11年2月の『四季』誌上で、立原22歳、第一詩集『萱草に寄す』(昭和12年5月)出版以前である。立原が津村から受けた影響について論じたものを私はあまり読んだことがないが、立原の詩には津村からの「本歌取り」が少なくなく、かなりの影響を受けていることは確かである。一例を挙げれば、『萱草に寄す』の巻頭詩「はじめてのものに」の第3連「――人の心を知ることは……人の心とは……」は、津村の散文詩「花樹」中の「人の心を知ることは、人の心を把へることは……。」から取られており、書評でもこの一行に触れ、これを津村における「言葉の発見」の瞬間であると強調している。ただ興味深いのはこの立原のエッセイ全体が、どこか含みのある言い方で焦点がぼやけていることである。

 例えば「彼には人生があった」「浪漫派的でない」と言い、「言葉とたたかふことなく、『ことだまの幸はふ』としたこの國の血のかなしい諦念」を持つ詩人と言うときに、津村信夫という詩人は自分とはどこか違う資質の持ち主であることを感じていたと読み取れる。立原は早くから自らを「観念」の詩人であると自省的に自覚しているが(この時期はまだ「中間者」という概念はない)、津村の詩の根底に流れる「人生」的なものとは立原は相容れないはずであった。そして特に注目したいのは、「言葉とたたかふことなく」というところである。これは書評の最後の言葉「王朝以来のこの國の傳統した抒情(リリック)……」という曖昧な形で締めている部分との関連において立原の「人工」の問題と深くつながる。この「王朝」とは、立原が傾倒した「新古今」時代、つまり平安王朝を指すのではなく、奈良王朝のことを指しているのは、「ことだまの幸はふ国」と述べていることでもわかる。立原にとって重要なのは「新古今」の、あの定家の名歌「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ」に端的に見える、虚構の世界を「言葉」によって現出せしめる「人工」の詩であって、それ以前の記紀万葉にまで遡る日本の詩歌は、「春鳥に誘はれおのづから調べをなす」詩、いわば神々と死者が宿る「自然」を乞い詠嘆する古代の歌であって立原の詩学に結びつかない。それを立原は「人生的」と言って退けてしまう。ここに立原の言葉に対する認識の危うさがある。

 つまり立原が言う「言葉とたたかふ」とは、その「人工」の詩学の必須条件であって、言いかえれば「言語化不可能なものを言語化する」と言うことである。以前中原中也との比較において、中原が「名辞以前のもの」を見、そこには触れ得ないという認識に立って詩作したのに対し、立原はそこに触れようとして詩作したと書いたが、ここにもそうした立原の姿勢は当てはまる。立原は何としてでも世界を「言語」で埋め尽くしたかった。いや「世界」ではなく、これまで何度も述べたように、それを名指さない限りは到底生きることが不可能な内なる「狂気」である。この点で定家の虚構の世界を現出せしめる「人工」の詩は、立原にとっての最大の規範である。その修辞は、自らの中に口を開けた暗黒部を、外部に照射することが可能であることを意味した。また立原が憧れたヨーロッパ中世の歌物語にも同じ原理があるとも見える。

 例えばあの13世紀の恋物語詩の古典『薔薇物語』中の、自らの姿を映し出す泉に見入って恋に落ちるナルキッソスの逸話は、自己愛の寓話として有名であるが、これは中世世界における「鏡」が持つ作用の重要さを物語ってもいて、自己内の本来見えるはずのない「像」を外部に映し出すという意味でも語られている。中世とは、この「鏡」の作用によって、自らの内なる倒錯した心性、暗黒部、あるいは欠落を満たしていくことが可能な時代であった(この中世の「詩」と「表象」についてはジョルジョ・アガンベンの初期の文学論『スタンツェ』(岡田温司訳、ちくま学芸文庫、2008)が大変刺激になったので参照されたい)。

 この観点から立原の歌物語「かろやかな翼ある風の歌」(昭和11年)を読めば、これを単なる中世フランス歌物語『オオカッサンとニコレット』の模倣による、稚拙な恋愛寓話劇であると簡単には退けられない。なぜならこれはよく読むと、まさに中世の「鏡」の作用が働いているからである。序の一部を引用する。

 

 「私が眼を見ひらいたときに、霧のなかに一人の少女がぢつと私を瞶めてゐた。それは憩いであつた、私がすでに持つてゐたのは、そして少女があこがれて巡禮して來たのは。朝日はまだ霧を散らしてゐなかつた。私たちはおなじことを考えてゐた。私は、いつの間にか自分がその作者となつてゐた物語を、その少女の耳にささやいた。私の聲は杳かな木靈のやうになり、聲は私の身體とかかはりのないやうに静かにかろやかに響いた」

 

 物語はこの幸福な出会いが引き裂かれ、「私」である青年が風になって肉体を失うところから始まる。その後青年は「うつし世」に己自身(詩人)を見つけるのであるが、立ち戻ることなく少女(風の天使)を求めて空を彷徨う。少女の姿はどこにもないが「歌」は聞こえる。青年は自らの嘆きを「語り」に託すが、少女の「歌」はいつも見知らぬ場所から響いてくる。やがて青年は、少女を地上に見つけ、自らの肉体を取り戻し、最後には結婚して終わるのである。

 私はここに立原における「現実」と「観念」の分裂の姿が、詩人自身の手で正確に捉えられながら描かれていると思うが、特に分りやすい構図は、「うつし世」=「現実」と、「言葉」=「観念」が、相補的に「鏡」に映し出される関係になっている点である。詩人は自らの内面に広がる精神の「闇」を、空を舞う「言葉」=「鏡」に照らしだして肉体の外に抽出しているかのようである。とすればこれは青年と少女の恋愛劇の姿を借りた「自己愛」の物語でもある。この「鏡」=「言葉」の作用を立原は意識的に書いたかどうか分らないが、近代詩の「個」が主体となって書かれる形式では満たされない自己内の闇を、この中世の「鏡」の形式で何とか照らし出そうとしたのではないかと私は感じ取る。

このような立原の「言葉とのたたかひ」、言わば「言語至上主義」とも言える詩的精神は、実は中学2年のころにエスペラント語を学んでいたことにもよく出ている(筑摩版全集第5巻所収「年譜」)。その成否は別として、エスペラント語は詩人にとって「新しい言語」として、未だどの言語も名指すことのできない地平を切り拓く可能性を孕んでいると捉えられたのかもしれない。このエスペラント語と立原の関係は詳細が知られておらず、憶測でしか語ることはできないが、これも「人工」の詩人らしい一つのエピソードと言える。また様々な方言の収集やローマ字による詩作等々、遊びの域を出ないものではあるが、この詩人の「言語」への偏執を物語るものである。ただ、これから考えなければならないのは、この立原の「言語至上主義」とも言える姿勢が、まさにあの時代の「浪漫派」の罠に絡めとられてしまう点であり、そして津村信夫の「言葉」へのアプローチがそれを免れた点である。

 先に津村信夫が、「ロマン主義」の「イロニー」をいともた易く乗り越えたと述べたが、これは津村の詩における「言葉」の捉え方がもとにあると思われる。立原が津村に感じた「言葉とたたかふことのない」姿勢とは、実は立原が言うように決して「諦念」から来るものではない。津村はむしろ立原以上に「言葉とたたかふ」詩人であり、かつ「言葉」とは何かを知り尽しているように私には思える。いみじくも立原が「王朝以来のこの國の傳統した抒情(リリック)……」と述べたことにそのことは簡潔に示されている。というのも、津村の詩が、「過去」-「現在」―「未来」が折り畳まれて、神的な時間である「永遠」と「現在」の二重化によって構成されている点は上で分析したが、つまりこの詩人にとって記紀万葉の「神」は決して遠い「起源」に存在しているのではない。「神」は常に「現在」に染み込んでいる。そうなると詩人にとっての「言葉」はいかなる位置をとるのか。

 詩「愛する神の歌」にある「おのづからなる歴史」とは、何も神々しい「起源」へ遡る「歴史」のことではなく、すぐ目の前にある、ただ「墓石」とのみ名指すだけで十分の、それ以上でもそれ以下でもない「墓石」の説明に過ぎない。「永遠」の時間を漂う「神」は、「今」目の前の「墓石」そのものである。しかしそのとき「父と私」という「個」は、「散歩者」という名に変わり「不在」となる。ただそれだけのことである。詩人にとって、「言葉」の背後に意味以上の、何かとてつもない深淵があるわけではない。つまり「言語化不可能」なものなど何も生まれない。だから近代「ロマン主義」の「神」に代わる「個」なども津村にとっては理解しがたい概念である。さらには「ロマン主義」の「個」の絶対性にともなう「個」の「解体」、それを肯定する「イロニー」、そのようなものはこの詩人にとってはじめから無効なのである。詩「ローマン派の手帖」における見事な手捌きはこれを証明する。「個」が消えても、そこには「永遠」の「言葉」が確実に書き残される。

 この点、立原はやはり「近代人」であり、「浪漫派」である。「歴史」は確実に「過去」から「現在」、「未来」へと進んでいる。「神」が失われた時代を嘆きながら、「近代」の「個」を追求し、その存在の危機に苛まれ、「うつし世」と「観念」、「理性」と「狂気」といった二元論に引き裂かれてしまう。「新古今」や中世歌物語への憧れも、あくまで近代主義の立場からの「憧れ」に過ぎない。立原の錯誤は、このような「歴史」観を克服できないまま、「神的」なものを、「言語化不可能なもの」としてしまうところである。

 しかしそれは立原だけでない、当時のほぼすべての青年に共通する問題である。つまりあの時代において「歴史」は、保田與重郎ら「日本浪漫派」が作成する「歴史」である。その「起源」には、自らの「美しい死」によって合流する「神」が絶対理念として存在する。「ロマン主義」の「個」は、保田によって「歴史」に埋没させられる「敗北の美学」へと変転していった。立原はここに足をすくわれる。「言葉とたたかひ」ながら、「言語化不可能」の領域に赴くとき、保田が示した「起源」は巨大であった。少し長いが保田の「言語」と「歴史」、そして「詩」の発生論を部分的に分けて引く。

 

 「萬葉の歌人は神ながらの國を歌つてゐる、言靈の幸ふ國を称へてゐる、さらにそれを見たり聞きたりと入念に註してゐる。ほゞ五百年の期限依然として衞られてあつたが、嚴密に神典時代を防衞することは、早くも萬葉のころでさへ人工となつてゐた、それはすでに古くこの時を去る五百年とかりに數へる。人皇と神との同殿共床の思想は理由なく、外來文明の移入のさきに失はれて、以降中世に入つて再び神人論は省みられなかつた。一切が垂跡の象徴として論じられたが、我々の祖先の象徴は同殿共床であつた。形あるものと形なきものとの同殿共床である。この二物の調和のため、問と答が思索され、ついでその表現としての戰ひが思索される。そこから語がまづ問われ倒言が答へられ、諷が問われて歌が答へられた。」

 

 「日本の神道は最も美事なまでに人間の言葉にいださぬ中心におもふ所に繋るものである。それを意味することばである。表現としては藝術的拒絶と壓搾だけを強要する。人間の否定でなく、人欲と神氣を二つもつた人間を肯定する高次の場所である。人欲のあはさの自覺によつて神人分離が発生したのでないことを、日本武尊の悲劇は象徴してゐる。人間の旅心は、單にあはい目的から發生したものにすぎない。その淡いものを彩る美事さに悲劇が描かれる。開化と上昇との、別離と離合とのそのはかない戀心だけが、自然の中にもあつた。日本武尊はつひに一つの歷史である。この文化の歷史である。當然崩壊すべき『神典時代』の、その美しいくづれゆく日を示す一現象である。」

 

 「日本の神典、神道の教へは、言葉にあらはれない、中心にあるものの意味である。表現の機能を完成し、完璧にするための思索が、言靈としてあらはれたのである。完成されてゐる意味での、『混沌の住家』を知り、それを描く方法を講じたのが上つ代の表現の思考であつた。人と神とを外に見ず、神人論を考へる、だから人道の表現と神道の表現の象徴の場所を思はねばならなかつた。」

 

 すべて『戴冠詩人の御一人者』からの引用であるが、この保田の言語論は、「歴史」以前の「起源」である「神典時代」をいまだ「言葉」のない「混沌の住家」と呼び、「言葉」による「表現」とは、その「混沌」から発せられる神々の「言靈」を完成させるためにあるとする。その「神」と「人」が未分化であることを示す「同殿共床」、「神人論」など国学の知識を駆使しながら、日本武尊こそは、その「神典時代」の最後に現れた最初の「言葉」の具現者=「歴史記述者」であり、「武人」「英雄」そして「詩人」であったとする。つまり平たく言えば古代、中世、近代の「歴史」はすべて日本武尊を通して「神」につながるということである。

保田が記紀万葉の神々までを召喚して、近代国家日本の絶対条件としての「歴史」を作成したことは前に述べたが、この「歴史」と「言語」、そして「神」の三位一体が、戦争の時代、特に若者が次々と戦場へと駆り出され、そして犬死にしていくのを、次は我が身であると考えざるを得ないとき、立原にとってどれほどの救いとなったか。立原の書簡のなかで、戦地へと駆り出された友人について触れている絶望的な言葉を読むと、決してこのような「日本浪漫派」的精神に傾いて行った立原ら若者たちを今日の立場から一方的に批判することはできない。そしてこれは何も保田だけの問題ではなく、日本の「歴史」の発掘作業は、柳田国男にはじまる民俗学、それを引き継いだ折口信夫の国文学研究にまで広がる。ただ折口が今もなおその磁力を失わないのは、保田とは逆に「歴史」に回収されない神々の世界を切り開いている点である。例えば「古事記」の記述について、その時制に着目する。

 「呪言は、一度あつて過ぎたる歴史ではなく、常に現實感を起し易い形を採つて見たので、まれびと神の一人稱――三人稱風の見方だが、形式だけは神の自敍傳體――現在時法(寧、無時法)の詞章であつたものと思はれる。完了や過去の形は、接續辭や、休息辭の慣用から來る語感の強弱が規定したものらしい。」(『折口信夫全集第1巻、古代研究(国文学篇)』所収「国文学の発生」(昭和4年)、中公文庫、1975)

 

 このように折口は「神」と「歴史」を結合させない。これは保田と対極にあって、あの時代、極めて異端者的立場であったのではなかろうか。そして、これが津村信夫の詩にも通じるものであることはもはや分かるであろう。立原が津村について言い淀んだ「王朝以来のこの國の傳統した抒情(リリック)……」とは、この折口的「無時法」にその詩が通じることを感じていたであろうが、やがて「生」と「死」の間の「中間者」として、あるいは「神」と「人」の間の「中間者」として、いわば「ロマン主義」精神の「イロニー」の矛盾に引き裂かれていった「近代」詩人としては、この「無時法」より、保田の「神人論」の「起源」へと導く歴史観に、一つの道標を見出してしまったのかもしれない。

 そして他の多くの詩人たちがこの「日本浪漫派」の歴史観に翻弄されていく風潮の中で、津村は何を考えていたかは推して図ることは可能であろう。最近出た筑摩版『立原道造全集第5巻』では、『四季』35号(昭和13年)に津村と立原、そして神保光太郎の座談「『測量船』に就て 現代の詩集研究Ⅰ」が入っていて興味深く読んだ。『測量船』とはもちろん三好達治の詩集(昭和5年)のことであるが、座談の内容はそれほど密度が濃いとは言えない。ただ「日本浪漫派」の創刊メンバーで、後に戦争賛美の詩を率先して書くことになる神保光太郎と、そちらへと吸引されつつあった立原、そして津村との意見の食い違いはよく見える。少し引用してみる。

 

   「測量船」の位置

 

津村 当時の一つの潮流であつた、シユルレアリズムの意図を考へてみると、自由詩は人生的な意味や、感情の強調で、もつとも平俗なレトリツクで表現されてゐた。そのあとを享けたシユルレアリズムはレトリツク自身のなかに芸術を見出さうとしてゐる。あの人間感情から孤立した言葉の図式のなかに。

神保 あゝ、さうした潮流、もう一つ言ふと、一方にプロレタリア詩のやうなものがあつた中に、三好達治はともかく自分を失はなかつた詩人だと言へるね。

立原 自分と云ふよりも、寧ろ血統を。三好達治はさうした潮流の中で、意識してゐたかどうかは知らないけれど、「血統の防衛」であつたと云える――室生、萩原の……

神保 うん。繰り返すやうだが、抒情的に見えるが新らしく読みかへしてみると、いろんな意味で、たいへん闘争的なものだね。

立原 だから「測量船」は「古典の親衛隊」である――今日の言葉で。

津村 闘争といひ、血統の防衛といふことは今日にしてはじめて言ひ切れることだと思ふ。

僕は三好といふ人は自己の道しか歩けない強味であつたと思ふ。

神保 そりや、面白い言ひ方だね。

 

 津村はこの座談では三好達治をシュルレアリズム時代に、一人抒情詩を書きつづけた「単独者」であるとして評価し、特に非人称の風景詩を評価するが、立原、神保は三好の混沌としたロマンティシズムに重きを置く。立原の言う「たたかふ」詩人としてである。座談では明確には出てないが、この断絶は大きい。

 三好達治は、結局津村の評価とは裏腹に、やがて時代に呑みこまれて戦争詩を書くことになるが、おそらく津村の三好評は自分自身の立場の投影であったであろう。津村は戦時下において、愛する信濃を一人ふらふらと旅をし、第2詩集『父のゐる庭』(昭和17年)第3詩集『在る遍歴から』(同年)を出し、立原の死後、立原に代って『四季』の編集者として堀辰雄を手伝うが、その後3年余りで昭和19年に病死してしまう。36歳であった。そして『四季』は廃刊。昭和初期の抒情詩がここに終結する。立原、中原、津村、とこの昭和初期の若き抒情詩人は、三者三様ではあるが、あまりにも早く死んだ。戦後までもし生きていたら、戦後詩は、そして現代詩はまるで違う姿になっていたに違いない。

しかし津村の詩は立原や中原ほどポピュラリティーを持っていない。それはおそらくその詩が今も、私たちが根本的に乗り越えていない「近代」を、「ロマン主義」をいち早く乗り越えている点であると私は考える。私はやはり未だ津村の詩境には至れない。どこかにまだ「近代」が私の中で重くのしかかっている。「個」に固執し、そのくせ未だ「個」が確定できずふらふらしている。本当は今回、以前数名の方からご批判をいただいた、現代における「ロマン主義」精神の危うさを、私がなぜ「オウム事件」や「エヴァンゲリオン」に見たかを詳しく書きたかったのだが、どうやら津村信夫の詩とこの問題を対置することで、より鮮やかになるかもしれないと考えられる。次回にそれは検討したい。今回は最後に津村が立原を追悼した詩を引いて終わる。やはり津村信夫は「永遠」の時を旅する詩人である。

 

晴れた日のわかれ

 

――眠つてゐると 雲が部屋の中まで這入つてくる 私は起きていつて窓をとざした

 

こんな手紙の書ける男だつた

若い男はもう死んでゐた

だが私には その死がきびしく考へられなかつた

雲が湧く 木の花の眺め

日の照つてゐるあたりには

あの男は やはり生きてゐた

人が心に思ひ出すまゝに 自在に生きてゐた

ある晴れた日に

私は田舎の道を歩いていつた

木橋の上を渡つていつた

私は活(いき)々した顔の娘とすれちがつた

振り返つて見た 美しいなと思つた

足もとの草の葉を靜かな風が吹いていつた

「この美しい生のあるところ」

私はさう思つた

忘我のなかで ふと 私はあの男のことを思ひ出さうとした

「あの男は死んだのだ」

雲が割れて ひとしきり明るい日の光りが微笑むやうに私に囁いた

 

死者に

私はやはりあの男にお別れを云はねばならなかつた

 

                    (11.1.24)

34.「終らないロマン主義」

 

生の半ば     ヘルダーリン  吹田順助訳

 

黄色なす梨の實は

枝もたわわに、野薔薇水に映らふ

湖の岸べに立てば、

らうたき白鳥よ、汝達(なれたち)は

けうとしや、接吻(くちづけ)に醉ひしれつ、

頭(かうべ)をひたに浸すらし、

 淨らにも冷たき水の中に。

 

 悲しからずや、冬としなれば、

 われはいづこに花を摘ままし、

 いづこに日の光を、

 地上の影をや求めえむ。

 障壁(へき)は言葉なく、冷かに連なりて、

 風吹くなべに風見(かざみ)ぞきしめく。

 

 

 数年前に古本屋で偶然見つけて買った『世界詩人叢書6、ヘルデルリーン詩集』(昭和24年、蒼樹社)から引いた。和紙で綴じられた繊細な手触りの小さな正方形の詩集で、戦争が終わって間もない時代に、この詩集を買った青年はどこでどのような気持ちでこれを読んでいたのだろうかと、読むたびに考えさせられる。

 この18世紀の詩人ヘルダーリンが、現代詩を語る上でも欠かすことのできない詩人であることは言うまでもないが、立原道造が多大な影響を受けた詩人であることもよく知られる。今回この「生の半ば」を引いた理由は、立原への影響を検討する上でのこともあるが、まず前回、立原における「詩」と「戦争」の問題に触れ、最後に詩人が垣間見たものは「ロマン主義」の「敗北の美学」の果てにある「虚無」ではないかと述べたあと、しばらく「ロマン主義」に対する自らの考えを再確認する必要に迫られ、このヘルダーリンやノヴァーリス、シュレーゲル、さらにはブレイクなど神秘主義に至る詩人たちをも読みなおし、その「虚無」とは一体何であるか、そしてなぜ私はそれを「美しい」と感じるかを暫く考えていたからである。

 正直に言えば、私には「戦争」を語る力もなければ、「ロマン主義」について系統立てて述べる力もない。そもそもヘルダーリンを「ロマン主義」の系譜に置くのはどうかという意見もある。確かにその詩はあらゆる定義を逸脱するが故に今日の詩にも影響を与え続けているといえる。立原道造もそうで、「ロマン主義」の詩人と定義づけはできない。立原の詩、物語作品を読めば、そこには「ロマン主義」以前の中世の「歌物語」への憧れがあり、ロマン主義的な「美」への陶酔より、むしろ逆の、凍ったガラスを透かして見る静的な廃墟の風景である。

 しかし私はあえて「ロマン主義」という言葉を使いたい。なぜなら、私が立原道造に出会って以降(つまり詩に出会って以降)、詩の読み方が、常に私の中の歪んだ「ロマン主義」が反映されてしまっているからである。それを私は「狂気」と書いた。

 ならば近代日本の「浪漫主義」の系譜には明治期の北村透谷はじめ多くの狂詩人がいるではないか、彼らの詩の方が、立原の整ったソネットの調べよりも激烈な錯乱をきたしているではないかと言われるであろう。その通りである。しかし、これまで述べてきたように、立原の詩に私はそれらの詩人以上の底深い「狂気」を感じてしまうのである。つまり「止揚」された「狂気」が、14行に整えられた詩語の背後の、凍りついた無表情の「沈黙」の内に閉じられているという認識である。そこには「他者」との一切の「対話」はない。立原が自己の内の「他者」を仮想し、それとの「対話」を執拗に求めた痕跡を私はその詩に見るが、それは決して「狂気」を癒すためものではなく、逆に「狂気」と握手するためである。そして「狂気」の閉じられた否定性を、「夢」という「聖性」あるいは「神性」の開けた肯定性へと転ずる弁証法が「詩」であると信じたからである。ただしそれは一瞬のみ成功したに過ぎない。上に挙げたヘルダーリンの詩「生の半ば」のように、例えば下に引く立原の詩の冷たい静止した風景は、始まりも終わりもない「中間」の、永遠に消えない人間精神に宿る「狂気」の瞬間冷却の風景である。そこに私は立原道造における「ロマン主義」精神の一つの到達点を見る。

 

初冬

 

けふ 私のなかで

ひとつの意志が死に絶えた・・・・・・

孤獨な大きい風景が

弱々しい陽ざしにあたためられようとする

 

しかし寂寥が風のやうに

私の眼の裏にうづたかく灰色の雲を積んで行く

やがてすべては諦めといふ繪のなかで

私を拒み 私の魂はひびわれるであらう

 

すべては 今 眞晝に住む

薄明(うすらあかり)の時間のなかでまどろんだ人びとが見るものを

私の眼のまへに 粗々しく 投げ出して

 

……煙りよりもかすかな雲が煙つた空を過ぎるときに

嗄(しはが)れた鳥の聲がくりかへされるときに

私のなかで けふ 遠く歸つて行くものがあるだらう

 

 この詩を読んでみるとき、ヘルダーリンの詩「生の半ば」の冬の風景が二重写しに目の前に浮かばないだろうか。果たしてこれを「ロマン主義」の到達点として読むことは、私の暴論であろうか。

 例えば、ヴァルター・ベンヤミンの「ロマン主義」解釈は私にとって極めて心強い。少しその一部を部分引用してみる。

 「そして、彼(ヘルダーリン―引用者)とロマン主義者たちとの哲学的な関係をもたらすテーゼとは、芸術の<冷徹さ>という命題である。この命題はロマン主義の芸術哲学が抱いた、本質的にまったく新しい根本思想、そしていまだなお見極めがたく影響を与え続けている根本思想であって、西欧の芸術哲学におけるこのおそらく最大の時代(エポツヒエ)が、右の命題によって特徴づけられるのである。」(ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、2001)

 ベンヤミンがここで言う「冷徹さ」とは、シュレーゲルのロマン主義芸術理論の最高位の「一(いつ)」に至る絶対理念である「超越論的ポエジー」、「ポエジーのポエジー」に至った状態のことである。ただ間違ってはいけないのが、この「一(いつ)」なるものが、俗に私たちが「ロマン主義」に抱いてしまうギリシャ芸術の絶対的「美」の全体性を意味するのでなく、むしろその否定へと向かう点である。「ロマン主義」は最終的に、「反省」的思慮によって、「プラトンのいう『狂気』(マニア)の対極をなすもの」に至る。冒頭に引いたヘルダーリンの詩「生の半ば」の冷却された無辺の世界をベンヤミンはその一例として引いている。この詩の一行「淨らにも冷たき水の中に」(浅井訳では「神聖にして冷徹な」)に、「ロマン主義」の最終形があると。そこにはもはや「美」という概念すらも斥けた、名指すことのできない「冷徹」かつ「神聖」な、無限な広がりをもつ「真なるもの」のみがあり、「美」という規範性は消え去る。

 そして何よりベンヤミンの視点に学ぶのは、これが「叙述形式」の問題と深く関わることを示していることである。

 「この反省媒質のなかで、その叙述形式が連続的に連関しあい、互いに互いのうちへと移行しあい、一体化して、芸術という理念と同一である絶対的な芸術形式となるのだ。芸術の統一性というロマン主義の理念は、それゆえ、もろもろの形式のひとつの連続体という理念のうちに存している。したがって、たとえば古代悲劇は、理念的に見る者にとって、ソネットと連続的に連関している、ということになるだろう。」

 このように「芸術」を複数の「形式」の時空を超えた「連続体」として「不断に包括性を増しながら展開し高まっていく」ものとして捉えながらも、ベンヤミンは一個の「作品」はあくまで「習練と手仕事的なもの」として厳密に計算された「確実性」を持たなければならないと、ヘルダーリンの詩論「『オイディプス』への注解」を引きながら述べる。そして「ロマン主義」の到達点である「冷徹さ」の領域とは、そうした「形式」がもつ韻律が内包している「プローザ的」=「散文的」なものによって導かれるとする。それは決して目に見えない「作品」の背後にあるものであり、しかし「批評」はこれを「叙述」する。

 こうした観点を援用して、例えば立原の「物語」並びに「ノート」「手紙」といった「プローザ(散文)」の記述が、そのソネット形式の完成に働いた作用は、日本における定型詩について考える上で重要だと思われるし、先行する蒲原有明、岩野泡鳴らが格闘したソネットの試みと、立原のソネットとの「連続体」をも考える価値はある。

 さらに、ヘルダーリンの上掲の詩論では、この韻文形式における「中間休止」という概念がある。ベンヤミンはこれにも言及しているが、実はどのようにこれを解釈しているか私はうまく読みとれなかったが、ヘルダーリンはこれを「自然の威力」と呼び、「悲劇的に、人間をその生活圏から、その内的生活の中点から引き離し、別の世界へと、死者たちの異常な〔exzentrisch=脱中心的な〕領域へ拉し去る」(『省察』武田竜弥訳、論創社、2003)と述べている。これを「ロマン主義」が到達する「冷徹さ」と同一視するのをベンヤミンはこの時点では意識的に避けているように思われるが、この「中間休止」も私は立原のソネットの所々にある意味の通らなさ、以前述べた「多声性」「吃音性」として現れていると考える。

 やや入り組んだ引用をしてしまったが、ベンヤミン哲学について私はそれほど詳しい知識があるわけではない。ただ、この『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』が若きベンヤミンが1919年という第一次大戦終結直後に書いた博士論文であったことを考えると、その後、『ドイツ悲劇の根源』『ボードレール』『複成技術時代の芸術』等バロック期から現代までに対象広範が広がり、現代の文学、芸術に計り知れない影響を与え続けているベンヤミン哲学の出発点が「ロマン主義」批評であったことは意味深い。そしてまさに同時期の「ロマン主義」精神が、ナチズムの熱狂的「美」を讃える「全体主義」へと回収されていく歴史の歩みを踏まえると、同時代批評として抜きんでているといえる。

 ただし、このベンヤミンの「ロマン主義」解釈の正否については様々に語られているところであろう。私もまだ完全に理解しているとは言えず、全的に賛同もできない。例えばあのアウシュビッツを生きた戦後ドイツの詩人パウル・ツェランに果たしてその「ロマン主義」の「冷徹さ」はどのように受け継がれたか。ツェランにおけるヘルダーリンの影響はよく語られるが、強制収容所の現実の中で、そのような「風景」ですら粉々に砕けたのではないか。そこには「韻文」も「散文」も消え失せた「断片」のみがあり、やはり私などには想像すらできない、ただ人間存在の絶望的「死」の「現実」のみが刻印されている。ツェランにおいて「ロマン主義」、いや「芸術」概念は無化したといえる。これはナチスに加担したハイデッガーとツェランとの関わりを含め、21世紀に持ちこされた現代詩の一大命題であるが、このままだと話がどんどん肥大化してしまうので、ここではこれ以上このツェランについては触れないでおく。

 問題は日本におけるロマン主義である。明治期の近代詩黎明のころ、透谷、藤村はもとより、例えば国木田独歩に見られるワーズワースの「自然美」への憧れや、それとコインの裏面のような岩野泡鳴の自我の暗黒意識、蒲原有明、薄田泣菫の「象徴」にまで「浪漫主義」は及ぶと言える。そして大正期の「白樺派」のブレイクの神秘主義受容とモダニズム、プロレタリア運動の混在を通過し、やがて昭和初期、国家主義が台頭するに至り、「コギト」「日本浪漫派」の日本主義の政治性と結ばれて復活する。そして戦後には、そうした日本独自の「ロマン主義」―「ナショナリズム」を三島由起夫が受け継ぎながら、その最後の死に象徴される「ロマン主義」の「演技」的精神は、戦後日本におけるナショナリズムとは何か、ひいては天皇制国家とは何か、そして昨今の保守化に傾く日本の在り方まで考えせられる。(ちなみに三島の遺作『豊穣の海』は、明治から現代までの「ロマン主義」精神の系譜を描いた小説と捉えることができる。特に興味深いのは、それぞれの巻の「文体」の変転である。三島文学の真骨頂ともいえる「言葉」の圧倒的修辞美が散りばめられた第1巻と、第4巻におけるその「単調さ」の隔たりは、日本における「ロマン主義」精神の変貌を見事に映し出している。そして最後にはやはり「虚無」を私は見る。)

 大雑把であるが、このような日本の明治以降の「ロマン主義」の経緯のなかでみると、「ロマン主義詩人」としてのヘルダーリンは大正期という自由思想が謳歌された時代に生田春月によって日本に輸入され、立原にも多大な影響を与えている。しかし立原にとってのヘルダーリンは、後の昭和初期の政治性ときり結ばれた「コギト」「日本浪漫派」の保田與重郎、芳賀檀を介して解釈されたヘルダーリンである。ここで保田の「清らかな詩人-ヘルデルリーン覚え書」の一部を引く。これは保田の第1評論集『英雄と詩人』(人文書院、昭和11年1月)に所収されているが、単体では「コギト」に昭和8年11月に掲載されたものである。

 「殊にヘルデルリーンの如き型の詩人に於て、その面白さはこの一人の詩人に於ける藝術の生成の過程にある。私はヘルデルリーンの完成など問題としない。一體完成された詩人の感興には、完成といふ事實によつて、明らかに示された生と現實との間隙の暴力的な蹂躙が目立ち易いのである。完成した芸術といふとき、たかだか藝術は生に即した一面の存在である。…(略)…ドイツ語を詳らかに味覺し得ない私には、ヘルデルリーンの詩がゲエテ以降の新しい韻律をもつ最高の抒情詩であるといつたことは確信を以て云ひ得ない。ただけふ三十三年度の精神を全部的にうけてゐる私に云えるのは、藝術が萬人に對し働く力に於てゲエテにないものをヘルデルリーンに感じる。とまれそれは歴史であり、歴史の中の人間の一つの心情の姿である。…(略)…私はそれを明らかに体驗し、しかも清らかな魂の眞実から一歩も退けなかつた一人の作家を今わが國の一つの現實の社會に於て、心から去りがたくいだいてゐる。」(「体驗し」に傍点あり)

 ここには保田特有の「芸術」と「歴史」の結びつきが端的に現れている。芸術は「完成」しない。むしろ「歴史」のプログラムの一部に組み込まれることで初めて「完成」するということである。そしてその「歴史」は、保田の場合「国家」の基盤を支えるという、ヘーゲル「歴史哲学」に通じていく。保田はこの論で、ヘルダーリンをフランス革命時代における、ドイツ民族における最も早い自由への「革命精神」の持ち主として描き、その理想のために「生活」と「詩作」のバランスをとりながら「妥協」して生きることができず精神を崩壊させた純粋な詩人として、「一人のナポレオンやゲエテと並列する英雄としてとともに、同じ血をもつたためにむしろ弱い精神の受難者として」礼賛している。

 立原はこの保田のヘルダーリン論を読んだかどうかは分らないが、保田が当時の文壇に持った影響力を考えると、昭和初期のヘルダーリンの一般的な捉え方はこのような「英雄」「受難者」としてであったであろう。そのときの「青年」であった立原が、自らの「詩人」としての生き方を、この保田流解釈のヘルダーリンの姿に重ね合わせても不思議はなかろう。ただ昭和10年8月5日付猪野謙二宛の手紙では、「一體保田といふ人の文章はいひたいことがありすぎて、殆どあわててゐるやうな思ひがするのだ。天平、白鳳を背負つてゐる彼の姿は、まためづらしくもうつくしいのだ。それ故に過剰な氾濫が不吉な思ひを強いるのだつた」と述べているあたりは冷静に保田を評している面があった。しかしその3年後の昭和13年10月6日付小場晴夫宛の手紙には、「畏友、保田與重郎は 最近 『戴冠詩人の御一人者』といふ本をおくつた これは僕らの若者の 戰場に於ての あるひは國内に於ての 美しい決意の書である 君がこの本と對話されるやうにのぞむ しかし君の場合 戰争自身が君を戰場に招待するかも知れない そのときのすべての若者が感じる深淵が 一層關心であらうか だが その深い淵はどんな姿か それすらこの本は語つてゐないだらうか」と、保田への評価は一転する。こうした変転については立原個人の問題、また保田個人の変貌にとどまらず、時代そのものの変転を意味する。この『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年9月)は、以前も部分引用したが、日本武尊、大津皇子等、古代神典時代から、明治の岡倉天心にいたるまでの「詩人」の「受難」の運命を描き、その精神を蘇らせようとする書であるが、先のヘルダーリン論が収められた第1評論集『英雄と詩人』以上に、その「歴史」と「芸術」の合一を説く保田の筆の力には今読んでも圧倒的な迫真力がある。

 ここで私は再度大岡信の視点に学ぶところが大きい。『抒情の批判』(晶文社、1961)所収の「保田與重郎ノート―日本的美意識の構造試論」は、この点を鋭く指摘しているので引いてみたい。

 「保田氏は歴史を、選ばれた精神がたがいに遙かに呼びかわす時おのずと形造られる、一連の精神の家系として考える。すなわち歴史とは『血統』『系譜』にほかならない。そうした系図作成の試みが、文学的業績として最も充実したまとまりと実質を持ったのは、言うまでもなく『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年9月刊)であった。…(略)…日本武尊に始まって、天心、鑑三を代表とする数多くの明治の精神に至るまで、保田氏は日本の芸術家の血統証明書、少なくともそのサンプルを作ろうとした。その場合、保田氏が常に立ち帰っていくのは、<世界における日本>というきわめて野心的な主題だ。保田氏のおびただしい日本論は、結局のところ<世界における日本>という、いわば天心的な発想に始まって、やがて<日本における世界>という観念へと逆転していく過程を示しているといえるだろうが、『戴冠詩人の御一人者』は、そうした価値転換の最も重要なかなめをなす著作だとぼくには見える。」と述べる。

 この<世界における日本>から<日本における世界>という逆転の発想が生まれたという大岡の指摘を、私なりに読みなおすと、明治維新以降「日本」が急速な「近代国家」へと変貌するために必要とした「歴史」が、この昭和初年代においてもいまだ確立されていないことを保田は「知識人」として乗り越えなければならない課題として正当に引き受けながら、近代ドイツ「国家」を形成する「歴史」を作り出したヘルダーリンら「ロマン主義」詩人=「革命家」=「受難者」たちが、すでに日本において古来から存在していたことを「歴史叙述家」として示さなければならなかったということである。

 その使命感によって、ヘルダーリンその他多くの西欧の「詩人」たちは、保田流「歴史哲学」によって「日本」という渦に吸い込まれていく。これは、おそらく当時戦争前夜において、もはやモダニズムも、プロレタリア運動も衰退したあとの、立原ら将来の「国家」を担う使命を背負わされた「インテリ」たちにとって、唯一の指針となったに違いない。この昭和13年ころの立原は、芳賀檀の『古典の親衞隊』に書かれたヘルダーリンの詩句「危險のある所、救ふ者叉生育す。」を、芳賀自身やその他の友人への私信で何度も引いて讃えているが、この「救ふ者」こそ、保田の言う「歴史」を作成する「詩人」として受け止められたことは先ず言えるであろう。

