中村剛彦の「甦る詩人たち」

*中村剛彦の「甦る詩人たち」1から37まではこちらで読むことができます。

38.最終章「詩人にとって「死」とは何か」(上)

 

共同体はつねに非人間的であり、それもかならず人間以下である。それはついには、生きた血液が流れず無知覚なるが故にもっとも危険きわまる暴君となる。

      ――DH・ロレンス『黙示録論』福田恆存訳

 

 

 「死」について、いかに私は語ることができるのか。前回述べた立原の詩における「死との遊戯性」にまで到り、またしても立ち止まらなければならなかった。なぜというに、これまで私はこの連載で多く「死」を語りながら、依然として「死とは何か」を正面から問うていないからである。当然ながらそれは「生とは何か」、「人間とは何か」、「神とは何か」、「狂気とは何か」、そして何より「詩とは何か」というこれまでに私が問うてきた問いへと全方位に裏返されてしまう極めて回答困難な問いである。しかし3月11日の「あの時」に見た、言語に絶するあまたの「死」の映像を「見入って」いた私の心性が、どうしてもこの問いへと駆り立てるのである。どこまで答えが得られるかは分からないが、最終回ゆえに挑もうと思う。

 その心性、「死」を「見入る」心性は、私が立原道造を「形而上詩人」として捉え、すでに「死者」の詩としてそのソネット群を見極めることへ通じている。その是非は、私が「死」をどのように捉えているかによって分かれていくだろう。例えば、その「形而上詩人」の「形而上」=metaphysical」(超現実的、非物質的)なるものが「死」となぜ結びあうのかを考えるとき、「形而下」=physical」(現実的、物質的)なる世界はすなわち「生」の世界なのかというと、話はそれほど単純ではない。いやむしろ逆に単純化して考えてみれば、立原道造が「死者」として詩を書いた、などと言うこと自体ナンセンスで馬鹿げており、当然ながら詩人は「形而下」=「physical」(現実的、物質的)に生きていたからこそ、詩を書き、私たちがそれを読むことができるのである。つまり「形而上」=「metaphysical」という概念自体を「死」と結び付けるなら、それは明らかに「形而下」=「physical」に生きている「生者」が、未だ誰も知ることができない「死後」の世界を語るために作り上げた何らかの宗教的な超越的世界として考えるしかなく、立原道造をあわや「宗教詩人」と見なしてしまうことになりかねない(この点、前回ソネット形式を恋愛詩から形而上詩へと昇華させた詩人として挙げたジョン・ダンはカトリック信者であり、その詩群の中心は宗教詩である。立原はキリスト教徒ではないが、ソネット形式や中世ヨーロッパの「歌物語」形式の模倣には、明らかに立原の中に西洋キリスト教文化の「形式」への憧れがあったことが伺える。立原が残した文章で珍しく直接カトリックに触れた文は以下である。「大寺院のアーチの下で、ちひさいベンチに腰かけて、歸つて來ない愛人をいつまでも待つてゐたい。そうしてふたりで、神に祈つてゐたい。もし何のとがめも思はないならば。カトリツクの夢のやうなさびしい世界で、下僕(しもべ)になつて生きてゐたい。生き物のやうに。」(「いろいろなこと(三)☆拱廊」、「未成年」第6号、昭和11年5月号)。この点をさらに掘り下げれば、近代日本におけるキリスト教の影響がいかに詩に齎されているかという一大命題が浮かび上がるが、これは後に「四季」派の問題と重ねて触れられたらと思う)。こうした観点からすれば、やはりキリスト教を含め何らかの宗教への信仰を持たない者にとって、立原道造は「死者」として詩を書いた「形而上詩人」である、などという私の発想は理解を超えており、特に文学や哲学にさほど興味のない者は大方の場合「死んでしまえばすべては終わり」と考え、「形而上」も「形而下」もないのだというのが一般的であろう。

 いやむしろ文学や哲学、さらには芸術一般に造詣の深い者、特に詩などを書く者に至っては、この「形而上」なる概念に嫌悪を催す者も多くいる。哲学分野における「形而上学」=「metaphysics」にしても、今ではその存在意義さえ疑われている。ここで西洋における「形而上学」について極めて大雑把に言えば、元を辿れば古代ギリシャのプラトン、アリストテレスにまで遡り、おおよそ中世まではトマス・アクィナスなどのスコラ学、つまり「神学」であった。しかし近代以降は「自然科学」=「physical science」の発展にともない、デカルト、カントなどによって「神学」としての「形而上学」は非論理的であるとして批判され、さらに19世紀にニーチェによって「神」の存在否定に至ったが、その「永遠回帰」の思想はやはり「彼岸」の領域を維持しており、「形而上学」の否定にまでは至らなかったと言える。

 しかし19世紀末アメリカでパースらとともにプラグマティズムを提唱したジェイムズによって別の視点が導入される。ジェイムズによれば、もともと「形而上学」は唯理論主義と経験主義とに分かれており、前者は「神」、あるいは純粋な観念を崇拝、賛美する傾向をともなっており、プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、スピノザ、ライプニッツ、さらには近代以降のデカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェといった哲学者たちはこれに属するとされる。後者についてはその名の通り経験、事実を重んじ、科学的思考で「真理」を導こうとするもので、ソクラテスからはじまり、ロック、バークリー、ヒューム、ベルグソンといった哲学者がこれに属するとされる。ジェイムズはプラグマティズムの思想家であるゆえ、当然後者に属する(「哲学の根本問題」『世界の名著59 パース・ジェイムズ・デューイ』(中央公論社、昭和59)所収)。

 もちろんジェイムズ以降の現代思想の流れの詳細を突き詰めれば、このようにざっくりと二分されるものではないであろうが、哲学について素人である私の見方では、今日における哲学・思想の潮流は明らかに後者の発展形であって、コンピューター技術や情報理論、分子生物学等の発達によって、「形而上学」は数理処理を駆使した「システム論」や「ニューサイエンス」などの科学諸派に取って代わられたと言える(特に20世紀以降の宗教と自然科学の統合の変遷については、鈴木貞美『生命観の探求』(作品社、2007)で総覧できる。またデカルト以降の西欧におけるキリスト教神学については、中井久夫『西欧精神医学背景史』(みすず書房、1999)が中世以降の哲学史と精神医学史を参照しつつ、現代における神学と精神医学の統合までの変遷を簡潔にまとめているので参照されたい)。