 ただし、ここで私たちが最も読まなければならないのは、目の前にある「詩」である。果たして立原は本当にそのような保田のマッチョな「ロマン主義」解釈を真に受けていたのであろうか。先に挙げたヘルダーリンの詩「生の半ば」と立原の詩「初冬」の類縁性を見るに、やはり「ロマン主義」の到達する「冷徹さ」をこそ、直感的にではあっても自ら詩を書く者として見出していたのではないかと思われて仕方がない。詩「初冬」は、昭和13年1月に「四季」に掲載されている。この時期は立原が「日本浪漫派」に急接近していった時期に重なる。やはりここには詩作品と、その手紙類に見られる感情とのギャップは大きいと言わざるを得ない。

 よく立原が、「新古今」など王朝文化への憧れやその模倣を軸に詩作、物語制作をつづけたことが、保田はもちろんのこと、三島、太宰らに通じる「保守性」と捉えられる面はある(大岡信もそのように指摘している)。しかし私は少しそれとは違う視点で立原を読んできた。それはこれまで述べてきたように、「家族」、「狂気」、そして「ロマン主義」の果ての「虚無」を、私がそこに見出しているからである。ある意味で主観的な勝手な読み方ではあるが、「詩」は時代性や一つの価値基準に規定しえないものであると信じる故に、そのように読むことを私は自分に許してきた。同時におそらく、私が生まれ育った70年代以降というものが、「歴史」=「大きな物語」がすでに終わった、ポストモダン以降であったことも影響している。つまり「歴史」の一部に自分は組みこまれるわけがない、いやそもそも「歴史」などない、といった発想が私が詩を読んできた前提にある。だから例えば前回のようにエヴァンゲリオンやら「オウム事件」やらを唐突に自分の中で「ロマン主義」と結びつけてしまうのである(この点は実は数名の方に、私の「具体性」の無さに対してご批判をいただいた。次回にこれについては述べてみたいと思う)。

 こうした私の視点から見ると、立原が執念のように書き続けた中世「歌物語」の現代版に、詩人が「歴史」に回収されない「何か」をそこに見出そうとしていたのではないかと思えてしまう。つまりベンヤミンのいう「形式(韻文)」と「プローザ(散文)」の時空を超えた「連続体」としての、いまだ「ロマン主義」が生まれる以前の、「国家」という概念が生まれる以前の「歌物語」によって、「ロマン主義」を超え出る「何か」を見出そうとしていたのではないかと。そしてそれは決して懐古ではなく、近代を「超克」するための、保田流の「歴史哲学」では解消し得ない、「非―歴史」の闇と光の混淆した得体の知れない「何か」である。確かに保田はそこに眼を向けていた。そして保田の文体にも実は確実にそれが流れている。それゆえに立原ら若き文学者たちはある時揺さぶられたに違いない。しかし保田のように強引なレトリックでそれを言語化し、「歴史」に回収することは、「詩人」であった立原には途方に暮れることであっただろうと思う。この「何か」は、保田流に言えば「言霊」や「歌」とも呼べ、あるいは「アウラ」(ベンヤミン)とも「ヌミノーゼ」(オットー)など様々に呼び名を与えられる、いわば「神性」「聖性」ということになるが、そう記した時点でこの「何か」は掌から零れ去ってしまう。「冷徹さ」、「虚無」、「狂気」……私はまだそれに名を与えることはできず混乱しているようである。次回はここのところにもう少し「具体的」な考察を加えて、もし何らかの明確な道筋が見えたら立原論を終えることができるであろう。今は、立原道造のすぐ側で、単独の「脱―ロマン主義」の道を示した詩人の詩を挙げて次回につなげたい。

 

ローマン派の手帖  津村信夫

 

その頃私は靑い地平線を信じた

 

私はリンネルの襯衣の少女と胡桃を割りながら、キリスト

復活の日の白鳩を讚へた。私の藳蒲團の温りにはグレーチ

ヱン挿話がひそんでゐた。不眠の夜が暗い木立に、そして

氣がつくと、いつもオルゴオルが鳴つてゐた。

                   

                                           (『愛する神の歌』より)

 

                                                               (11.1.16)

 

33.「敗北の美学」

 

「私達は、肉體をも變革し得る精神の力を信じよう。而も、精神をも高貴ならしむるのは愛の力である。それならばもしニイチエが今吾々に『精神だけで人を高貴にすることは出來ない。それは精神をも高貴にする在る物を要するのである。即ち血統を。』と言う時誰も彼を怪しまないであらう。私達は今ドリアの、イオニアの美に就いて、人に語ることは出來ない。例へば人は終日をフランクフルトのヴイヌスの前に佇めばよい。君達は曾て、より美しいものを見たことがあるか。又人は、王の娘ナウヂカの絶美の姿を思へ。それは『旅人よ、お前の國に在らん日も吾のことを思へ。』と語つてゐる程に美しいのである。又人は波斯のマリセテイオス、其の美なるが故にギリシア軍に却つて崇拜せられ、其の指導者と爲つた事を容易に信じ得るか。新なる王國を築くのは、それ等の力である。而して吾等の詩人は峻嚴なるエトスと秩序とを持つて人々を危險より救つた。『汝等を益せざる神等、何者ぞ。』 愛する者等の爲に琴を、又群る敵に詩人は苛赦なく劍を揮つた。やがて詩人にも、偉大なる春の奇蹟は廻り來つた。

(中略)

 お前の仕事は、創造と行爲と。併し決して觀照と説明であつてはならない。戰ひの爲にはどの様にも、ひたむきであつてよい。ラマンチヤの騎士となるとも、エラスムスとはなるな。ルーテルはいかに、エラスムスを憎んだか思ふがよい。

 友よ。私はベルトラムの警告を再び思ひ出さう。吾々は、もつと強く結合し合はなねばならぬ。もしニイチエが『偉大なる銃砲隊』である時、吾々は吾々の古典を守るべき親衞隊となることに誇りを見出してはいけないであらうか。今日吾々は、吾々の古典の危くせられるを見、古典の精神を傳ふる者等の絶無であることを悲しみ思ふ。

 友よ、せめて吾々は殘された、吾々の古典を死守しよう。又どの様な高價な價を拂ふとも、吾々の古典を獲得する爲に戰はねばならない。……」

 

 立原がどうしてこれに心酔してしまったのかをしっかりと考えたく長い引用をさせてもらった。これが「あの御本のなかで呼吸するとき、私の決意は新しくたしかめられます。私もまたひとりの武装せる戰士!」と立原が私信を送った芳賀檀『古典の親衞隊』の文体である。繰り返される「美」という標語と、その喪失の危機を煽り、「觀照と説明であつてはならない」「もつと強く結合し合はなねばならぬ」「戰わねばならない」と断定口調が繰り返されるが、読めば読むほどこれは読者を前に述べられているのではなく、歪んだ独言の文体と思えてくる。「私達は…」「お前は…」「友よ…」と段落毎に変転する呼び名と、根拠もなく飛躍していく「古典」への言及は、暗い独房の中を一人ぐるぐると歩き回る病者の呟きのような空疎な言葉である。

これが刊行されたのは昭和12年12月、同年に立原は詩集『萱草に寄す』(5月)、『暁と夕の詩』(12月)を発行している。立原道造のあまたある研究が、常にこの芳賀檀、保田與重郎らの「コギト」から「日本浪漫派」にいたる戦争賛美者たちに接近していったことが最大のテーマであることは言うまでもないが、結果論としては、例えば立原と同様に「四季」派の抒情詩人であり、立原が先輩として慕っていた神保光太郎のように民族主義者へと変貌し戦争翼賛詩を書くこともなく早世したからこそ、この問題が常に人々の「興味」として取り扱われている節がある。詩人が死の直前、喀血した長崎の地で書かれた、「しづかな、平和な、光に満ちた生活!規律ある、限界を知つて、自らを棄て去つた諦めた生活、それゆゑゆたかに、限りなく富みゆく生活――それを得ることの方が、美しい。そしてそのとき僕が文學者として通用しなくなるのなら、むしろその方をねがふ。コギトたちのあまりにつめたく、愛情のグルントのない文學者の觀念を否定すること。コギト的なものからの超克――犀星の『愛あるところに』という詩をふかくおもひいたれ。」(角川版全集所収「長崎ノート」)と、これもよく引用される言葉は、後世の私たちにとって安堵を齎すが、果たして詩人が生きていたらこの言葉通り戦争詩を書かずに筆を折ったかどうかは、他の詩人たちが歩んだ道を知っている私たちにとって容易に決めることができない。おそらくこの問題の最もオーソドックスな見解は小川和佑『立原道造研究』(1977、文京書房)で、杉浦明平、中村真一郎ら立原の友人でもあった文学者たちの立原論を踏まえ、いずれの論も「日本浪漫派」の日本主義とは一線を画していたとして、最終的には「生活者」へと立原が脱却したことで、その一時の反動精神は消えたとしている。そのことは二冊のヴァリエーションの草稿を残したまま出版されることがなかった詩集『優しき歌』の詩を見れば、そこには何ら日本主義的要素がなく、それまで以上の人工の透明性を湛えているように見える。

 

Ⅹ 夢みたものは……

 

夢みたものは ひとつの幸福

ねがつたものは ひとつの愛

山なみのあちらにも しづかな村がある

明るい日曜日の 靑い空がある

 

日傘をさした 田舎の娘らが

着かざつて 唄をうたつてゐる

大きなまるい輪をかいて

田舎の娘らが 踊ををどつてゐる

 

告げて うたつてゐるのは

靑い翼の一羽の 小鳥

低い枝で うたつてゐる

 

夢みたものは ひとつの愛

ねがつたものは ひとつの幸福

それらはすべてここに ある と

 

あたかもあの「ヒアシンスハウス」に愛する者と住み、「生活者」になってそっと筆を置く詩人の姿が目に浮かぶ。もはや「詩を捨てながら詩を書く」というパラドックスはここで終止符を打たれたと。

この詩もよく知られた名詩と言えるが、実のところ私はここに立原がそれまで保ち続けた「観念」の崩壊寸前の緊張が解けてしまい、「安らぎ」に至っていると感じ不満を抱いていた。立原のすべての詩業を見渡すとき、やはりその崩壊の果てに権力に回収され戦争詩に傾いてもおかしくない危うい面があることは否めず、むしろその危険性ゆえに魅力であった。つまりこれまで述べてきたように、詩人は室町にまで遡れる「立原家」という「血統」を守り続ける「母」との愛憎の中で、近代人としての「個」を奪取しきれず自殺すれすれの「神経衰弱」に陥り、生きることも死ぬこともままならない、「生」と「死」の「中間者」としての「詩人」の宿命を背負い、中原中也のような全き「生」の実感に満ちた詩とは対照的な、「観念」に浮遊する人工の詩を書かざるを得なかったわけだが、何よりその「観念」がやがて「現実」に敗北していくことを知りつくしながら、むしろその「敗北」自体を詩に定着させようとした点こそが、あの戦争期の日本人の精神、あの「玉砕」の精神へと繋がる危険な要素なのである。上の詩「夢みたものは……」は角川版全集の解説では昭和13年10月中~下旬に書かれたと推定している。詩人が病気をおして無謀な東北への旅をし終えた直後のことである。芳賀の『古典の親衞隊』に共振したころから一年も経たずに、立原はすでに「生活者」としての「安らぎ」を得るところまで至っていたのか。ここでもまた私の誤読があるようにいま思える。この詩が書かれる約1年前、『暁と夕の詩』を編み終わったころの詩人はこう述べている。

 

「すべては肯定であり、すべては讃歌であるとき、ひとつの魂は 否定に酔ひ、哀歌に沈みゆく。このやうな時期に、中間者の書、暁と夕の詩を 僕を愛するすべての人(僕はすでに彼らを拒絶した)に獻ずる。『暁と夕の薄命の それぞれの中間としての夜と晝と、生きたる者と死したる者とのそれぞれの中間としての『死人と 人間と。』永遠の今とは、敗滅する空間の無限の肯定の意志である時間との 中間者であらねばならない。だが『汝・死ぬなかれ』この至上命令を忘れてはゐないのだ、死の観念は すでに 生の姿にかさなつてゐる。追憶のなかで死んだすべての風景が生きかへるのを見るときに 僕ら 現在の一切が死に行くのを見る。が、汝、死ぬなかれ! と叫ばねばならぬ――刹那よ!とどまれ!といふ言葉にひとしい 悲哀と高揚と歓喜に於て。」(昭和12年12月15日付猪野謙二宛書簡より)。

 

このほとんど何を言っているのかわからないすべてがパラドックスに満ちた「イロニー」の思念、「だが『汝・死ぬなかれ』この至上命令を忘れてはゐないのだ、死の観念は すでに 生の姿にかさなつてゐる。……」という言葉には、先にも言ったようにあの戦争期、「敗北」の現実を「玉砕」という美名で覆い、人々を「悲哀と高揚と歓喜」をともなう「死」へ飛び込ませた国家の宣伝、いや戦争翼賛詩を書いたすべての詩人と同じではないか。今では人々を死の戦場に送り込んだ国家権力の周到な政策は、国家が「騙した」または「強制された」とされるが、上の立原の言葉を見る限り、戦争前夜から既に人々の精神の中で醸成されていたものであることがわかる。そしてさらに重要なのは、立原の「中間者」の定位が、「永遠の今とは、敗滅する空間の無限の肯定の意志である時間との 中間者であらねばならない。」と説明されるとき、「中間者」とは、「敗滅する空間」=「戦場」を、「無限の肯定の意志である時間」=「観念」へと転ずる者であり、「永遠」=「神」という計り知れない絶対性へ「今」を回収する「媒体者」となり極めて危険な存在に変質する点である。(この「中間者」の危険性については、坪井秀人『声の祝祭』(1997、名古屋大学出版会)所収「中間者と言霊」を参照されたい。前回引用したハイデッガー『ヘルダーリンと詩の本質』の「神々と民族との間のその中間に投げ出された」詩人の言葉を、立原の友人松下武雄は国学の知識をもとに「言霊」へと変容させ、「詩人は神々の声に暗示されて世界を建設する。而して神々の声とは実に民衆の声の解釈に外ならない。ここで民衆の声とは常識の声ではない。民衆の内奥に籠つて発せぬ声である。これが文学の言葉となり詩の言葉となるのだ。」(「文学と言語―言霊考―」『コギト』1938・5)と述べている。これが立原に多大な影響を与えたと坪井は指摘する。芳賀檀の影響も含め、立原詩と戦争詩との接合についての「学術的」解釈はこの坪井の論文でほぼ網羅されているが、最後に坪井は立原が生きていたら詩史に残る戦争詩を書いたであろうと晩年の詩「魂を鎮める歌」をその予兆の詩であると詳細に論じながら推定している。このあたりは詩語の表層と構成を論理の対象として恣意的に解剖している観があり首肯しかねる。「中間者」の危険性の指摘は正確である)。ただ逆を言えば危険のないものには魅力はない。立原詩が今も読者を持つのは、現代の青年であっても「敗北」に危険な魅力を抱くからである。「敗北」こそが「勝利」を超越する「美学」であるとするイロニーは、ロマン主義者特有の過去の「美学」の如く言われるが、実は今も残存する人間の普遍的感情に必ず潜む回路であると私は思うのである。

しかし私たちはすでにその「ロマン(浪漫)主義」の「敗北の美学」「滅びの美学」の虚偽性を、自らの戦争体験によって知りつくした「荒地」の詩人たちが戦後にゼロから生み出した歴史を知っている。鮎川信夫の詩「必敗者」の重力の上に私たちは今も立っている。つまり決してもうあのイロニーの美学へは私たちは戻ることは許されない。しかし、戦争を知らない世代において、さらには私のような高度成長が終った70年代生まれの世代は、実は知らぬ間に奇妙は「戦争体験」をしていることも一方で振り返らなければならない。それは私が少年のころ、つまり70年代から80年代にテレビアニメや漫画、ゲームにおいて刷り込まれたイロニーの「美学」である。あの社会現象ともなった「ガンダム」、「エヴァンゲリオン」で子供たちが魅入らされたのは、「敗北の美学」「滅びの美学」の変奏以外の何物でもなかった。主人公たちはみな少年から大人へと成長する過程で何のために戦うか分らないまま戦わされ、やがて特殊な能力を得た「戦士」=「殉死者」となる。そして彼らの犠牲によって最後に得られるものは「勝利」ではなく「廃墟」であり「虚無」であることが子供たちにとって極めて「美しく」感じられた。その遊戯的な疑似戦争体験の先にあのバブル崩壊後の「虚無」化した日本を象徴する「オウム事件」があることは否めない。あのとき私はまだ学生であったが、同世代から一回り上の世代のエリートたちが犯した犯罪行為に、私が少年期にアニメに植えつけられた「選ばれた者」の「敗北の美学」があるように思えてならなかった。漫画やアニメについて詳しい知識はないが、おそらく専門家がより詳しく同じことを語っているに違いない。あのような作品の作り手たちが自ら経験した現実の戦争体験を、仮想現実の中でどのように消化させていったかは、作り手の意図を離れ、受け手の子供たちの精神形成に自然に浮かび上がるはずである。

やや話がずれたが、つまりは私のような戦争を知らない世代が戦争を語る、または「詩と戦争」を語るということは、教室で学んだ歴史以上に、そのような平和時のヴァーチャルな戦争体験が根強いことを踏まえなければ何も語れなくなってしまう。私がそのような仮想の戦争に感化され、その後立原道造の作品に出会い、戦後詩にも、現代詩にも出会いながら自分でも「詩」を書いてきたということを今振り返るとき、他の諸々の読書体験や現実体験を巻き込み、やはり「敗北」の二文字が常に脳裏に薄皮のように「美しく」浮沈している気がしてならない。これはこの論を始める際にも述べた「日本の詩」の問題に通じる。つまり戦後切断されたはずの近代以降の「日本人」の精神の暗部が、現代の私の中にも持ち越されているということであるから、そうした観点を持ったとき、立原の詩にその「敗北」の危険性と戦争詩への予兆を、どのように読み取れるかは、一つ私自身の精神が問われることになる。ここで一つ重要な詩を読んでみる。

 

何処へ?

   Herrn Haga Mayumi gewidmet

 

深夜 もう眠れない

寢床のなかに 私は聞く

大きな鳥が 飛び立つのを

――どこへ?……

 

吼えるやうな 羽搏きは

私の心のへりを 縫ひながら

眞暗な凍つた 大氣に

ジグザグな罅をいらす

 

優しい夕ぐれとする對話を

鳥は 夙(とう)に拒んでしまつた――

夜は眼が見えないといふのに

 

星すらが すでに光らない深い淵を

鳥は旅立つ――(耳をそばたてた私の魂は

答のない問ひだ)――どこへ?

 

これも多くの立原研究で語りつくされた詩であるが、タイトルにあるように芳賀檀に捧げられ、昭和13年3月に雑誌「新日本」に発表されたものである。立原詩の中で最も重要とする者も多い。当時の軍国主義へ雪崩れ込んでいく暗黒の時代を生きざるを得ない青年の心理がここに見事に言い表されているからである。しかし私にとってこの詩を読み解くのは極めて難しい。一体この「鳥」が何を暗示しているのかが未だ掴み切れないのである。立原の中の「詩」のことなのか、常に「対話」を繰り返していた「内なる他者」なのか、あるいは「詩人」=「中間者」のことなのか。私が10代でこれを初めて読んだとき、芳賀檀云々など無視して勝手にこの「鳥」をあのポーの「大鴉」と重ねて、ここにもあの「nevermore」を繰り返す夜の否定性の淵へと詩人を誘惑する「狂気」があると捉えていた。ある意味「近代詩」の黎明前の「夜」の鳥が、遂に「近代詩」が滅ぶとき立原のもとに舞い降りたと言えなくもないが、突飛な考えでもあろう。そのように時代性に縛られず詩は自由に読めばいいのかもしれないが、やはりここには私が想像すらできない目の前に迫っていた「戦争」の影を見ないわけにはいかない。そもそもこの詩「何処へ?」は、芳賀檀の『古典の親衞隊』中の例えば「芭蕉」という章の、「従つて私は遂にこれ等のポエテイカ(ゲーテ、フローベール、ニーチェ、リルケ、ヘルダーリン、ジッド、ボードレール、芭蕉―引用者)の血統の正しさの次に、彼等の勇氣を、――『勇敢なる者のみ良し。』――決意を問はなければならない。例えばリルケやニイチエの場合の様に恐怖に迄も。――氣層と同時に『何の爲に』又『どこへ?』Wohin? を苛赦なく訊ねなければならない。詩とは其の意味で、最も過酷な意志の遂行者である。」といった例の如くちぐはぐな命令文への返答であることを考える時、立原がこれに賛同して書いた詩であるのか、それとも疑義を抱いて書いた詩であるのか、読みとるのが極めて難しい。

この詩が載った「新日本」という雑誌について考えてみると、これは松本学という当時の内務省の官僚によって組織された「文藝懇話会」を前進とする「新日本文化の会」が発行する国家主義、日本ファシズムを唱導した文芸誌であり、発足人は佐藤春夫、執筆者は保田與重郎、北原白秋、林房雄、浅野晃、芳賀檀などである(角川版全集第1巻解説)。芳賀は編集にも携わっていたため、芳賀から立原に原稿依頼が行ったのかもしれないが、立原はこの詩をどのようなメッセージとして「新日本」に載せたのか。

極言すればこの詩には二重の受け取り方ができる。一つは芳賀らと同調した「戦争詩」としての側面、もう一つはその装いの下に潜ませた「反戦詩」の側面である。例えばこの「鳥」を詩人の中の「詩」というものであるなら、それが立原の詩学を支える「對話」を「夙(とう)に拒んでしまつた」という意味は、もはや「詩」は消えた、という意味にとれる。そうであれば、芳賀の「『どこへ?』Wohin? を苛赦なく訊ねなければならない」という論調を自らに課し、最後の括弧において突如挿入された「(耳をそばたてた私の魂は/答のない問ひだ――どこへ?)は、その「決意表明」ともとれる。

しかしこの詩の文体はどうもそうした「決意」とはかけ離れた、「詩」を失った悲しみに満ちている。確かに立原が『古典の親衞隊』中で「最もかがやかしい章」と述べたのは全32章中の前半3章目にある「別離の悲歌」までである(全集第4巻所収「風信子」)。ここでの芳賀はこれまで引用したものとは違う文体である。「世紀の十二時。――この深夜に於て吾々の眠りは、最も深い。何故なら、それは吾々の死の時であり、又誕生の時なのです。救ふ者吾々を亡せよ。未だ生れるべくして生れぬ吾々の決意はこの様に眞摯です。完成の朝やけの前に私達は最も死に近いことを感じます。風景は次第に目に見えず明るみ、不思議に新鮮に甦つて來たことを感じます。――やがて來るであらう美の恐怖の為に戰慄を禁ずることが出來ません。別離の時が來たのです。風景の早さよ。私たちは無限に堕ち無限に上るのでせうか。」

これは高ぶった命令調とは違い、あたかも戦場へ向かう兵士が最愛の者へ決別の手紙を送るような悲しみを湛えた文体である。この章が書かれた時期も昭和10年であり、この書の中でも初期にあたる。私はこれも「他者」に向けたものではなく、独言的な、ある意味偽装的「悲しみ」の文体に思えてならないが、少なくとも立原がこの文体に共振し、詩「何処へ?」を書いたとすれば、やがてこの書の後半で命令調へと転じ、脈略なく「『どこへ?』Wohin? を苛赦なく訊ねなければならない」といいながら、「吾々の古典を獲得する爲に戰はねばならない。」と答えを急ぐ芳賀に対して、「耳をそばたてた私の魂は/答のない問ひだ――どこへ?」と突き放した返答であると取れる。つまりそうなると「鳥」とは、立原の中の「詩」ではなく、芳賀ら血統主義者たちのことを指すとも言える。つまりこれを「反戦詩」とまでは行かないまでも、周到に反発の意を含ませて芳賀に捧げた詩と読むこともできるわけである。

ただこの詩はよく知られているように下書きが立原の思索の痕跡を示す「火山灰ノート」に残されている(角川版全集第4巻所収)。昭和10年8月から昭和13年8月までの3年間書かれたこのノートのはじめは、「このノートに『火山灰』といふ名をつけよう。さうして、僕がこの中で、いつもよい言葉を誌すことが出來るやうに。いつも自分を僞はらずに言ふ言葉が、そのままよい言葉と一致することが出來るやうに。」と書かれている。このノートはまさに立原が「中間者」としての「詩人」となり、そして現実に「敗北」していく過程が痛ましく刻まれている。そして詩「何処へ?」の下書きの前後には、「私には 嘗て 期待と願望で/すべては とほく 美しく見えてゐた/しかしいま 幻滅よりほかに/何があらう ここを過ぎて/私は また何をねがふのか/私は」「深夜 鐘が町の空を鳴り/旅立つて行く」「私は をりをり 光を見失ふ/美しい野原が私を招くときにすら」「そのとき 太陽すらが/私を 不幸にする 不幸! といふより/むしろ 深い悲哀に――」と断片が記される。ここにはあの「武装せる戰士」の片鱗はどこにもない。あるのはただ「悲哀」のみである。ここでやはり戦争を知っている詩人大岡信が述べている言葉に耳を傾けたい。

「注意しておかねばならないが立原は日本浪漫派にかなり孤独な形で、言いかえれば『いかに生くべきか』という個人的問題意識によって近づいている。それは彼の書きのこしたすべての文章に、国粋主義的観念がいささかも忍びこんでいないことでも明らかだ(このことは立原の精神的苦悩の様相を正当に評価するためにも、とくに強調しておかねばならない)。

(中略)

立原の観念的夢想の敗北は、すべて予見されていたはずだといえばいえるだろう。肉体の限界にぶつかったとき同時に破れさった夢想や希望は、はじめから何ほどのこともなかったのだといえばいえるだろう。だが立原が短かった生涯であれ、その生涯を観念的夢想にささげた事実は厳然とそこにある。死という事実はすべての臆測を超えてきびしい。しかしここで、あえて言うなら、彼の敗北は、彼が常に『どこへ』あるいは『なぜ』という形でしか観念を形象化できなかったことにその根本的原因がある。彼が人工の世界を夢みたのも、『どこへ』という問いにせきたてられたからであったが、死をかけてまで築こうとした人工の世界を土台からつきくずしたのもこの問いだった。彼の世界は、だから常に流れさり、ほろんでゆくものの住む世界だった」(『現代詩人論』(講談社文芸文庫、2001)所収「立原道造 さまよいと決意」)。

立原の「敗北」とは何か、立原が「どこへ」向かおうとしていたのかを正面から正確に射抜いている。やはり優れた詩人の言葉は、偏頗な学者の言葉より説得力がある。これは明らかに戦後の新しい世代の人間にも共通する「敗北」の想念を知りながら書かれた文章であると言っていい。つまりは私自身の問題でもある。なぜか自らの人生を「敗北」したものとしか思えず、それでも「いかに生くべきか」という自問自答は終わらない。この答のない問いゆえに詩人は「常に流れさり、ほろんでゆくものの住む世界」を歩まざるを得なかったが、おそらくこの問いをやめてしまった果てにはあの戦争詩が待っていたはずである。そして「日本への回帰」現象に流され、『古事記』の神々の住まう「ふるさと」へと多くの詩人とともに至ったはずである。しかし立原は問いをやめなかった。あの詩「夢みたものは……」の世界は、「生活者」の「安らぎ」の世界ではなく、むしろ問いを続け、すべてが滅び去ったのちの、「生」でも「死」でもなく、さらには「中間」でもない世界、いわば「敗北」の果てに開かれる「虚無」の世界である。ここには詩人はいない。人間は一人としていない。ましてや「神々」もいない。ただ「告げて うたつてゐる」「靑い翼の一羽の 小鳥」だけがいる世界である。メーテルリンクの「青い鳥」に含まれた寓意を重ねて考えたとき、「ここにある」ものは決して人間が手に入れられないものであるのだから。そしてこの「虚無」の広がりは、私がアニメの疑似戦争体験で「美しい」と感じた最後の「虚無」に通じる。しかし疑問はいくつもある。これが戦争前夜であったならば、果たしてあの「戦争」は「虚無」の上に行われたのか。あるいは詩人は「預言者」として「戦後」を、「現代」の「虚無」を見たのか。そしてなぜそれを私は「美しい」と感じるのか。もう少し考えさせてほしい。

 

32.「中也と道造、その死と生」

 

 

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!

この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じえなかつたことのために、

罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。

 

あゝ、その時私の仰向かんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

              (中原中也「羊の歌 Ⅰ祈り」)

 

 ここに示された「死」のドラマを、どのように読むべきか。中原中也は、私が立原道造を読み続けながら常に意識せざるを得ない存在であったが、それは単にこの二人の詩人が今日までよく読まれ、そしてよく比較されるように、昭和初期というあの戦争前夜に夭折した永遠の「青春」の詩人であるからというだけでなく、実は以前から何度もここで語っている親友だった詩人金杉剛が、中原中也を愛読していたことが大きい。学生時代、彼が一人旅で立ち寄った山口県の中原中也記念館から送られてきた手紙を今も大事に持っているが、そこには上のような中原の「死」のドラマと己のそれとをシンクロさせた痛々しい心情が語られていた。そこで彼は自らの生を「空っぽ」であると言い、「せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!」という中原の叫びが、その手紙の乱れた字の背後から谺していた。しかしそのとき私はそれに応える術を知らなかった。当時の私は彼がただ中原に心酔し、中原が自らを称した「道化」の精神を真似て演じているだけだと軽く受け流していたのである。それから10年後、彼は中原とほぼ同じ年齢で夭折したが、果たして「その時」、彼は「すべてを感ずる者」であったかどうか。その直前にブログに残された私への最後のメッセージ「たけさん、また相談にのってくれるかあ」という投げかけに、私はまたしても返答できないまま今日まで彼が残した「詩」のみを頼りに生きている。

ここで一篇引かせてほしい。

 

火ぼとけ       

 

その弱さは誰のものか

その強さも また

 

入り日の中にもう死んでしまった者を

歩ませている程に

悲痛で ひどい屈従の様に

私をしゃがみこませるもの

 

強く だが問われることで

知っている

都会から離れた田園に

実る収穫はその中心に折れた新緑を隠し

その根から生命を断絶している相(さま)は

鳴り止まぬ恋情のように美しいと

 

ああ 激しい喧噪のなかで美とは

遂に他を軽蔑することで

自らに耐える重みであったろうか

 

一期にして会うことを避け

だが すれ違いざまに

振り返る朝(あした)

遂にその名を聞かず

もろく身を投げ出している私に

もう忘れてくれていい

もう忘れてくれていいと

 

おまえはいつまでも肉体(からだ)に

語りかけてこないから美しい

               (私家版詩集『がらん』より)

 

 なんという「死」との親和であろうか。耽美的ですらある。二十歳そこそこの私には、同じ二十歳そこそこで青春をともに「生きている」と疑わなかった彼のこの詩を読み解くことはできなかった。いや、今思えば、彼が中原中也を、私が立原道造を読んでいたことは何か因縁めいたものがあるように思えてならない。つまり「現実」の「死」を生き抜いた男と、「観念」の「死」に今も生き惑うている男の違いと言えばよいか。立原が、中原の詩を「対話」がないとして否定したことはよく知られる。しかし、この「対話」とは読者との「対話」を意味するのではない。立原流に言えば「神」との「対話」であり、同時に己の中にうごめく「死者」との「対話」である。自らの「生」の在り方を、やがて行き着くところは一つの冷たい「死」の闇であると知りながらも、中原が「生」を全き「生」そのものによって充溢させることで「死」の完全なる肯定に到達したのに対し、立原は「生」を常に「欠落」したものとして体感できないまま、「観念」の中で「生」とも「死」ともつかない「中間」領域でどこにも着地できず漂流し引き裂かれていった。ここに両者における「対話」の必要性の有無は明らかである。時代錯誤な、滑稽な思い込みかもしれないが、私と金杉の違いもここにある。

 しかし立原はそうした自らの姿を「中間者」として正確に把持していた。前回の最後に引いた辻征夫のエッセイ「立原道造という装置」でも、辻は重要なキーワードとして立原自身の言葉「生きたる者と死したる者の中間者」を挙げている。これは立原が詩集『暁と夕の詩』の成り立ちを述べた覚書「風信子」からのもので、昭和13年、詩人の死の一年前のものである。辻はそこで立原道造を通じて、「詩人」とは「さまざまな者の、記憶と経験によって書く存在」であると述べた。これを私は優れた詩人による「現代詩」の書き手に対する詩を書く姿勢を正す言葉、つまりいかに「我執」を捨て去ることができるかという警鐘とも読んだが、同時に辻は同書で中原中也についても触れ、詩「羊の歌 Ⅰ祈り」を引きながら、「全世界を感ずる者でありたい人間にとって、この世の中での身の処し方など問題にもならなかった」と、中原の全てを「詩」に賭けた「詩人」としての生き様を尊敬と憧憬の念で語り、「ちょうど三十歳くらいで、神さまに呼ばれるのだ」とやや寂しそうに述べている。辻の立原と中原に対する畏敬の言葉は、微妙な表現の違いはあるものの、「詩人」という存在の本当の在り方を、資質の違いとともに現代に生きる私たち教えてくれる。

 資質の違い――確かにそうなのである。だから私と金杉が全く別の「生」を生きていたことは、中原と立原という詩人を別々に好んで読んでいた違いに明らかに現れていた。そして今、私は彼が、誰の返答を待たなかったことも合点がいく。そもそも彼は中原のように「対話」を必要としない詩人であった。彼の詩を読めば、そこには「死」が疑いようもなく、避けようもなく受容されている。彼が中原を愛したのは、単なる憧れからではなく、自らと同じ資質をそこに見抜き、「宿命」としてその詩を読み込んでいたのである。だから私は彼が「仰向け」になって死んだと確信する。あとは私がいかに生き死ぬべきかが問題である。これが立原道造を読み続けてきた根本の理由に他ならず、私にとっての詩作の根本理由であり、この連載を書くことのそもそもの動機である。そしてその答えこそが、立原が示した「中間者」であることは見えてきているのだが、しかしその先である。果たして私はそのように生きれるのか。いや生きてよいのか。以下は立原の「中間者」としての到達点を示した詩である。

 

石柱の歌

 

私は石の柱……崩れた家の 臺座を踏んで

自らの重みを ささへるきりの

私は一本の石の柱だ――乾いた……

風とも 鳥とも 花とも かかはりなく

私は立つてゐる

自らのかげが地に

投げる時間に見入りながら

 

歴史もなく 悔いも 愛もなく

灰色のくらい景色のなかにひとりぼつちに

また靑い日に キラキラとひかつて

立つてゐるとき おもひはもう言葉にならない

 

花模様のついた會話と 幼い傷みと

よく笑つた歌ひ手と……それを ときどき おもひ出す

風のやうに 過ぎて行つた あれは

私の記憶だらうか また日々だらうか

 

私は おきわすられた ただ一本の柱だ

さうして 何の 廢墟に 名前なく

かうして 立つてゐる 私は 柱なのか

答へもなしに あらはに 外の光に?

嘗ての日よりも 踏みしめて

強く立たうとする私には ささへようとするなにがあるのか!