しかし実はこの「形而上学」の衰微にはかなりの議論を巻き込む必要がある。というのも端的に言えば現代に生きている私自身が、「詩」を読む理由として、どうしても現代の科学的、あるいは精神医学的分析では把持できないもの、底知れぬ人間精神の不合理に満ちた「闇」が私自身の中にぼんやりと口を開けているからである。そしてその先にはまさに「死」が待ち受けている。私はかつてそこからの脱出を何度も試みようと、プラグマティズムも含め随分と読み漁ったが、結局帰る場所は「詩」でしかなく、哲学で言うならばやはり「形而上学」でしかなかった。そしてその「闇」を見つめる詩人や哲学者を求め、バタイユ、アルトー云々と辿って突き当たるのがハイデガーであった。以下に少しその「形而上学」について、立原の詩の理解においても重要と思われるので触れてみようと思う。

 

 

 ハイデガーはその『形而上学入門』(川原栄峰訳、理想社、1960)でそれまでの「形而上学」にジェイムズとは全く違う新しい視点を導入したといえる。例えばその導入部でこう述べる。

 

 『自然学』(フユジク)は初めから形而上学(メタフユジク)の本質を規定している。存在をactus purus(トマス・アクィナス)として、絶対概念(ヘーゲル)として、あるいは同じ力への意志の永劫回帰(ニーチェ)として説く存在論においてさえ、形而上学(メタフユジク)は依然として『自然学』(3文字傍点付す)である。

(訳者註:actus purusは純粋現実態のこと。質料を少しも含まない純粋(2文字傍点付す)な現実態。トマス・アクィナスはアリストテレスにならって、これを神とした。)

 

 このように長い歴史を刻んできた「形而上学(メタフユジク)」を「自然学(フユジク)」であるとして否定する。ならばジェイムズ以降のように科学的合理論の方向へ行くかといえばそうではない。むしろ今日の「形而上学」は「なぜ一体、存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないか?」という問いから発せられ、常にその「問い」に立ち返る学問であるとする。そしてこの「存在者」が「無」から「自己を開示」し、「現存在(人間)」に到るまでを詳細に論ずる。ただしこの「存在者」とか「現存在」だとかの区別は一体何だろうか、これも極めて抽象的で非論理的ではないのか、と思われる。

 リルケ解釈においてもそうであったが、ハイデガーの思考方法は「語」それ自体を切り分け、常に語源にまで遡り、「語」の派生史の上に現代の「形而上学」を構築する。なぜなら科学的思考であろうと非科学思考であろうと、すべては「語」=「ロゴス」=「理性」によって記述されるのであるから、これらはすべて「自然学(フユジク)」であって、この二項対立そのものを生み出す「語」=「ロゴス」の源まで降りなければ、真の「形而上学」は生まれないからである。

 とはいえハイデガーのその思考は難解を極めている。例えばその「存在者」の定義にしても、以下のようである。

 

 たとえば、この一本の白墨において、存在者とは何か? 既にこの問いが両義的である。というのは存在者という語は、ギリシャ語のto onという語と同じように、二つの観点から理解されうるからである。一方では、存在者は、そのつど存在的であるところのもの(6文字傍点付す)、個々の場合でいえば、この灰白色の、これこれの形をした、軽い、折れやすい塊、を意味する。また他方では、「存在者」は、いわば当該のものが一つの存在者であってむしろ非存在的であるのではないように「させている」ところのもの、すなわち、存在者が存在者である場合、その存在者において存在を構成しているもの、を意味する。

 

 このようなハイデガーの執拗な「語」分析をここで網羅することは不可能である。よって一点のみ私が立原の詩と関連すると思える部分のみここで要約してみる。

ハイデガーはソフォクレスの「アンティゴネー」の冒頭のコーラス「無気味なものはいろいろあるが、人間以上に無気味に、ぬきんでて活動するものはあるまい。」という詩句を引き、この「無―気味(ウム―ハイムリヒ)」なものが、古代ドイツ語で「無(ウム)」+「故郷的(ハイムリヒ)」であることに着目する。ハイデガー用語で人間のことを「現存在(ダー・ザイン)」とされるが、これは「所(ダー)」+「ある(ザイン)」である。よって、この「現存在(ダー・ザイン)」(人間)は、「故郷的(ハイムリヒ)」なものから脱して、「無―故郷的」=「無―気味(ウム―ハイムリヒ)」なものになることになる(ちなみにこの「無(ウム)」が訳語として分かりづらいが、ドイツ語でumの付く語は、その意味が回避、移動、転倒、消失を伴う前綴である。例:umsiedelnの意味は「移住する」である(インターネット翻訳サイト「excite翻訳」より))。

 ハイデガーはここでさらに厳密な考証を重ねていくが、最終的に「現存在」は「無気味」なものとなって「難破」するとある。この「難破」とは「死」を意味する。ただ注意すべきはここでハイデガーは単純に「生」→「死」という単一の時間軸のベクトルを示していない点である。

 

 人間は絶えず、そして本質的に、逃げ道なく死に対しているのである。人間がある(2文字傍点付す)かぎり人間は死という逃げ道のないものの中に立っている。このように、現―存在とは生起する無―気味さそのものなのである。

 

 つまり「死」が最終地点にあるわけではなく、「現存在(人間)」は死にながら生きている、まさに「無気味」な存在だということである。ここに以前述べた立原の「生」と「死」の「中間者」の認識が重なってくる。

 あまりに簡潔に難解なハイデガーの論理展開を要約したので当然抜け落ちている部分は多いが、私の理解では要するにハイデガーによってはじめて「生」と「死」が二重化されたと考えている。つまり「形而上」=「神の世界」=「死後の世界」、「形而下」=「人間の世界」=「生の世界」という区分は取り外されたということである。しかし「故郷的(ハイムリヒ)」なもの、とは一体何であるのかは、この書では明快には述べられていない。ただ「土着的なもの」、「住み慣れたもの」、「普通のもの」、「危なげのないもの」とある。これを単純に「起源」と名付けてよいかどうか。前に述べたところのあの保田與重郎が日本民族の「起源」とみた「記紀万葉」の神々の住まう世界と類似する思考であるのか。

 ここで「ロゴス」についてもう少し説明を要する。ハイデガーは「人間を非土着的なものへと移し置く」ものが「ロゴス」であるといった。この「ロゴス」なくして存在は開示されない。すなわち「ロゴス」=「理性」の力によって、人間は「暴力―行為的な者」となり、「無気味」なもの=「死」を「生き」ている。この「ロゴス」の発生がプラトン、アリストテレスによるギリシャ哲学のはじまり、そして「歴史」のはじまりであり、人間が「歴史的現存在」になったとも言っている。そしてその「はじまり」は実は「原初的な終末」であって、また「ロゴスはキリストである」とまで書かれている。ここまで来ると頭が混乱してくるが、やはりハイデガーは「起源」的な何かを必要としていることは分かるのである。ここに保田的な「起源」回帰が重なるのであるが、ハイデガーは結局ここでは「ロゴス」以前のものは語ることが不可能として「無」としか述べていない。そして最後に、「現存在(人間)」は「歴史」の中で「立っている」のではなく、「よろめいている」と述べる。「形而上学」とは、その「よろめき」つづける「現存在(人間)」とは何かを確かめるために常に「無」を「問い」続けるものだという。