知らない……幼い夢の誘ひと潤澤な眠りに緣取られた薄明のほかは――

 

 前回、私は立原の詩の特徴を、「観念」の崩壊にあると述べた。つまり萩原朔太郎が詩集『氷島』で示した「詩を捨てながら詩を書く」こと、「死にながら生きる」という「詩人」という存在の矛盾律を、立原は「観念」において描き、そして実践において失敗していったところにあると。この詩「石柱の歌」は、まさにその失敗と崩壊の只中における奇跡的な成功例であろう。一読するとこの詩は、中原が示した「この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!」「私の仰向かんことを!」といった身体感覚にぴったりと則した完全なる「死」とは対照的な、「私は おきわすられた ただ一本の柱だ」という身体感覚から遊離した「観念」の世界が描かれているように感じる。しかし、よく読めばこれは決して単なる「死」の観念化ではない。実は立原の「中間者」として生きる、「死」と「生」が混淆した「実感」から言い表された詩である。

 例えばこの詩の最終連は自己否定の繰り返しによる主語の「ゆらぎ」がおきている。「私は おきわすられた ただ一本の柱だ/さうして 何の 廢墟に 名前なく/かうして 立つてゐる 私は 柱なのか/答へもなしに あらはに 外の光に?」と、自らを「柱だ」と断定しながら、「さうして」の後に突然、「何の…柱なのか」と疑問がくる。本来ならば「さうして」は「しかし」であるべきである。しかも続く「答へもなしに あらはに 外の光に?」はどこにかかるのか、この疑問符「?」は何なのか、よくわからない。ここを私流に解明するならば、この一行は、立原お得意の前後への二重掛かりの手法とも取れるが、立原の中で突然囁かれたもう一人の内なる「他者」の声と読む方がよい。しかしこれだけで終われば、この詩はいまだ「観念」の詩である。問題は次である。「嘗ての日よりも 踏みしめて/強く立たうとする私には ささへようとするなにがあるのか!」と「肉声」が叫ばれ、「知らない……幼い夢の誘ひと潤澤な眠りに緣取られた薄明のほかは――」と、どこからかまた別の声が呟くように終わる。

 このように自己否定の連続と、自己内対話による声の多重性(または失語性とも言える)によって主体である「私」の輪郭はゆらぎ、はじめに提示された「私は石の柱……」という「観念」に遊離した世界は崩壊していく。しかしこれを失敗と見るかといえば、この最終連によってこそ、詩作品にリアリティを持たせているといえる。ここに「生」と「死」の間に引き裂かれながら生きる「中間者」の、「もう言葉にならない」はずの、到底言語化不可能な何かを言語化せんとして「崩壊」する詩そのものが刻まれるのである。

 だから、立原の他の詩にも見えるこのような読みづらい詩法は、多くの論者が言うように、詩人が愛した新古今など平安王朝文学、特に定家によって極められた修辞技術の応用としてのみ片付けるのでは、その詩精神の抜き差しならない言語化の必然を見落とすことになるだろう。ここで一篇、その「言語化」の対照性を見るため中原を引いてみたい。

 

一つのメルヘン

 

秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

 

陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、

非常な個体の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくつきりとした

影を落としてゐるのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかつた川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

 

 これこそ「仰向け」となって、「すべてを感ずる者」でありたいと希求した「死」の後の世界とも言える。変な言い方ではあるが、中原はここで「死後」の世界を「生き生き」と描いている。現世を「すべてを感じる者」として生き切った後の、「ふるさと」の地に帰った詩人の魂が無心なまま眺めている「死後」の「メルヘン」を、完全なる「生者」の場から描いた世界である。それは立原が求めてやまなかった「メルヘン」であるが、しかしその一点こそが立原が詩「汚れつちまつた悲しみに……」を「完璧な芸術品」と呼び、否定したところの中原の詩心である。立原にとって「メルヘン」とは、決して「眺めやる」ものではなく、自らの中で未成熟のまま凍結した純心、常に「生」と二重にある「死児」であり、決して「生」の果ての「死後」の世界ではない。中原が、全き「生者」、全き「詩人」として生き、そして完全なる「死」を迎え、さらには「死後」の「メルヘン」を遠くのものとして構築してしまうことは、立原自身の「生」をいわば否定することでもあった。

 

 「僕ははつきりと中原中也に別離する。詩とは僕にとつて、すべての『なぜ?』と『どこから?』との問ひに、僕らの『いかに?』と『どこへ?』との問ひを問ふ場所であるゆゑ。僕らの言葉がその深い根源で『對話』となる唯一の場所であるゆゑ。

 僕らの反撥と別離は、くりかへされてやまないであらう。そして僕らが親近するのは、雑踏のなかで、ただ一度二重にかさなつただれもゐない氷の景色のまへで出會ふときだけ。そして、その出會を無力にする、『あれかこれか』の日に僕らは別離する。なぜならば、深い淵をあなたの孤高な嘆きが埋めつくし、あなたの倦怠が完成するゆゑに。言葉なき歌となるゆゑに。」(「別離」、立原道造全集第4巻所収)

 

 この最後の、「言葉なき歌となるゆゑに。」は極めて暗示的である。中原の詩「言葉なき歌」はここでは煩瑣になるので全ての引用は控えるが、この詩で中原は「それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた/号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた/けれどもその方へ駈け出してはならない/たしかに此処で待つてゐなければならない」と言ってのける。「あれ」とは、立原が「もう言葉にならない」と認めつつ言語化しようとしたところの生と二重化している凍結した「純心」=「死児」である。中原はそれを遠ざける。なぜなら中原は「現実」にわが子「文也」を失った嘆きの中にあったからである。だから中原の詩が日本古来の韻律である5・7調、7・5調を基軸に、ある意味流麗とさえ言える「一人称」の声から発せられるということは、そのような「現実」の「死」を前にして、言語化不可能なものはそのままにすべきであるとする、あの有名なヴィドゲンシュタインの言葉に通じる自己の痛みに忠実な「ヒューマニズム」の姿勢を貫いたためであり、逆に立原の詩が、ぎこちない、断片的な、時に自己否定を繰り返す多声と失語に陥ることは、言語化不可能な「あれ」としか呼べないものを、どうしても自らの内に言語化しなければ、果てには「狂気」の中でしか生きれなくなってしまう、「美学」上の「中間者」であったからである。

 そうした観点に立つと、極論ではあるが、中原中也という詩人は、近代詩の正負の遺産を一身に背負いかっさらって行った感がある。明治以降の欧米詩の輸入にともなう、上田敏、蒲原有明らによる7・5調の晦渋な翻訳体は、日本語の「語」の立ち姿を見事に「象徴」の領域に引き上げたが、私には何か詩人が未だ古来からの韻律の不自由さに悶えているように見える。また萩原朔太郎が切り開いた口語自由詩が持つ「内在律」という、いわば「魂の韻律」というものも、日本古来の韻律を排してなお、乗り越えがたき「定型」に対する詩人の止むがたきジレンマとして聞こえてしまう。しかし、中原にあって、もはやそうした「定型」に対するジレンマも格闘のあとも感じさせない。なぜであろうか。

 大岡信が『現代詩人論』(角川選書13、角川書店、1969)の中原中也論で述べていることはその秘密を明快に語ってくれる。

 「中原が二十世紀のさまざまな芸術思潮、新流行に眼もくれず、ひたすらランボオや、ヴェルレーヌ、ラフォルグの世界に共鳴した理由も、(略)これら十九世紀末葉の詩人たちのうちに、『自分自身であること』が、とりもなおさず『表現者』であることにほかならなかった詩的生活者たちを見出していたのである。それに対して、二十世紀のめまぐるしく展開する芸術思潮や様式変化の多くは、かれには根のない空疎なから騒ぎと映った。『問題は紛糾してはゐない。野望が紛糾してゐる』というのが大根のところでのかれの現代芸術観であり、同時に現代人観であった。ダダイズムは二十世紀の運動だが、かれはダダの中に、技巧を排し、理知を排し、ひたすら魂の純粋性に生きるための理論を見ていたのである。(略)もともと中原は、詩とか芸術というものを、『認識以前のもの』『名辞以前のもの』と考えているのである。つまり何であれ、名づけられ、分類され、認識や批評のわなの中におちていってしまう以前の、まさに『空前絶後』で『全生活』そのものであるひとつの『ああ!』という叫び、それをとらえることが、詩であり、芸術であると考える。」

そして大岡は中原詩とはつまり、「最も豊かで、ひろがりのある、総体的な生命のあり様だったのである。そして、その生命の流露に生きることが、彼にとっての『幸福』だった」と言い切っている。

 この「幸福」という言葉に、はっとさせられる。つまり、果たして立原の詩は「幸福」な詩であろうか。そして私の詩や私の友の詩は、いや現代のすべての詩は……と。そもそも「詩」、況や「文学」なるものが、明治以降、立原のような当時の「一高―東大」コースを歩むスーパーエリートの「インテリゲンチヤ」の手によって形成されていったのであれば、大正から昭和初期にマグマのように噴出したダダ、シュルレアリズム文学、プロレタリア文学、マルクス主義文学、といった既成の文学を破壊していく前衛革命運動は、立原よりも中原の出現を用意していたと言っていい。中原が高橋新吉の詩集『ダダイスト新吉の詩』に感銘を受け、野生児のごとき「詩人」になることを決意したことは既知のことであるが、大岡が述べているように、中原はそうした運動体が表出する言語実験には興味がなく、ただ純粋な魂に殉ずることの本義のみをダダ精神から汲み取った。つまりこうである。

 「情けは無用だ。大虐殺のあとで、浄化された人類という希望がおれたちに残されている。おれはいつも自分のことについて語る。というのも、相手を説得したくないからだ。おれには、他人を自分の流れにひきずりこむ権利はない。おれは自分のあとについてくることを誰にも強制しない。天空の星の層へと矢のように上昇する喜び、あるいは死体と豊かな痙攣が満開の地の坑道へと下降する悦びを知れば、誰もが自分流に自分の芸術をつくれる。」(トリスタン・ツァラ、「ダダ宣言1918」、塚原史訳、『ムッシュー・アンチピリンの宣言』所収、光文社古典新訳文庫、2010)。

 「知」における模倣、輸入ではなく、破壊と純粋の「魂」の完全なる輸血によって、中原は7・5の韻律さへも近代詩史上初めて近代人の直接の声として、「詩」に定着してしまった。そうした意味で、異論はあろうが私は日本近代詩の頂点に中原中也は存在していると考える。

 反面、立原の「崩壊」については大岡信もまた実に明快に語っているが、それについては次回引用するとして、中原との比較においては、菅谷規矩雄が『近代詩十章』(大和書房、1982)で「幸福な詩人の不幸な詩」という題で重要な指摘をしているので引用する。

 「立原の詩こそは、完ぺきに芸術化されたモノローグである。そしてその完ぺきさは立原が<魂>を完ぺきに欠落せしめていたゆえに可能になった。告白するにたる<魂>を欠いているゆえに、そのモノローグは、徹底して『対話』の仮装と仮象をおいもとめた。中原の<魂>とは、そのあまりの現実性ゆえに<心理>たらざるをえないもののことであり、立原の<心理>すなわち『対話』は、そのあまりの物語性のゆえについに<魂>にとどくことのないものであった。言いかえればその錯覚の完全さ(?)がありえたからこそ、立原は中原にたいして同時代的に拮抗しうる詩人でもあったのである。『完璧な芸術品』をつくりあげたのは、中原ではなくて立原のほうである――それが『長崎ノート』と題された、立原のさいごの作品である。」(最初の「完ぺき」と、「作品」に傍点あり)

 ここで言う「長崎ノート」は、後にも触れるが立原が死の直前までに書きつづけたノートのことである。この菅谷の文体、特に<心理>のあたりは読み解くのが難しいが、中原との対照性において、立原の<魂>の欠落が、すなわちその「人工」の詩の本質であると述べている。そしてさらに三島由紀夫を立原の再来と位置付け、詩人の早すぎる「死」について、「立原にとって、どのような戦後もありえなかった以上、戦場での死と拮抗しうるのは、そのように死の虚構を実践することいがいになかったとおもえるのである。」と言う(ちなみに菅谷は同書で中原中也と太宰治を重ねている)。

 ここに中原の「幸福」とは逆の、立原の「不幸」があるのであろうか。それは果たして「ヒュマニズム」と「美学」の対決による不幸であろうか。あるいは「時代」の不幸であろうか。ダダ精神を完全に生き抜き完全なる「詩人」となれた中原と、逆に「観念」の「崩壊」過程で、「中間者」としてのみその存在を保てた立原の「死」はわずか1年ばかりの違いであったが、その資質の隔たりは、ある意味、戦前と戦後を分かつ断絶か、況や近代詩と現代詩の断絶か、いや双方が巴を組み雪崩れ込んできている「詩」のいまの問題か……。菅谷が指摘する、立原の影が三島にあるとすれば、それはまさしく「美学」に生きた者の「不幸」の問題であろうが、これはこれから踏み込まねばならないあの保田與重郎、芳賀檀らの親和と決別という過去の問題ではなく、いままさに一億総右傾化と囁かれる不気味な現象として忍び寄る「現代」の問題に通じる。

 ただ今の私には立原の死は、三島の死とは質が違うように思う。つまり立原の「美学」と三島の「美学」は近いようでいて遠い。それは立原の「観念」があくまで自らの内の「メルヘン」=「死児」との「対話」の中で引き裂かれていったのに対し、三島の最後のそれは、それまで立原にも通じていた王朝ロマネスクの「古典」の物語性への回帰が、完全なる「歴史」への合一、「武士道」への帰依として「完結」しているからである。このあたりは余裕があれば別稿で詳細に書いてみたいが、以下立原が読んでいた、今もその呪詛的な磁力を失わない20世紀詩の重要文献の一節を引用し、次回はその「美学」と「ヒューマニズム」の問題について「今」なぜ語らなければならないかを掘り下げ、そしてようやく「戦争」と「詩」について、保田、芳賀ら「日本浪漫派」との問題、あの「イロニイ」の問題、つまり「民族」「国家」と「詩」について考察し、同時に、私はこれからどこへ歩んでいくべきかを考えたい。

 

 「詩人そのものは彼と此即ち神々と民族との間にたつている。詩人とは外に投げ出されたもの――即ち神々と人間との間のその中間に投げ出されたものである。けれどもこの中間に於てのみそしてそこに於て始めて人間とは誰であり何処に人間はその現存在を定住せしむるかが決断せられる。『人間はこの地上に於ては詩人として住んでいる。』」(マルティン・ハイデッガー、「ヘルダーリンと詩の本質」、齋藤信治訳、「ハイデッガー選集3」所収、理想社、1962)

 

31.「『詩人』の定義」

 

 「詩人」とは一体何者なのか。なぜある種の若者は「詩人」に憧れるのか。彼らはみな単に「詩を作る人間」になりたいのではない。「詩人」になりたいのである。私も10代から20代は「詩人」に憧れたものである。そしてアルコールばかりを体内に流し込み、「詩人」の親友と横浜の老舗ライブハウスでフリージャズやノイズに浸りながら、わけのわからない戯言をノートに記していた。しかし結局私は「詩人」にはなれていない。なぜか。それはまだ私が「生きている」からである。「詩人」は寄る辺なき存在としてこの世を彷徨い、そして早く死ななければならなかった。

 ただ別の視点もある。一人の商人に対して、「あなたは『詩人』ですね」と言いたくなることがある。彼は詩一つ作らないが、人は彼を「詩人」と呼んでしまう。その者は沈黙し、ただ店先に座っているだけで「詩」を語っているのであろうか。私はそういう人間にかつて会ったことがある。その風貌、眼光、生き方が「詩人」としか呼べなかった。うろおぼえであるが西脇順三郎が金子光晴との対談で、「詩人になりたいと思っている間は、その人は詩人ではない」という風なことを、若い日の自らを省みて述べている。西脇流にすれば、真の「詩人」とは、「旅人」である。遠い異国から持ち帰った珍しい品々を店頭に並べる商人をそう呼びたくなる所以である。ここでは彼は死ぬ必要はない。しかし常に「不在者」である。今の私はそのような人間になりたい。

つまり「詩人」とは何者か、という問いは、「詩」を書いている如何とは別に、「ことば」から離れて、一人の人間の存在の在り方についての問いである。

 突然、立原道造の話から逸れたようだが、実は立原道造について考える際には必ず通らなければならない問題である。なぜなら立原道造は、常にその問いに立ち帰りながら詩を書きつづけた「詩人」だからである。

 

 「『氷島』について――

これは『月に吠える』『靑猫』とは桁ちがひだ。僕の誇張した考へ方によると、日本にこれと對立し得る詩集は、わづかに『鐡集』しかない。僕はこれを詩の問題とは考へない。ここには詩人・萩原朔太郎の問題があるきりだ。これの詩は自殺の決意を背にして書いたといふ、その詩人の問題だ。

詩は言葉に關係するきりかもしれない。言葉と言葉の間に生まれる世界に就て。だが『氷島』一巻に於て言葉は詩とどれだけ關係したであらう。おそらく朔太郎と言葉の關係の十分の一にすぎないであらう。この關係について。このやうな時、三文と三文でないものがその姿をあらはす。また三文が三文を越える。嘗ての詩集に於て、朔太郎は三文詩人のマスクをつけてゐた。そして氷島に來たときそれを引き剝がさずにはゐなかつた。その以後の散文詩を見よ。もはや三文を越えてゐた。僕はこのやうな場合、詩に就てより詩人に就て多くを語りたい。

…(略)…

ふたたび戻らう。もともと完全な作品などといふものがどこにあらうか。言葉が詩人にとつて眞実であるかないかといふだけの意味で完全といふ文字を使ふならばまだ僕はその完全を想像出來る。だが藝術的に完全などといふことは決して想像されない、これは既に僕が藝術からとほいといふことだけを意味するやうに! そして朔太郎にあつてもこの意味で彼は藝術からとほくはなかつたか。(三好達治の氷島論に、朔太郎の非藝術的な表現といふ言葉があつた。)今思ひ出す。君は嘗て、詩的なものを排除することから僕の詩は始まるといふ意味のことをうたつた。そこに今僕は行き着いたのだろうと。」

 これは昭和10年2月28日(想定)の詩友國友則房宛の手紙の一節である。ここに立原がいかに「詩人」にこだわったかがよく表れている。昭和10年とは、立原22歳、前年に東大建築科に入り、詩誌「四季」にも加わり、名詩「はじめてのものに」を完成させるなど、その才能を一気に開花させた年である。「『氷島』一巻に於て言葉は詩とどれだけ關係したであらう」と朔太郎の詩に「言葉」以前の「詩」を読み取り、「藝術的に完全などといふことは決して想像されない、これは既に僕が藝術からとほいといふことだけを意味するやうに!」と、「言葉」に定着された「詩」への懐疑を述べている。そして「自殺の決意を背にして」書かれた『氷島』における朔太郎の「詩人」としての在り方に、「僕は行き着いた」と宣言している。立原が思春期以来自殺念慮を抱えて生きていたことは既に述べたが、それが「詩人」の在り方と一致する地点にこのとき来たのである。それは同時に「母」を心的に封殺することによって「詩人」へと脱皮することをも意味していることもすでに述べた。いや「脱皮」と言うと語弊がある。「母」=「生」と、「詩」=「死」に引き裂かれた精神の半身を切り捨てたと言うべきか。このとき、立原の短い生はほぼ決定したと言ってよい。

ただここで不思議に思うことは、この立原の認識にある「詩人」が、同時に目指していた「建築家」といかなる相関関係があるのか、ということである。というのも、ここまで論を進めれば、立原にとって「詩人」とは当然職業としての「詩人」ではないことは明白である。それは「建築家」である。ここに「生きる」道はあったはずである。しかし生業としての「建築家」は、立原が「立原家」を継がず画家になろうとして、その夢を母によって断念させられ妥協して選んだ道である。前に「ヒアシンス・ハウス」について触れたように、立原の「建築」には、最終的に「詩」が流れ込んできてしまう。そこではもはや職業としての「建築家」は失われ、「人工」の、実現不可能な「詩人」が住まう「家」の設計へと向かった。立原の場合、「建築」という実際にこの地上に立つ「物」を作り上げる人間と、「詩」という手に触れることのできない「虚」の世界を築く者が、バランス良く共存することは不可能であった。たとえば詩を高級な「趣味」にして、職業としての「建築家」を生き得るほど立原は器用ではなく、あるいは大学などは辞めて「建築家」の道を捨て、「現実」の職業詩人として、全身詩人として生き得ることもできなかった(後に詳しく述べるが、そのように生きることを決意した中原中也への反発の根もあるといえる)。これは立原に「決意」の勇気がなかったのではなく、これまで述べたように思春期以来、自我を引き裂かれた者が歩む運命である。同じ昭和10年の、生田勉宛の手紙から引く。

 

 「觀念が切ない心情を持つことはないか。もしさうだとしたら。僕は今君にまで訴へたい心でいつぱいなのだ。それは、神を思ふ觀念の嘆かひであらうか。また神を捨てる觀念の叫びであらうか。僕が恥ぢたいのは、それが觀念から離れず、體感にまで至らないことだ。さうして、その故に、このとき僕は詩人であり得ないのだ。ただ低くさまよふ魂は、ひたすらに、とほく體感を意志するのみで、僕はその體感から叫んでゐるのではないのだ。」

 

 立原の言葉使いは掴みづらいが、要するにここで立原は「觀念」と「體感」とを対置し、自らを「觀念」から脱せられない者であるとして、「詩人」ではないと言っている。そして気になるのはその「觀念」が「神を思ふ觀念」と「神を捨てる觀念」とで揺れているところである。手紙の続きを引く。

 

 「或る日、神とは詩にほかならなかつた。神は表現であつた。表現せられたもののなかに神はおのづからやどつた。すなはち、自己のあらゆる放擲によつて、ただ表現を思ふことで、弱さを誇ることが出來た。この日、詩人たちにとつてすべてが榮光であつた。彼らが花鳥風月とともにあれば、自然は彼をなぐさめ、彼は自然に抱かれるより、他にいかなることも夢みなかつた。さうして、彼らが花鳥風月とともにゐないとき、それらをあこがれれば、ただちにそれは眼の前にあらはれ、彼らのこの交わりは純粋に榮まれた。が、その榮みは次第に殻をかぶりだした。この頃からだ。詩を捨てて神はとほくにゐたことが詩人の心にうかんだのである。」

 

 この後、「神」と「詩」との関係について延々と述べられる。内容はやや稚拙なもので、まとめて言えば、産業革命以来の、「近代詩」は、「機械の神」の手に落ちて堕落した、自分はかつて詩人が一体となっていた「愛の神」を求める、この「神」への「意志」こそが「詩」である、といったところである。問題は先の「神を思ふ觀念」と「神を捨てる觀念」である。これはどういう意味であろうか。立原のロジックでは「詩を思ふ觀念」と「詩を捨てる觀念」と言い変えることが可能である。

 

 「この神への意志、而もそれは嘗てのやうに花鳥風月の清澄な世界への逃避でなく、機械とのあらがひのなかにはいつて、苦惱多く求めらるべき意志、これこそ詩のモメントであつた。」

 

 そして手紙の最後は、「僕はほんとうに觀念的で、温情的で、中學生趣味で。そこには感性もなく、知性も閃かず、詩人としての才能もない人間ではないだろうか」と、なんとも弱々しくも、しかしよく自己客観視した言葉で締めくくられる。

 つまり立原は、自身を「詩人」になりきれない、「觀念」の世界に泳ぐ者として自己否定をしているのであるが、このような「神」=「詩」という「高み」の領域が「詩人」が到達すべき場所という考えに立てば、「詩を願う」ことと「詩を捨てる」ことの二者択一は、ほとんど「死ぬか生きるか」の選択となる。この世に「詩人」はいない、「神」に見捨てられた「人間」がいるのみである、自ら本当に「詩人」になろうとするならば、「神」になるしかない。それは不可能である。ならば詩を捨てるか。それも不可能である。こうした近代以降の「詩人」の在り方に直面した立原の前で、朔太郎は『氷島』で初めてその両者を同時に実行したことになる。つまり「詩を捨てながら詩を書く」ということである。口語自由詩の完成者、萩原朔太郎が文語調で記した『氷島』は決して自らが言うような「後退」ではない。朔太郎がその序で自らを「永遠の漂泊者」と呼び、「何所に宿るべき家郷を持たない」と述べ、「我れは何物をも喪失せず/また一切を失ひ尽せり」(「乃木坂倶楽部」)、「我れの持たざるものは一切なり!」(「郷土望景詩」)というパラドシカルな詩を刻んだとき、日本近代詩は一気に深化したといえる。今ではもはやこの朔太郎の詩句は現代詩の古典と言えるが、立原は同時代においてこの詩句の真意を悟ったといえる。つまり「詩を捨てながら詩を書く」という倒立した行為が現代の「詩人」の在り方であるということを。

 このことが、「日本浪漫派」の掲げた「イロニイ」の思想といかに合流していくか、そしてその思想が戦争期の国家権力といかに同期し、やがて破滅してゆくのかはこれから示していこうと思うが、少なくとも立原が朔太郎の示した「詩人」像に覚醒し、それを真に引き受けようと「決心」したのがこの昭和10年なのである。次に引用する同年に書かれた物語「生涯の歌」は、明白にそれを裏付けている。

 

 「ラムダは高い山にのぼつた。二十歳のときである。空は晴れて靑かつた。

 枯れ木の消えるあたりにその頂は見えてゐた。それが次第に見えなくなつた。山の道にさしかかつたのである。枯れた林はつづいてゐた。そのなかを道は通つて行く。ラムダはたつた一人であつた。

 山の頂は廣かつた。自分の歩いて來た林の樹木が、麓に枯野の草のやうに短く見えた。山の起伏があつて平野がある。また山がある。とほい所が近く思はれ平野のあたりを煙があがつてゐる。それが白く一すぢにのぼつて行くのを見ると、たのしいのである。ラムダはいつまでもその廣さを眺めてゐた。

 《あのなかに人のくらしがあるのだな

  死とよろこびがあるのだな

 

……何を思つたのだらう。日暮れ近く、彼はもう山を下りない決心をした。二十歳のときである。空は晴れて靑かつた。」

 

 この冒頭の一章は、一人「高み」に赴こうとする立原の視点からはじまっている。しかし未だ「詩人」ではない。物語の概略を述べると、山の「高み」から、平野を見下ろす二十歳のラムダは、いつか空を飛ぶことを夢見ながら、孤独の山にいる。実は山の麓の村では、大昔に少年が塔の頂から飛び、ほうき星になったという伝説がある。ラムダはその伝説を知らぬうちに実行しようとしている。ただ村ではラムダは何者かに連れ去られ、もう死んだものとして扱われ、墓も立っている。これは「ハーメルンの笛吹き」の世界に通じる。ラムダもまた自分は死んだようだと感じている。

 

私は一匹の蝙蝠だらう

あれは二つの命を持つた

そして彼の一つは死を死ぬ。

私は鳥になるだらう

私はゆらめいて死ぬだらう

あんまり私が小さいから

鼠よ お前はここにゐない

あんまり山が高いから。

 

 このような詩をラムダは呟く。そして五年後、ラムダは村に降りるが、村人からは「乞食」扱いされてしまう。そこでラムダは空を飛べるという「うそ」をつき、空高く張られたサーカスの綱渡りでそれを実行することになる。そしてラムダはそのとき本当に空が飛べると信じ込み、綱の上を走りだすが、結局堕ちて死んでしまう。結びは

 

「村に、にせのつなわたりの墓がたつた。それは一本の丸太であつた。

村の墓地には、二つのラムダの墓があつた。そしてラムダの父母は死んだラムダがもう一度ほんとうに彼たちの目の前にむごたらしい死に方をするのを見なければならなかつた。そしてそのやうな息子の死に村の誰よりも多くの涙を流してはいけなかつた。

それから後、村にはラムダの傳説がのこつた。冬の爐ばたで、それは喜んで語られた。

やがて、つなわたりをしたラムダはその落ちたところに小さな一本の木になつた。木はいつまでも綠の葉を茂らせて、傳説の靑空に立つているだらう。

知らない人はその木を見て何を思ふだらうか。知らない人は、きつとラムダがどんな風にして彼の二つの死を死んだかを永久にわからないだらう。

だがほんとうに悲劇のやうに考へてはいけない。勿論これは何でもないことだつたのだから。そして何と不思議がつたのだらう。」

 

 この物語(立原は長編詩と述べている)は、立原自身の人生をそのまま予言しているとして、よく語られる。ここには「二つの死」が描かれ、先の「詩人」の在り方が端的に述べられている。山にいるラムダは「死にながら生きている」のであり、そこで「詩」を呟くのであるが、実際に村に降りたとき、彼の「うそ」=「詩」は二度目の「死」を導くことになる。しかしそれはまた「傳説」へと合流する。ここでラムダは真の「詩人」となった。「傳説」とは、「神」の住まう世界である。この時点で、立原の中で「母」は完全に切り捨てられていることが分かるだろう。ここには完全な「觀念」の世界が立ち現れ、「詩」=「神」=「死」が結合する「ふるさと」の情景が開示されている。立原の詩境はここでほぼ完成した。

 この後、立原はわずか4年しか生きない。そのわずかな年月で果たして立原は「詩人」としていかに生きたか。それは朔太郎の「漂泊者」とはまた別の、痛々しい「詩を捨て」ざるを得なくなる「觀念」の崩壊の道である。しかし、その崩壊においてこそ、私たちにはリアリティを持つ「詩人立原道造」が迫ってくる。そしてそれは昭和10年代という近代日本の崩壊の過程と一致するも、現代にまで及ぶ「詩人」の問題を提示し続ける。

 ここで一人の「現代詩人」の言葉を引用する。ここに「詩人」の本質は明晰に語られている。

 

 「おそらく、詩人とはその時代の言葉が通過する場所であり、装置であろう。この装置の歴史は遙かな昔にさかのぼり、その時々に、いくつもの装置が存在したのだ。単に『詩が好きだ』という所から歩みはじめた一人の青年が、我知らずこの流れのなかに歩み入ってしまうとき、感ずるのは『何かしら疲れた悲哀』であり、彼が立っているそこは、『形ないものの、淡々しい、否定も肯定も中止された、ただ一面に陰も光もない場所』、『人間がそこでは金属となり結晶質となり天使となり、生きたる者と死したる者の中間者として漂ふ』場所なのである。この場所に立ったとき、彼は一個人の記憶と経験のみならず、さまざまな者の、記憶と経験によって書く存在となるのではなかろうか。」(辻征夫『かんたんな混沌』(思潮社、1991)所収「立原道造という装置」)。

 

 次回はこの辻の視点を踏まえ、先に少し触れた中原中也の詩にも触れながら、立原の「死」と中也の「死」がいかに違うか、二人の相反する「詩」の崩壊過程をたどりながら、その詩学のパラドックスと「日本浪漫派」の「イロニイ」の絡み合い、そしてその詩の「失敗」(それゆえに私はやはり読み続けなければならなかった!)の核心を見てみたい。(10.10.3)

 

30.「『母』の問題」

 

休暇

 

僕が青空の地圖を讀んでゐると……母が不意にやつて来て白い雲を指さす。それはひとつの小さな魚の形の天使だつた。《僕はアラスカへでも行つちまひたい》母は僕の傍で海のやうな息をしてる。

 

 今、この立原初期の詩を読み、私は長く立原道造をどこかで「誤読」をしてきたことに気がつく。たとえばこの「休暇」は、ただ詩人の習作時代の、青年期の自立心と依存心が併存する心の表出とのみ考え、あまり注視してこなかったが、どうやらそのような単純な代物ではないことに気がつく。そして詩を読むということが、いかに読み手の精神の在り方を問われるかをも思い知る。つまりこれまで私は、立原道造の全ての詩に「母」が貫かれていることを見落としていた。いや見ないようにしていたと言える。

 詩「休暇」は昭和7年、立原19歳のときのものである。短歌時代が終わり、物語を書きだし、そしてあのソネット群を完成させる「詩人」へと至るまでの試行錯誤の時期のものである。モダニズム詩の影響が垣間見えるが、主題は明白で「母」である。だがよく眼を凝らすとこの「母」は単なる立原自身の母親のことを指して言っているのではないことが分かる。いわば抽象化された「母」である。私なりにこの詩を解釈すれば、この「母」は現実の「母」を超えて、「魚の形をした天使」=「詩」を名指す「詩神(ミューズ)」であると同時に、自らが「詩人」としてそこへ旅立つ前に決別しなければならない(そして堕ちていくときに再び戻る)「海」=「胎内」の比喩として描かれている。同時に、詩人は自らが「胎内」にいることへの苛立ちを募らせ、「アラスカへでも行つちまひたい」と焦慮の念を抱いているが、私がここで注視するのは、「詩」が「白い雲」という「高み」に存在し、「母」=「海」=「胎内」と対極の位置にあることである。このことは後に立原道造が示した「近代詩」の栄光と破綻にまで繋がる鍵であると考えるが、なぜそのような「高み」へと立原は赴かなければならなかったのかをここでは慎重に考えなければならない。実のところ、私は前回「詩と引き換えに消された家族」の最後に、立原が「神」と「死」に取り憑かれていったと書いたところで躓いていた。なぜならそこには簡単には消し去ることができない生身の「母」の存在が横たわっているからであり、何より私自身にとって「詩」と「母」の問題は根深く、今その解決のときが迫っていることに焦りと戸惑いがあるからである。

 前回「崩壊家族」という言い方をしたが、考えてみれば崩壊していようとしていまいと「家族」は「家族」である。「家族」の成員と全くの他人となることも可能であろうが、記憶を強引に捻じ曲げでもしなければ、現在の私の身体的精神的ルーツには避けようもなく「家族」、そしてその中心に「母」がいることは否めない。このことは、単なる社会学的見地に立った「権力」としての「家族」とか、悪しき「封建遺制」の名残として今に続く「家族主義」への批判だけでは片づけられない、生理感覚として、私の身心にべっとりとした愛憎の染みを滲ませ続けているということである。これが私にとっての「詩」の磁場となっている。

 だから立原の「母」の抽象化は、私にとって実は奇跡に近い。理屈上は、「人工」の詩人として、「恋愛」も「自然」もこの世にない観念の世界として描いた詩人ならば、それも当然と言える。しかしこと「母」は、そのような「方法」として「対象化」でき得るものであろうか。私には正直この点がよくわからないまま立原の詩を読み続けてきてしまった。明らかに時代の違いもあろう。才能の有無もあろう。ただ私にはどうしても超えてはならない一線を立原は超えているように思えてならない。それはある一方で、自身の「詩人」としての栄光のために「母を捨てる」ということであると同時に、ある一方では、現実界から「詩」を抽象観念に放擲し、自らそこへ赴くという一種の自殺行為ともとれるのである。

 

少年の日に別れるために母を離れた

この旅で母にしか告げられぬかなしみがある

それを同じやうな手紙に書いた

僕は杉の林を歩いてゐる

そしてとほい山に陽があたつてゐる

僕は記憶と未来を持つてゐた

 

 この断片の走り書きは、詩「休暇」と同じころにノートに書き残されている(角川版全集第6巻所収「昭和8年ノート」)。「そしてとほい山に陽があたつてゐる/僕は記憶と未来を持つてゐた」の「とほい山」も穿ってみれば「高み」にある「パルナッソス」=「詩」である。「母」を捨て、全ての記憶と未来を所有して「詩」へ赴く決意は、ついに私には、「立身出世」を強いられた「近代精神」と同類のものとさえ感じ取れる。室町から続く「立原家」の家督を放棄してまでも、なぜそこまでして「詩」へ赴こうとしたのか。そしてなぜそこに「狂気」を私は見るのか。これがこの論の中心命題であるが、「詩」と「母」に引き裂かれていく立原の十代後半の、いわば「習作時代」における「物語」を見ていくとそこには想像を超えた巨大な青春の空洞が見えてくる。そしてここに先に述べた私の「誤読」の問題が横たわっている。

 よく考えてみるに、戦後から現在まで一般的に「立原の詩」=「青春の詩」であると見なされているが、立原の詩は「青春の詩」でも何でもないことは立原の愛読者なら分かるはずである。その詩ははじめから「青春を放棄した詩」である。「青春」などという呑気なモラトリアムの片鱗は立原の詩には存在しない。それは詩「休暇」にあるように、「高み」にある「詩」へと、「胎内」から一足飛びに飛翔したためであるが、これを戦後の「荒地派」の詩人たちが文学者の戦争責任論の流れで「逃避」として糾弾したことで、その後歪曲されたままの問題であるとも思える。確かにあの戦争で戦地へ赴いた若者であった「荒地」の詩人たちにとって、「青春」が国家権力に奪われたことは事実である。いや詩人だけではなく全ての若者がそうであった。彼らからすればひと世代上の立原の詩は何とも見当はずれな、苦労知らずのモラトリアムの「メルヘン」としか思えない。それは事実である。しかし「青春」とは何か、と私のような平和のぬるま湯に浸った人間が考える時、逆説的ではあるが、親に依存しながら、ただ無気力な、生きることへの恐怖を育む、「狂気」と「死」の瀬戸際に立った空洞である。「青春」が美しいという神話はどこから生まれたのか。立原の詩は本来そうした「美しい青春」とは真逆の、「死」を志向せざるを得ない「呪われた青春」であることを背後に背負っていることによって普遍性を保っている。ここを「誤読」してはならない。そしてその「詩」は「青春」を忘れた頃に深部から時間をかけて逆襲してくるらしい。本来見つめなければならなかった「青春」の苦悩から眼を背け、世間的自立を装ってきた私にとって、未処理の「家族」の問題、特に「母」の問題は、今終止符を打たなければならない時期に来ている。しばらくこの「母」の問題を糸口に、私なりに立原の初期の「物語」を通してその「詩」の発現の姿を見てみる。

 

「――その頃、在る夜更、こつそり母が僕の身體へしのびいつた。耳から、それとも齒の間から。僕の頭では、數學の式や歴史の年號が散らばつてゐるのにびつくりする。そつといろいろなものをよけて通つて行くが、それでも古い寫眞の切れはじとか空にだけしかないと思つてゐた雲の破片にぶつかつたりする。母は埃だらけになる。やがて心臓へ着く。僕の心臓の型は簡単だ、それに大きすぎるか小さすぎるかどつちかだつた。味だけが、思ひ出のおかげでチョコレート屋の番頭の心臓みたいに苦い。母はそれを不思議がる。こんな筈はないのだ、と。それだけなのに心配しはじめる。けれど手に持つたランプはそのとき消えてしまふ。

 あとで母は僕の顔やポケツトを氣にしだす。思ひ出は睫の上にも手帖の頁の間にもありはしないのに。それに、僕はもう僕の女王様の愛情をあきらめてゐた。」(「生徒の話―平野」)

 

 上に引用した立原道造の散文は、立原が本格的に詩を書きはじめる直前の昭和8年、20歳のころのもので、奥多摩の御岳で静養中に書かれたものである。「こつそり母が僕の身體へしのびいつた」という感覚は、「支配」される感覚である。これは子が親から自立しようとして出来ない悶えの感覚ともとれる。「僕はもう僕の女王様の愛情をあきらめてゐた」とあるのも、立原の「母」への愛憎の比喩ととれ、誰にでも若い頃にある「自立」の過程での内的葛藤に見える。しかし立原の場合は様相が違う。さらに同時期の散文を引用する。

 

「そんなとき、僕の上半身で僕と眠りとが、すれちがつてしまふ。肩のところでマントがすべり落ちるやうに擽つたく僕がずり落ちて行く。胸のあたりがへんになる(「へん」に傍点)。僕はうまく物が考えられない。言葉がだんだん身體から離れてしまう。それで僕は同じ言葉を舌の上で何べんも味わつたりする。その言葉は唇から外へ出ないくせに、ずつと遠いところにあるのだ。人々の聲や自轉車だのが目の前をずんずん通つて行く。その中に友だちや知らない人が大勢ゐる。何かおかしくなつて笑はふとしても、顔のかげですぐと歪みにすりかへられる。さうすると僕はあべこべにびつくりしてしまふ。鐘の音や女の子の聲がずいぶんはつきり聞へるのに、僕はそれが何だかわからない。それで僕は自分のちつぽけな身體のことばかり考える、手のことだの、足のことだの、それからお臍のことだの。すると身體の中で花がぱつと開いたやうだつた。その花が百合だか木犀だかわからない。だから僕は一生懸命花びらをかんぢやうする。だけれども花びらは途中でみんな消えてしまふ。あれは紅い花びらじやなかつたかしら……

 ・・・(略)・・・

 ほんとに僕は何でいろいろなことをこういふ風に忘れちまつたんだろう。いつの間にか僕の身體の裏側でもう一人の僕がほんとうに眼を閉ぢてしまつた。だから鶏を眠らせるのはやさしいんだつて。いくら何か思ひ出さうとしても、僕はそのうちほんとうにずんずん空氣の中へ沈んでしまふ。僕と僕とがはげしくこすりあふ。白つぽい闇ばかりひろがつて來る。マンマンよかつたね。鷗が飛んでゐるぢやないか。白い白いお魚なんだよ。何匹も何匹もたくさん泳いで行く。ずいぶんみんな遠い景色だな。ちつぽけな家が並んですぐと消えてしまう。ほんとうにこれから何があるといふんだらう。お祭りがあるのかしら。曲馬が見たいな。でも待つてゐてもそんなとき身體が眠りでつまつてしまう。僕と僕とが、どんどんすれちがつてしまう。僕はそれで景色の映つたシヤボン玉のまわりをぐるぐるまはつてゐる。……」

 

 長くなったがこれは最初に引用した詩「休暇」と同年の昭和7年に書かれた「眠り」という短い散文のはじめと終わりの段落である。「言葉がだんだん身體から離れてしまう」「何かおかしくなつて笑はふとしても、顔のかげですぐと歪みにすりかへられる」「僕と僕とがはげしくこすりあふ」「僕と僕とが、どんどんすれちがつてしまう」と書かれているように、ここではありありと自己分裂を、殆ど諦めに近い醒めた眼で眺めていることが分かる。そして「マンマンよかつたね」。これは何を意味するのか。「万万」なのか、あるいは「ママ」の幼児語なのか。いずれにせよ、この突然の挿入は不気味である。さらに、同じ昭和7年に書かれた「眠つてゐる男」というショートコントの冒頭を挙げる。

 

 「死は、夜更けの街を散歩する。人は、屢々その跫音を偸み聞いたが、持ち前の臆病さからそれを包み隠してゐた。――併し、人は死が、夜更けてさういふ散歩をすることを信じないわけには行かなかつた。人は、水蒸氣の多い晩などとりわけ息をひそめて死の跫音を聞く。夢の裂目に忍びよつた死の跫音を――。」