 おそらくこの「無」に立ち返る「形而上学」は、先に述べた「形而上」も「形而下」もない、「死んでしまえばすべて終わり」というごく常識的発想をも取り込むものと見てよい。

 しかし現在ハイデガーを語る時に必ず持ちあがるのが、あのアウシュビッツから生還した詩人パウル・ツェランである。「現代詩」を書く者にとって、いくらハイデガー哲学が周到であろうとも、ナチズムに加担したという事実において、その哲学は破たんせざるを得ない。むしろ戦後に「詩人」ツェランがなぜにハイデガーのもとを訪れ、そして何を二人は話したのかが焦点となる。ツェランがハイデガー訪問を機に書いた詩「トツナウベルク」の解明を含め、この問題は今では一時ほど多くの議論を呼ばないが、今でも重要命題である。なぜならホロコーストという「経験」によって癒えぬ「狂気」を刻まれたツェランの詩が、たとえツェラン自身が意識的にマラルメの述べた「世界は一冊の書物に到達する」という、「形而下」のあらゆる事象を詩語の象徴作用によって「形而上」へと繰り入れてしまう旧詩学の全体性を無効化し、ひたすらに言葉の意味・象徴作用をはぎ取り、あたかも己の内的経験、内的現実の、ただ一回限りの、「いま―ここ」の、「誰でもないもの」の詩を刻みつづけたとしても、ハイデガーの『形而上学入門』に示された、「無」から「現存在」が「ロゴス」の力によって「無気味」なもの=「死」へ到達するという存在把持の方法にどうしても内包されてしまうと私には思われるからである(ちなみにハイデガーは1933年にナチ党に入党しているが、上に挙げた『形而上学入門』はその2年後の1935年に行われた講義が基となっている)。私にとってこの問題は未だ思案中でありこれ以上ここでは触れるつもりはないが、少なくともハイデガー哲学はツェラン以降の「現代詩」をも圏内に引き入れる恐るべき哲学であることは間違いないように思われてくるのである(このハイデガー/ツェラン問題についてはハンス・ゲオルク・ガダマー『詩と対話』(巻田悦郎訳、法政大学出版局、2001)で詩「トツナウベルク」のテクストに則り丁寧に分析されているので参照されたい。また「いま―ここ」の、「誰でもないもの」という表現は、ジャック・デリダ『シボレート』(飯吉光夫、小林康夫、守中高明訳、岩波書店、1990)による。この二書は私の知っている限りのツェラン評では傑出しているので読まれたい。またこのツェランと鮎川信夫等の「荒地」の詩人たちとの類似性も当然考えられるが、いまは論がずれるので別の機会に譲る)。


 

 ではその「形而上学」を構築したハイデガーはなぜナチスに協力したのか。もしそれが現在をも呪縛している哲学と見立てるならば、「現代詩」もまた同じ過ちを犯す恐れがあると私は見ているのか。もはやそこからは抜け出せないのか。例えばフーコー的思考に倣って、「歴史」なるものは連綿と続いているのではなく、時代時代によって断絶しており、「存在」を問う「形而上学」も、「人間」という概念が存在する現代の学問に過ぎない。「人間」が消えれば、そのような「現存在(人間)」を問う「形而上学」も消える。むしろそうした「無」から「存在」を問うところに、あのファシズムの「ロマン(浪曼)主義」の「死の賛美」が忍び寄ったのではないのか、と思えてくる。

 間違いなくその通りなのである。しかし繰り返しになるが、そのようなあらゆる哲学的思弁を、「詩」は打ち破り人間精神の最奥を揺さぶるのだとしか言えない。もっと簡単に言えば論理的に「正しい」とか「間違っている」といった判断を打ち破り、精神の内の「闇」でとぐろを巻く罪悪と狂気と欲望の混沌を噴出させるのである。これは私の勝手な解釈であるが、徹底して「理性」=「ロゴス」によって抑制されたハイデガーの内に眠る「詩」が、ナチズムの「ロマン主義」に揺り起こされてしまったのだとしか今は言えない。

 要するに「詩」は常に両義的である。ときに瞠目すべき純粋無垢な美しさを示せば、恐ろしく残忍な姿をも示す。当たり前のことを今更言っているようだが、とかく思弁性に頼り過ぎると、知らぬ間に「倫理」的思考に支配され、この「詩」の本性を見失う。立原に戻るならば、その「形而上詩」の両義性については晩年に政治的「ロマン(浪曼)主義」の姿を示しつつあったことは以前述べた通りであるが、そのことは立原の最も近くにいた詩友、杉浦明平も知っていた。

 

 それではその反動性とは何か?

 それは大戦前夜の日本のインテリゲンチアが共通してもつた特性である一つの諦念、それから社会的政治的圧力によつて推進せられた日本主義への陥没、を指すのである。すなわち、批判精神の喪失と、催淫剤的興奮を基礎とする「神話」的行動への転落、もう一度言いかえるならば、日本浪曼派とのつながりである。われわれの国だけでなくわれわれのロマンチストの本家たるドイツにおいても浪曼派の反動性はハイネによつて極めて見事に批判された所であり、かつそれはナチス・ドイツとの渾然たる融合を示したこと、あの当時いたるところのジヤーナリズムの上でチンドンさわぎ立てたあのがらくたドイツ文学の紹介に悩まされたわれわれのいまだ忘れえぬところであろう。ナチス第五列の親衛隊長芳賀タン(ママ)などを引合いに出すのは名前を記すだに穢ならしいような気がするのであるが、立原の詩にはその穢ならしいものがまじりこんでいるから、どうも仕方がない。芳賀によせた幾篇かを人は彼の詩集のうちに見出すことができよう。

「神話」とか「決意」とかいう句が晩年の手紙のいたるところに見出され、ヒツトラーの臭い、或はその国産代用品たる保田のより汚穢なる臭いが多少しみこんでいるように見える。そしてそれは詩の中にさえしみこんでいる。(中略)立原の作品はそういう暗黒なる世界にうごめく民衆のため息のような感じさえする。彼らは明るい明日の方へ向わないで、「死」や「夜」や「思い出」や「心の奥」やにあこがれ、月光の蒼白い光にだけ輝く。多少ガラス玉にも似ていないではない。しかし今日から後の詩人はそうであつてはならぬ。生き生きとした明日に向い、さんらんたる昼の光に耐える歌を歌わねばならない。そうゆう人こそ立原の本当の後継者であり、われわれの詩人と呼ばれるであろう。