 

 この短い物語はその後、一人の男が現実とも夢ともつかぬ誰もいない夜の街を「『死』の回し者」につけられてさまよいながら、「バラ子」という名の「天使」を追いかけるのであるが、最後に一瞬垣間見た「バラ子」のいる風景は、「お母さんの臍の穴から見た」ような原初の記憶の風景である。そして最後は「バカな天使だな」と、突き放して終わる。

 この頃の立原の散文には既にその後に結晶する詩作品のキーワードとなる「夢」「眠り」そして「死」が頻出するが、最も中心にある語はやはり「母」である。特に特徴的なのは短歌時代の「母」への素朴な愛慕とは打って変わり、「畏れ」の対象となる。しかもそれは反抗期の青年のように自我を守るべく全身で抗う対象ではなく、自らを引き裂き分裂させ、半身を譲渡する形をとる。そして「母」へ譲渡した半身は、そのまま「死」と直結する。言い方を変えれば、「母」に支配される自らの精神の一部を殺すことで、「母」から逃れ「生きる」という、いわば「自殺」と「生存」の同時行為が起きているのである。これを私は「狂気」と呼んだ。

 さらにこれらの散文に特徴的なのは、その分裂した自己存在の「すれ違い」を示しているところである。常に立原の物語の人物たちは「すれ違う」。よく多くの立原論で挙げられる昭和6年、18歳で書いた最初の物語「あひみてののち」はその典型である。

 

 「沙爾はいつものやうにパステル箱を脇に抱へてふらりと出かけた、パステル箱は重かつた。シマコは皆に混つて元氣さうだつたが頭の心棒のところに變なものが廻つてるやうな氣がした。沙爾はどこかで繪を描かうと思ひ乍らいつか昨夜の道へ出てしまつたことを後悔した。シマコは前額部に手をあててみると少し熱かつた。沙爾は遠景の山にぼんやり眼を向け乍ら路傍の草叢に腰をおろした。シマコは先生にさういつてひとりだけで二階へあがつてやすんだ。」

 

 話自体はシンプルな内容で、まだ高校生の主人公の沙爾(立原自身の投影)とヒヨコの、ひと夏の恋を描いたものである。互いに想いを寄せながらも、実際は沙爾はシマコと、ヒヨコは比佐馬という別の人物とそれぞれ結ばれ、夏が終わると同時に4者みなばらばらに散っていくとだけのものである。いわば「すれ違い」の物語である。ここで特に注目すべきは立原の筆法で、引用したように登場人物たちの一つの行動をわざわざ交互に並べて書くのである。悪く言えば非常に苛々する文体である。ただあえてそうすることで登場人物の行動がバラバラに切断され、魂を抜かれた機械仕掛けの人形のようになる効果が生まれている。そしてこの物語で最も重要なのは、やはり「母」の存在である。

 

 「都會では沙爾の母がむすこが退屈してはしないかとむすこの好きさうなお菓子を送ろうと思つて小包を作つてゐた、縛った麻絲を鋏を鳴らしてパチリと切つた」(「むすこ」に傍点)

 

 この鋏を鳴らす表現にも、「母」への「畏れ」を感じさせるが、明確なのはこの「母」が「都會」の権化として書かれていることである。つまり物語は「自然」と「都會」との対立構造を軸とし、子どもたちは「自然」の中で一瞬の恋の夢を見るのであるが、「都會」にいる「母」によってその夢は常に「現実」に引き戻される。そして子供たちは「夢」の中でみなバラバラな機械へと分解されていくのである。

 この「あひみてののち」の文体は、おそらく映画好きだった立原が映画のモンタージュ手法を取り入れたものと言える(同年に書かれた草稿「やぶけたローラ」は、もっとも映画的なドタバタ活劇であるが、ここでは省略する)。これをいわゆるモダニズムの影響化の習作時代のものと捉える見方が大方であり、私もそう思うが、ただ立原のこの時代の「自己分裂」「すれ違い」、そして「母への畏れ」は、それまで短歌によって自我の苦しみを直情的に「詠う」ことから、自己解体そのものを「物語る」ことへシフトしたとき、当然選ばれるべき手法であったと考える。それは立原個人のレベルに留まらず、広げれば大正から昭和にかけて、モダニズムがそれまでの「近代」の病める魂の発露としての詩、また私小説や自然主義小説を解体していったことと同期しており、立原はモダニズム革命の時代における新たな自己のあり方を模索していたと見ることができる。しかし当然そこで最初に立原の前に立ちはだかるのは、「立原家」を受け継いだ「母」に他ならない。立原はそこで分裂してしまった。

しかしこの時期、モダニズムの影響とはいえ、立原がはじめから「自然」を志向している。なぜであろうか。たまたまその当時心身の静養に奥多摩に滞在していたためか。それとも同時代に共通する都会生活者が夢見る「人工の自然」に憧れていたためか。例えば小林秀雄の有名な言葉を引けば、

 

 「自分には第1の故郷も、第2の故郷も、いやそもそも故郷といふ意味がわからぬと深く感じたのだ、思ひ出のないところに故郷はない。確乎たる環境が齎す確乎たる印象の数々が、つもりつもつて作り上げた強い思ひ出を持つた人でなければ、故郷といふ言葉の孕む健康な感動はわからぬであらう。さういふものも私の何処を捜しても見つからない」(『故郷を失つた文学』昭和8年)

 

 この当時の都会に住む「故郷喪失者」の感覚が、立原の「自然」=「故郷」への「あこがれ」を抱かせたと見るのがオーソドックスな見地かもしれない。これがやがて仮想の「神ながらの道」へ到る戦争期の詩人たちが陥った「日本への回帰」現象へとどのように繋がるかは既に多くの論者が語りながら、未だ解決不可能な難題であるから、後に詳しく考えたいが、立原がこの「物語」時代に示した「自然」と「都會」の二元論に引き裂かれいった認識は、小林の認識と同類とは見え、実はもう一人、同時代認識として正確にこれを詩に定着させた「詩人」がいる。

 

 晴れた日に

 

 とき偶(たま)に晴れ渡つた日に

 老いた私の母が

 強いられて故郷に歸つて行つたと

 私の放浪する半身、愛される人

 私はお前に告げやらねばならぬ

 誰もがその願ふところに

 住むことが許されるのでない

 遠いお前の書簡は

 しばらくお前は千曲川の上流に

 行きついて

 四月の終るとき

 取り巻いた山々やその村里の道にさへ

 一米(メートル)の雪が

 なほ日光の中に殘り

 五月を待つて

 櫻は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!

 と言つて寄越した

 愛されるためには

 お前はしかし命ぜられてある

 われわれは共に幼くて居た故郷で

 四月にははや緣(つば)廣の帽を被つた

 又キラキラとする太陽と

 跣足では歩きにくい土で

 到底まつ靑な果實しかのぞまれぬ

 變種の林檎樹を植ゑたこと!

 私は言ひあてることが出来る

 命ぜられてある人 私の放浪する半身

 いつたい其處で

 お前の懸命に信じまいとしてゐることの

 何であるかを

 

 この日本近現代詩の最重要詩集と言える伊東静雄の処女作『わがひとに與ふる哀歌』の冒頭の詩は、立原における「自然」「故郷」そして「母」の問題全てを照射している。この詩に描かれた「故郷」そして「母」と、自らの引き裂かれた「半身」は、何者かに「強いられ」「命ぜられて」いる。この受け身の、引き裂かれた状態を伊東は理性によってそのままに対象化し描写する。ここには悶え苦しむ近代人の姿はない。「狂気」の詩人ヘルダーリンを熟読しつくした伊東にとっては、詩が発現するそれさえ「言ひあてることが出来る」ものである。それはそれまでの近代詩の歩み(モダニズムをも含めて)と決定的に隔絶した、全く新しい認識の詩である。近代的自我も、無意識の領野も、人間存在の暗黒のすべてが「ロゴス」によって「透視」されている。このような認識に立った詩が昭和10年、「コギト」から刊行されたということは何を意味するのか。立原はこのとき22歳、自我の分裂に悶え苦しむ習作時代を通過し、「四季」に加わりようやくあのソネット形式の詩法を確立しはじめた頃であった。立原は伊東の詩集の出版記念会にも出席しているが、果たしてこの詩集をどのように受け止めたであろうか。

もし私見を簡単に述べることが許されれば、伊東が「ロゴス」=「理性」を足場に、幻想の「自然」、「故郷」、「母」を決して信じず、あくまでそれらは「近代」によって作り出され「命ぜられた」ものであると認識しつつ、引き裂かれてしまった自らの「半身」と通信しながら歩む成熟した「抒情」に至ったのに対し、立原は「自然」と「都會」、「詩」と「母」とに引き裂かれた状態に耐えきれず、「母」に縛られた「半身」を切り捨て、「高み」にある、果てには「死」のみが充溢する無人の「廃墟」の、枯れた「抒情」へと赴いたと言える。しかしそれは詩人の意図を裏切った「失敗」の結果である。言い換えれば、片や「詩」のみにおいて自己分裂をそのままに生を貫徹し、片や「物語」行為(narrative)によって分裂を強引に統合しようとし座礁した。年齢の違い、育った土地の風土の差も大きく影響しているだろう。しかし最も根本的な違いは、「生」と「死」への親和の差であると考える。立原が模倣を試みた中世フランス風歌物語『オーカッサンとニコレット』含め、立原が愛した数々の「物語」(サン・ピエール『ポールとヴィルジニー』など)、どれもみな親と子の愛憎、そしてどちらかの「死」を描いた「美しい悲劇」である。そうした「古典」の「方法」によって、立原は「母」を「美」の中で消そうとしたが、それは到底不可能なことであった。なぜなら時代は既に「近代」であり、「死」はもはや「ロマン」にはなり得なくなっていたからである。もはや「詩」(韻文)と「物語」(散文)の分裂は決定的なのである。この立原の「錯誤」そのものがまた「近代」の宿命でもある。

 まだうまく語りきれない。次回はこの「物語」行為とは何かをより詳しく考察し、さらに「詩」と「母」の問題、そして現代に持ち越された「故郷」についても掘り下げたい。(10.8.30)


 

29.「『詩』と引き換えに消される『家族』」

 

 前回述べたように、立原道造が「狂気」を「古典」によって止揚する詩法をなぜ選んだのか、そしてそれがなぜ「家族」の問題と繋がるのかを、これから「立原家」や、時代状況などを巡りながら検討してみたいと思ったのであるが、一つその前に、そもそも私がここで繰り返し述べている「狂気」とは何を指すのか、ということを明らかにしなければ話は進まないと考えた。そこで先ず浮かぶ疑問は、私が言う「狂気」が、今日精神医学の治療対象の「病」のカテゴリーにすっぽり入るものであるのか、それとも哲学的解釈として、存在の崩壊過程の「現象」と捉えるのか、またはあくまで文学的視座に立って、理性に反逆するデカダンスの「美学」として見るべきなのか。そしてそれがなぜ「家族」によって醸成されなければならないのか、という疑問である。

 正直に言えば私の脳裏に常にこの疑問の反復は続いている。この21世紀の現代に生きる私が、百年も前に生きた立原の詩に没入するというとき、私はただその「詩」のみによってしか立原道造と出会っていない。そして本来それで十分なはずである。「狂気」の定義づけを、詩人の生きた時代、育った家庭環境、入り組んだ哲学理論等との関連で解釈しようとしても、目の前に開かれた「詩」は、そうした解釈を逸脱し、ただ私に何か得体の知れない、しかし共振してしまう「感覚」の染みを残すだけである。

 「狂気」、それは結局いまの私には、「生」への「死」の侵犯、あるいは「死」への「生」の逆流としか言えない。前にも書いたが、「人はなぜ生きるのか」「なぜこの家族に生まれたのか」という思春期の素朴な疑問は、俗に言う「自我の確立期」に生まれるが、そこにはナルシシズムと性慾の発芽とともに、未知の「私」に遭遇し、打ち震えるような自己否定の精神が働く。簡単に言えば大人へ成長する肉体と、子どものままの精神が分離していくのである。そしてその自己否定の矛先は、最初の「他者」である「家族」に向けられるが、このとき「家族」の在り方によってはその矛先は己自身へと向けられてしまう。本来であれば、「家族」、あるいはそれに代わる「他者」が彼のアンバランスを支え、やがて肉体と精神の統合を図りながら成長へ、つまり自己否定から自己肯定へと向かう。しかし「他者」の不在により肉体と精神が分裂した自己はさらに自己否定を繰り返し分裂の溝をひろげ、やがて精神は肉体を取り残して生を逆行し、誕生以前の「死」へと向かう。「狂気」はここに創造されるといえる。これを「病」と呼ぶかどうかは今の私にはどうでもいい。私にとって「狂気」は、肉体と精神が分裂したまま逆のベクトルを向き、「生」と「死」の混合体として、「私」と「非-私」の境界を溶かす、歪な「創造体」である。

 随分と抽象的な話であるが、特に児童心理学などの理論を根拠に言っているのではなく、私の勝手な考えである。立原道造の詩にみる「狂気」と「家族」の関係は、要するに私自身の問題の転写である。そして私にとって立原詩はその思春期に生じた分裂を分裂のままに「生きる」宿命を背負った者の、あまりに過酷な「狂気」との戦いの痕跡として、私の前方にいつまでも長く伸びていた。

ともあれここで重要なのは、自己否定の矛先としてある最初の「他者」である「家族」とは何か。ここで実はある危険な罠にはまる可能性がある。なぜなら「家族」という概念が、日本の場合「家族国家観」、つまり「天皇=親」「国民=子」という「近代」が発明した国家権力の「忠孝一本」構造を支える軸であったという、社会学者たちが語る近代家族論に導かれてしまうからである。すると「だからこの詩人も近代家族制度の犠牲者である」とする認識に易々と陥る。確かに表向き「家父長制」、「封建遺制」といった戦前の「悪しき家族」を戦後民主主義は解体してきたと言え、立原のような日本橋の由緒ある商家の跡継ぎとして宿命づけられた近代詩人の詩精神を、戦前の「制度の儀性者」と捉えられないわけではない。しかし私にとっては、依然とこの日本は「近代」の「家族国家観」の残影を忍ばせており、あらゆる局面において「個」よりも「家族」が優先される。私自身、幼い頃は無意識であったが、「個人主義」と「家族主義」のダブルバインドに引き裂かれながら生かされてきた。時に親殺し、子殺しがテレビのニュースで「異常事態」として報道されるとき、私は、マスメディアがこれ見よがしに垂れ流す「家族主義」の倫理に嫌気が差しながらも、そうした犯罪行為が示す「個」の嘆きと怒りに共振し、「いつか俺も……」という恐怖に駆られ、逃れる場所はあのヒアシンス・ハウスのような孤独な「部屋」であった。そしてこのような詩を何度も読まずにはいられなかった。

 

Ⅹ 朝焼け

 

昨夜の眠りの よごれた死骸の上に

腰をかけてゐるのは だれ?

その深い くらい瞳から 今また

僕の汲んでゐるものは 何ですか?

 

こんなにも 牢屋(ひとや)めいた部屋うちを

あんなに 御堂のやうに きらめかせ はためかせ

あの音樂はどこへ行つたか

あの形象(かたち)はどこへ過ぎたか

 

ああ そこには だれがゐるの?

むなしく 空しく 移る わが若さ!

僕はあなたを 待つてはをりやしない

 

それなのにぢつと それのベツトのはしに腰かけ

そこに見つめてゐるのは だれですか?

昨夜の眠りの祕密を 知つて 奪つたかのやうに

 

 ここには「家族」の姿はない。むしろ消去されている。詩人は徹底して「牢屋めいた部屋」で、精神の内部に眼を向けている。そのことが私には「家族」への扉を固く閉ざしたようにも読める。この詩は第2詩集『暁と夕の詩』の最後に置かれている。実は私は世間的には評価の高い第1詩集『萱草に寄す』より、この『暁と夕の詩』を好む。同じ昭和12年に編まれながら、この2つの詩集はあまりに対照的である。第1詩集が人工の「自然美」を、日の光の下に音楽の調べのごとく、様々な動植物や少女たちと「あこがれ」として謳いあげたのに対し、第2詩集はどこまでも内閉した孤独な「夜」の中で、「音樂」ではなく独語のように自己に「問い」つづける。ここにはあの「エリーザベト」はもはやいない。「よごれた死骸の上に腰をかけてゐる」者に、ただ「だれ?」「だれがゐるの?」というこの夢遊病児のごとき呼びかけと、「僕はあなたを 待つてはをりやしない」とその者を既に見知っているとして突き放す矛盾律が、「昨夜の夜の秘密」を巡って繰り返されるだけである。先に述べた分裂した自己が生きんとするための「狂気」の創造の秘密である。

 立原が残した二つの詩集の対照性の間で、共通して繰り返し使用される、「追億」「夢」「忘れる」「部屋」「窓」「眠り」「林」「村」「凍る」「道」……といった詩語の背後に、私は痛々しい「家族」の消去を感じざるを得ない。『萱草に寄す』に収められた詩人の代表作と言われる「のちのおもひに」の、「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に/水引草に風が立ち/草ひばりのうたひやまない/しづまりかへつた午さがりの林道を」という詩行を多くの人々が今も愛唱するのは、各々の記憶の奥底に失われた「家」=「ふるさと」へのノスタルジアを呼び覚ますからであろうが、立原自身にとって、この詩を書きあげることは、思春期以来、自己存在の分裂の桎梏を抱えたまま何とか生きようとして現実の「家族」を消去し去った後に、ようやく遥か遠くに見える「家」=「夢」を摑むことであったと私は考える。

 このように「消された家族」が詩の成立条件になることを、先に「家族主義」が近代から現代まで持ち込まれていることと重ね合わせるとき何が見えてくるのか。例えば私の場合、高度経済成長がピークを迎え、バブルに突入したころに子供時代を送った。その当時はごく典型的なマイホームを築いた普通のサラリーマン家庭であった。しかし内部はどうであったか。私の記憶には無数の傷跡が刻まれているだけである。私の周りの同世代の者の育った「家族」も同じである。つまり「崩壊家族」である。そしてそれは外からは決して見えない。いやむしろ見せてはならない暗黙の了解がこの社会にはある。「家族」=「幸福」でなければならない。ここに先に述べた危険な社会学の分析が入る。

 「『世間』が倫理の基礎になりえた時代が終わって、今度は『家族』が倫理の基礎として物語られる。その『家族の物語』の耐用年数も尽きたように見える今日、わたしたちは新しい物語を編み出すことができるだろうか。それともアノミー(無規範状態)のなかに陥ることで、その反動としての狂信とファンダメンタリズムの足音を聞かなければならないのだろうか。」(上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店、1994

 これは江藤淳『成熟と喪失』、小島信夫『抱擁家族』といった「戦後」の日本文学における「家族」の倫理の変遷についての指摘である。細かい説明はここでは省くが、その通りだと頷かされる。現代の家族はもはや「家族の物語」を描くことが不可能なほど「崩壊」している。そして私は、実感としてこれを立原の「消去された家族」に通じるものと考える。つまりこの「アノミー(無規範状態)」、「狂信とファンダメンタリズム」は、「近代」とか「戦後」とか「現代」とかでは分けられない「日本の家族」に内包されているものではないのかと。特に昭和初期、軍国主義へと歩み始め、「家族国家主義」が肥大して、全ての家族を一点に呑みこんでいったとき、「アノミー(無規範状態)」、「狂信とファンダメンタリズム」は初めて噴出したとも言える。しかし、ここで立ち止まらなければならない。繰り返しになるが、このように外的な「権力」の作用、時代の趨勢によって、「詩」を括ることの危険がある。立原の詩の成立において内的必然として現れ、「消された家族」とは、そうした「権力」としての「家族」だけではないはずである。このことを念頭にごく一般的に知られている詩人の生い立ちと、「立原家」について、以下に角川版全集の「年譜」の概略を述べながら、立原がなぜ「家族」を消す宿命を背負ったのかを見てみる。

 1914年(大正3年)に立原道造は日本橋下町の荷造り用木箱製造業を営む商家に、父貞次郎、母とめの長男として生まれ、わずか6歳(数え年、以降同じ)で父を亡くし、家督を継ぎ、家業の看板が「立原道造商店」となる。その後母の手一人で立原家の跡継ぎとして大事に育てられながらも、生来病弱な体質で、幼少より絵を描くのを好む内向的で繊細な性格であった。大正12年、道造10歳のとき関東大震災に見舞われ実家は消失。千葉県流山(旧葛飾郡)の親戚豊島朋七宅に避難し3カ月ほど過ごす。その後日本橋に戻るが、この頃から心身ともに病みがちになり、療養のため奥多摩の御岳に毎夏赴くようになる。14歳(昭和2年)のとき、芥川龍之介、堀辰雄が通った府立第三中学校に入学し、その頃から短歌を書きはじめる。同年芥川自殺(36歳)。文学への目覚めと同時にめざましい画才を発揮しはじめる。16歳(昭和4年)、中学三年時に強度の神経衰弱を患い、半年間休学し、震災時に避難した千葉の豊島方にて静養する。この年、美術学校を目指すため母と対立し、家督を弟に譲る。しかし結局美術への道は母が許さず、天文学を大学で専攻する方向で話は纏まり、18歳(昭和6年)に第一高等学校入学、21歳(昭和9年)には東京帝国大学工学部建築科へと進む。これは芥川、堀と同じ一高、東大コースである。最終的な天文学から建築学への変更の理由は様々言われるが、美術の才能を生かせることが最大の理由であったと思われる。その後建築界のホープとして注目されていったことは周知の事実である。

 立原が本格的に短歌から詩へ移行したのは、一高時代、19歳(昭和7年)の頃で、三好達治の『南窗集』の4行詩の影響からと言われる。ただその前年には、初めての物語「あひみてののち」を一高の「校友会雑誌」に発表し、「一躍一高文壇の寵児」となっており、そのことからこの年、堀辰雄に面識を得ている(この「詩」よりも「物語」が先行していることの意味は大きく、後にまた触れたい)。また詩を書き始めた昭和7年とは、保田與重郎、伊東静雄らが雑誌「コギト」を創刊した年であり、翌年昭和8年には、堀辰雄が「四季」を創刊している。立原が「詩人」として頭角を表わすのは、東大に入った昭和9年、21歳のとき堀の呼びかけで「四季」編集に携わったころからであり、そのわずか3年後の昭和12年には詩史に残る詩集『萱草に寄す』と詩集『暁と夕の詩』を刊行することになる。

 このように「詩人」として、また「建築家」へと大成していく背後で、立原家の看板は依然と「立原道造商店」のままであった。その理由は定かではないが、「立原家」の長男として生まれた道造の宿命をそれは暗示してもいる。そもそも「立原道造商店」の大元は、道造の曽祖父立原佐ノ助が、明治維新に際して藩禄を返上して北千住に開業した料理仕出し屋であった。その佐ノ助は男子に恵まれず、娘、朝子(祖母)が、埼玉県の農家中村家の四男の平右衛門を夫に迎え、立原家を継ぐ。この代で日本橋に出て荷造材料の縄筵商として開業するが、また男子に恵まれず、娘とめ(母)の婿養子として、平右衛門の兄が縁組して入った狼家(千葉県流山市の農家)の子、狼貞次郎を夫に迎える。つまりいとこ同士の結婚である。この二人の間に立原は生まれるが、この頃には商売は荷造り用木箱製造業へと変わっている。ちなみに立原が関東大震災の際の避難と神経衰弱の静養に行った豊島家は、祖父平右衛門のもう一人の兄弟が縁組した農家の一族である。

 こうしてざっと明治以降の立原家の流れを見るだけでも、「立原家」は他家から夫を迎える女系であることが分かる。そしてこの立原家が明治以前のどこまで遡るかというと、明確なのは室町期の応仁の乱前後の立原伊豆守にまで遡る。江戸時代には5代目立原朝重が第4代水戸徳川宋堯の家臣となり、その後立原家の系譜には徂徠の古学派一門の大学者として名を馳せた水戸藩儒の立原翠軒、そしてその子息で渡辺崋山らと並ぶ画家の立原杏所が出た。詩人はこの文芸の才の血を引いた自らの血を誇りにしていたという(そしてさらに驚くのは、この立原翠軒自筆の系譜図などによると、立原家の最源流は桓武天皇まで遡るという。ただ実際は曽祖父佐ノ助が翠軒らの直系であるかは疑わしいとされ、傍系の可能性もある)。

 この「立原家」という脈々と引き継がれた言わば「名家」の中で育ち、家督を継がされ、「立原家」の直系を引き継いだ(と思われた)母に反発してそれを弟に譲渡し、二十歳を越えてようやく「詩人」になるとき、立原にとってこの「決別」はどれほど重い選択であったか。中村真一郎によれば、立原が家督を弟に譲ったことは、江戸期からよくある風習で、その後「自分は自由に人生の目的を追求する」ことができたとし、「家庭内の位置の自由化は、家族の話し合いのなかで抵抗なく行われたとしても、彼自身(傍点あり)の内部での下町文化の強制力は絶えず自覚的に排除しつづけなければならなかった」とある(「ある文学的系譜―芥川・堀・立原」、現代詩文庫「立原道造詩集」所収)。これはある面当たっていると思うが、ことはより危機的なものではなかったかと考える。というのも、立原が家督を譲る16歳のころの、「詩人」になる以前に書き残した詩、短歌、物語、ノート類を読むにつけ、そこにはあの思春期の自己存在への否定が強く働いていることが分かるからである。例えばその頃に山木祥彦の名でノートに編んだ歌集『自選葛飾集』『自選兩國閑吟集』は、神経衰弱により休学し千葉葛飾に滞在した時期と、復学して両国に通いはじめたものであるが、未だ習作の域を出ないものの、すでに「死」の匂いに満ちている。

 

心から泣いても見たし。

心から笑つても見たし。

怒りたる後――。

 

生きて居ることがいやになる

淋しさにまさる淋しさを

 あこがるゝ心。

 

自殺せんと

思ひしことは悲しくも

わが心を奮ひ立たせき。

 

父上は生きて居ませば

幾つかと涙ふみつゝ。母にきゝたり。

 

窓外を嵐過ぐ夜に

ソクラテス死をまちわびて

ふと立ちにけり

 

ソクラテス毒杯仰ぎ

秋空につぐみの一羽

 飛びにけらしな

 

ちゝのみの父は戀しき

夜々に思ひはかなみ

 七年たちぬ。

 

はゝそばの母や戀しと

我とひしかの少女は

 笑みて答へず。

 

 前半4首は『自選葛飾集』で、後半4首は『自選兩國閑吟集』からである。あえて、死の想念と両親への愛慕の歌を引いてみた。これは明らかに遠い存在、失われた者への愛慕である。他にもそうした類の歌は散見されるが、父はすでに世を去っているが、母は生きていた。「神経衰弱」で一人家を離れて療養していたという理由もあるが、この頃の立原は、母との相容れない距離を感じ苦しんでいた。同時にこのとき初恋の相手金田久子への恋慕も生まれ、多くの恋歌を残しているが、これもやはり遠い存在への愛である。そしてここに現れている自殺念慮は、単なる啄木らの真似とする考えもあるが、私は確実に生と死の分裂の危機が訪れていると見る。(このあたりの存在論的分析は宇佐美斉『立原道造』、筑摩書房、2006に詳しいので参照されたい)。そして私がこの両集を読んで一番気になるのは以下のような部分である。

 

 大麻止乃豆乃天神社に詣でゝ

  詠める長歌ならびに反歌

 

いたゞきの、あやに高しも。かうかうと、月のかげする、老杉のあり。皇神在ます社は、老杉のかげゆあるなり。ひもろぎをさゝげ渡るあが頬に月明しなり。靈鳥やなき叫(さけ)ぶなり、この宵になき叫ぶなり。我渡る、ひもろぎさゝぐ。(老杉のかげこかりけり、木の間ゆ、月やあかるなり。)皇神在ます社の檜皮葺く屋根、照る月にむらぎもの心澄みたる。あやに澄みたる。

 

老杉のいや高々と、そのかげゆあやにかしこき皇神在ます社の見えつかも。なき叫ぶなる靈鳥の聲のかなたにこの宵の月や明かれる。たまぢはふ神の庭にもこの宵の月や影する。

 

 これは『自選葛飾集』の最終部に位置する。次に、

 

 老杉の 彌高々と うばたまの五鉾六鉾 そのかげゆ我大神は 出でまして うつらせ給ふ この宵の この大祭 おろがめば あやにたふたし 神風の 伊勢の宮居は 朝日映え 杉神さびて 夕陽照り 五十鈴流れ きよらげに 流れひかるも

 

 遷宮のたふとさ

 伊勢の宮居の眺め

 伊勢の宮居のたふとさ

 國民の伊勢の宮居に對する観念

 それにより遷宮のたふとさを力説

 

 これは『自選兩國閑吟集』の末尾である。前者は実際に奥多摩静養中に母親と詣でての歌であろうと想定される。後者はこの年の10月に伊勢神宮が遷宮した際に書かれたものである。

 私がこれに注目するのは、立原の中で、「家族」という「他者」との距離に苛まれ、自らの存在を託す場として「神」と「死」とが立ち現れていることである。これはそのまま第1詩集と第2詩集の光と影の両極へと繋がるものと考えられるが、それは後に置くとして、晩年の「日本浪漫派」への傾斜の必然もここに根があると思える。そして立原の詩の「人工性」も、この「神」と「死」という抽象観念への志向から導きだされてきたと言える。

立原がこの頃に描いた大量のパステル画や水彩画は、筑摩版『立原道造全集第4巻』に多く収められている(立原道造記念館ホームページにも若干掲載されている)。療養先の葛飾と奥多摩御岳の自然の風景画、そして立原らしい「夢」を描いたメルヘン画は、全体として輪郭がぼやけた淡いものである。人物画は金田久子等若干あるが、その他は遠景である。自画像は見当たらない。この頃、つまり昭和4年という時代に、都市を離れ、「家族」とも離れ、一人自然とメルヘンを描きつづけた立原は、ここから「人工」の「詩人」への階段を登りはじめる。そして、

 

 「日本武尊が上代に於ける最も美事な詩人であり典型的武人であつたといふことは、僕らの英雄の血統、文化の歴史、ひいては文藝の光榮のために云われることである。しかるに僕らの先人は、日本の血統をあまりにも尊重したために、この半ば傳説の色濃い英雄の、悲劇と詩については、明治の國民傳説の變革の中からも省略してゐた。…(略)…尊の詩はその悲劇の上にのみ開くような花であつた。僕らは日本人の『自然』を果して知つてゐたか。『自然』と『藝術』の意味、その間にある人工の意味を知つたか。尊の生涯は上代の意味での人工と自然の相克の悲劇である、それの初めてなされた言靈である。尤も人工が開花するとき、尊の生涯の光榮の遠征が示すやうな悲劇を示すばかりである。」(保田與重郎『戴冠詩人の御一人者』、文中「人工の意味」に傍点あり)

 

 この昭和13年に書かれた書物に晩年の立原が共鳴するまでにはまだ時間がかかる。立原の「詩人」への道は一足飛びに「アノミー(無規範状態)」、「狂信とファンダメンタリズム」へは向かわない。そこにはまだ手続きが必要であった。そこで少しずつ「家族」は消されていく。次回は「詩人立原道造」の誕生までの「ゆらぎ」と、「詩人」の定義を試みた「物語」を見てみる。(10.7.11

 

 

28.「ヒアシンス・ハウスの悲しみ」

 

 なぜ詩を書きはじめたのか、結局私にとって立原道造の詩を読むことはその問いへの答えを求めることである。しかし、立原の詩を読みつづけるうちに、思春期の頃の、家族の幸福な記憶と、惨たらしい記憶が順番に蘇り、しばらく沈鬱な気持ちになり筆がすすまなかった。ここで私の個人的な出来事を語るつもりはない。ただ立原道造の詩が、成熟に挫折した詩であり、その理由が「狂気」の発生によるものだけを最初に示しておきたい。立原の詩の甘い抒情性、少女趣味的メルヘン世界を嘲笑う者は、そこにブルジョア的な、大人へ自立できない脆弱な逃避的精神を読み取るが、根本的に間違っている。立原の詩が時代を超えて読まれる理由は、立原の詩が露わにしたその成熟への「挫折」が、今も変わらぬ日本的「家族」が生み出す「狂気」の問題によるものだからである。特に立原が、大正から昭和にいたって近代日本の精神が勇み足で突入した成熟期で、「挫折」を示した点が重要である。詩人はそのまま死んだが、果たして日本はその後本当に成熟したか。それは既に歴史が我々に教えてくれているが、この詩人が、その「挫折」そのものを永遠化してしまったことが近代日本の宿命である。戦後詩は、立原の詩を否定はしたが、その「挫折」を乗り越えることはできていない。このことを念頭に置いて考えなければ、立原の詩は読みきれない。今も「挫折」しつづけている私は、そろそろここに決着をつけたいのである。

 前置きが長くなったが、「家族」の問題はそれ故に浮かび上がる。「家族」――それは「ふるさと」の問題である。そこで最初に触れたいのは、立原が晩年に構想を練っていた「ヒアシンス・ハウス」である。なぜならこれは単なる物理的な建築物としての「家」ではなく、詩人立原道造の「挫折」を克服するために最後に求めた「家」であったからである。

 昨年刊行された筑摩版『立原道造全集』第4巻にその図面、スケッチが収められている。この巻は、これまであまり触れられなかった建築家としての立原道造に焦点を当て編纂されており、200ページにわたる立原の手による設計図面、スケッチ等の写真が収められている。その中で「ヒアシンス・ハウス」のカラーの図面、スケッチが6点、モノクロのラフスケッチが3点ある。埼玉の所沢の自然の中に建てられる予定であった木造の「五坪ばかりの獨身者の住居」(高尾亮一宛書簡)で、部屋は一つのみ、窓も二つあるが比較的小さい。「住居」というより「小屋」である。室内は簡素な手作りの木製の机、椅子、ベッド、ローソク立てといった必要最低限の家具一式が描かれている。詩人自身が移り住むつもりで設計され、すでに土地購入の交渉にまで至っていたが結局実現されることはなかった。(ちなみに現在は所沢沼公園内に有志によって建てられ、中に入ることもできる。数年前に一度行ってみたが、それ自体は建築家立原道造を世に広める上で貴重なプロジェクトと思われるが、やはり詩人が求めた最期の「夢」の痕跡はそこにはない。立原道造記念館ホームページでこの現物とスケッチを見ることが出来るので見ていただけたらと思う)。この図面等を見る限り、立原が求めたのは、シュトルムやリルケ、カロッサが描く虚構の森の住処であり、また詩人自身が短い生涯で描き続けた寓話世界の産物である。

 ただ私が切実に思うのは、屋外に屋根よりも高く立てられた柱があり、頂に「ヒアシンスの旗」が掲げられているところである。まるで世界から隔絶された場所で孤独の存在を誇示するかのようである。偶然か意図的か分からないが、全集では「ヒアシンス・ハウス」の図面の次のページに、同じ時期に書かれた「某病院建築案」という大鷲のような形をした大建築のラフスケッチがあり、門の中央に日の丸の国旗が高く掲げられてある。これは現在横須賀にある聖ヨゼフ病院であることが戦後に分かったが、おそらく詩人が建築事務所の仕事で設計をしていたものである。この対照的な二つを並べてみると当時の立原の精神の両極を知るようである(建築については不勉強であるが、建築家立原道造へのブルーノ・タウトの影響、ナチスの「第三帝国様式」と呼ばれる建築様式の影響など、近代建築史と近代詩史の交差も後に見てみたいと思う)。

 この「ヒアシンス・ハウス」が構想されたのは、昭和12年の終わりから13年のはじめ、つまり詩人の死の前年である。全集にある図面等は、旧知の詩人神保光太郎や小場晴夫宛の手紙に同封したものである。その神保光太郎宛の手紙から一部引用する。

 

 「この手紙の最后で僕の夢想をいちばんあとにまでかくしておかうとしたあなたに お知らせいたしませう 同封しましたのが その計劃の製圖されたものです 旗は 深澤紅子さんがデザインしてくれることになつてゐて それは僕にもどんなのが出來るのかわかりません ヒアシンス・ハウス・(風信子莊)といふ名前です」

 

 これは昭和13年2月12日の手紙である。旗のことにも触れられているが、この深澤紅子が一体何者か、といったことまでここでは詮索するつもりはない。そもそも神保その他多くの詩人たちと立原の関係、また一方的な恋情の対象となった女性たちとの具体的な関係について、私はあまり興味がない。すでに多くの論者が語っているところでもあり、その事実関係の「裏」を取り、生々しい「詩人・立原道造」像を創り上げることで、その詩の解釈を深められるとはあまり思われないからである。詩人を知るにはただ「詩」を読めばよい。だから角川版全集第5巻に収められている膨大な立原の手紙について、私はこれまであまり丁寧に読みこんでこなかった。ただ、立原のような「対話」を詩の根底におく詩人において、またその夥しい手紙が示す絶叫のごとき詩人の肉声を前にして、これを無視することもまた不可能である。ここでは立原が残した手紙の「読み方」も問われなければならない。この詩人が「他者」へ言葉を送り続けなければ詩を書き得なかった「必然」を読むことに繋がらなければ意味がない。

 そうした意味で、上に挙げた神保宛の手紙の引用のような事務的な言葉はあまり重要ではない。むしろ同じ手紙の他の部分、たとえば、

 

 「野に出るときに 僕は 空や地平線のつくつてゐる限界につまづきます 平野の限界と僕の裸身との限界のあらがひに やはりそこに僕はソフイストの住む部屋をつくつてしまひます・・・(略)・・・人は どんな瞬間に 廢址を見 自分のそばに深淵を切りひらくか 僕は山頂にもゐず 孤島にも住んでゐません 明るい平野にさまよふ魂でした そして 僕が出會つたのは 死でした・・・(略)・・・「墓のある所にだけ復活がある」とニイチエがうたひ 「危險のあるところ、救ふ者又生育する」とヘルデルリンがしるすとき 僕は「無限の斷念」を 永遠性への騎士の決意を知りました 僕は自ら僕をつくりはしなかつた しかし僕は選ばれてある 一人の騎士であり 一つの血族だと――」

 

 ここでは、「死」から「生」へ、「断念」から「選ばれてある血族」への道が強引に導きだされている。これは立原についてよく言われる「日本浪漫派」への接近を暗示している。特に宛先の詩人神保光太郎は「四季派」の詩人の中でも最も「日本浪漫派」の民族主義へと傾いて行った詩人の一人であり、この手紙の直前には、多くの立原論で批判的に引用される、「日本浪漫派」3月号に掲載された芳賀壇宛の手紙の一文、「いま、あの御本のなかで呼吸するとき、私の決意は新らしくたしかめられます。私もまたひとりの武裝せる戰士!この變様に無限に出發する生!」が書かれている。「あの御本」とは芳賀の『古典の親衛隊』のことであるが、この芳賀と立原の関係は後に「日本浪漫派」の問題を検証する際に触れようと思う。