                  

 これは1947年に書かれ、1950年に発表された文芸誌「南北」復刊号の「立原道造の進歩性と反動性」(「国文学解釈と鑑賞」別冊「立原道造」、至文社、2001に再録)からの引用である。杉浦は戦後に記録文学の書き手として身を立てたが、ここではその客観視点よりも、個人的な友情関係もあってか殆ど「怨念」に近い激情を感じる。もちろん立原の「進歩性」についても述べられ、特にその音楽性について、「彼は遂に国語に音楽をあたえたのだ、無限のひろがりと展望をもつ処女地に新しい路をひらくことに成功したのである。本当の意味における近代詩はここから始まらねばならない。」とある。つまり杉浦も立原の詩の両義性は認識しているのである。

 では杉浦が「汚穢なる臭いが多少しみこんでいる」という立原の「晩年の手紙」とはどういうものか。角川版全集第5巻で多く見ることができるので、以下、昭和13年2月上旬(想定)のものを引く。

 

 形而上學が 僕に ひとつの滅形を教へた、無といふ言葉は おそらく 僕の血にとつて諦らめ(3文字傍点付す)といふ言葉ほどに 理解された。カルル・ハイダアといふ 十九世紀の畫家が描いた繪に「諦らめ」といふ繪がある。灰色の雲が背景の空に うづたかく 積みあげられてゐる。遠景には 暗い針葉樹林がかぎりなくつづいてゐる。そして前景には 葉をふるつてゐる木の下に 伏せた本を膝にのせて ひとりの寡婦が ものをおもつてゐる、繪である。僕は、寫眞版のその繪を見たとき、突然、何かを告白したい欲望を感じた。すなはち 僕の「無」の理解について、あるひは 僕の「故郷」について――。果たして 僕の經驗が 僕に何かを教へただろうか! 經驗からは 何も學ばなかつたといふ追憶が 僕を訪れることが出來るならば! ここに大きな諦らめ(3文字傍点付す)と 經驗(2文字傍点付す)との日本の血の あるひは 江戸時代の血の 誘惑がある。たたかはねばならない、そして 打ち克たねばならない。ここに 出發がある。

一切の戰ひは 日常のなかで 意味を以て 深く 行はれねばならない。決意した者のだれが 戰列を とほく空想したか! 僕らは すでに戰線についてゐる。

 

 相変わらず意味がよく分からない文体であるが、ここで立原が言う「形而上學が 僕に ひとつの滅形を教へた」の「滅形」が何を意味するかは、この引用の手前で、「孤独が開いている深淵」に「僕は没落する、僕は つひに 君らの奈落だ」とあることから、「無」へと最終的には自己存在が擦り減って行くという、まさにハイデガー流の「形而上学」に類似する思考を示していると言えよう。そして、「僕の『無』の理解について、あるひは 僕の『故郷』について」という言葉も、ハイデガーの「故郷的(ハイムリヒ)」=「無」という存在の開示以前の状態といみじくも一致する。しかしそこからなぜか「日本の血の あるひは 江戸時代の血の 誘惑」へと接続する。杉浦的に見れば、これこそが「暗黒なる世界にうごめく民衆のため息」であり、立原の「ロマン(浪曼)主義」的「反動性」であるが、問題はこの点である。果たしてこれは「間違って」いるのか。


 

 

 実はこの「故郷的(ハイムリヒ)」なものを立原がはっきりと認識したであろう詩がある。

 

 郷愁

 

明るい谷に僕は生まれた

豹としぶきと樺の若葉が

十歳の僕の遊び場だつた

 

歸つて來てはいけなかつた

丸木橋で泡立つ流れに見とれたが

ああ何とボロなことだらう

 

僕は十歳でこはれてしまつた

生れた朝に死んでゐた

それ故僕はあはれな人間なのだ

 

岩よ しづかにしてゐてくれ

僕は今では遊ばないのだ

僕は水に彫らねばならぬ

 

谷が年とり老ひぼれたのか

千年の雲は流れて歸らずと

これが僕の墓碑銘だ

 

 角川版全集第2巻の解説によれば、これは昭和10年4月頃に原稿用紙に書かれたままの未発表の詩である。詩人はかぞえで22歳のときである。この詩の出来具合については、推敲された跡もなく、他の詩史に残るソネット群に比べると極めて粗雑と言えるが、しかしそのような詩においてこそ、詩人の生(なま)の声が聞けることもある。私はこの詩に立原が自らをはじめて「死者」と認識する「方法」意識が、「故郷的(ハイムリヒ)」なものとの把握と同時に示されている点で興味深く読む(そして実にこの立原論のはじめにこの詩人にとって「ふるさととは何か」という問いを立てたままであった!)。

 しかしこの詩を読む際、この「ふるさと」が「十歳」という明確な年によって指し示されていることが妙である。つまりこの詩の場合「僕は十歳でこはれてしまつた」「生まれた朝に死んでゐた」とする「十歳」以前の、「僕の遊び場」、「明るい谷」が「ふるさと」と読める。つまりはハイデガー流の「故郷的(ハイムリヒ)」なもの=「無」といったより存在の「起源」を示すにはこの「十歳」はあまりに具体的過ぎる。なぜこの「十歳」以降、立原は自らを「死者」であると定義付けたのか。果たしてこの「十歳」とは何を意味しているのか。そしてこの「十歳」以前と以降による「ふるさと」の分断は何を意味するのか。

 これは実は年譜を見ればすぐにわかることで、立原が10歳であった年、それは大正12年9月1日、あの関東大震災があった年だということである。立原は大震災の「被災者」の一人であり、自らの生家、つまり6歳で家督を継いだ「立原道造商店」を失っている。以前にも立原家についての概略で述べたが、立原は震災後に千葉県流山(旧葛飾郡)の親戚豊島朋七宅に避難し3カ月ほどを過ごしている。この「郷愁」に描かれた「明るい谷」とはそこのことなのかははっきりとは分からない。もしかしたら被災後に自殺願望さえを抱くようになった極度の「神経衰弱」の療養に赴くようになる奥多摩の御岳のことなのかもしれない。いずれにしても少なくとも立原が10歳のときに大震災によって受けた心身への打撃は計り知れないものであったことは、3月11日を経験した私たちには極めてリアリスティックに推察される。

 だから詩「郷愁」で「こはれてしまつた」「生まれた朝に死んでゐた」という「ふるさと」の風景は、現在で言えばPTSD(心的外傷)によるフラッシュバックによって蘇る「世界崩壊」の瞬間風景と見てよく、それはやがて立原の詩と建築の美学の中心をなす「廃墟」の世界へと通じていく、「死者」による「形而上詩」の起点と見てよい。

 ただここで誤解を招かないように念を押しておきたいが、私は単純に関東大震災の影響こそが決定的に立原のその後の詩に影を落としているのだと言いたいわけではない。問題は立原に刻まれたその「記憶」から、立原が「詩人」へと成立するまでに進んだ詩精神の獲得の「方法」である。私が知る限り立原の詩に直接関東大震災に触れた詩、あるいはそれを暗示する詩は上の詩以外には見当たらない。逆に現代の精神医学的観点では、当事者による記憶の封印作用が行われて、詩の背後にこそ「傷」は刻印されていると言えるかもしれない。だが私はそのような精神作用には殆ど興味がない。むしろ何らかの精神の「傷」があるからこそ詩は存在するという自明の理の上に立ち、見るべき点は、立原が自らを「死者」へと転じせしめる執拗なその「方法」意識である。上の詩だけを見てもそれは伺える。最後の2連、

 

岩よ しづかにしてゐてくれ

僕は今では遊ばないのだ

僕は水に彫らねばならぬ

 

谷が年とり老ひぼれたのか

千年の雲は流れて歸らずと

これが僕の墓碑銘だ

 

 「水に彫らねばならぬ」ものが「墓碑銘」であるというやや無理のある表現は、単に目の前に眺めている川の流れを見入っていたために出てきた偶発的表現であるとは言えない。詩としてはあまり優れた修辞ではないが、その意識のみを辿れば、本来ならば石に彫られ永遠に消えることのない「墓碑銘」を、「水に彫らねばならぬ」と自己規定している姿勢は、明らかに何かの「企図」が込められていると言える。私の解釈では水に指を差し入れ自らの名を彫るという常軌を逸した、いわば「狂気」の行為は、震災以降長く立原の中で曖昧なまま息づいている「死者」を明確に捉えるための「方法」であった。つまり立原にとって「死」とは単なる生命の終焉を意味するのでなく、悠々と浮ぶ「千年の雲」という時間の永遠性と、「水」という常に流れ去る存在の刹那性とに、いわば「形而上」と「形而下」に真っ二つに引きちぎられていく「世界分裂」を意味しており、そしてそれは永遠に一つに結合することはなく、自らは名のない「死者」として消されると、この詩は述べているのである。

 ということは立原の「ふるさと」とは、直接的には震災以前の全世界ということであるが、より正確に見れば、この「郷愁」が書かれた22歳頃以前の世界、つまり立原が「詩人」として立つ「方法」意識をこのような形で獲得する以前とみなければならない。同時に詩としては不完全ながらも、この立原の「死」=「世界分裂」の認識論は、後のあの名ソネット群へとつながる、「生」と「死」の「中間者」の定位に至る「方法論」の完成を示しており、まさにここにこそ、「墓碑銘」を刻んだ「水」が流れつく先の「無」から、震災で消え去ったかつて栄華を極めた立原家の幻影、あの杉浦宛ての手紙に在った「日本の血の あるいは 江戸時代の血」=「故郷的(ハイムリヒ)」が逆流してくるのである。

 要するに立原にとっての「ふるさと」とは、大震災発生の心的衝撃による「世界分裂」の認識獲得によって、ハイデガーの「故郷的(ハイムリヒ)」と同義のものとして認識され、さらに「生まれた朝に死んでゐた」というまさに「無―気味(ウム―ハイムリヒ)」なものへと開示する形で、極めて危険な両義性を抱えた「形而上詩人」となったのである。

 では、このように関東大震災が立原の「形而上詩」の起点であることを知ったとして、果たしてそれは立原がはじめから「単独」に成したことなのかと言えば、必ずしもそう簡単には言えない。なぜならそれ以前に、その存在なしに詩人立原道造は生まれ得なかったともいえる巨大な人物、堀辰雄がいるからである。この「死の作家」と私が前に呼んだ大正、昭和初期を代表する作家がいかにその文学の中心命題「死」を捉えていたかを見出すことで、実に立原の詩の解釈、さらには昭和文学そのものの位置は大きく変わってくる。以下の引用はその堀が作家として成熟した後に、一つの転回点を示した小文の一部である。

 

 私はこんな場末の汚い墓地に眠っている母を何かいかにも自分の母らしいようになつかしく思いながら、その一方、また、自分のそばに立ってはじめてこれから母と対面しようとして心もち声も顔もはればれとしているような妻をふいとこんな陰鬱(いんうつ)な周囲の光景には少し調和しないように感じ、そしてそれもまたいいと思った。いわば、私は一つの心のなかに、過去から落ちてくる一種の翳(かげ)りと、同時に自分の行く末から差(さ)し込(こ)んでくる仄(ほの)あかりとの、そこに入りまじった光と影(かげ)との工合(ぐあい)を、何となしに夢(ゆめ)うつつに見出していた。

 寺男が苔を掃って香華(こうげ)を供えたのち、ついでに隣(とな)りの小さな墓の苔もいっしょに掃っているのを見て、私はもう一度それに注目した。よほどそれは誰れの墓かと聞いてみようとしかけたが、何もいま聞くこともあるまいと思い返して、私はそのまま妻に目で合図をして、二人いっしょに母の墓のまえに歩みよって、ともどもに焼香した。

「これでいい……」私は何(な)んとはつかずにそんなことを考えた。

 

 これは随筆「花を持てる女」(昭和17年8月「文学界」、同年自伝小説『幼年時代』巻末に付される)の冒頭章の一節である。引用の内容から察せられる通り、亡き母親についての回想である。詳しい内容は後述するが、一つ重要な事だけを先に挙げれば、この母親の死が関東大震災によることと、ここに描かれたシーンは堀にとって初めての母の墓参りであることである。特に奇妙なのは、これが書かれたのが昭和17年であるから、関東大震災による母の死からおよそ18年の歳月が経っている点である。堀はこのとき38歳、つまり19歳のときに母親は死んだということになる。なぜ堀はそれほどまでに長い時を経たのちに母親の墓参りを初めてする心境になったのか。それだけの時間を経なければ母親の死を受容できなかったのか。少なくとも一人の人間にとって最も愛憎深い「母」という存在の死は、人生最大の衝撃であることは間違いないが、それが関東大震災による死であることの意味と、この18年の歳月は一体私たちに何を投げかけるのか。