 これらの手紙が書かれた昭和13年は、日中戦争勃発の翌年であり、国家総動員法が発令され、翌年には第2次大戦が勃発する。ここにおいて立原道造の詩業はどこに至っていたかといえば、すでに生前に残した二つの詩集、『萱草に寄す』と『暁と夕の詩』は前年に上梓されており、詩人は次の詩境への階段を上っていた。結局その後に詩集を編むことはなかったから、雑誌等に掲載された詩を見ていくしかない。前回引用した散文詩「夜(よる)に詠(よ)める歌(うた)」もこの時期、昭和13年3月に「文学界」に発表されたものである。この詩は長いので前半のみ部分引用する。

 

 夜だ、すべてがやすんでゐる、ひとつのあかりの下に、湯沸しをうたはせてゐる炭火のほとりに――そのとき、不幸な「瞬間の追憶」すらが、かぎりない慰さめである。耳のなかでながくつづく木精のやうに、心のなかで、おそろしいまでに結晶した「あの瞬間」が、しかし任意の「あの瞬間」が、ありありとかへつて來る。あのとき、むしろ憎しみにかがやいた大氣のなかで、ひとつの歌のしらべが熱い涙にぬらされてゐた、そして限りない愛が、叫ぶやうに、呼んでいた、感謝を、理解を。……私は身を横たへる。私は決意する、おそれとおどろきとおののきにみちた期待で――日常の、消えてゆく動作に、微笑に、身をささげよう、と。さようなら、危機にすらメエルヘンを強いられた心! さようなら、私よ、見知らない友よ!……私は、出發する。限りのある土地に、私は、すべての人のとほつた道を、いそがう。人はどれだけ土地がいるか。身を以て――。夜だ、すべてがやすんでゐる。

 

 その後この詩は、錯乱の様相をきたし、「私もまた、夜だ。眠りにひたされて、遺された子守唄! そして、すべてが失はれてゆくだらう、やすみながら。闇に、つくりもせずつくられもしない闇に、そして光に、かへつてゆくだらう。夜だ!……」で終る。

 「不幸な『瞬間の追憶』」、「あの瞬間」とは何か。これを私は「狂気」の発生とみる。ただ興味深いのは、このあとに「反歌」と題し、「かへるさのものとやひとのながむらん/待つ夜ながらのありあけの月」という藤原定家の歌を引用し、夜明けの瞬間を謳ったソネットを添えていることである。

 

 光に耐へないで

 ほろんで行つた 草木らが

 どうして 美しい

 ことがあらう

 

 晝を私らの手にかへす

 つめたいありあけの光のなかで

 私が どうして

 否定しよう

 

 鳥よ 鳥らの唄を天にかへせ

 花よ 花らの光を野にかへせ

 ――たたへられた 水に

 

 夜が去る その最後の

 影よ ちひさい波のさざめきを

 のこせ! あこがれられた瞳に

 

 解釈はさまざまであろう。「反歌」という万葉形式を模すところは、この時期の詩人の方向性を批判的に指摘することもできる。しかし私はそれも含めてこの詩を長く、立原の詩論のごときものと読んできた。『萱草に寄す』で完成させたソネット形式による「人工」の抒情の謎がここにあると。いわば「反歌」に対する「長歌」にあたる散文体は、ソネットの背後に響く詩人の「近代人」としての生々しい魂の慟哭とも言える。ここは立原の膨大な手紙と地続きの、いまだ「詩作品」に昇華される前の、「夜」の混沌とした「狂気」に満ちた錯乱世界である。これが「ありあけの光」によって消されていく瞬間に、「あこがれられた」詩として「定型」に凍結される。立原のすべてのソネットが、こうした「夜の狂気」によって支えられているのは、私には読んだ当初から感得できた。この詩はその秘密を暴いてしまっているように思え、見方を変えれば失敗作である。しかしこの時期詩人は、あえて「狂気」の言語化を試み、「作品」の俎上にのせようとしているのである。それは単に万葉への回帰というものでは片付けられない、「あの瞬間」から口を開いた「狂気」との真向からの対決なのである。しかし、詩とは単なる意味不明な精神内部の狂気的カオスの表出ではないことは、立原は十分に心得ていたはずである。モダニズムの狂気の記述、無意識の記述の時代は既に去っていた。むしろ、狂気の言語化不可能な沈黙と慟哭の淵で殆ど自らの存在そのものが消尽するかというぎりぎりの場所から、すべての「他者」へ呼びかける無色透明な言葉を詩に結晶化することに、立原は日本で初めて達成した詩人である。だからこそその詩は人間不在のガラス細工のごとき「人工性」を湛えているのであって、これは単なる「逃避」ではなく、「狂気」との熾烈な駆け引きなのである。

 ただその「方法」が問題であった。立原の狂気は、「古典」によって「止揚」されたからである。引用した詩「反歌」はそれを見事に語っている。この「古典」とは定家の「新古今」に流れる王朝文化であり、中世フランスの歌物語『オーカッサンとニコレット』であり、その他すべての詩人が愛した「古典」である。もし立原の詩の殆どがこの「夜(よる)に詠(よ)める歌(うた)」の散文体の如くであったなら、下手すれば今もよく見る狂気を演じる「嘘」の、凡庸な自我の露見に過ぎず、私はそれほど没入しなかったであろう。しかしそのへーゲル的「止揚」は詩人の足もとを掬うことになる。なぜなら「古典」は本来、詩人自らが脱出すべくもがいた敵だからである。「強いられたメエルヘン!」とは、誰に強いられたのでもない、自らの手で強いた「古典」のことである。それは詩人を「古典」に投げ入れた「立原家」の「血」の問題に繋がり、「あの瞬間」に発生した「狂気」の場から、「止揚」したはずのものにふたたび逆襲されることであった。

 「ヒアシンス・ハウス」構想はまさにこの時期の詩人の精神のがんじがらめの自縛作用からの命掛けの脱出の試みである。この「獨身者の住居」は、旗のデザインを依頼した深澤紅子宛の手紙では「あたらしいふるさと」と述べられている。それは立原が神保宛ての手紙に書いた、「血族」なのか、あるいはもっと別次元の、孤独な「狂気の夜」が赦される「ふるさと」なのか。次回はこれについて、「日本浪漫派」、「立原家」などに触れながら考えてみたい。(10.6.18

 

 

27.「序・強いられた抒情」

 

 「問はひとを欺く性質を持っている。かりそめなる問は、しばしば、それの導く答の堂々しきこと、業々しきことによって、みずからの重大さを粧うことがある。問の仕方は答の仕方を決定する。正しき理解を得ようとする者は何よりも無意味なる問を持ち出すことを慎まねばならぬ。彼は問う前に自己の問が一体に意味を有するか否かを問うてみなければならない。」(『パスカルに於ける人間の研究』「方法」三木清)

 

 立原道造の詩の最たる特徴にして、最も不可解な要素はその「人工性」である。これまで多くの論者がこの「人工性」の解明に勤しんできた。単なる青春期の現実逃避的精神の表れ、日本語による定型詩定着への挑戦からくる言語構築の結果、新古今、特に藤原定家の芸術至上主義的美意識の影響、リルケ、カロッサ、ヘルダーリンらドイツ詩圏(特にロマン派)への遊離、建築家としての数学的思考方法、そして「死」を先取りした詩人の宿命、等々。どれもそうであろうが、どれも腑に落ちない。なぜなら結局立原の詩を読みその「人工性」に直面するとき、それらすべての影響や因果をその詩が廃絶するゆえに、それは「人工性」と呼び得るのであるから。

 例えば上に挙げた三木清の言葉は、立原が東大建築科の卒業論文「方法論」であげた参考文献の一節であるが、立原はこの言葉に何を読み取ったかを考えるのは、立原詩を読むに有効である。その「方法論」から引用する。

 「人間とは何かと問ひ、人間とはかくかくであると答へる者は、ここに於て失格するであらう。この意味に於て私たちがすでに試みた、建築とは何かと問はれ建築とはかやうなものであらうと描かれた私たちの今までの『建築』なるものがふたたびここに取り上げられることが豫想されてはならないであらう。この場所で私たちの言葉は何物にも正當化されずまた何物にも權威づけられず、ただ裸かな、蔽いのない、消え去るべき、しかしここに於て唯一度、(而もそれは取消すことの出来ないと同時に永久に二度とあり得ない唯一度の仕方により)まさに語られるべき、言葉としてであらう。このやうな言葉こそ私たちそのものの言葉であると同時にまたこの場所そのものの自らの言葉であり……」

 このすぐ後に立原はリルケの『ドゥイノ悲歌』の冒頭、「ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が はるか試みからそれを聞こうぞ」(富士川英朗訳)を原文で引く。この卒論「方法論」は昭和11年に書かれた。つまり立原の記念すべき第1詩集にして、近代日本抒情詩の金字塔とうたわれる詩集『萱草に寄す』出版の前年である。その『萱草に寄す』のあまりに人口に膾炙した冒頭詩「はじめてのものに」を引く。

 

 ささやかな地異は そのかたみに

 灰を降らした この村に ひとしきり

 灰はかなしい追憶のやうに 音立てて

 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

 

 その夜 月は明かつたが 私はひとと

 窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)

 部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

 よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

 

 ――人の心を知ることは……人の心とは……

 私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

 把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 

 いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

 火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に

 その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

 

 この詩を読み、先に挙げた「方法論」の「人間とは何かと問ひ、人間とはかくかくであると答へる者は、ここに於て失格するであらう」という人間存在への問いの無効性を述べ、「言葉」を「二度とありえない唯一度」のものとして認識し直す立原の言語論を重ね合わせたとき、その詩の人工性への謎の扉は開かれる。つまり「言葉」が「問答」のツール、平たく言えば思考のツール、他者とのコミュニケーション・ツールであるところの反復性から、「唯一度」という一回性のものへと変換させることは、「詩」を人間不在の地平で屹立させることにつながる。しかしここで立原は「書き手」と「読み手」という関係性をも拒絶するわけではない。立原は「対話」をその詩の根底に置く(「別離」というエッセイでの中原中也詩の「完璧性」への批判は有名である)。いわば立原は言葉をある思考操作によって限定されていくことを避け、全方位に開かれた状態へと導くことを模索していたのである。だから「――人の心を知ることは……人の心とは……」という問いと、「私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を/把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた」という疑問形の答、さらに「いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか」という問いの変奏と、「火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に/その夜習つたエリーザベトの物語を織つた」という一種の答からの「回避」が行われる。これは詩を思考に染めない真空状態へ保存する、つまり「人工性」の一つの成立条件と言える(さらに詳細は今後検討する)。

 しかしなぜそうあらねばならなかったのか。これを簡単に論ずることは難題であるが、例えば、先の「方法論」でのリルケの「叫び」の無効性は何をかを示唆する。詩人は僅かな「詩」そのものを提示したまま、「方法論」の3年後にこの世を去った。私が立原を語らなければならない理由はここであるが、三木清の言う「問う前に自己の問が一体に意味を有するか否かを問うてみなければならない」は今の私に当てはめるべき言葉である。

 ただ一つ、私が言えるのは、私個人の立原体験から掘り起こさねばならないことである。前に「狂気」という言葉を使ったが、立原が引用したリルケの「叫び」でもいい。私の場合、青春期に誰もが通る「なぜ私はここで生きているのか」「なぜ私はこの親の子なのか」という答がない問いの目覚めと同時期に立原詩は現れた。それも私の母の手によって。これは長く私が忌むべき詩との出会いの瞬間であった。そしてその果てしなき「問答」によって私の中で「詩」が醸成していったとき、それはつまり立原が自らに呪って述べた「強いられた詩」として顕現した。

 「・・・・・・私は身を横たへる。私は決意する、おそれとおどろきとおののきにみちた期待で――日常の、消えてゆく動作に、微笑に、身を捧げよう、と。さようなら、危機にすらメエルヘンを強いられた心!さようなら私よ、見知らぬ友よ!・・・・・・私は、出発する。」(「夜(よる)に詠(よ)める歌(うた)」)。

 「危機にすらメエルヘンを強いられた心!」。果たして何に「強いられた」のか。私はこれをそろそろ解かなければならない。ここで一つの手がかりとして「家族」から始めたい。唐突なようであるが、立原の「人工性」はここを通らなければ解明できないと感じている。それは私自身の「詩」=「狂気」の問題解明につながると同時に、現代も立原が読まれる理由の大きな要因として、日本人一般が持つ「家族」問題が横たわっていると思われる。その「家族」とは「制度」であり、それを血流として発展してきた近代「国家」の最小元素としての「家族」である。そしてこの論の終着点として日本的「抒情」が、いかにその「制度」と連環しているか、そしてそれがいかに「叫び」を、「狂気」を隠蔽した「強いられた抒情」であるかを解くことである。しかしこれはあくまで今日的また私的な「詩」と「存在論」の視点である。(10.5.30)

 

 

26.「長崎への旅から」

 

 2年ほど前の夏、会社を辞めた直後に短い一人旅をした。目的は「戦争」を巡る旅であった。一気に広島、長崎、沖縄へと飛ぼうと決めた。まずは横浜から長距離バスに乗り広島に向かった。学生時代の友人宅に2泊ほどお世話になった。友人の自転車を借りて原爆ドーム、平和記念館をはじめ、広島城址内の大本営跡、比治山陸軍墓地、赤十字病院の被爆したガラス窓、被爆樹木など、市内の戦争跡地をぐるぐると巡った。そして夜は友人とひたすら酒を飲み、あの戦争について語った。友人は某通信社の記者で、広島に赴任してから数年経っていたが、地元の人々から様々な「戦争」に纏わる取材をしており、広島に住まなければ分からない、今も多くの未解決の問題があることを具体的に話してくれた。いかに不勉強であったかを思い知りつつ、長崎へ向かった。

 長崎は路面電車に乗ればあっという間に巡れた。先ず向かったのは、やはり原爆資料館。それから平和公園、浦上天主堂、永井隆記念館、二十六聖人記念碑などなど、言わばお決まりコースを辿ったが、真夏の炎天下を歩いたせいか、疲れがどっと出て、ホテルに行き一眠りした。それから夜食を求めて街へ出た。

 定食屋でとんかつを食べ、いささか元気を取り戻しながらも、なんのために「戦争」を巡る旅などをしているのか良く分からなくなり、心身ともに消化不良のまま、シャッターを下ろしはじめた商店街を歩いているとき、はっと思い立って閉店寸前の本屋に駆け込んだ。ふと思い出したのである。確か長崎といえば、大昔にある詩人が死ぬ直前に訪れた土地だ。すっかり忘れていた。本屋の書棚から取った「長崎の文学」といった類の本をぱらぱらと捲っていたら案の定、小さくではあるが書いてあった。そこに記されている住所をメモし、さっそく向かった。

 そこは長崎市の中心から少し離れた、今も昭和の情緒を醸し出す街であった。現存する日本最古の石橋である眼鏡橋もあり、もう陽が暮れて観光客はまばらであったが、町中を流れる小川沿いにはガス灯を模した電灯が並び風情があった。詩人もここを歩いたのかなと思いながら、眼鏡橋を渡り、住宅地の奥まった狭い路地を、電柱に記してある住所を見ながら行ったり来たりした。メモに記した住所の場所らしきところには「○○産婦人科」という町の雰囲気からは妙に浮いた新しい建物が立っていた。果たしてその病院がある所が詩人が訪れた土地かどうか正確には分からなかったが、当時詩人が訪れたところは友人の実家「武医院」であったことから、名前は違うがここだろうと勝手に目星をつけた。そして、「そうかあの詩人はここで喀血したのか」、としばらくその病院の2階の窓を眺めた。

 

 南國の空青けれど

 

 南國の空青けれど

 涙あふれて やまず

 道なかばにして 道を失ひしとき

 ふるさと とほく あらはれぬ

 

 辿り行きしは 雲よりも

 はかなくて すべては夢にまぎれぬ

 老いたる母の微笑のみ

 わがすべての過失を償ひぬ

 

 花なれと ねがひしや

 鳥なれと ねがひしや

 ひとりのみ なになすべきか

 

 わが渇き 海飮み干しぬ

 かなたには 帆前船 たそがれて

 星ひとつ 空にかかる

 

 詩人立原道造がこの地で書いた絶筆と思われるこの詩を、私はそのときおぼろげに思い出してみただけであった。もうこの詩人については10年以上も触れていなかった。しかし10年前までは、この詩人が私にとって巨大な存在であった。以前この連載で、私は詩との出会いが、「狂気」との出会いでもあったと書いたが、当時10代半ばの私にとって立原の詩は、まさに「狂気」の上に築かれたとしか思えず、その不気味なほど甘く、人工的な、無人の廃墟の美の世界に私は没入した。そして私とともに詩を書いた亡き親友は、それをやや嘲笑気味に揶揄しつつも、ともに夭折に憧れたのでもあった。

 私だけでなく、詩に目覚める青春期に、誰もがこの詩人に出会うのかもしれない。作風の好き嫌いは当然あるだろう。しかしある典型的な「詩人」らしい詩人として、また日本抒情詩の極点を示した象徴的な存在として今も読まれている。夥しいほどの数の伝記や評論が書かれている。なぜそれほどまでにこの詩人は読まれるのであろうか。読まれなければならないのだろうか。恐らく読む者それぞれが、自らが抱え込んだ青春期の「狂気」をこの詩人に託し、そして決別していくためであろう。あたかもこの詩人を自らの死の身代わりであるかのように。人は青春を終えるときに一度死ななければならない。

 ただそれだけではない。この詩人の詩がなぜ今も磁力を持つかの理由が別にもあるように思う。「戦争」が鍵語となる。この詩人が26歳で死んだのは、昭和14年であることである。つまり前回吉田一穂論で述べた「皇記2600年」の前年、日本が第2次大戦に突入する前夜である。この年を私は前回「近代化を推し進めてきた日本が、ついに古代の神々の宿る『神話』へと完全に合流した『祝祭』年」と述べた。立原道造はそれを目の当たりにして死んだ詩人である。そして立原がもしその後も生きていたら、という仮説に立つ時、その残された詩の隙間から、実に私たちが目を覆い続けている問題が異様な光は放ちはじめる。

 これから私はこれを追求してみたいが、その問題とは「抒情詩とは何か」という立原について語られ尽くされた問題からさらに遡り、「日本の詩とは何か」、さらには「日本人の精神とは何か」「日本とは何か」というところまで行き着く恐ろしく壮大な議論になると考える。なぜならこれは「立原道造」という一つの「虚像」によって覆い隠されている日本人の精神の底の暗部、つまり私を詩へと目覚めさせた「狂気」に触れる作業だからである。恐らく今日も敏感な若者は青春期にその蓋を少し開けては同じものを見ている。私たちはそれをあたかも個人の問題として片付けがちであるが、今私は近代以降の現在まで続く「日本人」の精神の傷跡ではないかと考え直している。

 「日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終わりに橋を作った。はしは道の終わりでもあった。しかしその終わりははるかな彼方へつながる意味であった」(はしに傍点)。

 保田與重郎は『日本の橋』(昭和11年)でそう語っている。実際に保田は長崎の眼鏡橋をも訪れている。この「はるか彼方」とは何か。立原は果たして同じものを見たのか。

長崎への旅を終えて、しばらく私は私「個人」の問題と向き合うための詩作に没頭したが、そろそろ私自身がそうである「日本人」の問題として立原道造を読もうと思う。それは当然前回から継続して「詩と戦争」について考えることであり、それはそのまま現代我々が享受している「詩と平和」の正体を暴く。つまりこれから挑むのは「日本の詩」の問題である。(10.5.19

 

25.「詩人が『神』になるとき」

 

 吉田一穂と「大東亜共栄圏」。この関係を軸に全集を読み続けるうちに、ふと私の中でムッソリーニに共振したエズラ・パウンドが思い浮かんだのは山勘である。しかし吉田のアナーキストとして何者をも恐れぬ革命闘志たらんとする英雄志向、象徴詩から純粋詩への道程を一足飛びに駆け上り、「形而上學」の雲上で自らを「神」のごとき絶対の「存在(ザイン)」として屹立させるエゴイズム、さらに「ユークリッド幾何学」を詩に導入し、その解として「詩」を一旦「無」へと化し、新たな「神話」創造を企図して「大東亜共栄圏」へと合流する狂気的理性……、私の中で吉田のこの詩的営為とパウンドの無謀に近い世界神話再構築を試みた長大詩編『詩篇(キャントゥーズ)』はいつの間にか重なってきている。これは日本ファシズムの御用文学者として批判された「日本浪漫派」の保田與重郎の存在や、そこに吸引されていった「四季派」の詩人たちの「日本への囘歸」現象と、吉田の「大東亜共栄圏」への軌跡がどこか異なると感じながら思い至ったところである。

 例えば昭和15年に発表された吉田の「未來神話」という論文に「危機に面した各民族は、力の原理を、その發祥の神話に求めつゝある。(略)しかし我が大和民族は新興の國運を負ふ前進者である。斷じて古典への復歸に安んじてはならない。(略)むしろ今日の現實を偽りなく眞向にうけて、未來の神話制作にこそ第一石を投げなければならない」とある。この意識と「日本浪漫派」が向かった「神話」は違うように思われる。保田與重郎の『万葉集の精神』(昭和17年)における古典読解の方法は、自らを大伴家持に重ねて記紀万葉から流れ出る神話テキストを現実の政治性へと転換し、読者の前に古代神話に通じる「仮想の日本」を現出させる。「日本浪漫派」が「ドイツ・ロマン派」の影響を多大に受けていることは自明であるが、特に「ハイデガー問題」としてよく議論される、「ドイツ・ロマン派」最高の詩人ヘルダーリンが18世紀近代の黎明期に古代ギリシャに求めた理想を、ナチスの理想と合致させたハイデガーと保田與重郎はきわめて類似する(この点は『日本の家郷』福田和也 新潮社 1993、に詳しい。ただしパウンドに関する記述は検討の余地がある)。そして両者の理論には過去への幻惑的「誘い」、あるいは退廃的引力が働いている。その引力の源泉は、「敗北」こそが「栄光」に通じるとする「滅びの美学」である。

 その点、吉田の「神話」創造に「滅びの美学」は存在しない。『黑潮囘歸』(昭和16年)での「太平洋は日本民族の生活圏である!」「黑潮こそ、その大圏に生を享けたる海の族の永世囘歸である」は確かに「大東亜共栄圏」構想と合致する。だから最終章の「ロゴスの原罪を負つて、詩人はまた、神に叛くものである」に至ったとき、そこに論理的破綻を私は見たのであるが、よく精読すると、それは破綻ではなくはじめから貫徹されている論理なのではないかと思われてくる。『黑潮囘歸』の締めの言葉はこうである。

 「詩は自己の内なる神と語る形而上學である。若干の公理から論理的に一つの幾何空間を組み立てるユークリッドの世界に似て、しかも詩は何等の假説も要せず、忽然として獨立な世界を示現する。(略)いはゞ詩人とはそれ自らを成す一宇宙の神話作者なのである」

 ここには保田的な、記紀万葉という古代神話テキストという「他者性」への埋没はない。逆に「自己の内なる神」に、記紀万葉からの神々を収斂させ、それと対決し、「無」から「未來神話」創造を試みようとする。ある意味これを皮肉に見れば、吉田が、保田より現実認識力が足りなかったとも言える。吉田の「神話」が「大東亜共栄圏」へと合流しようとも、もはや時代精神は海の果ての「黑潮」ではなく、いにしえの「日本」への「囘歸」へと向かっていた。

 その現実はどうだったか。「大東亜共栄圏」構想が昭和15年に外相松岡洋右によって公に発せられたことは以前書いたが、それ以上に重要なのはこの年が「皇紀2600年」であったことである。明治以降、天皇制国家として富国強兵を旗印に近代化を推し進めてきた日本が、ついに古代の神々の宿る「神話」へと完全に合流した「祝祭」年であった。満州事変から9年、日中戦争は泥沼化し、国際社会から孤立した日本が最後の糸口として切り開いた方法はこの「神話」への合一である。その一端を挙げれば、「大東亜共栄圏」の理論的支柱大川周明が、前年に出版した『日本二千六百年史』は空前の大ベストセラーになっており、またあの「ゼロ戦」の名もこの皇紀の下二桁から取られるなどなど、「2600年」に因んだ様々な「神話」作用を見ることができる。この年「日独伊三国同盟」を締結。その翌年には、「ゼロ戦」によって日本は真珠湾奇襲を行い、「神風」の名のもとに破滅への道へと転げ落ちていったことは周知の通りである(この昭和15年前後における日本の「現実」的な戦争回避を目指した外交政策と、最終的な「神話」作用へ雪崩れ込む道筋は『大川周明 ある復古主義者の思想』大塚健洋 講談社学術文庫、2009に詳しい)。  

 保田ら当時の知識人が当時の日本の現実面、つまり戦争をすれば負けるということをどこまで把握していたのかは分からないが、それほど現実認識力に欠けていたとは到底思えない。逆に「現実」を知り尽くしていたからこその「滅びの美学」であったと思える。その点、吉田の未来志向的「神話」形成は「今日の現實を偽りなく眞向にうけて」と述べつつも、その言説にはリアリティが失われている。しかしそれはなぜなのか。もう一度吉田の詩を見て、ここでエズラ・パウンドへと導きたい。

 

東へ

   東在啓明(詩經)

   熱田津爾船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜(萬葉)

 

神々の指點に傾く滿天の星座

「主よ何處(いづく)へゆくや」

東(ひんがし)さして涯なき潮流の行衞を捜る。

 

萬頃の希ひ沓けき海の彼方へ――

島守る山巓の火に我が劍を錬えん。

 

素足に月影を踏みて舞ふ流謫の曲

あゝ多恨の流人、月輪よ。

 

雲の還往(ゆきゝ)みだれて速し風浪の時刻

遠國(をんごく)の海をゆく漂流の獨木舟。

 

拍つ掌に一顆の美(うるは)しき東方の知慧

「我れ黎明(しのゝめ)を呼び醒さん」

おゝ創めての女性、日輪よ!

            (紀元二五八四年二月十一日)

 

 これは第1詩集『海の聖母』(昭和元年)に収められた、「聖母」創造の詩である。冒頭にある「東在啓明」は、孔子が編纂した中国最古の詩集『詩經』の「大東」という七夕伝説を歌った詩の一部で、「東の空に明けの明星あり」という意味である。本来はこのあとに「西有長庚(西の空に宵の明星あり)」と続く。吉田はこの「明けの明星」のみを取った。次の漢文は有名な『万葉集』の額田王の名歌で、「熱田津(にぎたつ)に船乗りせんと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎいでな」と読む。斉明天皇が新羅征伐のため朝鮮半島へ向かう途中で神事を行った際の歌と予想される(『万葉集』桜井満訳注、旺文社、1988など参照)。そして最後の「紀元」は「皇紀」で記している。この詩は「2600年」の16年前、つまりアナーキスト吉田一穂の誕生のときから、吉田が「神話」創造に着手していることを意味するが、むしろこの時期の方が保田的「日本への囘歸」を思わせる。しかし後の詩集『海市』(昭和15年)に転載されたとき、額田王の歌と「紀元」は削除される。この小さな変更の意味は大きい。ここで吉田は記紀万葉へと合流する「神話」を切断したのである。つまり「神話」へのベクトルが保田と真逆になるのである。これは何を意味するのか。

 エズラ・パウンドを突然浮かび上がらせたのはここである。パウンドが生涯をかけて書き続けた恐るべき長大詩篇『詩篇(キャントゥーズ)』は、ホメロス、ダンテから孔子まで世界中の古典文学が網羅され、その中心にパウンド自身が英雄オデユッセウスに化して20世紀の「世界神話」創造を切り開く。その冒頭を引用すると、

 

それから船に降りていき

砕ける波に船をつけて 聖なる海へ乗り出した

その黒い船にマストと帆をそなえて

羊の群を積み われわれもまた

涙にくれて乗り込んだ すると船尾から吹きつける風が

帆を孕ませ われわれを先へと運んでくれた

これは美しい髪の女神キルケーの魔法のわざだ

そこでわれわれは船の中に坐って 風は舵柄をとめ

こうして帆を張ったまま 日の終わりまで海を渡っていった

(新倉俊一訳)

 

 これはラテン語で書かれたホメロスの『オデユッセイア』の第十一歌「招魂」で、中世にアンドレアス・ディーヴスが英訳したものを引用している。つまりパウンドはこの『詩篇』が、超時空の多言語空間でポリフォニックな神話形成を目指すことを、ここで宣言しているのである。パウンドがこの『詩篇』を編み始めたのは1917年であり、全117篇に至るのは死の直前の1972年である。その間パウンドはファシズムへと傾斜し、戦後はその罪を問われ「ピサ」に収監されることになる。(このあたりはE・パウンド『ピサ詩篇』新倉俊一訳、みずす書房、2004、『記憶の宿る場所 エズラ・パウンドと20世紀の詩』土岐恒二・児玉実英監修、思潮社、2005、などを参照)。

 吉田とパウンドに類似性を見るのは私の横暴かもしれないが、その神話形成の方法論に何か共通項はないだろうか。もちろん詩法そのものは違う。吉田はパウンドのように長大な詩は書かなかった。しかし、生涯をかけて全詩群を総体として一つの「詩」として推敲し続けた姿勢は、現れ方こそ違え、共通するように思える。そして私が特にこの両者に類似すると感じるところは、その詩篇の隅々まで漲る「生」への執念である。パウンドも吉田も、20世紀帝国主義を呪い、大資本による人間搾取を徹底的に攻撃する。この資本家が支配する世界を自らの手で転覆させなければならないという革命思想が、両者の詩の本質にはある。そこからパウンドは反ユダヤ主義へ、吉田は反中国主義へと進む。しかしここには「死」へ誘引する「滅びの美学」がない。パウンドも吉田も、神々を現代に「召喚」し、新たな「神話」構築をはかることによって、人間の「生」の救済を試みた。そして二人が陥った過ちは、その「生」が、戦争によってもたらされる夥しい「死者」の上に立つことの「現実」をも、「神話」に織り込んでしまったことである。パウンドは『詩篇』にムッソリーニとディオニソスと自身を並存させた。吉田は古来の「神」の使者「白鳥」を未来から招来させ(「白鳥」詩篇など)、「黑潮」の天上へ、つまり「大東亜共栄圏」へ羽ばたかせた。ファシズムはそこでは「死者」をともなわない「生」の救済理念として讃えられた。彼らは新しい「神話」こそが無残なる「現実」を超克するのだと確信していたのである。

 戦後、パウンドは、ラジオでムッソリーニとヒトラー賛美をしたかどで収容所へと送られる。そこで書かれた『ピサ詩篇』にはムッソリーニの死を嘆きこそすれ自らの過ちを自省する姿勢は見えない。『詩篇』は継続され、その神話創造の試みは死ぬまで続けられた。その膨大な詩群は今なお欧米においては多くの議論を巻き起こす20世紀文学の踏み絵でありながら、グローバル資本主義が席巻する今日において、その磁力はいよいよ増してきている。

 吉田はどうか。戦後、吉田への断罪はなされなかった。保田らが徹底的に否定されたのに対し、この詩人は不問に付された。目立った戦争翼賛詩を書かなかったこともあるが、むしろ吉田一穂の「神話」形成と「大東亜共栄圏」の因果関係など無視されたと言っていい。(鮎川信夫は菅野昭正との対談で吉田一穂を「紋切り型の詩人」として切り捨てている(『鮎川信夫著作集9』思潮社)。おそらく鮎川ら「荒地」以降戦後詩が歩んだ道が徹底的に「現実」に拘った点にその理由がある。もはや「神話」などこの国ではどうでもいい。そのまま半世紀以上が過ぎ、吉田一穂の「神話」は今も宙づりになったままである。

 つまり、吉田もパウンドも、当時隆盛を極めた「滅びの美学」としての「神話」への「囘歸」への疑義を抱き、自己の「存在」そのものを「神」へと同化することで、かつて革命を試みた自身の挫折、時代からの「疎外」に耐えたところの「神話」創造を試みているのである。ここに私が吉田の詩に惹かれる要因がある。「神」という絶対権力を志向しつつ、決して時流の権力におもねない、「自問自答のモノローグ」の「形而上學」の魅惑である。その危険な領域に踏み入る形而上詩の真価は、今ようやく、どこにも生存が許されない「疎外」された者たちを惹きつける。己の「存在」とは何か、「非存」とは何か、そして「詩」とは何か。私たちは再び「神話」へと進まざるを得ないのか。今後の課題はここである。

 最後に吉田が戦時中に書いた、自らが「神」へと化身する瞬間の詩を引く。ここに書かれた「罠」は何を意味するかを考える。これは推敲に推敲を重ねた語である。元の語は「システム」であった。ここに吉田一穂の孤独の溜息と不敵な笑いが聞えてきはしないか、と。

 

岩の上

 

時空の罠に雷が砕ける。

地の古い骨の上に「我れ」を發する聲が、今、何物かに成ろうとする。

漂石の岸なる、これの落暈……

 

                       (10.4.30)

 

24.「現代詩の中心命題とは何か」

 

 母

 

あゝ麗はしい距離(デスタンス)

常に遠のいてゆく風景・・・・・・・・・

 

悲しみの彼方、母への

捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。

 

 この有名な吉田一穂の戦前の詩を今挙げたのは、前回考えた詩論『黑潮囘歸』(昭和16年)における「大東亜共栄圏」構想とその論理的破綻、続いて、戦後に吉田が到達した「形而上學」の断崖的詩境を示す詩論『古代緑地』(昭和24年)を読み進めているうちに、一度慎重にこの詩人の出発から考え直さなければならないと気がついたからである。前にも述べたようにこの詩人の詩業は、『吉田一穂詩集』(昭和27年)で一冊の詩集として纏め上げられるまで何度も推敲と配列変換が繰り返され(さらには昭和45年刊『吉田一穂大系』まで細かい推敲は続けられた)ため、時系列的に拾い読むことが不可能で、詩業全体が一つの球体のようなものとして読まれなければならない。当然詩人の中にあった「大東亜共栄圏」もその一部であり、それだけを取り除くことは吉田の詩全体を見誤ることになる。特に他の詩人のように自らの戦争翼賛詩や戦争肯定論を、戦後にあたかもなかったかのように詩歴から削除したのに対して、吉田はあたかも「大東亜共栄圏」が当然通るべき道筋であったと言わんばかりに平然と『黑潮囘歸』を削除せずに残している。おそらく私たち戦後に育った人間が抱く「戦前」「戦中」「戦後」という単純に割り切った歴史認識では掴み切れないものが吉田一穂の詩業にはある。

「<詩とは何んであるかを考える>イデエこそ、現代詩の中心命題でなければならない。」(「考える」に傍点)

と戦後の詩論『古代緑地』で吉田は述べているが、これも決して「戦後」に生まれた発想ではない。「戦前」も「戦中」も詩人は常にこの命題に単独にぶつかっている。吉田にとってこの命題は、20世紀以降人類が直面する様々な現実の諸相と如何に詩人は対峙すべきか、つまり「資本主義」、「国家」、「民族」、「戦争」、そして「存在の危機」「狂気」といった今日においても全く変わらない「世界への詰問」なのである。

そうした意識を持って詩「母」について考えてみる。これは全集の「年譜」によれば、大正十年に脱稿されたとされる。吉田23歳のときである。すでにこの若さで蒲原有明、北原白秋、三木露風らが築いた日本象徴詩を通過し、それら先人達の絢爛と修辞を散りばめる詩法とは真逆の、ストイックに言葉を切り詰める吉田独特の詩法を確立している。もちろん人によって好みがあるから、古いとか、つまらない、といった感想を持つ者もいるだろうが、私にとってこの詩は、単なる「戦前」の古い近代象徴詩の一つとは思えない。むしろここで吉田はそれまでの象徴詩の限界を打破する実験を試みたとも取れ、穿ってみればここに現代詩の萌芽があると言ってもいい。少しこの詩を分析してみる。

 

あゝ麗はしい距離(デスタンス)

常に遠のいてゆく風景……

 

ここまでは「眼」である。しかし書かれた瞬間に「眼」は暗黒に閉ざされてゆき詩人は失語する。次に、

 

悲しみの彼方、母への

捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。

 

これは「耳」である。先の二行で盲目状態となり、残された聴覚には僅かに「最弱音(ピアニッシモ)」が沈黙への余韻を漂わせ、その先には「無」が開かれている。つまりこの詩は、「眼の消滅」-「耳の消滅」-「無」という極めてシンプルな弁証法的構成によっているのであるが、ただ「常に遠のいてゆく風景」「捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)

」という、「無」へ移行する瞬間の「時間」の動態が、この僅か4行の詩の中で絶えずループされ、これによって私たちに独特の眩暈を催させるのである。

この構造は吉田が自ら追及した詩法「時・空・意の三基構造の基本式を詩プロパーとして、幾何學的精神を導入する」(『古代緑地』)を実践で成功させた最初の典型とも言える。

ただ果たしてこれは、この詩人がよく揶揄されるマラルメ、ヴァレリーが追求した純粋詩の模倣に過ぎないのか。実際に吉田は相当に純粋詩を意識していることは詩論中繰り返し両者に言及していることからも分かる。私はそうではないと思う。純粋詩とは詩人の主体までも消滅させ、詩語そのものの存立を目的とする。それは私自身の考えではまやかしの自己倒錯に過ぎない。詩を書く者は詩人である。吉田一穂に魅かれるのはこの詩人の「主体」がごまかしようもなく明確に「ある」ということだ。詩「母」を読めば明らかに詩人のノスタルジー感情が抒情的に表出されており、「主体」は強く残されている。むしろ私は、吉田は純粋詩の欺瞞に早くから気づき、「主体」を頑なに保つ道を選びながらも、「時・空・意の三基構造」によって詩の「無化」へと向かうパラドックスを自らに課していると考える。それはつまり「詩とは何んであるのかを考える」ことを常に自らに課しながら詩を書くことであり、「主体」の「有」と、詩作品という「客体」の「無」の一致、いわば「存在/非存」の吉田の究極思想にまでつながる。

そして、さらに重要なのは、この詩「母」が冒頭に収められた第1詩集『海の聖母』には、「『若き日本』の前奏曲」という序詩がつけられていることである。その後半を引用する。

 

重疊(たゝ)なる東那亞細亞の雪の連亘を越えて夢みる

沙陵の彼方、緑なる流域の三角洲(デルタ)、林泉(オアシス)や城市

轣轆と覇業の戰車を駛つて「太陽の都」に入城(い)る

おゝ勝利の日、地を嗣ぐもの爾、曠野に潜王たる・・・・・・・・・

 

恒に遙けき翹望(ねがい)を投げて搖耀(ゆらめ)く海洋の彼岸へ

 燎爛たる星宿を望んで船出する八幡船の嗣業の版圖

 雙帆に暴風(あらし)を衝いて翺(ゆ)く、飢えたる自由の猛鳥よ!