 これを考えていくと、立原を含め「四季」派という昭和初期の文壇に大きな位置を占める文学潮流を創造した堀文学が、これまであまり語られなかった観点、つまり「被災文学」の様相を呈することになるが、そう性急に捉えてしまうのはいかにも今日的な過誤となりうる。先ず大事なのは、上に示したように10歳で「被災」した立原の「形而上学」なるものが、一つの「世界分裂」の認識にまで長い時間をかけて導かれた「方法論」と、19歳で「被災」し母を失った堀辰雄が、立原よりも先に作家として立ち、模倣に近い形で20世紀初頭の最先端文学であったリルケ、プルースト、ラディゲら「ヨーロッパ文学」が孕むキリスト教的「死」の概念と、「今昔物語」などの日本の王朝文学が持つ「死」の概念のパッチワークのごときミクスチャーによって、「形而上」とも「形而下」ともつかぬ横滑りの「方法」でしか自らの「傷」を埋められなかったことの差こそが、これから意味を持つ。

 そうした観点から、上に引用した堀辰雄の「花を持てる女」に戻れば、これが出た昭和17年とは、立原の死の3年後であり(昭和14年3月没)、前年の12月8日には真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発しており、文学者らは戦意高揚のために「総動員」を余儀なくされていたときである。そのような状況下でこの「花を持てる女」が書かれたことを踏まえ、少し詳しくこれに触れる。

 

 

 先にも触れたとおり「花を持てる女」は小説『幼年時代』の巻末に付けられている。これは堀がハンス・カロッサの同名小説『幼年時代』に「何か人生の本質的なものを求めようとしている創作の動機」を見出し、それに倣って書かれたもので、すでに昭和13年から14年にかけて雑誌「むらさき」に連載されていた。しかしこれが父親の死によって中断してしまったため、上の「花を持てる女」他3篇の小品を「ほんの拾遺(しゆうい)のようなものとして附け加えておく」として昭和17年に単行本『幼年時代』巻末に付けられたのである。

 引用した冒頭の母親の墓参りからはじまり、その後その『幼年時代』を中断せしめた父親の死後、親戚からその父親が実の父親ではなかったことを初めて聞かされ、その人が語る内容を頼りに、それまで知ることのなかった本当の父親と母親の若い頃の秘密を綴っていくというものである。このタイトルの「花を持てる女」とは、堀の記憶に残っている一枚の若い頃の母親の写真のことで、少年堀辰雄はそれに「妙になまめいた媚態(びたい)」を感じ、あくまで空想の上で「嫁入(よめい)る前は芸者をしていたのではないか」と考えていた。しかしその「空想」が事実であったかどうかは結局曖昧なまま、実の父親が「広島藩の士族」出で裁判所の書記官という高い地位の妻帯者であったことが判明する。その後実際に実父が妻と離婚し、堀の母親と再婚したかどうかも明確には記されていないが、その実父は若くして死に、その後彫物師の義父が現れたということである。一言でいえば、母親の涙ぐましい苦労づくしの人生を語りながらも、実の父親が別にいたという自らの出生の秘密を絡めて、「人生の本質」を探り当てようという試みである。

 ただこの小品を読むとき、どうしても感じてしまうのはその語り口の歪さである。ある意味その題「花を持てる女」に暗示されてもいるのであるが、一枚の写真の中で花を持つ若き母親の「像」が、どうも実体のない、それこそ「人工」的な精神を抜き取られた「像」に感じられるのである。「人生の本質」を見極めようとして書いたと言いながら、読む者からすれば、むしろ最も大事な「本質」だけが抜き取られている感覚を持つ。例えば、引用の最後の部分、「『これでいい……』私は何(な)んとはつかずにそんなことを考えた。」という表現一つを見てもよい。「これでいい……」とは何がよいのか。まして「何とはつかず」という曖昧な意識表出は何か。もちろん、この表現に言葉には言表し難い作家の心情を読み取ることは可能である。だとしても、このような堀の「文体」には、「本質」が抜け落ちてしまっている観がどうしてもぬぐえないのである。

 実はこれは堀文学全体に言えることで、中心のテーマにある「死」を見つめる堀の視線が、最も核心を捉えそうなところで、突然迂回してしまうところが多くある。例えば名作と呼ばれる『風立ちぬ』(昭和13年)の最後の章「死のかげの谷」における、最愛の妻を失ったのちの表現を少し長めに見てみる。

 

        十二月十七日

 また雪になった。けさからはほとんど小止(おや)みもなしに降りつづいている。そうして私のみている間に眼の前の谷は再び真っ白になった。こうやっていよいよ冬も深くなるのだ。きょうも一日中、私は暖炉の傍らで暮らしながら、ときどき思い出したように窓ぎわに行って雪の谷をうつけたように見やっては、またすぐに暖炉に戻って来て、リルケの「レクイエム」に向っていた。いまだにお前を静かに死なせておこうとはせずに、お前を求めてやまなかった、自分の女々(めめ)しい心に何か後悔に似たものをはげしく感じながら……

 

私は死者達を持っている、そして彼等を立ち去るがままにさせてあるが、

彼等が噂(うわさ)とは似つかず、非常に確信的で、

死んでいる事にもすぐ慣れ、すこぶる快活であるらしいのに

驚いている位だ。ただお前――お前だけは帰って

来た。お前は私を掠(かす)め、まわりをさ迷い、何物かに

衝(つ)き当る、そしてそれがお前のために音を立てて、

お前を裏切るのだ。おお、私が手間をかけて学んで得た物を

私から取除けてくれるな。正しいのは私で、お前が間違っているのだ、

もしかお前が誰かの事物に郷愁(きょうしゅう)を催(もよお)して

いるのだったら。我々はその事物を目の前にしていても、

それはここに在るのではない。我々がそれを知覚すると同時に

その事物を我々の存在から反映させているきりなのだ。

 

 

         十二月十八日

 ようやく雪が歇(や)んだので、私はこういう時だとばかり、まだ行ったことのない裏の林を、奥へ奥へとはいって行ってみた。ときどきどこかの木からどおっと音を立ててひとりでに崩(くず)れる雪の飛沫(ひまつ)を浴びながら、私はさも面白そうに林から林へと抜けて行った。もちろん、誰もまだ歩いた跡なんぞはなく、ただ、ところどころに兎がそこいら中を跳(は)ねまわったらしい跡が一めんに附いているきりだった。また、どうかすると雉子の足跡のようなものがすうっと道を横切っていた……

しかしどこまで行っても、その林は尽きず、それにまた雪雲らしいものがその林の上に拡がり出してきたので、私はそれ以上奥へはいることを断念して途中から引っ返して来た。が、どうも道を間違えたらしく、いつのまにか私は自分自身の足跡をも見失っていた。私はなんだか急に心細そうに雪を分けながら、それでも構わずにずんずん自分の小屋のありそうな方へ林を突切(つつき)って来たが、そのうちにいつからともなく私は自分の背後に確かに自分のではない、もう一つの足音がするような気がし出していた。それはしかしほとんんどあるかないか位の足音だった……

私はそれを一度も振り向こうとはしないで、ずんずん林を下りて行った。そうして私は何か胸をしめつけられるような気持ちになりながら、きのう読(よ)み畢(お)えたリルケの「レクイエム」の最後の数行が自分の口を衝いて出るがままに任せていた。

 

帰って入らっしゃるな。そうしてもしお前に我慢できたら、

死者達の間に死んでおいで。死者にもたんと仕事はある。

けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、

しばしば遠くのものが私に助力をしてくれるように――私の裡で。

 

 

        十二月二十四日

 夜、村の娘の家に招(よ)ばれて行って、寂しいクリスマスを送った。こんな冬は人けの絶えた山間の村だけれど、夏なんぞ外人達がたくさんはいり込んでくるような土地柄(とちがら)ゆえ、普通(ふつう)の村人の家でもそんな真似事をして楽しむものと見える。……(以下略)

 

 堀の「文体」をこの論に収めるためにどうしても長く引用せざるを得なかった。この『風立ちぬ』の最終章におけるリルケの引用は、絶妙と言えば絶妙であり、昭和文学史上に残る名文とも言える。私自身、高校時代に初めて読んだ時には胸に付き上がる「何か」を感じ、「詩」がいかに「救済」であるかを若いなりにおぼえた。しかし、いま読み直すならば、いみじくも堀自身がこの中で述べているように、「それ以上奥へはいることを断念して途中から引っ返して来た」ところで、リルケの詩(堀自身の訳)はあたかもその「奥」にある「本質」を覆い隠すように引用されていると見てとれるのである。そして何よりもこれが先に述べたキリスト教的「死」の概念によって、堀が自らの「傷」を埋めていく過程であることが、クリスマスまでの日付を付けながら進むことからも充分に分かるであろう。なぜ「四季」派が軽井沢を拠点に展開したかも、この一文に象徴的に捉えることができる(この点を少し説明すれば、軽井沢は、明治10年代以降に外国人宣教師たちによってその風土の類似性から「疑似故郷」として捉えられ、外界から切り離された完結したキリスト教的生活圏として開拓された点と、一方で万葉集にも詠まれる古代からつづく宿場町でもあった点が交叉し、まさに距離と時間において最も遠いはずの「西洋キリスト教文化」と「古代日本」が奇妙にも一致した非現実的なエアポケットのごときトポスとなった。ここにおいて「四季」派の文学の特性と結合する。その特性とは、戦後に吉本隆明が端的に、「四季派の本質」(昭和33年『文学』、『吉本隆明著作集5 文学論Ⅱ』(勁草書房、昭和45年)所収)で、「西欧的近代意識と日本的伝統意識とが、あまり矛盾・対立・葛藤を経ずに、原始的な形で並存していた」と指摘している。特に重要なのはこの「原始的な形」が「シャーマニズム」にまで行き着くという指摘である。まさに軽井沢という土地の「聖性」はそうした「四季」派的な「シャーマニズム」に合致する。いわば「四季」派の詩人たちにとって軽井沢は「聖地」としてのトポスであったのである。吉本はこの「シャーマニズム」こそが「四季」派が後に戦争詩に傾いた根本原因であると主に三好達治の詩を中心に分析しており、立原の詩にも若干触れながらいずれはそこにいきついたであろうという論旨である。しかし、私はむしろ軽井沢があくまで「疑似」の「聖地」であったことも踏まえると、そうした「シャーマニズム」も「四季」派にとっては「疑似」的なものであったと考える。むしろ堀の「本質」の一歩手前で「回避」する方法、つまりリルケの詩を「借りて」核心を「隠す」方法こそが、「四季」派が大衆に広がる最大の要因だったと考えている。それについては以下につづけて考えていく)。

 そのような堀の「本質」回避の「方法」は、「花を持てる女」における母の死に対峙して、「これでいい……」と述べる「方法」と同一であろう。こうした表現方法に対して、苛立ちをしめしたのは戦後の三島由紀夫などの文学者たちである。しかしもっとも痛烈な批判は江藤淳『昭和の文人』(新潮文庫、1989)である。江藤自身若き日に傾倒した堀文学について、その処女作『ルウベンスの偽画』から論をはじめ、まさにこの「花を持てる女」を含む『幼年時代』の事実確認を詳細にし、堀がいかに「嘘」を述べているかを証明し、堀文学はまさに「偽画」以外の何物でもないと喝破する。江藤の指摘の重要性は、堀を含めた近代文学が、明治以降の一人の作家の内に西洋的人格と日本的人格が分裂したまま並存し、それぞれの仮面をかぶり直すかのように、統合された一人の人格の「素顔」=「本質」にまで決して降りていけない宿命を背負っていることであり、同時に江藤の見落としは、そのように「素顔」=「本質」にまで降りられないままに書かれた作品に刻まれた亀裂やゆらぎ自体に、その作家の無意識とも言える作品価値がある点である。つまり堀が「本質」から視線を逸らす瞬間の、まさにリルケの引用の「方法」にこそ、その文体は一層輝くという点である。

 