 あゝ禍の晨(あした)、爾、海の極みにして洋上の覇者たる・・・・・・・・・

 

 護りなき、この戰ひの地に立ちて天を指し

一輪の花を描く掌上に、燿きて

おゝ「若き日本(やまと)」の王宮(みや)は建つ!

 

『海の聖母』が出たのは大正15年、昭和元年であり、詩「母」が脱稿されてからは5年、この間日本の歴史は大きな曲がり角を迎えている。第1次世界大戦後の長引く不況の中、庶民の生活は困窮の一途を辿り、大正12年には関東大震災がおき首都が壊滅する。もはや詩壇は、あの「白樺」派が謳歌した貴族的で観念的「自由」の精神から、地を這ってせり上がってくる庶民のプロレタリア、アナーキズムの戦闘的「自由」の精神へ向かっていた。大正14年には日本プロレタリア文芸連盟が結成され、治安維持法が公布される。この昭和の夜明けに吉田の詩的出発はある。金子光晴、福士幸次郎らと深く交流し、常に詩壇に罵声を上げて騒がせていた吉田が、満を持して出した詩集『海の聖母』は、アナーキスト吉田一穂の誕生(時に29歳)を意味した。序詩「『若き日本』の前奏曲」はそのマニフェストであって、既存の国家権力に抗して、「太陽の都」(ルネサンス期の思想家カンパネッラが描いたユートピア国家)建設へ立ちあがろうと高らかに謳う革命の詩である。そしてその次の頁に、詩「母」があることの意味は、この「母」が単なる個人的ノスタルジーの対象ではなく、理想へ向かう革命家同士の共通の「母」、つまり「過去の日本」への決別の辞であり、その代替として未来国家の「聖母」が希求されているのである。

しかし、ここからが本題である。序詩「『若き日本』の前奏曲」には、確実に危険な匂いがする。「おゝ勝利の日、地を嗣ぐもの爾、曠野に潜王たる」「あゝ禍の晨(あした)、爾、海の極みにして洋上の覇者たる」「おゝ「若き日本(やまと)」の王宮(みや)は建つ!」。

 まだ「大東亜共栄圏」に至る道は長い。実際に日本が軍国主義の道へ突き進み「大東亜共栄圏」構想が公に発せられたのは昭和15年、時の外相松岡洋右の記者会見とされる(『あの戦争は何だったのか』保坂正康、新潮新書、2005年)。それまでの15年間、吉田は『故園の書』(昭和5年)、『稗子伝』(昭和11年)、『海市』(昭和15年)と続けて詩集を出す。そこには詩「母」に見られたリリシズムは排され、時に戦争への呪詛を吐きながら(「Z.5 潜水艇にて」『故園の書』)、徹底してアナーキズムの「理想」へと突き進み、その詩形も凝縮された象徴体から、散文、漢詩、俳句、アフォリズムなど拡散と収縮を繰り返す混沌とした様相を呈してくる。

そうした昭和初期の吉田の詩業が、満州事変(昭和6年)、5・15事件(昭和7年)、2・26事件(昭和11年)、盧溝橋事件(昭和12年)、そして日中戦争(昭和16年)と続いて「大東亜共栄圏」構想へと発展する過程と、いかなる重なりを持っているのかをこれから見ていきたいが、一つ気になるのは、同時代のアナーキスト詩人、萩原恭次郎、岡本潤、小野十三郎、草野心平らと吉田はどこか一線を画しているところがある。吉田は彼らとの文学運動にそれほど関わっていない。今の段階では漠然としているのだが、私はむしろモダニストの祖と言われるエズラ・パウンドがファシズムへ傾斜していった内的必然の過程と吉田の「大東亜共栄圏」は類似するように思える。もう少しそのあたりを考えてみたい。(10.4.10)

23.「民族」「神」「自然」そして「詩」…

 

前回挙げた昭和16年の吉田一穂の詩論『黑潮囘歸』を読み解くのは容易なことではない。この詩論は、吉田の追求した「存在(ザイン)」の思想の根拠付けであるが、私がその切迫した「存在」の詩に魅了され、その謎を知りたいとこの『黑潮囘歸』を読み始めた時、先ずそこに散見される「日本民族」「祖国」そして「神」という単語に先ず失望してしまうところがあった。例えば第2章「黑潮囘歸」中の、「太平洋は日本民族の生活圈である!西半球の海賊の裔から、東方植民地を解放することこそ、地と血の欲する自明の理である。太陽に發して血行し、タスカロラ海溝を削つて東する黑潮囘歸の大圈は、自らに日本の生命線でなければならない。」といった文言を見て、まさに「大東亜共栄圏だ!」と、この詩論への、いや吉田一穂の詩全体への絶望を抱いた。結局吉田の「存在」とは此処に帰着するのかと。それでも、この引用した部分が、文脈的に言えば、近代物質文明、科学信奉からの脱却、また日本人の島国根性からの脱却を唱えて、太古に「黑潮」に乗って海を渡ってきた祖先が「神々」と交感した「言霊」を持つ詩へ「囘歸」せんとすることの延長上にあって、ならばこれが柳田国男や折口信夫とどのように通じ、またどのようにずれているのか考えてみようと思ったが、やはり私がどうしても条件反射をおこしてしまう、幼い頃から平和教育で刷り込まれてきた、欧米の帝国主義からアジアを解放するという「大東亜共栄圏」構想と日本のファシズムとが一致している固定観念があり、ここで吉田の詩を一気に私の中で墜落させることになってしまった。

しかし、よく考えれば私の考えには甘さがいくらでもある。そもそも「間違った」思想とは何か、自分の頭で真剣に考えたことがあるのか。もしお前が吉田一穂の「存在」をぎりぎりまで見つめた「詩」に一度でも魅了されたならば、その後詩論を読んで「間違っている」と断定することは、お前自身の詩を読みとる「感性」や「思考」そのものが「間違っている」ということを意味しているのではないか。実はお前が「孤独」を装って嘯いている「自問自答」の奥底にこそ、ぼんやりとした現代版「大東亜共栄圏」への親和があるのではないか、そうでないと吉田の詩に感銘などするはずがない、とも考えられたのである。

そこでもう一度今しっかり読み直してみることにした。確かに、吉田一穂の「詩」には直接に日本民族を讃えたものや、所謂戦争翼賛詩は見当たらないが、その切り詰められた象徴的言語体系、また一切の夾雑物を寄せ付けず、垂直方向に現実界から形而上的「絶対」の世界へ突き抜ける精神の運動は、アナーキズムの精神でありながら、何かしら権力志向を孕んだ危険思想にも感じ取れる。しかもその危険とぎりぎりに綱渡りしているところが魅力であることも実際に認めざるを得ない。恐らく吉田の詩に魅了される人が今いるならば、自らの小なる「存在」に嫌気がさして、何かそれを「超克」したいという願望を持つ者に違いない。現在、そのような思考は決して少なくはないはずである。私もそうであった。そして実際に、詩論『黑潮囘歸』には、単なる「大東亜共栄圏」と吐き棄てるだけでは収まらない吉田独特の「形而上學」が語られている。そして何より「神」の領域に触れる際、それは激しさを増す。当時において「神」とは何者を指すのかは誰もが知りうることである。

 

「ロゴスの原罪を負つて、詩人はまた、神に叛くものである。言葉は對象を描くことに於いて既に記述的であり、しかも詩は内部混沌を客觀化する言葉の組織者として、自己の極星を中心に輝く獨立な一體系である。詩の表現はつねに斯る二律背反の危機を踏むものである。詩はあらゆる偶然の試みから自由な精神である。一定の規矩を超えて自律し自らの問ひに答へる唯一者として、新たな條件を創るところに近代詩の意味がある。詩とは絶對者の言葉である。」

 

 これは、最後の章「天幕の書」で書かれた部分であるが、実はそれまで『黑潮囘歸』で延々と述べられていたのは、日本の太古の「神々」の声に耳を傾け、「神々」が宿る「自然」を謳った日本古来の詩歌の伝統を見よ、という民族意識に根差したものであった。例えばそれまでの論調はこうである。

 

「詩人とは言葉の原罪を負ふものである。彼れを生み、彼を殺す國土の『自然の聲』を聽く詩人に於て詩人となる。彼れはその聲に言葉の意味を與へねばならない。國語意識の反省に於て、太素の荒神は、近代詩の上にまで熱い呼吸を吹き返して太古の聲を傳へる。詩こそ神に通ふ言葉である。」

 

先に挙げた「神に叛くもの」と明らかに矛盾する。吉田はなぜ最後の章で論の転覆を計ったのか。単に論を進めていった偶然の結果か。それとも最後の章以外は検閲を逃れるカモフラージュなのか。気になることは「神」を論ずるに至って表出する「原罪」である。これを吉田は「古典の背景たりし自然と、民衆の内部にある自然、この表出の仕方に於ける新しい悲劇のテエマこそ、今日の詩人の負ふべきロゴス原罪である。」と言う。つまり、古来からの日本の詩歌が持つ「神々」が宿る「自然」を、「原罪」としているのである。そして、「詩とは血と夢の沸騰である。現實はその血肉の場であり、生活はその志向性に於て夢をもつ、故に詩人は常にその沸騰點を現實高度に於て高めねばならない」と続くのである。ここで「現實」が出てくる。

 

「進化論的価値概念や歴史法則の必然性やに、自由なる精神と發意を喪つた時代にこそ、詩人は寧ろ現實の配列を換へて必然の法則を破り、積極面に新しき表象を輝燿せしむべきである」

 

これは西脇順三郎『超現実主義詩論』にまで通じる詩学であり、現代詩が今も抱え込んでいる「歴史」「民族」「神」「自然」そして「現実」という原資を、昭和16年時点で考え抜いているのである。つまり今の私の見方では、吉田一穂という詩人は小手先の詰まらない技を使うような詩人ではないから、『黑潮囘歸』の最終章以外の部分は、どうしても吉田が書かなければならなかった自ら抱えている矛盾論に違いなかった。「大東亜共栄圏」を匂わせる民族主義思想は、当時の詩人の中で確実にあったものと思われる。しかし、その論理の破綻までをも含めて提示したのである。だから「序」の最初に、「何故に世界はかくのごとくあるべきかの、創造神に對する詰問の書として、自然から獨立な體系に自己を分離せんと試みた、わが思索のノートである」とあるのである。

要するに、この『黑潮囘歸』を読むだけでも、私自身の詩の読み方の甘さが露呈されてしまった。単に「大東亜共栄圏」を匂わす文言で断ち切ってしまう生理的な拒絶反応、あるいは近代詩が戦争期において全て敗北した、という一言だけで終わせてしまう「戦後」的固定概念は、私の中でいま一度考え直さなければならない、と考える。

そして戦後に出る吉田の詩論『古代緑地』は、『黑潮囘歸』の続編であり、吉田が辿り付いた「形而上學」の先の、つまり前回挙げた「存在」と「非存」の同時成立を裏付ける途方もなく解読困難な詩論となる。しかしそれは『黑潮囘歸』の最後に現れた「現實」が鍵語でもある。もしかしたら戦後の「現実」を直視した鮎川らが戦前の若年のころに影響を受けたモダニズムとは、別種の通路で到達した「現実」がこの詩人の視線の先にはあるようにも思われる。次回はここを考えたい。(10.3.24

 

 


22.「形而上学」の先へ

 

 

人を信ぜじ、地は熟りなく、また額に何んの慰めもない。

泥と嘆きの巷、どん底の、この一隅の業の室。

手に營みの膏を、點じて夜々の小さき灯(あかし)よ。

つねに現實と否定の、騒音に燬つく我が胸の飢渴!

憎み、憤り、空を低めて自ら神となす術の、祈り、

求め、夢む身の惱める限り、生くべき一つの世界――

我れあり・新しき天に鼓動する一つの存在(ザイン)!

         

この詩と、前回挙げた「非存」を比べると、その存在論の反転に驚く。「我れあり・新しき天に鼓動する一つの存在(ザイン)!」と、「<私>は自らに見えない暗點である」はコインの両面のように思われる。『吉田一穂全集Ⅰ』(小澤書店、平成4年)所収の「定本詩集」では、全3章「薔薇編」「暗星系」「故園の書」のうち、「暗星系」に収められ、「業」を読んでページをめくると「非存」がある。しかし、読めば読むほどこの両者は、遙かにかけ離れた存在認識に立っている。今回初めて巻末の「校異・解題」を見ると、「業」は昭和4年、吉田一穂の第2詩集「故園の書」の序詩に掲げられたものであり、「非存」は昭和26年、雑誌「群像」に掲載されたものである。この22年の間に何が起きたのかは言うまでもなく、詩人の中で、大きく認識が変わることはあり得る。しかし、不思議なのは、この全集所収の「定本詩集」は、昭和27年に吉田一穂自身の手で、自身の詩業の集大成として、一篇一篇に微細な修正を加えながら完成させた『吉田一穂詩集』(創元社)を底本としていることである。つまり「業」も「非存」も、昭和27年の時点では、吉田の中では決して矛盾しない、むしろ近接した存在論として並べられたことになる。

私は今までこのように初出の年代などを考えずに全集を読んできたため、むしろこの反転する存在論は、一人の詩人の中で同時発生しているものと捉えてきた。そしてそれは極めて納得の行くものであり、初めて目にしたとき、前にも書いたように、「私」という「主体」への漠然とした懐疑が、厳密な認識に立った言葉によって、見事に詩として提示されたことに驚いたのである。そして次のような文言にも出会くわした。

 

「すでに書くとは非自然であり、元來、言葉といふものは通じないものである。しかし書くことによつて考え、混沌に火を放ち、自己の内部自然を客観する方法として、これは認識の形成であると同時に表現の分離である。性格的な獨自のシステムに己れを立つるためには、あらゆる概念や混淆の夾雑物を如何に排除するか、多年を要する。暗澹たる空のもと、海は瞑く、白雪に蔽われた地に生を享けて、世界に疑ひの眼を向けた素朴な問ひから、つひに自問自答の獨白、孤獨な詩人の発想となつた時、すでに問ひは己れに發せられて自ら創ることを意味した。」

 

 これは吉田一穂の詩論『黑潮囘歸』の「序」の一節である。反転する存在論の軸となる、吉田の詩の本質と思えた。これでもか、というところまで正確無比の言葉を象り、厳密な認識に至るまで、「自問自答の獨白」に徹する。自分が何者かよく分からなくなっていた20代半ばの私が最も求めている言葉だった。しかしさらに続きを読んで驚いた。

 

「認識の確實な形式を追及し、そして外に求める限り、興へられるだろう可能は、わが食欲を刺戟しない。いづれにしろ、それらの吐き出されたものは。それゆゑ認識論に關するかぎり、あまり好意的ではない。人獣神のメタフォアによって生死の門を濳る。それはわが形而上學の通路である。」

 

「形而上學の通路」・・・。ここで分かるのは、吉田が詩をあくまで「通路」として捉えており、さらに「言葉」の先へ、「業」と「非存」の反転する存在論が矛盾をきたさない場所へと赴いているように思われる。そこはどんな場所なのか。この先には「藝術には古典的な方法しかない。(略)私は獣の血で神々の讃歌を書きたい。祖國が今、われわれに要請しつゝあるものは、この血の精神に於いてである。」と続く。

この詩論『黑潮囘歸』は昭和16年に発表されている。いよいよ日本が軍国主義へと傾いていく時代である。果たして吉田一穂は時勢に媚びた詩論を書いたのかどうか、これからそうした時代との関連も含めて読み解いていくほかないが、一つ思うことは、吉田一穂の詩がそうした時代考証の上でのみでは決して扱えないものだということである。というのも、吉田一穂に出会うまで、私は「詩」というものが、ある時代のある個人がその一瞬一瞬に感じ、考え得るすべてを凝縮させた「作品」であると疑わなかった。立原道造は立原道造の時代、鮎川信夫は鮎川信夫の時代、という風に。そしてその中で「現在」でも共感できる部分だけを都合よく自分なりに読みこんでいた。しかし、吉田一穂はそのように読めない。その詩の全てがまさに「通路」としてあるのみで、その先には決して歴史の線上に置くことができない、「存在」と「非存」が一致する混沌としたマグマのように煮え滾る超歴史の場が垣間見えるからである。そしてそれは私がずっと考えている「狂気」の場であるかもしれない。この「形而上學」の先へ、遅々とした歩みになるかもしれないが、これから進んでみたい。(10.3.13)

 

 


21.「現在」と「詩」

 

「なぜ詩を書くのか」という問いは、私個人の問題であり、またいつ得られるかもしれないその回答も私個人へと返される。何度もこの連載で書いているが、私の唯一の詩の友であり、ライバルでもあった金杉剛を失い、一人で歩まなければならなくなったのち、この命題の解明はどうしても避けては通れないものとなった。なぜなら惰性で詩を書くような生き方をしたくないからである。そしてこれまで曖昧にしか読みきれてなかった詩人たちの詩を見つめ、いま私が立っている位置、これから進むべき方向を確認したく書いている。

そこで何とか四人の詩人を手探りで読んできたが、要点のみを振り返れば、戦後詩を切り開いた巨人、鮎川信夫の「現実」への徹底した認識によって最後に至った「未完」の状態が、今も現代詩の宿命を開示していること、崩壊した近代詩の遺産を背負った福永武彦が、音韻定型詩の試みと小説の実験によって到達した現代における「象徴」=「芸術の消滅」という領域にまで至ったこと、幻視者・原民喜が原爆以前から「世界の崩壊」を言語化することで「原爆以降」の詩の運命を予言し、さらに戦後に自死するまで単独者としての抵抗なき「アナーキズム」の姿勢を貫いたこと、そして世界から切断された場所から、精確な世界を「表層」にのみ定着させ、観念に堕しない「白樺派」の「個」と「自由」の理想をうたいつづけた千家元麿が戦争期に「権力」に敗北したこと、このように、あたかも「詩」という大星雲を望遠するかのように四人の詩人に鍵語を当て星座を描こうと試みてきたが、少なくもこれらの詩人たちが、「詩」を全身で書ききったという一点において今も強く光を放ち、またその輝きが消えようがないのは、彼らの詩が一貫して、「なぜ詩を書くのか」という問いに支えられているからであると今は確信する。そしてその回答は四者四様であるが、どれをも串刺しにしているのがやはり「戦争」と「狂気」であることは明らかになった。

しかしここまで読んできて、私はある自分の中の落とし穴に気がついた。それは「時間」の感覚である。歴史認識というのとは違う。もっと言ってしまえば「現在」を把持する感覚の希薄さであり、さらに言えば今の私の「存在」の把握の感覚の希薄さである。

例えば、鮎川信夫の詩と詩論を読みつづけることで、私は「時間」を超えて、鮎川の「現在」を生きようとする。鮎川信夫の「現在」と私の「現在」が入り乱れる。このとき私は私の「現在」とは何かを突きつけられるのである。単なる戦争体験者の語りの言葉や、戦争の悲劇を描いた小説の言葉のような「過去」→「現在」というベクトルではない。詩の「現在性」に立ち会う。つまり私は鮎川の詩が、私の「現在」の問題、さらには私自身の「存在」の仕方の問題にまでなってしまう。これは単に作品に没入しているというレベルのものではなく、詩を「読む」という行為が、私の「主体」を揺さぶるということなのである。

実は、この「主体」という言葉を、前回千家について書いているときにぶつかり、キーボードを打つ指が固く止まってしまった。「主体」とは何か。「現在」とは何か。「狂気」について探りながら、私はわけがわからなくなってきてしまった。

しかし考えてみれば私はずっとこのことに躓いてきている。嘘のように聞えるかもしれないが、時々発作のように立眩みがし、身動きがとれなくなる。自分がどこにいるのか分らない。ただ、これはもしかしたら私だけの問題ではないのかもしれないと最近思いはじめている。いまこの世界に生きている者はみな、「いま」という一点が掴めず、常に発作に見舞われているのではないか。私自身、ある時までエスカレーターに乗ったように生かされてきたが、ある時から投げ出されて「勝手に生きろ」とされてしまった感覚がある。みなそうなのではないか。鮎川はすでにこの平和な戦後社会そのものが「狂気」であること見抜いていた。福永も、原も、そして「狂気」に落ちた千家もまた。

詩人が「現在」の感情にのみ帰着してしか詩を書かないならば不毛であることは当然である。また逆に「現在」の個を滅したように装い、言葉の普遍性にのみ「執着」するのはさらに偽善である。だから私が「戦争」、「狂気」という問題の核心を捉えても、単なる「私」の問題、あるいは歴史記述の遊戯をしてはいけない。そこで、一人の怪物がここに甦ってくる。

 

非存

 

<私>は自らに見えない暗點である。

棟に梟が降りて、折り鶴を放つ。

天河を渡る羽音に三千年の獣たちが吠える。

齡(よはい)をこめた筥の中なる己れを抱いて龍宮の遠い花火。

影と語る<彼>私は消える。

 

吉田一穂のこの詩を読んだとき、私の中でごろっと何かが崩れた感覚を今でも覚えている。二十代後半のころだったと思う。これが単に「三千年」を飛び越えた古代へのノスタルジーを歌っているのではないことは明白である。またよくこの詩人について言われる、マラルメの「象徴詩」の極限としての純粋詩の模倣でもない。「影と語る<彼>私は消える。」とは、つきつめて「私」を問う問題、さらには「現在」において「私」が「なぜ詩を書くのか」という問題に帰着する。そしてこの詩人が歩んだ道は、真直ぐに「戦争」と「狂気」を通過する。それも抵抗や沈黙ではない方法でである。

これからこの吉田一穂について、「現在」と「詩」を軸に考えていく。(10.2.28)

 


20.「詩人が消えるとき」

 

千家元麿における「詩」と「狂気」の関係、そして「権力」の作用とは何か。この問題に踏み込もうとして、私は大きな壁にぶつかっている。おそらくそれは千家の詩が持つ「表層性」が、その奥へ踏み込もうとするのを拒んでいるのと同時に、私自身がまた、その「表層性」を破り、詩人の内奥へ触れようとすることに躊躇してしまうからである。

以前にも書いたが、千家の詩は躁鬱症のごとく、一方で歓喜に満ちて自然美を延々と歌い上げる詩もあれば、一方で悲嘆に沈んで己を呪う詩もあり、その中間点に位置するとき、「桜」や「蛇」等の事象を的確に対象化し描写する上質の詩が生まれている。私は長くこの中間点とは、精神が安定しているときだと考えてきたが、どうもそれは違うのではないかと最近考え直している。逆に最も「狂気」に肉薄しているときかもしれないと。というのも、千家の詩を「世界から切断された詩」と捉えるとき、それをもっと突き詰めれば、「世界」という包括的概念そのものが消尽したところで書かれた詩ということであり、ただ自分と、眼前に立ち現れる事象との関係が結ばれては消滅する一刻一刻でのみ詩が書かれている、ということになる。すると「自分は見た」とは、まさにその一瞬の事象を、単にカメラで風景を切り取るように言葉に定着させるのではなくて、詩人が消え入りそうな自らの「主体」を何とか獲得し事象と繋がろうとする積極的行為と思えるのである。

ではなぜそれが最も「狂気」に肉薄しているのか。それは私たちが常に「受身」の状態では生きられないからである。私たちは自分の固有の名前を持ち、自他を峻別し、「世界」の中に投げ出されたところで他者と繋がり「主体」を確認して生きてゆける。しかし、自らの名を失い、「世界」という包括的概念も失い、常に「受容体」としてあらゆる存在と入れ替わる状態であるとすれば、それは「狂気」と呼ぶしかない。千家の詩を読んでいくと、「見る」ことによって、「狂気」へと沈殿しかけた「主体」をなんとか取り戻そうとしているように読めてきてしまうのである。

かなり勝手な理屈であるから、異論はあると思う。しかし、私は千家のその「表層性」を好みつつも、かなり前からその謎に頭を悩ましてきただけに、なんとかここで蹴りをつけたくなっているのである。「桜」「蛇」を再度見直して欲しい。一見、単なる「表層」に過ぎないが、その一瞬の事象の精確すぎるほどの美と醜が、自己存在の滅却の中で辛うじて「主体」を持って捉えられているように思えないだろうか。その一語一句の裏に詩人の消えてしまいそうな「玻璃窓」の向こうの顔が見えるようである。その他の詩、例えば千家が躁状態にあるものを以下に引用する。

 

 

馬が来た

俺に乗れとすゝめる

俺は乗つた

忽ち馬は翅を生やし

地を一蹴りするや

俺をのせて天空へはこんでゆく

愉快!愉快!

何たる壮絶!

俺のゐた土地は彼方に小さく

霞んでゐる

俺は天空に帽子を振つて

別れを告げる

俺は自由を得た

俺は馬に命令して

天空を駆けめぐる

 モハメットのやうに

 

これは極めて過剰な「主体」の表出である。ある意味凡庸過ぎるくらい凡庸である。それゆえ安心して笑っていられる。これは大正11年刊の第6詩集『炎天』に収められている。35歳のときである。以前挙げた「毒の鼠」も同詩集に収められているが、これは逆に鬱的な詩である。しかしこれも逆方向の「主体」の過剰性によって凡庸の範囲に収まる。千家の詩は殆ど、その凡庸の範囲を行ったり来たりしており、読み進めるのが極めて退屈である。しかしある瞬間、ぴたっと振幅がとまる。その瞬間こそ、私の考えでは「主体」が凍りつくように消え、「狂気」の淵へ滑り落ちるぎりぎりの所に立っているのである。

では松沢病院入院後に書かれた詩集『霰』は、千家のそうした詩の最良の部分を示しているのかといえば、必ずしもそうではない。むしろここでは実際に何らかの治療が施され、詩人の中でのそれまで「主体」の過剰性と冷却の振幅は標準化されようとしている。しかし詩は書きつづけられた。

 

星月夜

 

水くみに出ると

一杯の星だ

星空を仰ぎながら

水を呑む。 

 

「星」をモチーフにした詩は多数あるが、この詩は、詩人が、自分は生きている、と確かめる姿勢が伺える。星屑のように消えてしまいそうな宇宙内存在としての「主体」が確認できる。しかし、この詩集の後半から、それまでの千家には見えなかった片鱗が現れてくる。

 

日本

 

現在の日本は貧しい

しかし将来の日本は

西洋に負けまい

新しい萌芽と開発に

満ち満ちた日本である

心たのしい。      

          (原詩縦書きでは「満ち満ちた」は繰り返し記号で表記)

 

さらに、もう一つ引用する。

 

 

われらの時代は

進歩、勉励の時

   ・

 社会はよりよき人間を

創造するためにある

  ・

埋もれた天才を見出せ

力ある人を発見するよろこび

人材を養成せよ

創意ある個性を発揮せしめよ。

  ・

創造に満ちた人類、社会

 

千家の真の詩業は、ここで朽ち果てようとしている。この7年後『蒼海詩集』(昭和11年)が出る。もちろん、興味深く読むべきものは多くあるが、私が眼を見張ったあの「狂気」と「主体」の瀬戸際で火花を散らした一瞬の「表層」の光はもう見る影もない。そこには一見主体的に社会参加していく詩が書かれているが、最後は「神」という「大いなるもの」に引き上げられ、やがて来る戦争翼賛詩を書きつづける詩人を予兆するのみである。ここには何らかの「権力」の作用が働いている。詩人はもはや「受身」の存在でしかない。そして戦後もその「受身」の状態は変わらないまま、掌を返したように平和主義を礼賛する詩を書き続けた。だから鶴見俊輔・久野収が『現代日本の思想』(昭和31年、岩波新書)で指摘したように、戦後まで千家が唯一「真に『白樺的』なもの」を維持したということは、間違いである。この戦中、戦後についてはまだ私にはつぶさに書ける力がない。今後必ず詳細に考えなければならない課題である。

ただ一つ言いたいのは、もし先に挙げた「星月夜」のような姿勢を、そのまま戦後まで持ち続けられたら、鶴見らの指摘は正しかったということである。そして千家のその後の評価は全く別のものとなったはずである。ただ「生存」のための、単独者としての、真に自由な、「世界から切断された詩」が、強く後の世代に響いたに違いなかった。

最晩年の千家の姿については、弟子であった耕治人が極めて真摯な筆致で記している(「一条の光/天井から降る哀しい音」講談社文芸文庫所収「詩人に死が訪れるとき」)。妻も息子も戦争に奪われ、失意の中でただ詩を書き続ける詩人が淡々と描かれている。誰も知らない、近代詩の儚い終焉の一場面である。私がこれを書く際、耕が千家の「受身」の姿勢を別の視点で語っていることを参考にしている。是非読んでいただきたい。

千家元麿を通して、私にはまだ足りないものがあることを思い知った。それは私自身の「狂気」と「詩」の関係を掘り下げる力である。そのことに気がついただけでも取り組んでみて価値はあったと自らを鼓舞して、千家についてはこれでひとまず終わりにしたい。(10.2.17)

 

20.「詩人が消えるとき」

 

千家元麿における「詩」と「狂気」の関係、そして「権力」の作用とは何か。この問題に踏み込もうとして、私は大きな壁にぶつかっている。おそらくそれは千家の詩が持つ「表層性」が、その奥へ踏み込もうとするのを拒んでいるのと同時に、私自身がまた、その「表層性」を破り、詩人の内奥へ触れようとすることに躊躇してしまうからである。

以前にも書いたが、千家の詩は躁鬱症のごとく、一方で歓喜に満ちて自然美を延々と歌い上げる詩もあれば、一方で悲嘆に沈んで己を呪う詩もあり、その中間点に位置するとき、「桜」や「蛇」等の事象を的確に対象化し描写する上質の詩が生まれている。私は長くこの中間点とは、精神が安定しているときだと考えてきたが、どうもそれは違うのではないかと最近考え直している。逆に最も「狂気」に肉薄しているときかもしれないと。というのも、千家の詩を「世界から切断された詩」と捉えるとき、それをもっと突き詰めれば、「世界」という包括的概念そのものが消尽したところで書かれた詩ということであり、ただ自分と、眼前に立ち現れる事象との関係が結ばれては消滅する一刻一刻でのみ詩が書かれている、ということになる。すると「自分は見た」とは、まさにその一瞬の事象を、単にカメラで風景を切り取るように言葉に定着させるのではなくて、詩人が消え入りそうな自らの「主体」を何とか獲得し事象と繋がろうとする積極的行為と思えるのである。

ではなぜそれが最も「狂気」に肉薄しているのか。それは私たちが常に「受身」の状態では生きられないからである。私たちは自分の固有の名前を持ち、自他を峻別し、「世界」の中に投げ出されたところで他者と繋がり「主体」を確認して生きてゆける。しかし、自らの名を失い、「世界」という包括的概念も失い、常に「受容体」としてあらゆる存在と入れ替わる状態であるとすれば、それは「狂気」と呼ぶしかない。千家の詩を読んでいくと、「見る」ことによって、「狂気」へと沈殿しかけた「主体」をなんとか取り戻そうとしているように読めてきてしまうのである。

かなり勝手な理屈であるから、異論はあると思う。しかし、私は千家のその「表層性」を好みつつも、かなり前からその謎に頭を悩ましてきただけに、なんとかここで蹴りをつけたくなっているのである。「桜」「蛇」を再度見直して欲しい。一見、単なる「表層」に過ぎないが、その一瞬の事象の精確すぎるほどの美と醜が、自己存在の滅却の中で辛うじて「主体」を持って捉えられているように思えないだろうか。その一語一句の裏に詩人の消えてしまいそうな「玻璃窓」の向こうの顔が見えるようである。その他の詩、例えば千家が躁状態にあるものを以下に引用する。

 

 

馬が来た

俺に乗れとすゝめる

俺は乗つた

忽ち馬は翅を生やし

地を一蹴りするや

俺をのせて天空へはこんでゆく

愉快!愉快!

何たる壮絶!

俺のゐた土地は彼方に小さく

霞んでゐる

俺は天空に帽子を振つて

別れを告げる

俺は自由を得た

俺は馬に命令して

天空を駆けめぐる

 モハメットのやうに

 

これは極めて過剰な「主体」の表出である。ある意味凡庸過ぎるくらい凡庸である。それゆえ安心して笑っていられる。これは大正11年刊の第6詩集『炎天』に収められている。35歳のときである。以前挙げた「毒の鼠」も同詩集に収められているが、これは逆に鬱的な詩である。しかしこれも逆方向の「主体」の過剰性によって凡庸の範囲に収まる。千家の詩は殆ど、その凡庸の範囲を行ったり来たりしており、読み進めるのが極めて退屈である。しかしある瞬間、ぴたっと振幅がとまる。その瞬間こそ、私の考えでは「主体」が凍りつくように消え、「狂気」の淵へ滑り落ちるぎりぎりの所に立っているのである。

では松沢病院入院後に書かれた詩集『霰』は、千家のそうした詩の最良の部分を示しているのかといえば、必ずしもそうではない。むしろここでは実際に何らかの治療が施され、詩人の中でのそれまで「主体」の過剰性と冷却の振幅は標準化されようとしている。しかし詩は書きつづけられた。

 

星月夜

 

水くみに出ると

一杯の星だ

星空を仰ぎながら

水を呑む。 

 

「星」をモチーフにした詩は多数あるが、この詩は、詩人が、自分は生きている、と確かめる姿勢が伺える。星屑のように消えてしまいそうな宇宙内存在としての「主体」が確認できる。しかし、この詩集の後半から、それまでの千家には見えなかった片鱗が現れてくる。

 

日本

 

現在の日本は貧しい

しかし将来の日本は

西洋に負けまい

新しい萌芽と開発に

満ち満ちた日本である

心たのしい。      

           (原詩縦書きでは「満ち満ちた」は繰り返し記号で表記)

 

さらに、もう一つ引用する。

 

 

われらの時代は

進歩、勉励の時

   ・

 社会はよりよき人間を

創造するためにある

  ・

埋もれた天才を見出せ

力ある人を発見するよろこび

人材を養成せよ

創意ある個性を発揮せしめよ。

  ・

創造に満ちた人類、社会

 

千家の真の詩業は、ここで朽ち果てようとしている。この7年後『蒼海詩集』(昭和11年)が出る。もちろん、興味深く読むべきものは多くあるが、私が眼を見張ったあの「狂気」と「主体」の瀬戸際で火花を散らした一瞬の「表層」の光はもう見る影もない。そこには一見主体的に社会参加していく詩が書かれているが、最後は「神」という「大いなるもの」に引き上げられ、やがて来る戦争翼賛詩を書きつづける詩人を予兆するのみである。ここには何らかの「権力」の作用が働いている。詩人はもはや「受身」の存在でしかない。そして戦後もその「受身」の状態は変わらないまま、掌を返したように平和主義を礼賛する詩を書き続けた。だから鶴見俊輔・久野収が『現代日本の思想』(昭和31年、岩波新書)で指摘したように、戦後まで千家が唯一「真に『白樺的』なもの」を維持したということは、間違いである。この戦中、戦後についてはまだ私にはつぶさに書ける力がない。今後必ず詳細に考えなければならない課題である。

ただ一つ言いたいのは、もし先に挙げた「星月夜」のような姿勢を、そのまま戦後まで持ち続けられたら、鶴見らの指摘は正しかったということである。そして千家のその後の評価は全く別のものとなったはずである。ただ「生存」のための、単独者としての、真に自由な、「世界から切断された詩」が、強く後の世代に響いたに違いなかった。

最晩年の千家の姿については、弟子であった耕治人が極めて真摯な筆致で記している(「一条の光/天井から降る哀しい音」講談社文芸文庫所収「詩人に死が訪れるとき」)。妻も息子も戦争に奪われ、失意の中でただ詩を書き続ける詩人が淡々と描かれている。誰も知らない、近代詩の儚い終焉の一場面である。私がこれを書く際、耕が千家の「受身」の姿勢を別の視点で語っていることを参考にしている。是非読んでいただきたい。

千家元麿を通して、私にはまだ足りないものがあることを思い知った。それは私自身の「狂気」と「詩」の関係を掘り下げる力である。そのことに気がついただけでも取り組んでみて価値はあったと自らを鼓舞して、千家についてはこれでひとまず終わりにしたい。(10.2.17)

 

 


19.「玻璃窓の向う側」

 

病室の外の静かな庭に芽ぐむ木々を

玻璃窓から透かし見る(おなじく)

 

昭和6年、非買本として300部限定で出版された千家の第9詩集『霰』に収められた詩である。『千家元麿全集』(彌生書房)では残念ながら削除されている。確かに、これだけを見れば何てことはない、何か体調を崩して入院しているのか、誰かの見舞いに来たのか、病室の窓から見た自然詠に過ぎず、削除されるのも分からなくはない。しかし、実は末尾の「(おなじく)」が、大きくこの詩の価値を変えるのである。そして千家元麿の「表層」の、「世界から切断された」詩の本質にまで光りを当てることになる。

詩集『霰』には、この「(おなじく)」が全168篇中25編に付されている。特に全5章、春・夏・秋・冬・雑のうち春と雑、つまり第一章と最終章に集中している。これが何を示しているのかと言えば、以下の詩の末尾でわかる。

 

春の日

 

散歩にも出ないで

みンなの出たあとの

靜かな部屋で

獨り樂しんでゐる

窓の外の鳥や虫共の初夏の微妙な聲に耳傾けて。

しづ心なく(M病院にて)

 

「(M病院にて)」―この連載でもっとも重要な命題がここでも浮かび上がる。この「M病院」とは、昭和4年に、病名は明らかではないが何らかの精神疾患によって千家が半年間入院した松沢病院のことである。つまり『霰』はその入院期間中と前後に書かれたものなのである。それだけではない。もう一つ、入院の直前、長編叙事詩『昔の家』を刊行している。この『昔の家』は、彼の生家である出雲大社の宮司家での幼少期から青年期の優雅な貴族の生活ぶりを振り返る日本では珍しい自伝的叙事詩であるが、これは彼を苦しめつづけた父(東京府知事、法務大臣を歴任した男爵千家尊福)の存在からの精神的決別のための行為ともとれる。つまり絶対権力からの解放の後、千家は松沢病院に入り、退院後『霰』を刊行する。そしてその後も約十年間家を出ることが出来ず、昭和11年に生前最後の詩集『蒼海詩集』を出し、晩年は無残な戦争翼賛詩へと雪崩れ込んでいくことになるのである。  

鮎川、福永、原―世界の「深淵」を覗き「狂気」の領域に手を伸ばした詩人たちと、世界の「表層」を漂いつつ、滑るように「狂気」に沈んでいった千家。何が同じで何が違うのか。一体、「詩」と「狂気」の関係とは、そして「権力」の作用とは。

思えば、私は詩を書き始めたときから、このことを考えてきた。私の詩との出会いは、「狂気」との出会いでもある。だから様々な「狂気」に纏わる本を読んできた。例えば有名なフーコーの『狂気の歴史』もよく読んだが、あまりに俯瞰的な、歴史家的な観点で書かれており、「人間」が見えない。また、精神科医による治療的立場に立った詩の「癒し」の効用の本の数々も。これらはどうも私の求める答えではない。結局は繊細な詩人気質、芸術家気質の話で尻つぼむ。私が知りたいのは「詩」と「狂気」の根源的な結び目が火柱を立てる、「言葉」の背後の広大な砂漠と、雲上に聳え立つ不気味な「城」である。

前に書いたが、千家の詩の異常なほどの数の多さは、この「言葉」の背後と関係していると私は考えている。つまり言語化以前の「沈黙」の領域に、千家はあたかも深海魚の如くじっと身を沈め、その口から幾多もの空泡を海面に浮き上がらせる。それが彼の「表層」の詩である。あるいは冒頭の歌にあるように、「玻璃窓」の向こう側、孤絶した病室からじっと「自然」を、「世界」を見続け、こちら側にいる私たちに、「見てごらん、そこに素晴らしく残酷な世界がある」と繰り返し教えてくれているようでもある。これは第1詩集『自分は見た』以来そうである。しかし彼にとって「世界」は結局「他界」に過ぎない。私たちは「玻璃窓」の向こう側にいる彼の存在を知ることもなく、また彼の教えてくれる「世界」など見向きもしないで立ち去っていく。『霰』にはこんな詩もある。

 

 

友から聞いたが

八大山人の

不思議な魚を一つかいた繪は

贊して、世に阿るものが多いので

自分は深海にゆくと云ふ心が

その魚に托してあるのださうだ

いかにも山人らしい詩であり、繪である

山人の生きてゐた時代は亂世であつたのだらう

この魚はい眼をして

いかにも深海へ去らんとしつゝあるやうである。

 

 しかし、時代は深海に潜ろうとする魚をも手掴みにする。有島が死に、芥川も死に、酒の友であった辻潤も深海のさらに奥底に消え去ったのち、千家は、父よりもさらに巨大な権力の手によってすくわれ、あれほどに憧れたアメリカを、大自然を闊歩したホイットマンの絶対的「個」の自由を、敵と見なして謳い上げることになる。一体ここでは何が起きたのか。単に権力によって強制されただけなのか。それとも詩人の内面で、新たな権力が、「詩」と「狂気」に作用して新たなプリズムを発光させ、「玻璃窓」を砕かせたのか。最後にここだけをもう少し考えてみて千家については終えたい。(10.2.5

 

18.「世界から切断された詩」

 

 蛇

 

蛇が死んでゐる

むごたらしく殺されて

道端に捨てられてゐる

死体の傍には

石ころや棒切れなぞの兇器がちらかつてゐる

王冠を戴いた神秘的な顔は砕かれ

華奢で高貴な青白い首には縄が結へてある

美しく生々した蛇は今はもう灰色に変つてゐる

さながら呪はれた悲劇の人物のやうに

地上に葬られもしないで棄てられてゐる

哀れないたづらだ

 

 この詩は、1921年(大正十年)に出版された千家の第三詩集『野天の光り』に収められている。この詩にもまた千家特有の「表層性」はよく表れているが、以前挙げた「桜」や「星」などに見られる自然賛美、宇宙との対話はなく、逆に人間の手によって「神秘的」で「高貴」な生命が打ち捨てられている残酷性をただ描写している。これは「白樺派」が掲げた理念をある意味皮肉にみるような詩とも取れる。少しその「白樺派」の理念を見てみる。

 雑誌「白樺」が創刊されたのが今から丁度百年前、1910年(明治43年)、日露戦争勃発の五年後で、日本が近代国家として先進国へと猛進していた時期である。武者小路実篤は、巻頭の論文「『それから』に就いて」で、「社会」と「自然」という二項対立を置いて、「自然の命に背くものは内に慰安を得ず、社会に背くものは物質的に慰安を得ない。人は自然の命に従わなければならぬ。」として、夏目漱石の思想を「自然崇拝」として賛している。そして漱石の今後の作品への希望的観測として、「社会を自然に調和させるやうにされるだろう」と述べている。ここから、「白樺派」はその合言葉とも言えるホイットマンの大自然との調和と「個」の絶対自由を謳い上げた詩や、ウイリアム・ブレイクの神秘主義の詩、またロダンの「生命の躍動」を率先して誌面に取り上げ、やがて「新しき村」建設という実践にまで発展する。この「白樺派」の理想主義、ユートピア志向は、大正期に一大潮流となった、ベルクソンの「エラン・ヴィタル(生命の跳躍)」や西田幾多郎の「無限なる大生命」とも通ずる所謂「生命中心主義」の幕開けともいえる。

 しかし千家元麿はこの時はまだ登場しない。千家の第一詩集が出るのは「白樺」創刊から8年後の1918年、おりしも「新しき村」建設と同年である。この「新しき村」は、「白樺派」に大きな転機を齎すことになる。一言で言えば、それまでの理想が現実の壁にぶつかり挫折をしてゆき、5年後の1923年、関東大震災、有島武郎の情死とともに「白樺」は廃刊を余儀なくされる(このあたりの詳細は、『日本の文化ナショナリズム』鈴木貞美、平凡社新書、並びに『近代日本の批評Ⅲ』柄谷行人編、講談社文芸文庫に詳しい)。

この5年間、つまり「白樺派」の衰退期に、千家は矢継ぎ早に『虹』(1919)、『野天の光り』『新生の悦び』(1921)、『夜の河』『炎天』(1922)と、5冊もの詩集を出している。その後も『真夏の星』(1924年)、『夏草』(1926)と続くが、何より驚くべきはその詩の数の多さで、最低でも『炎天』の74篇、一番多いのが『夏草』の421篇である(『千家元麿全集上巻』、「編集記」山室静による。また「全集」といっても山室によって大部削除され、私の知る限り現在千家の詩の全貌を知ることは難しい。この異常なほどの数の多さについては、千家の「表層性」と関係があるのでのちに触れる。)。

つまり、千家の活躍した後期「白樺」の5年間は、「生命中心主義」は衰退期にあり、同時代の書物として例えば、北一輝の「日本改造法案大綱」(1919)、大杉栄の「獄中記」(1919)が出版され、また日本社会主義同盟結成(1920)、日本共産党結成(1922)、大杉栄虐殺(1923)といった、その後の薄暗い昭和の足跡がすでに聞こえてきていた。

このような時代背景がどのように詩人に影響したかは、確かなことは言えない。しかし私が興味を引かれるのは、千家の大量の詩の中に紛れ込んでいる数々の、「白樺」的な詩とそうでない詩の共存である。例えば『炎天』に収められた「詩人」という詩、

 

詩人

 

詩人は世界を美化する

太陽や月が

世界を美化するやうに

精神の光りで

美をこの世にまき拡げる

併し彼はたゞ自然に忠実なので

彼の眼と魂が浄らかに磨かれてゐるのだ

 

これなどは、いかにも武者小路的な「自然崇拝」を地で行っていて、鼻白むような気分もする。しかしこの詩の直前には全く違う様相の詩が書かれてもいる。

 

毒の鼠

 

あゝ絶えず

私の心を嚙んでゐるものがある

私の体にその悩みの毒が廻つてゆく

私は眼に涙をためて

彼の嚙む儘に任せてるよりない

嚙んでくれ、嚙んでくれ

毒の鼠よ

真夜中に、私の臥床へもぐり込み

私の死んだやうな軀を嚙め

嚙め、嚙め、

気が狂つてゆきさうだ。

俺の孤独の床へ来て

嚙め、この廃れた悲しい俺を

 

ある意味表裏の関係の詩である。この二つの詩が象徴するように、千家元麿という詩人は感覚の揺れ幅が大きく、今で言えば躁鬱の兆候とも言える。そして、その幅の中間点で停滞しているとき、「蛇」の如き「表層」を漂う詩を書くのである。このことはまた追って考えてみたいが、もし時代というものが作品に反映されていると考えれば、実際にどのような形で詩人はそれを意識するのであろうか。おそらくその一つには、自分が前世代との、つまり親との関係をいかに処理したかが挙げられる。特に戦前の父権性の強かった日本の家庭において、特に「白樺派」の作家らのようにブルジョワ階級のそれにおいてはなおさら、親の遺産をどのように受け継いだかは、その作家の思想の立つ位置を大きく変える。武者小路、有島ら「白樺派」の代表的作家たちが、もし観念的理想主義によって挫折したとすれば、そこには親の遺産を継承したということ、つまり「明治」的なものを(負の遺産も含め)土台にして生活し、物を書いたということによるのではないか。反面、千家は、名門の出ではあるが、絶対的な権力をもつ親から逃れ、生涯貧困のうちに終わったという。つまりこれは「明治」的なものから脱し、真の意味で「大正」的な、そして後に来る「昭和」的な感覚を先取りしていたのではないか。いや、むしろ時代というものから切断された「真空状態」にあったと言うべきかもしれない。こじつけかもしれないが、私がこの千家の詩の「表層性」を好むのは、すがるものがない人間の、世界から切断された「孤独の自由さ」を感じるからである。そしてそれは見せかけの「深淵」では決してない、何か生身で「深淵」を知った者が、「詩」のみに生きることで手にできた恩恵なのではないかとも。次回はもう少し、詩の内部に入りながら考えてみたい。(10.1.24

 

17.「表層/深淵」

 

詩作

 

自分の詩をつくる時は

小舟に乗って大海を漂ふ気持だ

絶望と光明の中を漂はされ

一波をくゞり、一波に流され

たゞ神を頼みに漕いでゆくのだ

彼方に緑の小島のあらはれ来れ   

 

 これから考えてみたい「白樺派」の詩人、千家元麿について語るとき、当然のことながら「白樺派」とは何だったのかを考えずにはいられないが、今回はこれまで書いてきた詩人たちの掘り下げ方とは異なってくる。その理由の一つは、時代が第二次大戦前の大正時代まで遡るだけでなく、「近代詩」と「現代詩」とに大ざっぱ分けるだけでは捉える事のできない「詩」の異質性があるからである。

 例えば、これまでの鮎川信夫、福永武彦、原民喜については、それぞれの道を辿りながらも、その「詩」の生成する原点として、「戦争」であり、「死」であり、「人間の崩壊」、「世界の崩壊」がリアリティをもって詩人の内的世界を支配し、最終的に「狂気」の領域にまで至っている点で共通する。一言で言えば彼らの詩とは、「深淵」への詩なのである。

この「深淵」への視座はしかし、大きく見れば戦前からすでに始まってもいる。「四季派」の抒情詩からも、モダニズム詩からも、象徴詩からも、北村透谷、島崎藤村ら明治の近代詩の黎明期からも通低していると言っても過言ではない。それは「近代」という時代がそういう精神を帯びているからなのか、それとも「近代日本」独特の精神性として、詩が「深淵」に収斂される何らかの作用が働いていたのか。俗に言う「純粋=purity」が日本では称揚され、欧米では軽蔑されるのに類似するような何か独特の文化的特徴あるいは圧力があるのか。かくいう私自身も、そうした「深淵」を覗きこむ詩を好み、且つ書こうとしてしまう。しかし、何かがおかしい、とも感じてもいる。どこか「深淵」もどきの上滑りで終る。何かリアリティがない。一体、「深淵」とは何か、そんなものは本当にあるのか。これも「アナーキズム」にも通じるが、何か刷り込まれているのではないかという疑いがある。

ここで「白樺派」だけが、いや、正確に言えば千家元麿だけが、この「深淵」とは真逆の、「表層」に拘った詩人として私の前にいる。鶴見・久野の指摘にもあったように、他の「白樺派」の作家のように観念の世界の中で破綻せず、いわばプラグマティズムに通底する形で詩を書き、生きた。その良い例として次の詩を鶴見らは挙げている。

 

   桜

 

冬枯の空に桜は彼女の飾りの無い髪を編んで

すらりと気高く立ってゐる

何といふ精緻極まる小枝の群

千も万もの愛らしい神秘な小枝が

優しく縺れて

平和に空の下に彼女の美を

意気揚々と示してゐる

 

大正十一年に出版された詩集『夜の河』に収められている詩であるが、確かに、ここには観念性はない。その視線は物象の表層を掠めていくだけである。冒頭の「詩作」(大正十三年『真夏の星』所収)にも読み取れるように、ふらふらと気の向くままに、世界の表層の浪間に揺られながら詩を書くのである。

千家元麿は大正七年、「白樺派」のカリスマである武者小路実篤が「真の詩人」と絶賛し序文を寄せた第一詩集『自分は見た』(大正七年刊)で詩壇に登場する。千家三十一歳であった。奇しくも萩原朔太郎の第一詩集「月に吠える」の翌年である。その後、「白樺派」の代表的人道主義詩人と言われ、時には萩原朔太郎と並ぶ天才詩人(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)とまで言われながら、やがて忘却されていくことになる。それも千家の詩の「表層性」の所以であるが、詩集のタイトル詩「自分は見た」を読んでみると、そうした文学史的見方にとまどうところがある。

 

自分は見た

夜の更けた電車の中に

偶然乗り合はした人々が

おとなしく整然と相向かつて並んでゐた。

窓の外は真暗で

電車の中は火の燃えるかと思ふまで明るかつた。

自分は一つの目的、一つの正しい法則が

此世を支配してゐるやうに思ふ。

人はみな美しく人形のやうに

他界の力で支配されてゐるのだ、

狂ひは無いのだ。つくられたまゝの気がする

一つの目的、一つの正しい法則があるのだと思ふ。

自分はその力で働くのだ。

 

長詩なので、これでも最終連だけに絞ったが、すでに表層的な事象を「見る」手法は確立されている。しかし、人道的詩人にしては、冷たい不気味さに満ちている。千家の詩のキーワードとなる「他界」という語もすでに出てきており、「狂ひ」という語も暗示的でもある。

この千家の「表層性」が、明治、大正、昭和へとつながる近代日本の急速な発展段階で起きた詩的革命の成功と挫折の狭間でどのように位置するか、そして日清、日露、第一次、第二次世界大戦といった「戦争」によって培われた近代の日本人の詩精神が、いかに「深淵」と結びついているかを、どのように逆照射する形で浮かび上がらせるのかを考えつつ、これから史実的な観点も絡めて、忘却された千家の詩について、「白樺派」の理念について考えてみたい。(10.1.13)

 


16.「『白樺派』の本質?」

 

 前回、「アナーキズム」という言葉を使ったが、これから埴谷雄高や萩原恭次郎などについて語りたいわけではなく、ただ一人の詩人の中に(恐らくすべての詩人の中に)あるだろう反権力への意志を述べたかったまでで、特に原民喜のそれが私にはしっくりくるものがあったからである。

 そもそも1970年代生まれの私のような、所謂「ロスジェネ」世代の人間が、「アナーキズム」などという言葉を使う場合、それは歴史的文脈からは断ち切れていて、どちらかというと消費社会の中で記号化されたファッションとして消化しており、セックス・ピストルズやルー・リードなどのパンクやストリート・カルチャーなどの影響が大きい。ビートニクスなどもそこに入る。私のまわりには、詩に興味もない人間が、嗜みとしてビート詩人を読み、金子光晴を崇拝していた。そしてそのことは何よりも「かっこいい」ことであった。

しかしだからと言って、ファッションとしての「アナーキズム」の洗礼を受けた若者が、青春を終え、ある者は大会社に勤めてエリートの道を突き進み、ある者は地元の家業を継ぎ血族の柵に囚われ、ある者は青春の錯誤に陥ったまま「夢」を追い続けて知らぬ間に社会の底辺を彷徨い歩き・・・といった姿を見るとき、彼らの中でフツフツと湧き出る自らへの怒りと失望、「こんなはずではなかった」という呻き声は、かつてのものとは異質の、切迫した孤独な「アナーキズム」へと沈下し、ある引き金から自暴自棄に暴発することもあり得る。それが内向きに出るか外向きに出るかはそれぞれであろうが。

ある意味ではファッションとして仕掛けた前世代の隠れアナーキストたちの「刷り込み」が成功したとも言える。少なくとも私自身に刷り込まれた「反権力への意志」「自由への意志」が、今も内面でとぐろを巻き、弱々しい独り言を呟きはじめると、慌てて首根っこを掴み黙らせる。そして例えば次のような詩を読むのである。

 

   星

 

溢れこぼれるやうな星だ

或るところには群れて沢山

或るところには一つ          

 

 唐突であるが、これは現代詩の文脈からも、あるいはアナーキズムの立場からもかけ離れた詩人、千家元麿の詩である。文学史の中では「白樺派」の人道主義詩人として扱われるが、その詩の深みのなさは見事である。「思想と感情と形式とが平凡な個所で一致を示してしまう」(日夏耿之介「明治大正詩史」)詩である。戦争期には戦争翼賛詩も多く書き、かといって高村光太郎ほどの爆発的な情緒性もない。一言で言えば「小詩人」である。しかしこの「小詩人」の詩が、実は最近私の中で重要度を増してきている。その理由はこれから考えてみるとして、その発端は実に反抗心ばかり募らせていた青春期であった。

高校時代、たまたま家にあった一冊の書物、昭和31年に刊行された岩波新書、久野収・鶴見俊輔著「現代日本の思想―その五つの渦―」を読んでみた。その冒頭1章は「白樺派」の文学者たちが、いかにブルジョワの観念的理想主義者であったか、そしてそれ故に現実の社会の動きに無防備なまま、いかに戦争翼賛へと傾いて行ったかが、高村光太郎を軸に述べられている。そして最後に、「白樺派」が追い求めた、あのホイットマン流の自由主義の理想を、現実の生活の中で唯一貫いた詩人として千家元麿を挙げていた。

以来、私は果たして千家の大量の「平凡な詩」のどこにそれが見いだせるのか興味があり時々読んできた。もう一つ、また星についての詩「星よ」を読んでみる。

 

星よ

地球の友達よ

君達の方にも人類はゐますか

君達の方の生活はどうですか

 

この詩語の平坦さ、日向性、ユーモア、そして表層性は当時の日本の詩には極めて稀である。俳句とも違うし、また新即物主義とも違う。あえて「深くならず」に努めているかのようで不気味ですらある。一体これのどこが久野、鶴見の言う「白樺派の本質」なのか。ちなみに上の二つの詩は大正15年に刊行された詩集『夏草』に入っている。千家39歳の時であり、時はすでに「白樺派」の衰退期で、プロレタリア詩やダダ・シュルレアリスム詩の時代に入っていた。

これからしばらく千家元麿を読みながら、主にヨーロッパ詩の移入に努めた日本近代詩の中で、アメリカ詩を旗印に掲げた「白樺派」の光と影を鑑みつつも、もしかしたらここにも原民喜に感じたような孤独な「アナーキズム」が潜んでいる可能性があるとして、なぜ「今」これを重要視するのかを考えてみたい。(09.12.26)

 

15.「アナーキズムとしての童心」

 

 ここまで原民喜について書いてきて、何か言いきれていない肝心な部分が残されていると感じながらも、言葉にならずに喉につかえたままであった。そこで先日このミッドナイト・プレスのホームページの「詩人の発言」欄で手塚敦史氏が書かれた「詩とは何か」という文に触れて、この喉につかえていたものが吹っ切れたところである。そこには私がこの連載を書きながらずっと自問していた「なぜ詩を書くのか」という核心的問題が書かれている。そして私を含めたすべての詩を書こうとする者への警句として、真摯に受け止めなければならない。

 手塚氏が述べているように、自らの詩についてだけでなく、他者の詩について語る場合も、最も内奥にあるべき「秘密」を捉え切れなければ単なる時間の浪費であり、書いている者自身の内奥の「詩」をも駄目にしてしまう。優れた詩人はそのような愚を犯さない。言葉は書いたその瞬間にその者を呪縛し、削り取り、取り返しがつかない状態にする。その意味で、この連載もまた危険であって、どこかで他者が言った事の反復に過ぎないだけの「罠」に嵌ってしまう。しかしそうであればそれも仕方がない。私が偽者であっただけの話である。ただ私は始めなければならなかった。何のためにか。一言、確認のためである。

 この連載を始める以前、私は長く「自分の中の秘密」のみを見つめ、盲信し、詩を書くことに専念していた。まさに「罠」にはまることを回避し、自分だけの詩の地下道を掘ろうとしていた。そこには心強い親友もいてくれた。彼は常に私の一歩先を小さな炎を灯しながら歩んでくれた。その炎の一つが「原民喜」であった。しかし、彼がこの世から突然消えたとき、私はある決定的な問題に直面してしまった。それは「自分の中の秘密」として当然あったはずの「詩」など、実は最初からないのだということに。

 ならば詩など書かなくてもいいではないか、ということになる。当然それも選択の一つであった。しかし気がつくと、ノートに意味不明な言葉が刻まれていく。これは惰性ではなくほとんど病理に近い。そしてさらに「沈黙」しながらひたすらに「実作」に耐えてきた。しかし私の場合、そろそろ限界まで来てしまったのである。手塚氏の言う詩人としての最低限の「自覚」を持ちつつも、もはや自分の中で見えなくなった「詩」を見つめなおし、決着をつけなければ、もう次へは進めない。

 それがこの連載のそもそもの出発であった。そしてこのように振り返ってみて漸く私にとっての「原民喜」とは何かがうっすら見えてきた。まさに「実作」でしか言語化できない極めて個人的な部分にまで通じている問題である。それは家族から国家までのすべての権力に背を向け、虚飾の世界の裏側を透視し、自らの破滅と引き換えに真実のみを語る、「アナーキスト」としての原民喜であり、そうありたいと願い続けた私の「自分の中の秘密」である。

 確かに原は埴谷雄高との親交もあったし、左翼運動に身を呈した時期もあった。また「ガリバー旅行記」についても、そのユートピア思想への志向を見ることは容易でもある。しかし私が原を「アナーキスト」として捉えるのは思想性においてではなく、生き方、あるいは存在そのものとしてである。特にその童話作品にその特質が表れているように思う。ここで内容を詳しくはあげられないが、決して教条的でない、常に世界からはぐれた闇の中の小さき者の身となって、最後に一条の光のみを照らしだすその作品は、原のアナーキズムの本質のように思える。すべての権力から逃れるには、抗うのではなく、じっと穴倉の中に篭り、月夜にそっと顔を出すもぐらになるのがいいのだ(「もぐらとコスモス」)。そしてこの童心(「純粋」という意味ではない)こそが、原の中の「秘密」であり、「詩」の在り処であって、私が魅かれたのも、その一点であり、私の中にあるだろう「詩」の一部になっている。そしてこれは薄々と分かっていながら私が言葉にするのを避けてきた問題で、これからじっくりと輪郭が見えるまで考えて行こうと思っている。

最後に、そのような原の資質がよく出ていると思う好きな詩を挙げて、原民喜についてはこれでおしまいにしたい。

 

  蟻

 

遠くの路を人が時々通る

影は蟻のやうに小さい

私は蟻だと思って眺める

幼い児が泣いた眼で見るやうに

それをぼんやり考へてゐる

 

                              (09.12.17)

 

 


14.「生存」と「詩」と

 

仮に原民喜が「ガリバー旅行記」の「その後」を書いていたとしたらどうだったのだろうか。ガリバーが「馬の国」=「詩人の国」でおぼえた詩は、ヤーフ(人間)には「馬のいななき」にしか聞こえないのだから、孤独なガリバーと馬との親交の日々を淡々と書き記しただろうか。それとも創作を施してガリバーを「馬の国」に帰し、平和な心温まる「美しい」詩をうたう人生をおくらせただろうか。それとも逆に核戦争によって人間も馬もガリバー自身も皆消滅させてしまっただろうか。様々に想像してしまうが、書かれなかった「その後」については、特に、原の幻視者としての資質、そして予言者としての資質を鑑みると、一層その意味は深くなる。ここで少し原の他の作品を見てみる。

「やがてこの真赤に煮滾るところの液体が昂を襲った。彼の鼻腔や耳にまで熱気は侵入し、煙が全身から立昇った。(略)轟々と唸る火の渦に巻込まれながら、猶さまざまの火の姿が昂に戯れて来た。硫黄や砒素などの恨しそうな火の玉が来ると、昂の内臓は破壊に脅え、顔は断末魔の形相を堪へるのであった。」

これは決して原爆について書かれたものではない。昭和12年、つまり原爆投下の8年前に書かれた「幻燈」と題する短編の中の、昂という男の幻覚体験の描写である。また、

「片腕は痺れ、既に、軌道の側に転がってゐる死骸の一部と化したのか。

 胴の上、赤と緑のシグナルが瞬く闇に、涼風の窓を列らねた省線が走り、その女の靴の踵が、轢死した彼の上を通過してゐる。(略)

 ガラガラとミシンは回転し、女の踵は猛夫の額を踏み、踏む。ああ、それも、これも、背き去らねばならぬ衰運の児のさだめか。再び、彼の頭上を省線は横切り、無用の頭蓋を粉砕してしまふ。」

 これは昭和14年に書かれた「溺没」の中の、猛夫という男の幻覚であるが、原自身の轢死の12年も前のものである。

 この他にも、原の原爆以前の作品には必ずと言ってもよいほど、世界の崩壊や死の断末魔の模様が予言のように随所に描かれている。これを単なる神経症気質の詩人の幻想譚と捉える見方もあるが、私はこの詩人が本来なら直視し得ない曖昧模糊とした心理を執拗に言語化することで現前化させた真実の世界であると見る。そして偶然とはいえ、その後、現実に世界の崩壊に立ち会い、「書きのこさねばならない」と決意し、「夏の花」三部作等の後世に残る仕事をしてゆくことになる。

ここで以前から抱いている原民喜が「なぜ書けたのか」という疑問の解決の糸口が見えるように思う。それはガリバーの「その後」を「なぜ書かなかったのか」と表裏である。つまり、原は原爆以前から世界の崩壊を精確に言語化し得る「語」を獲得していたということである。それこそ「言語に絶する人々の姿」(夏の花)を目の当たりにしながらも。

 

アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム

スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ

パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ    

 

まさに原にとって、「全てあったこと」なのである。原の原爆以降の作品は、むしろ、それ以前の作品に比べ、「生気」を帯びてさえいる。まるで「語」に命が吹き込まれたように、自ずと「奇妙なリズム」を踏む。「剥ぎ取ってしまった後の世界」、それは原がすでに秘密裏に見ていた世界の真実の姿である。よってガリバーの「その後」もこれでなければならないのである。

ここでさらに疑問が出てくる。なぜ原はそのような世界の崩壊を予兆できたのか。あの時代を生きた詩人の宿命なのか。いやそうではない。シュルレアリズムも、アナキズムも、四季派の抒情詩人たちも、みな「現実」、いや「権力」に回収されていった。仕方がない。生きるためには。せめて信念を貫くためには沈黙をするしかない。この「生きる」という条件が、詩人たちを過った道へと導いてしまった。では原はどうであったか。

「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……」(「遙かな旅」)

 原は、原爆に遭う前年、唯一の生きる支えであった妻を結核で亡くしてしまう。その死の様子は戦後書かれた短編集「美しき死の岸に」に詳しい。詩人が真実を語るために必要だった愛の形もまた、虚飾のない剥き出しの、残酷な、真実の愛として「書かれ」なければならなかった。ここには詩人が「生存」と引き換えに、「詩」を獲得しようとした凄まじい取引がある。この原の詩の生き方を、現代の詩人の宿痾とすべきかどうか、もう少し考えてみる。(09.12.10)

 


13.「言葉のない世界」

 

 あまりに有名な田村隆一の詩集『言葉のない世界』は1962年に刊行され、現代詩のバイブルの一つであると言える。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」(「帰途」)、「言葉のない世界は真昼の球体だ/おれは垂直的人間」(「言葉のない世界」)、といった詩句は詩を読む者であれば誰もが頭の隅に置いている。そして「雪のうえに足跡があった/足跡を見て はじめてぼくは/小動物の 小鳥の 森のけものたちの/支配する世界を見た」「(見えない木)」という人間が存在しない小世界への視線に、田村の詩の背後に常にある人間への、世界への懐疑と絶望を見ることができる。

 原民喜について書くはずのところを、なぜ突然田村隆一なのかというと、最近なぜか私の周りで、主に10代から30代なのだが、普段は詩を読まないが、「田村隆一の詩に感動した」という人が多いことと、そのことが、いま私が原民喜について考えている理由と同時代的に繋がっている面があるのではないかと感じたからである。そして実際繋がっていることが分かってきたのである。

 1951年3月、原民喜が中央線吉祥寺駅近くの線路に横たわり自殺する直前まで、執念を燃やした仕事がスウィフトの「ガリバー旅行記」の翻訳であった。特に最後の章「馬の国(フウイヌム)」に原は「深くとらえられた」(「解説」長田弘)という。ざっと内容を書くと、馬の姿をしているフウイヌム族が、人間の姿をした醜いヤーフ族を「理性」によって支配している世界にガリバーは迷い込む。フウイヌム族は決してヤーフ族のように憎しみや怒りや妬みといった感情に駆られて争い事などせず、常に「理性を磨け。理性によって行え。」という格言のもとに平穏で慈愛に溢れた世界を築いている。ガリバーはそうしたフウイヌム族に魅了され、永住したいと願うが、やがて人間界へと帰され、妻(人間)に触れられて気絶してしまう。原の「ガリバー旅行記」はここで終わるが、本当ならその後、人間不信に陥ったガリバーが孤独に馬との友情を温め生きていく姿が描かれる。

ここで「言葉のない世界」が重要な鍵となる。実は「ガリバー旅行記」とは「言葉の魔性」を綴った物語だからである。ガリバーが4つの異世界に放り込まれたとき、彼が唯一頼った武器は「言葉」である。常にその世界の言葉を学び、言葉巧みに王に取り入り、未知の世界について語ることで、自らの存在価値を高めていく。つまり「言葉」の集合体が「世界」であり、「言葉」の操り次第でどうにでも「世界」は変わるということをスウィフトは語っている。しかし最後の章では、フウイヌム族(馬)は、生まれもって世界をすべて把握しており、言葉を必要としていない。ただ必要最低限の言葉しか存在せず、言い争いなど全くおきない。そして何より彼らは「詩」が極めて上手である。ガリバーはそうした「言葉のない世界」への安住を試みるが、それまでのような言葉の武器が通用しないために失敗することになる。

 ここまで来て分かることは、原にとって「馬の国」とは「詩人の国」であり、ガリバーが人間界に帰った後の話は、もはや詩が存在不可能な世界、つまりまさに「戦後」である。

 

されど後より後より追まくってくる

 ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪

 いかなればかくも生の恥辱に耐えて

 生きながらえん と叫ばんとすれど

 その声は馬のいななきとなりて悶絶す     

       (「ガリバーの歌」より) 

 

しかし、「馬のいななき」=「詩」は、書かれてきた。田村隆一だけでなく、これまで書いてきた鮎川信夫も、福永武彦も、そして戦後を生きた全ての詩人が、原が削除したガリバーの「その後」を生きた……。本当だろうか、と私は立ち止まってみる。もしかしたら「その後」などなかったのかもしれない、私たちは「馬の国」=「言葉のない世界」へ再び戻ろうと未だ「悶絶」しているのではないか。そう考えると、原の中断行為は、自身の死の暗示だけでなく、戦後から続く現代までを暗示し、私たちを呪縛しており、決定的である。二度と「人間性」を回復できなかったガリバーに私たちはなってしまったと。そしてさらに、「馬のいななき」が「詩」であった時代などあったのだろうかとも。原の書いたものに、その可能性をもう少し見てみたい。(09.12.02)

 

   

 

12.「媒介者・原民喜」

 

原民喜についてはどうしても原爆を抜きにしては語ることができない。しかし私は原爆の恐ろしさを知らない。確かに広島には何度も行ったし、長崎にも行った。資料館も数回訪れた。また原爆ドーム脇にある原民喜の詩碑も見た。しかし、原爆の恐ろしさを本当に知ることはできない。体験した者にしか分らない地獄であることだけが分かる。そして私は何も語れなくなってしまう。

また苦し紛れに原民喜の言葉を、「死者の言葉」だと言うことは容易である。独特の片仮名書きによる、妙に醒めた視線と、何か不敵な笑いが込められている詩や、物語の進行上普通なら削られるであろう人物の動作や会話、物の形をじっとりとなぞっていく散文体。そして唐突に挿入される「人間」の阿鼻叫喚。まさに「死者の言葉」と言うのが相応しい。

「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのために生きよ」「一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。……戻って来た、戻って来た、僕の歌ごゑが僕に戻って来た。」(「鎮魂歌」)。

このように詩人自身も「死者の言葉」を引き受けようと自らに強いている。

しかし私はやはりどこかで、これらの言葉をなぜ書き得たのかが分らないまま、躓きながら読んでしまう。理由はおそらく単純で、私が今のうのうと生きている人間だからである。到底「死者の言葉」など分らない。そうしたジレンマを抱いたまま、眼の前に確かにある言葉だけを頼りに進んでいくしかない。例えば有名な詩「コレガ人間ナノデス」を読んでみる。

 

コレガ人間ナノデス

原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ

肉体ガ恐ロシク膨張シ

男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル

オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ

爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ

「助ケテ下サイ」

ト カ細イ 静カナ言葉

コレガ コレガ人間ナノデス

人間ノ顔ナノデス

 

原は原爆投下直後からノートにこうした片仮名書きの詩の断片を書きとめていた。小説「夏の花」では、「この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応はしいやうだ」と書かれている。このような方法の選択と、「ゴラン下サイ」という、自分はあたかも別世界からやってきたような、不気味なユーモアを湛えた語り口が、眼前の世界の崩壊を言語化するためには最も効果的であることを詩人は熟知していたと言える。つまり、ここが分からないのである。なぜそれを実行したのか、し得たのか。

今の段階で、私はこの「分らなさ」が、現代においてなぜ「詩を書くのか」という命題へと一足飛びしてしまうのである。このことはよく言われる、松尾芭蕉は道に捨てられた幼子を助けることなく通り過ぎながら俳句を詠んだ、とか、島崎藤村は妻と子供を飢えさせながらひたすらに創作し続けた、といった芸術家の非人間性を突く倫理的問題を問うているのではなく、現代における「詩人」という存在が、崩壊した世界の只中で、一つの「媒介」=「メディア」となり、「死」と「狂気」の世界を精確に映し出さなければならなくなってしまったという存在論的命題として捉え直すしか今の私にはできないということである。そして「原民喜」が、近代詩が長く問い続けた「詩とは何か」以前の、「人間とは何か」を剥き出しにしたイコンとなることで、詩の歴史に現代まで続く一つの「寓話」を形成してしまったのではないかと考えている。そのことについて、もう少し詰めてみたい。(09.11.23)

 

 


11.「詩の運命」とは

 

夏の野に幻の破片きらめけり       杞憂

 

 「詩の運命」という言葉を前回の終わりに使った。詩の運命・・・一体何であろうか。詩はいつどの時代でも世界中で、多くの者の手によって多様に書かれてきたのだから、すべてをまとめて「運命」などというのはおかしいかもしれない。現に今この瞬間にも、どこかで詩は書かれていて、それがブログに掲載されようが、誰も見ることのないノートに書き留められていようが、詩なのである。それでもやはり、詩には運命というものがあるように私は思う。なぜなら詩はどのように書かれようと、ある時代を生きねばならない人間がどうしても書き留めなければならなかった、その時代特有の「憧れ」と「祈り」の表出であると同時に、それなしには生存できない、言語化不可能な危機的精神の「慟哭」と「沈黙」であるからである。

では現代における「詩の運命」とは何かと問われれば、ここまで書いてきた鮎川信夫の「現実」、福永武彦の「象徴」双方の詩の志向性を決定付けている「戦争」が鍵であることは明らかである。そして今現在においてもその決定因が働いていることは、私たちが現在生きているこの日本、いや世界そのもののが、あの戦争で深く抉られたまま歪に生成し続けている日々の現象を見れば分かる。そして現代を生きる詩人は、たとえそのような歴史認識の薄い私のような戦争を知らない者であったとしても、家族の中で、学校の中で、会社の中で、あるいは道端で、この平和な社会が保ってきた、そして今や崩れ去ろうとしている温室の裂け目から噴出する、見えない血飛沫を見るはずである。つまり「人間」が「人間」でなくなった世界の詩の運命を。

前置きが長くなってしまったが、ここで、また個人的な思い出を書かせてほしい。前にも挙げた私の親友と生前よく話題にしたのが、冒頭に挙げた句を書いた杞憂という人である。「あれは奥さんがいなきゃなにもできない詩人だったんだって」「そうだね、いかにもそんな詩だ」などなど。この杞憂とは、誰もが教科書などで「コレガ人間ナノデス」「水ヲ下サイ」などの詩で眼にしたことのある原爆の詩人、原民喜のことである。しかし、私と親友は原民喜について、原爆詩人として語るというより、杞憂という俳号をつける一種の諧謔の精神を持つ詩人として、また書くこと以外に何も出来ない生活力ゼロの詩人として、そして何よりも痛ましいほどの愛と幻想と狂気を抱いて自殺した詩人として語り合った。特に私は彼が、どこか原民喜に似ているとからかっていたし、彼もその資質に何か親近感を持っていた……。

 原民喜を読むと彼を思い出してしまうが、通らなければならない道である。ここでもう一度読み直そうと思う。私には、福永が最後に「死の島」で「象徴」として描いた原爆を、「現実」として経験した原民喜がその詩と小説に定着させた言葉が、峠三吉など他の原爆詩人のように直接的な訴えのようなものではなく、どうしても「象徴」化された、幻の風景のように見えてしまう。またそれ故にこそ、原爆という現実の酷さがより鮮明に伝わってくる。そして実に、原爆の体験以前から、原には資質上、世界の崩壊を幻視するような、いわばブレイクやネルヴァルなどの19世紀の幻視者(ヴィジョネール)の系譜に属する象徴詩人の要素が強いことが、その作品を読むと分かる(良い例が、俳号にした「杞憂」も、中国の道家の古典「列子」によると、昔、杞の国の人が天が落ちて、地が崩壊するのではないかと憂いたことからくる言葉であることを原は知ってつけた)。つまり、あらかじめ「象徴」界での世界の崩壊を見続けたこの詩人が、「現実」の世界の崩壊を目の当たりにして刻み込んだ言葉は、近代以降の「詩の運命」の必然的な通過点として、その後、「現実」を書くことを使命とした鮎川と、「象徴」を追い求めた福永との分かれていく結節点に立っているものと言える。

 これからしばらく、この詩人を独力で、読みなおしてみたいと思う。(09.11.14

 

10.「戦争」と「詩」

 

 福永武彦が詩を書くことを止めた理由は何だったのか。いや、果たして本当に福永の中で詩は終わったのか。この点は様々に論ぜられるところであるが、私は、詩という形式は終わったが、「詩」それ自体は終わらなかった、むしろ詩と小説の融合、そして解体へと向かったと言いたい。

晩年の大作「死の島」では、福永はそれまで続けてきた小説の実験的手法(意識の流れの文体、音楽的構成、時間軸の逆転など)を極度に推し進め、読む者を混乱に陥れる。しかし、これは単なる実験ではなく、福永が長く温存してきた問題に正面から取り組むためには必然的なことであった。その問題とは、「戦争」である。

勿論、それまでの小説でも「戦争」は大きな鍵として小説内部に根を張っていた。しかしそれは現代の悲劇の背景として描かれていたに過ぎない。しかし「死の島」では、広島で原爆に罹災した女性画家と、小説家志望の青年との不毛の愛を描く構図の中で(このように書くと何とも陳腐だ!)、「戦争」は、「芸術」と対する位置に前面に出てくる。福永はここで、「いかに現実を芸術に定着させるか」という命題をその青年に与えているが、それはまさに「戦争をいかに芸術は乗り越えられるか」という自身へ課した命題ともとれる。そしてこの小説を読み進めるうちに、それまで「象徴」を目指してきた詩人としての福永武彦の到達点が明るみになってくる。

福永が戦後、日本における象徴詩の可能性の模索を続けるべく「マチネ・ポエティック」で定型音韻詩を試みたのは、詩があくまで「象徴」によって、人々を「現実」の遥か上空に誘い、現世の記憶を「忘却」させる「祈り」であったからであることはこれまで述べた。しかし、「戦争」という「現実」を、詩は忘却することも、乗り越えることも不可能であることも福永は知っていたはずである。むしろ詩は「戦争」に屈伏していたことを、若き福永は目の当たりにしている。例えば戦時中、まだ無名の頃に高村光太郎宅に仕事で原稿を取りに行った際の回想が残っている。

「一度、たしかシンガポールの陥落の時に、高村さんは昨晩電話で新聞社から詩を頼まれたので、と言われた。何でも海軍のばかり作ると、陸軍の方がそねむという話だった。その顔は気の弱そうな善意に曇っていた。僕は高村さんの戦争詩が不思議でならなかったが、高村さんの口にする天皇崇拝を、ぼんやり理解することは出来た。(略)高村さんのフランス贔屓と思い合せると、その戦争詩は矛盾のように感じられた。そこには美がなかった。」(「別れの歌」所収「高村光太郎の死」)。

この回想の仕方は、明らかに詩人の戦争責任を追及した鮎川信夫ら「荒地」グループとは一線を画している。福永は高村光太郎ら戦争詩を書いた詩人たちを、理解はしなくとも断罪はしなかった。むしろ同情しようという姿勢さへ伺える。ましてや戦争詩を書きまくり、自身が狼煙を上げた「マチネ・ポエティック」運動の試みをも否定した三好達治とでさえ、後に邂逅してしまう。これは明らかに戦地に赴いた鮎川信夫らとの経験の差による弱さであったと言える。しかし「マチネ・ポエティック」が終息したのは、この弱さの一点に拠るものではない。恐らく、福永の中で、詩はそのとき既に敗北したという認識があったからであり、それゆえ当初から詩作と同時に小説にも翻訳にもすでに着手していた。すでに過去の詩人の罪には興味がなく、それよりも、詩でも小説でもない、新たな「言葉」の芸術を生み出さなければならない、という信念の方が強かったからだと、私は思う。

そして、乗り越えがたい「戦争」という「現実」を、いかに「芸術」に定着させるか。三十年もの歳月をかけて完訳を果たしたボードレールの「象徴の森」とは現代において何なのか。福永は詩、小説双方において、誰もやろうとしなかったテクニックを駆使しながら模索を続け、最終的に「死の島」において、韻文とも散文ともつかない錯乱した(しかし構成は考えに考え抜かれている)文体を駆使し、「象徴」が、ボードレールが示した記憶の「忘却」ではなく、原爆が落ちた広島の地獄絵という「現実」の、消すことのできない記憶の「刻印」として立ち現れることになる。そしてそこにおいてはじめて「現実」は「芸術」に定着するが、同時にそれは芸術家の狂気と死を決定付けることになる。内容は是非読んでいただきたいので省くが、要するに、「戦争」という「現実」そのものが「象徴」に転位することによって、芸術の不可能性を開示してしまうのである。

するとこれはこれで矛盾が生まれる。芸術の不可能性を、やはり「死の島」という「作品」として提出することとはどういうことか。その不可能性に至るために、確かに文体は詩でも散文でもない、解体された文体でなければならなかったことは頷ける。しかしここにはやはり「言葉」が残っている。これはどう受け止めたらよいのか。このことの賛否は別れるであろうが、恐らく私たち後世の者たちに残された課題であることは間違いない。ただ一つ言えるのは、福永は最後まで「言葉」による芸術、つまり文学の永遠性を祈っていたということである。

ここでふと、先に触れた鮎川信夫の詩集を開くと、このような詩が飛び込んでくる。

 

詩法

 

生活とか歌にちぢこまってしまわぬ

純粋で新鮮な嘘となれ

多くの国人と語って同時に

言葉なき存在となれ

 

くるしい黙禱を

水漬く兵士の納骨堂に

きらめく感謝を

最も遠い天の梢へ

 

福永の同名の詩も以前引用したことがある。方法はまるで違うが、「言葉なき存在」となることでしか、「詩」が生まれないという逆説は、福永においても最終的には同じであった。鮎川は「現実」を直視しつつ「狂気」の一歩手前で未完の詩を残して詩を止め、福永は「象徴」と「現実」を一致させることで、やはり芸術を解体させた。「荒地」と「マチネ・ポエティック」の支柱の二人の詩人が見定めた現代の「詩」の運命は、回路は異なりながらも、私には極めて似ているように思える。(09.11.06)

 

9.「詩の終焉」

 

 「マチネ・ポエティック詩集」の音韻定型詩が詩壇から拒絶された後、小説家として歩み始めた福永武彦が、昭和三十九年、四十六歳の時に書いた小説「忘却の河」は文学史に残る名作と言われる。二十代半ばに戦争から生還した男が、三十年後の初老期に入って突然小説らしきものを書き始め、無残な戦場での記憶、裏切った恋人の自殺の記憶、曖昧なまま失われた故郷の記憶を辿り、己の存在を問い直す旅に出るのであるが、福永独特の夢と無意識を織り交ぜた音楽的文体と、妻と二人の娘への視点変換を緻密に図る映像的構成で、男の輪郭は二重、三重に上塗りされならが徐々に抽象化されてゆき、最後は恋人の自殺の場、「賽の河原」にて自らの死を垣間見、すべての記憶は忘却の渦へと呑みこまれていく。

 福永作品全てに共通するテーマである、「記憶」と「忘却」と「死」の連環、そしてその中心を貫く「祈り」=「言霊」がここには凝縮されているが、これらの鍵語は実は、福永が若き日から影響を受け続けたボードレールの中にすべて胚胎されているものである。例えばこの小説のタイトル「忘却の河」は、ボードレールの同名の詩から暗示を受けていることは一目瞭然である。一節を福永訳で引く。

 

 やっとなだめられた嗚咽(おえつ)を呑みこむために

 何がこれに如(し)こう、お前の臥床(ふしど)の底知れぬ海。

 力強い忘却はお前の口の上に住み、

忘却(レテ)の河は流れる、お前のくちづけのうちに。

 

小説の扉にも書かれているが、「忘却(レテ)」とは、ギリシャ神話のタナトス(死)とヒュプノス(眠り)の姉妹の名で、死者がその水を飲んで現世の記憶を忘れる「冥府」の河の名でもあるという。「冥府」とは、「天国と地獄の境にある不確かな地帯、エデンに入ることの許されなかった人たちが、ただそれを眺めるのみで永遠に待ち望んでいる場所」(ボードレール全集(昭和三十八年、人文書院)所収、福永武彦「詩人としてのボードレール」から)である。

結局、主人公の男は「冥府」から再び「生」へと帰還するのであるが、このことは福永自身の長いボードレールとの格闘の終焉、すなわち「詩人・福永武彦」の終焉と見ることができる。

福永は昭和十年の十七歳から詩作を始めるとともに、同時期にボードレールを訳しはじめ、戦後すぐに二十代半ばで評論「ボードレールの世界」を書く。詳細は省くが、この時期の「マチネ・ポエティック詩集」の音韻定型詩も、明らかにボードレールの影響下にある。そこから小説「忘却の河」までほぼ三十年、丁度「悪の華」の全訳ならびに「ボードレール全集」の編纂も終える。しかし、これ程の長期間、なぜそこまでボードレールを追いかけたのか。

恐らく福永は、もともとキリスト教者であったボードレールが「悪の華」で痛ましいほどに刻んだ神への呪詛(「反逆」詩篇)、現世における退廃(「酒」詩篇)、そして美の消滅(「死」詩篇)といった近代性(モデルニテ)の精神を、自身の原風景にあるキリスト教(母方の一族が日本聖公会の信徒で、母親が宣教師であった)との格闘と合致させ、己の生の根本命題として抱え込んだのであろう。そしてボードレールが詩「万物照応」で到達した、「忘却(レテ)」=「冥府」の先にある、天国でも地獄でもない「象徴の森」を、自らも「詩人」として追い求めたに違いない。だから福永の「定型」は単なる模倣ではない。ボードレールが韻文、いわば古代から人類が手にしていた「祈り」の文体によって、その地へ至ったと同様、福永も神と交渉するためには絶対に韻文でなければならなかった。それが福永にとっての「詩」であり、「散文」はその戦いに敗れないための武器である。

そして小説「忘却の河」における男の「冥府」から「生」への帰還は、福永にとって「象徴」から「現実」への帰還と言える。「忘却の河」と同年、福永は「北風のしるべする病院」と題する最後の詩を書く。その詩からは、長くもがき続けた「定型」も「象徴」ももはや断片へと崩れ去ろうとしている。その最後の二連を以下に記す。

 

  *

時は過ぎ行く

 昨日の空

 明日の空

 山脈(やまなみ)に血は

 無用に赤し

 

        *

   風よ

 日は盡き

 病者らの

 ともしびのもとに

 祈る心を

            

翌年、ボードレールを含む訳詩集「象牙集」を出し、福永武彦の「詩」は終焉する。しかしそれから八年後、恐るべき大作「死の島」で、詩とも散文ともつかぬ未踏の文体の境地へと突き進むことになる。(09.10.29)

8「定型を生き抜く」

 

 福永武彦の詩「詩法」からやや飛躍した話になったので、いま一度具体的に福永の詩の「定型」とは、「象徴」とはどういったものか触れてみたい。

 

詩人の死

 

日と月とは沈む涙の谷

不毛の野に暮れる詩人の夜(よる)

ひと筋の宿業のただなかに

ゑがき得ぬ焔の想ひを織る

 

復讐の身をきざむ道のべに

悔恨はしろじろと降りつもり

かなしい美を埋める雪の 眼に

しみる眞冬はすぎて年は古り

 

後の世を告げる翼は聞え

情熱の錆ついた日日は燃え

このいのち振りかへる時既に

 

憂ひの府(まち)の鐘は遠く鳴り

惡霊の歌ふしるべにくだり

つつまれる永劫の暗い手に

 

「詩法」同様、福永武彦の詩集「ある青春」(1973年刊、麥書房版)の「夜」という章にある11のソネットの一つである。1947年に編まれた「マチネ・ポエティック詩集」に載せたソネット群で、順列を変えてそのままある。このソネット群が書かれたのは、戦中の1943年から1944年までの、福永25歳から26歳の間であって、定型音韻詩への執念と、福永の中での「詩人」像がよく伝わってくる。

まず、各詩行を注意深く見れば、すべて15音節で、脚韻を踏んでいることが分かる。2連目3行目も、空白が一音節で、15の音を取る。この他にも頭韻や子音の使用法など微妙な工夫が施されて、この法則は全てのソネットで適用されている。

果たしてこれは単なる技巧に凝っただけの不毛な実験なのだろうか。詩の鑑賞は、好みもあるから、そう見る人がいても仕方がない。しかしこの詩は、そうした韻や音節数など細かいことに囚われずとも、一度読み、二度読むに従い、「詩人」という存在が、報われぬ苦悩の果てで「永劫の暗い手」に握りつぶされていくという姿が、言い知れぬ音楽と詩語のざわめきの中から浮かび上がってくる。つまりこれが福永の「象徴」の「詩法」なのである。例えばこれが小説「草の花」を読み、戦争中に愛する友を失った悲劇的な青春を送った福永自身の個人的悲嘆と捉えることも可能だが、それではただのお話になってしまう。詩はあくまで読者の中に自在に変化する「象徴」を齎すのである。

 詩集「ある青春」の最後には、「附録」として「ある青春ノート」と「詩集に添えて」という長めの文章があり、そこで福永の定型音韻詩への切なる思いが書かれている。例えば、「それぞれの内容を表現するために必須のものであった」と述べ、「私にとって実験であると同時に作品であって、謂わば私の詩的生命が懸っていた」と断言している。しかし、「この実験はイメージ尊重主義者たちの反感を買ひ、形骸のみあって実質を伴はないものと罵倒された」「私は詩壇の狭量なのに呆れて詩を書くことを廃してしまった」と無念の言葉をこぼしている。

 結局福永は小説家として、また仏文学者として戦後を生きることになるが、詩は数少ないながら、リルケの「ドイノ悲歌」を目指しつつ、1971年まで書きつづけられ、その一部が「ある青春」後半に入っている。そこでも定型音韻詩の実験は推し進められていて、形骸どころか、日本の近現代詩の中で類を見ない象徴の結晶となっていると私は思う。

もしこうした福永の試みが、スノビッシュな人間のディレッタンティズム、あるいは「荒地」の詩人たちが攻撃した「四季派」の詩人たちのような、現実逃避の甘さの現れであると言う者がいれば、いま一度見直してほしい。実際、福永は堀辰雄を師と仰ぎ、中原中也や立原道造らを愛読してもいる。しかし、一つ一つ丁寧にその詩を読み、また「風土」からはじまり「死の島」へと到る小説群を読めば、福永が如何に現実を直視し、人間性の暗部に厳しい眼を向けていたかが分かる。むしろ「荒地」の詩人たちが「外敵」として葬り去った近代詩の負の遺産を、自らの内部に抱えて真摯に受け止め、「日本の詩=韻文」を素手で再構築しようとしたのだと言える。その並々ならぬ意志は、マチネ・ポエティックのメンバー加藤周一と中村真一郎と敗戦直後に出した「1946・文学的考察」中の「ボオドレール的人生」という章にも書かれている。

「詩人の運命は常に苛酷である。彼の詩作が純粋に豊饒になるためには、現実は彼を甘やかすことはない。詩は温室の中で育つべきものではないからだ。(略)彼が、外的に与えられたどんな絶望の中にあり、また詩作の苦しみに夜を徹した時であっても、彼は詩人というメチエ(原文フランス語表記)とその先天的運命を、自覚しつつ、何が彼をこのような生に生かしめているかを暁(さと)ることはなかっただろう。そしてここにこそ、僕たちの学ぶべき、一人の詩人の生きかたがあるのであるまいか」

福永の詩作態度がどれほどに厳しい精神で挑まれたかが分かる。そして実作だけではなく、ボードレール研究とその翻訳を通して、それまでの近代詩が成し得なかった「象徴」の移入を果たすことになる。(09.10.21)

 


7.「現実と象徴」

 「象徴」という言葉の前で立ち止まり、福永武彦の詩「詩法」を繰り返し読む。

「響きあふ影の無双の世界/巢立ち行く鳥は彼岸に向ひ/象徴の渦はひろがりはじめ」

この「響きあふ影」とは、「無双の世界」とは、「巢立ち行く鳥」とは、「彼岸」とは、「渦」とは・・・・。

 象徴主義について、今の私たちは過去のものとして片付けやすい。あれは19世紀の産物ですでに終わったものだ、と。しかし、私は最近、鮎川信夫について考え始め、そして戦争期の詩人たちについて考え始めて、もう一度この問題に取り組まなければならないと 気がついた。それは近代という時代と、現代という時代とが、あらゆる断絶の契機を孕みながらも、地続きにあるという再認識と同時に、「詩」という一文字に込められた、近代以降の日本の詩人たちの格闘の歴史が、私たちが想像する以上に苛烈を極めていたのではないかという問いがあるからである。

つまり、なぜ明治以降、島崎藤村、北村透谷、薄田泣菫、蒲原有明、上田敏等々、みな西洋の詩歌を日本の韻文形式に、つまり「定型」に当てはめようともがいたのか、それは単に日本の詩人が日本的定型でしか表現できなかったからなのか、それとも日本の「詩」を、真に「象徴」たらしめようとした苦心であったからなのか、ではなぜそのために「定型」が必要だったのか、そうした問いである。そして答えを一言で言い表すのは困難であるが、敢えて一言で言えば、神を失った近代を生きる人間の空洞と化した魂を、神に代わる聖域である「象徴」界への扉を開く鍵として、「定型」はなければならかったからだ、ということができる。さらには、萩原朔太郎による口語自由詩の完成によって得た近代人の空洞のままの病んだ精神の表出を経てもなお、「象徴」へ到ろうとする定型の試みは、実に朔太郎自身の手によって再び試みられたのである。しかし朔太郎は志半ばで戦争中に死に、他の殆んどの詩人たちは、象徴の修辞を、戦争翼賛のために利用することとなり、日本近代詩の歴史は決定的に切断されてしまう。

「詩は《言葉によって書く》即ち言語をその概念的符号としての役割から解放することにより、本来の機能の全的な計算から、語の視象と音楽性とを新しく発見し、その新しい可能的な配列(論理的心理的な必然に従ってではなく、専ら美学的必然に従って)から、未知の詩的世界を喚起する。自然への屈服ではなく、未知の宇宙の創造。―」

 これは1947年、つまり敗戦2年後に編まれた「マチネ・ポエティック詩集」の序文の一節であり、おそらく福永武彦が書いたものであるが、この序文では、ボードレールからマラルメに至る、象徴主義から純粋詩への過程を、戦後の日本の詩も進むべきだと述べる。言うなれば朔太郎亡き後途絶えてしまった、先人たちが重ねた研鑽を、これからも続けなければならないと謳ったのである。しかし、

「日本の伝統的な抒情詩の中に可能性のままで眠っていた、普遍的な形式を発見し、意識的な抵抗として自らに課する時、詩は始めて現代的意味を獲得する。」(同序文)

という宣言文中の「意識的な抵抗として自らに課する」という文言に眼を凝らせば、これは明らかに戦争期の詩人たちの過ちを犯さまいとする意志表明である。

そういえば、定型詩論争というのが、90年代初頭にあったが、今はここでは触れないでおく。私がいま気になるのは、鮎川信夫ら「荒地」の詩人たちとは別に、この「マチネ・ポエティック」の詩人たちが、もっと言えば福永武彦が、文学が戦争に敗北した、国家権力に敗北したという絶望感の一点において鮎川らと共通しているのにもかかわらず、なぜ鮎川のように「現実」ではなく、「定型」を、そして「象徴」を選んだかという点である。戦争体験の有無か、あるいはブルジョワと庶民との違いか、様々な観点から考えられるだろうが、今私は、福永武彦が、実は「現実」と「象徴」との、危ういコインの両面を鮎川とは正反対に生き抜こうした詩人であると、改めて考えてはじめている。そして、「彼岸」の果ての「象徴の渦」は、過去のことではないことに、いま「詩」を書こうとするとき、恐ろしいほどに気づくのである。09.10.15

6.「詩、翻訳、象徴」

 詩を生きるとはどういうことだろうか。それは果たしてどういう人生の結末が待っているのだろうか。そうした思いから、先人たちの足跡を辿ってみたいと考えているのだが、先月、鮎川信夫を読んでみて、まだ入り口に立っただけではあったが、鮎川におけるT.S.エリオットの存在の大きさを改めて知るに至った。

 そもそも日本の近現代詩の歩みは、明治以降、西欧の詩的伝統をいち早く血肉化しようと、理論と実践を繰り返したが、結局は、日本の伝統詩歌からの脱却をできないまま、無残な戦争詩へと雪崩れ込んで壊滅した。敗戦後、鮎川の理論と実践は、ゼロから、いや近代詩の挫折というマイナス地点から始まって、新しい戦後詩の幕開けを告げたが、実はその方法は明治以降培われていた西欧知の輸入による理論と実践というオーソドックスなものでもあったことが分かる。そして鮎川の最後の未完の詩は、かなり飛躍ではあるが、ある意味、明治初期に貪欲にバイロンの近代主義を生き抜こうとして、その不可能性に苦しみ自殺した北村透谷と一直線に結びつくようにも思えなくもない。そしてさらに飛躍し、21世紀の現在のグローバル化したインターネット社会では、一見、西洋も東洋も超えた、世界の知の階層の攪拌が行われたかに見えて、実は西洋化(アメリカ化)が加速度的に進んでいるとも思え、それがまた現代詩に生き写しされてもいる。

 つまり近代以降の日本の詩は、常に西洋の詩と日本古来の伝統詩との格闘とともに歩んできたということになるが、重要なのは、誰が、どのように輸入してきたかである。それは「翻訳」がいかに成されてきたか、という問題であるが、特に現代詩の難解性とか閉塞性などと言われる問題も、この「翻訳」ということに大きく関わるのではないかと私は長く感じてきた。

ここで思い出すのが、また個人的なことで申し訳ないのが、以前も触れた私の親友が、生前によく私の詩にダメ出しをする際に言っていた「象徴がない」という言葉である。彼は、フランス語も英語もよく勉強していたが、特にフランス詩に力を入れて、ランボー、ボードレールを読み、その後ジュリアン・グラッグ等々フランス現代詩も多く読んでいた。私は彼に対抗して英米詩を翻訳してみたり、ハングルを齧って朝鮮の詩を訳してみたりした。当時の私は半分遊びの気分であったが、今思うと彼の言った「象徴がない」という言葉に立ち止まるところがある。それは単に言葉の技術の問題なのか、それとももっと手前の、何か詩人としての心構えのことだったのではないか、と。

 

 詩法   福永武彦

 

北の座を示すしるべは亂れ

ここよりは人知らぬ海の道

韻律はかなしい星に生れ

象(かたち)はあこがれる未來の位置

 

この夢を織るたくみのわざ 我

日(ひ)と夜(よる)とをつなぐ潮路に立ち

みかへれば 清い想ひを語れ

遠い時劫に眠る言葉たち

 

花はくちびるに笑み 褪せる赤

美は空のもとに泯びる歌か

いな 無邊にひらくいのちを祕め

 

響きあふ影の無双の世界

巢立ち行く鳥は彼岸に向ひ

象徴の渦はひろがりはじめ

 

これは極めて暗示的な詩である。ここで言われる「詩法」、「象徴」とは何か。私の親友の言葉と重なってくるのである。

この詩人は知られるとおり、日本に新たな定型詩を定着させようとした「マチネ・ポエティック」運動の主導者であり、戦後は小説家として名を馳せたが、実はボードレールの翻訳において、稀有の達成を果たしている。私は、この詩人を、鮎川とは別の回路で戦後詩の可能性を開示してみせた詩人であったと思う。詩こそ少ないが(実はそのこと自体も極めて暗示的であるが)、これからしばらく福永武彦の詩の生き方に触れて行ってみたい。09.10.06

 

5.「未完の詩、未完の生」

 

ぼくらは鍵のことを考える、めいめいの牢獄にいて

鍵を考え、めいめいの牢獄を確かめる

       (「荒地」T.S.エリオット、鮎川信夫訳)

 

読めば読むほど謎が深まっていく鮎川信夫の詩について考えるとき、どうしても避けられないのがエリオットである。おそらくエリオットほど鮎川にとって決定的な影響を与えた詩人はいない。いや、単なる影響というレベルにとどまらない、生涯、自らの存在の奥底を、他者の目で見つめさせてしまった宿命的詩人だった。

現代詩人の中では西脇順三郎も最もエリオットに接近した詩人であったが、それは当時西欧の最先端のモダニズム文学を、日本人として初めてコスモポリタンの位置に立って実作し得たという歴史的意味において意義深く、その後の西脇詩は東洋回帰を見せながら、東西を越えた世界文学の領域へ遥か高く上昇し遠い旅人となってしまった。それはある意味「歴史」という概念が基底としてあったからこその話である。

しかし西脇より一回り若い鮎川信夫は、モダニズム、特にエリオットの吸収において、西脇とは逆に、自己の内面へ内面へと下降する形をとっている。それはエリオットが示した人間存在の「個」の否定が、国家権力の手でただの一兵卒としてしか存在価値のないまま戦争へと駆り出される身となった詩人の「現実」として差し迫ったものであったからに違いない。もはやここでは「歴史」はない。脱出口はなくなった。おれたちはみな廃墟の地で永遠に牢獄にいれられている。鍵はどこにもない、どうすればいいのだ、と。これにエリオットは答える。

 

「廃墟の塔のアキテェヌの君

これらの断片でぼくはぼくの廃墟を支えてきた

それならおっしゃるとおりにいたそう。ヒーロニモはまた狂いだす

ダダ。ダヤドヴァム。ダミヤタ。

    シャンティ シャンティ シャンティ

 

まさに最後は狂気しかない。鮎川の世代にとってこの「荒地」の最後の行はどれほどリアリティがあったかは計り知れない。少なくとも鮎川は決して狂わなかった。その超人的な現実認識力によって、この狂気の問題を、抽象的な文学的理解として片付けず、自身の根本問題として受け止め、戦後も一貫して最後の詩が書かれるまで、「理性」の限りをつくして語り続けた。しかし、はじめからこの領域にメスを入れ続けることは、自ら狂う以外には、中断と逃避を余儀なくされてしまう。

 

これが罰か、太陽と海を呪ったことの? たった一度の空想の罪にしては、酷すぎる

 報いではないか!

 必死の思いで、前方の真っ暗闇を凝視するが、もう何も見えぬ。

 叫ぶ、が、声にならない。ぴったり浪に包囲されて、

  (註 「もう」の二文字に傍点あり)

 

 この「、」で終わる最後の未完の詩「海の変化」は、多くの詩人が触れているが、シェイクスピア「テンペスト」中の妖精エアリアルの歌からくる。エアリアルは狂気の妖精である。ここで鮎川は詩をやめ、その後は政治や経済に関わるコラムニストとして数年だけ生きるのであるが、私はこれを読んだときに頭をよぎったのは、話がまったく変わるようだが、自分は現実に国家に守られて詩を書いている、「アメリカ」に守られて詩を書いている、ということであった。そして平和(シャンティ)に暮らしている自分が住むこの現代日本は、皮肉にもエリオットの「荒地」を全身で引き受けた詩人にとって、最後の救済であるはずの、狂気の世界なのである。

そうか、私が生きているこの日本は、確かにその様相を呈している。得体の知れないことが毎日のように起きている。私自身も得体が知れない。誰だお前は、なんで詩を書いているのだ、そうした戸惑いの中で、エリオットの答えと、それをさらに問い詰めた鮎川の未完の詩は、いま、現実の底から浮かび上がってくる。

しかしもう私の力ではここまでが限界である。確かに私たちは何かごまかして生きている。まだ現実認識力が足りていないということを知るしかない。まだ夢を見たいと願っているわけではないが、今しばらく、この問題は棚上げにする必要がある。これ以上先走ると痛い目にあいそうなのだ。その恐れですら、鮎川信夫は承認してくれている。

 

赦すというのは

 誰にでも許された特権で

 赦さなければあなたも赦されはしないだろう

 それがこの世の習慣である

               ――「いまが苦しいなら」鮎川信夫

 

                         (09.09.29

 

4.「死者の視線」

 

「『死人のように』-僕はこの言葉を忘れぬようにして、芸術家はまづ死人でなければならないといふことに従って生きていた。」(「戦中手記」)

 

怒られるかもしれないが、鮎川信夫の詩を読み始めてからずっと感じることは、素人的な詩だな、ということである。これはあくまで印象の問題で、その実は全く逆なのであるが、正直に言えば、そうなのである。と同時に、詩人の視線の近さも感じる。私をじっと観察し、自由な想像を許さない。かといって決して緊張を強いられるものではなく、極めて優しい視線なのである。それが親近感を呼び起こす理由だと思うが、なぜだろうか。

このことは鮎川の膨大な詩論を読んでみると徐々に理解できてくる。特に詩人が戦後詩の口火を切る直前、一九四五年二月から三月にかけて傷痍軍人療養所で書かれた「戦中手記」は、その後展開される思想の原形が詰まっている。学徒兵として戦地に赴き、かろうじて帰還した者として、死んだ友たちの魂をいかに背負って生きていくか。多くの者が無言のうちにやり過ごさなければならなかった問題を、鮎川は知識人の宿命として、言葉の先端を切り開く詩人の誇りにかけて、言語化していくことを自らに強いる。

「僕にとって思想が甘美なものであるといふのは、自分一個の単なる創造ではない。―君の目にみえざる協賛と多くの友人たちによって教えられたものだとの啓示によるからである。思想は遊びではない。」(「戦中手記」)

先ず、重要なのは、私がいま、のんきにコーヒーなどを啜り、この痛苦に貫かれた手記を、何らその痛みを経験せずに生きながら読み、「分かってきたぞ」などと嘯いていることに疑いをかけることである。そして、この自分への懐疑、知への懐疑、さらに詩への懐疑が、実に二十世紀以降現在までつづく、知識人全般の不可避の陥穽であることは言うまでもない。ならばどうすればいいのか。過去は忘れてしまえばいいのか。

すでに戦前から、現代における詩人の存在意義を転覆させたT.S.エリオットの思想の核を見定めながらも、当時名だたる詩人たちが戦争翼賛詩を書いているのを尻目に戦場へ向かわざるを得なかった若き鮎川が戦後に選んだ道は、生涯、詩の力を疑いつづけて詩を書くことだったに違いない。それゆえにその詩は必然、無名な者の、「詩人」以前の、先に思わず素人的と述べてしまった詩となって現れたのではないかと思われる。しかし、

「大きく見ひらいたうつろな眼の/おとろえた視力の闇をとおして/朧ろに姿を現すこの髭だらけの死者は誰だろう」(「耐えがたい二重」)

 この死者の視線が一貫して背後にある。これは詩人自身の視線であるとともに、戦場で死んだ多くの友たちの視線であり、実は我々自身の鏡の中に隠された視線である。そしてこの一見冷酷な真実を透視する視線は、私たちが自分ではわけがわからず不安に苛まれているその理由の在り処を指し示してくれることで、強く温かい。私たちが生きなければいけないこの世界と、私たち自身の欺瞞性を、詩人はいまも正確に見据えているのである。09.09.22



 

3「二重の生を生きる」

 

「いつまでも不幸のままで/生きることを学ばなければ」(「幸福論」)

「世界を写す鏡に/何も映っていないときには/わたくしの顔が映っているのである//

子のいない冷たい歓喜に/すこし歪んだわたくしの顔が」(「父」)

「だが、愛する時間を奪われた/その空白がどれだけの負担になるかは/誰にも分からな

い/最も深く嘆いている者にとっても」(「ジョン・レノンの死に」)

ここに挙げたのは鮎川信夫の最後の詩集「難路行」の中の詩の最後の部分である。これだけではない。この詩集のほぼ全ての詩群が、上記のように、もうこの先には一歩も踏み出せない、決定的な言葉で終わる。そして読者の前に己と世界の醜さだけが当たり前のように差し出される。なぜこのような詩が書かれたのだろうか。鮎川信夫の愛読者、あるいは研究家であれば、ここに至った謎を軽く解くことができるであろう。しかし初心者である私は、まずこれらの詩を読み、ショックを受けるとともに、僭越ではあるが、親近感を覚えずにはいられなかった。これらの詩群が1978年~82年に書かれたにもかかわらず、いま書かれているのではないかという錯覚に陥ってしまった。

鮎川信夫という詩人は、戦後から現在までつづく日本人の精神の核を捉え続けた、類を見ない倫理の詩人だったに違いない。恐らく、詩人として言ってはならないこと、言い換えてはならないことを死守する潔癖性が、こうした詩行を生む土台となっている。そのことはつまり、すべてをチャラにしてしまい、何をどう言おうが構わない、そうすることで楽になってしまいたい、という強い欲望を持つもう一人の、“人間的な”自分と戦い続けながら生きているということである。その困難な二重の生を生きるためにこそ、あの強靭な詩論群が必要だったとも思える。これは戦後の出発時から、いや戦時中から一貫していることが、いま全集を読んでいて分かってきた。この鮎川の詩に対する姿勢を、ヴァレリーのテスト氏の近代と前近代の狭間の精神的危機に照らしたり、日本の近代詩以降の伝統なき伝統を引き受けた詩人の精神と言う人もいる。それはそうだと思う。

ただ私が親近感と言ったことはそれほど大それたことではない。戦争も知らず、1980年前後といえば、松田聖子の、それこそ「四季派」的歌詞に舞い上がっていた少年だった私などには、そもそも鮎川の詩や詩論は到底理解できない厳しい認識で書かれている。しかし誰もが大なり小なり二重の生を生きて煩悶しているのではないか。それは極端に言えば、詩のない生と詩のある生の二重の生と言い変えても良いかも知れない。そしてどちらかを捨ててしまおうかという岐路に立つとき、鮎川の決定論的な、ある意味残酷な詩は、逆説的に大きな「慰め」となってくれる。なぜなら、それこそが人生なのだ、と明確に指し示せた詩人は他にはいないからだ。おそらくこのように考えているのは、私だけではないはずである。

 

「触れ合うたびに遠くなる/ぼくらはみだらな存在だ/きみの花柄のパンティを脱がせるためだったら/・・・・・詩なんかいつだって捨てられるさ」(「ミューズに」)

 

この「・・・・・・」に戦いの痕跡が隠れている。しかしまだ読み始めたばかりである。さらに読みすすめなければいけない。(09.09.14

2 「現実に対峙する」

「詩人は世の呻きと悲しみと嘆きとの外に出ることは出来ない。

-鮎川信夫「現代詩とは何か」

 

ずっと敬遠してきた詩人が鮎川信夫である。多少なりとも詩を書く者にとって、必読であるはずの大詩人を読まずにきたのは、私の詩に対する態度、人生に対する態度が未熟だったからに過ぎない。遅ればせながら読み始めた。

個人的なことをまた述べると、前回も挙げた金杉剛との出会いは、彼が18歳、私が19歳の時で、お互い他に詩を書く友人がいなかったためか、すぐに意気投合した。しかし、詩への態度は違っていた。彼は当時、森川義信の詩集をいつも鞄にいれていた。私は立原道造だった。これだけで違いは明確である。若い詩人にありがちな、夭折への憧れが互いの自負を支えていたものと当時思ったが、議論は噛み合わない部分が多かった。それもそうである。今思えば彼は死に「憧れ」て詩を書いていたのではなく、常に病弱な体で死を「生き」ながら詩を書いたのだった。彼の中では常に「死」=「現実」=「詩」であった。私は、「死」=「夢」=「詩」であった。まったくおめでたい。

その縁で知った森川義信は、誰もが知る鮎川の代表作「死んだ男」の中のMであり、戦後詩はここからはじめられたことは言うまでもない。もちろん他にも田村隆一がいる、黒田三郎もいる、北村太郎もいる・・・・と挙げればきりがない。実はこれらの「荒地」の詩人を、私は友人のお陰で比較的多く愛読してきた。どの詩人も「現実」「死」と向き合う詩であったが、どこかに美的な修辞法が混ぜこめられていて、その言葉の表層性に目が眩んでしまう。しかし鮎川信夫の詩と詩論にはそれがない。どの詩にも「現実」に直接触れるざらっとした感覚があり、詩論は「現実」を切開する論理の強靭さがあり、その欺瞞のなさは、夢見がちな私を遠ざけた。

つまり詩が「憧れ」から「現実」の所産へと私の中で少しづつ変化してきたと言うことなのだが、ならば今は現実も非現実も境界がない時代だ、と笑われるかもしれない。むしろ非現実の世界にこそリアリティがあると。しかし、それは私たちがそのように感じるシステムの中で生かされているという認識がないだけだと思う。昨年秋に起きた世界同時不況はそれを露呈した一つの現象である。

 

「詩の言葉は、重たい靴をはこぶ『現在』というものに執着する。もし『現在』に対して、何らの感性的変化も知的変化も与えないような詩は、すぐれた詩とは言えない。」(同上)

 

「現在」とは、いま、ここ、の「現実」のことである。これから恐る恐るではあるが、この巨人の詩を自分なりに読んでいきたい。(09.09.07)

 

1 「約束」

詩がなければ生きていけない。本当か嘘か。苦労知らずの夢想的人間の戯言か、単なる感傷か。または底の浅い詩人気取りのポーズか、卑怯な現実逃避の精神の表れか。あるいは本気か。常に堂々巡りになる問題だ。一体なぜ、何のために詩を書くのか。

 詩ほど実際的でないものはない。七年ほど前に十代から三十歳になるまでに書いてきた詩を「壜の中の炎」という詩集にまとめたとき、これで詩は終わりだと考えていた。私にとって詩は、甘い青春の中で育まれたモラトリアムの魂の残骸でしかなかったから、一人前の大人として生きていくためには、詩は邪魔なものになるという認識があった。いや、もしかしたら片手間に詩を書き、軽々と生きていけるのではないか、とも思っていた。

 しかしその考えは浅く甘いものであった。時代も時代かもしれないが、三十半ばで職を失い、今できることは、僅かな理解に支えられながらも、詩を読み、書くということだけになった。もはや自分の内面には病根のように詩が深く根をおろしてしまっていることに気づく。全く自分を客観視できていなかった。若さとはなんと恐ろしい誤算の連続と自己欺瞞に満ちたものなのかと今更ながら思う。 

「かくて過ぎし日より立ち去った私と/私から立ち去った過ぎし日は/たぐりよせる音信もないまま/いつのまにか終わってしまった/もののように/くらい所から面(おもて)をあげてみる//今 空に告げる何ものもなく」(金杉剛「胸・連続する途上」から)。

 

 これは青春の頃からずっと詩を書き合ってきた無二の親友の詩の一節だ。十代ですでにこのような詩を書いていた。本物だった。彼は三年前に三十一歳でこの世を去った。お互い一度は詩を捨てようと、様々な道を模索したが、やはり手放せなかった。そしてこれからはまっすぐに書いていこうと確認し合った。その矢先であった。

 いま重要なことは、私は生きている、ということだ。そしてどのように生きるべきか、ということだ。親友との約束を果たすためにも、誤魔化しは許されない。これからこの場を借りて、一度封印しようとした、真に詩を生き抜いたと思う詩人たちをたずね、本当に詩がなければ生きていけないのかを問うていきたい。(09.09.01

 

*なかむら たけひこ 1973年、横浜生まれ。2003年、詩集「壜の中の炎」。2010年、詩集『生の泉』。(ともにミッドナイト・プレス刊)