 ではそのような「本質」回避の堀文学が大正から昭和初期になぜにそれほどまでに読まれたのか。「花を持てる女」も『風立ちぬ』も、「母」「妻」の「死」を描いていることにおいて、堀にとって最大の危機であることは言うまでもない。そして双方ともに「現実」に堀はその「死」に直面をしているのである。例えば関東大震災の際、堀は19歳の一高生であったが、堀と父親は三日三晩母親を探し歩き、大川でその溺死体を見つけたと言う(これも江藤の念入りな筑摩版「全集」の読み込みによって、「別巻二」中の堀多恵子と中村真一郎の対談「思い出すことなど」の堀夫人の発言に見出している)。図らずもこの事実を知ることで堀文学全体の読みが私の中で変化したことは確かである。つまり「現実」の母の「死体」に、あまたの「死体」の一人として対峙した若き堀が、それ以上の「本質」を見出すことができるかどうかという判断を私に迫らせる。統計上だけ見ても関東大震災による死者・行方不明者は10万5千にのぼり、主に家屋の倒壊の下敷き、また火災と津波、さらに土石流の発生によるものがあった(2011年12月31日現在のウィキペディアによる)。このことを3月11日の東日本大震災以前に知ったのであれば、堀文学への、さらには近代文学全体への見方の変更をさほど迫られはしなかったと正直に言えば言える。つまり「現実」の「死体」の群れの中に見出した母親の「死体」こそが、まさに「本質」そのものであって、そこから作家として出発した堀が、「花を持てる女」で若き日の母の人工的「像」を作り上げ、「これでいい……」と述べるまでの18年間の営為は、言語に絶する「本質」には到底文学は到達し得ないという認識によって貫かれていると言える。いやさらにはその「本質」を一度見てしまった者はどうなるのか、という問題も堀は的確に自己分析している。『幼年時代』の巻末に「花を持てる女」以外に付けられた小文「秋」は震災直後に避難したY村での暮らしの回想であるが、そこに「母」に関する一節があるので、これもまたやや長いが重要であるので引用する(現代では使用禁止の言葉づかいもあるが、時代を考慮してそのまま引用する)。

 

 例へば、村の人々の間にはこんな噂がされ出してゐた。この頃、この村へ地震のために気ちがひになつた一人の女が流れ込んできてゐる。その女は、地震の際に一人娘からはぐれてしまひ、それきりその娘が見つからないのでもう死んだものと思ひ込んでゐた矢先、焼跡でひよつくりその娘に出会ひ、その言ひやうのない嬉しさのあまり、其処にあつた瓦でその娘を撲り殺してしまつたと言ふことだった。――その噂は私をどきりとさせた。「母親といふのはそんなものかなあ……」とそれから私はそれを胸一ぱいにさせながら考え出してゐた。――或る夜、私はその小さな村を真ん中から二等分してゐる一すぢの掘割に、いくつとなく架けられてゐる古い木の橋の一つの袂に、学校帰りらしい村の子供たちが一塊りになつてゐるのを認めた。私は何気なくそれに近づいて行くと、環のやうになつてゐた子供たちがさつと道を開いた。見ると、その子供たちに取り囲まれてゐるのは、襤褸をまとつた、一人の五十ぐらゐの女だつた。髪をふりみだし、竹で出来てゐる手籠のやうなものを腕にぶらさげてゐた。その中には何んだかカンナ屑のやうなものが一ぱい詰まつてゐるきりだつたが、それがその女には綺麗な花にでも見えてゐるのかも知れないと思へるほど、大事さうにそれを抱へてゐるのが私を悲しませた。……(中略)……私は村びとの噂ばかり聞いてゐたその気ちがひの女をかうして目のあたりに見、そしてそれが私の死んだ母と殆んど同じ年輩で、そのせゐか、どこやら私の母と似通つてゐるやうな気もされてくるや否や、急に私の胸ははげしく動悸したして、どうにもかうにもしやうがなくなつた。

私は暫くぢつとその場に立ちすくんだきりでゐた。さうして、母の死が私に與へた創痕も殆んどもう癒されたやうに思ひ慣れてゐたこんな時分になつて、突然、そんな工合にひよつくり私のうちに蘇つたその苦痛が、今までのよりずっとその輪郭がはつきりしてゐて、そしてその苦痛の度も数層倍烈しいものであることを知つて私は愕いたのであつた。

 

 ここに描かれている堀の体験は、読みようによっては本当の体験かどうかも定かではない。なぜならあまりにも鮮やかに「カンナ屑を持つ女」が「花を持てる女」の母の「像」と対照性をなしているからである。そして「言ひやうもない嬉しさのあまり」に「娘を撲り殺す」ほどの「狂気」性が、堀が「本質」を回避するのに充分の説得力を持って書かれている。要するに「死体」=「本質」を直視することは、「カンナ屑を持つ女」が娘を殺すことと同様に、息子である自らを殺すことになりかねないことがここでは暗示されているのである。それ故に堀の文学にはどうしてもこの「狂気」から逃れるための「偽」が絶対必要であった。江藤が堀文学を「偽画」と批判したことは完全に正しく、完全に間違っていた。堀はある意味、「本質」を知りつくした上で「回避」していたということである、

 この「狂気」の回避は先の『風立ちぬ』のリルケの「レクイエム」の引用「方法」の絶妙さにも通じる。私が考える限り、リルケ解釈にあって、堀は深すぎるほどの洞察を示している。例えば堀が「四季」第40号・昭和13年10月号に掲載された芳賀檀訳リルケ「ドゥイノ悲歌・第一の悲歌」の最後のページの見開きに書き込んだメモを見てみる(『堀辰雄全集第7巻上』所収、筑摩書房、昭和54年)。

 

 

死んでいることは難しい、そして漸次、いささかの不死が得られるまで、たえず徒労に苦しめられてゐるのだ。

……

生と死との間に判然たる区別をおくべきでないこと――天使はそれを区別せず。――生死の間を、一つの永遠なる流れが通つてゐること。詩人は死に打勝ちてのち、地上生活

に我々の第二の半身として死を付け加へる。(ユウリディスをとりもどすために地獄に降りたオルフェのやうに、影たちの間で竪琴をとりあげ、生の賛歌を歌ひうる詩人たちのみが……)

 ……

 夭折者がいかに我々に必要であるか?

……

我々が夭折者らに與へる助け以上に重要なのは、かれが我々にひきおこす、我々にかくべからざる悲哀である。かれらの死は人間の心を養ふ永久の悲しみだ。希臘神話においてリノスの死をなげいた嘆きが音楽の起源となつたごとくに。

 

 以前にもリルケの詩について述べたが、リルケ詩が「実存主義」に強く影響を与えた最大の特徴は、既存のキリスト教的「神」に頼るのではなく、自己の内部の「闇」を徹底して凝視した果てに見出す「光」の発見であり、「死んでいることは難しい」という、まさに自己の内の「死」を見つめる眼をリルケは持っていることを堀は見抜き、「生と死との間に判然たる区別をおくべきでないこと――天使はそれを区別せず。――生死の間を、一つの永遠なる流れが通つてゐること」というように、リルケにおける「生」と「死」とが、完全に「個」の内部において結合する点をも正確に導き出している。この堀のリルケ理解こそが、立原の「形而上学」の成立に大きな影響を与えたといえる。しかし立原の独自性(または「十歳」以降の宿命とよぶべきか)は「生」と「死」の「中間者」として、「世界分裂」に身を引き裂かれたまま、「狂気」を抱えてどこにも存在しない「廃墟」に至ることである。ここが堀との大きな違いといえよう。参考までに堀のメモが書き込まれた芳賀訳「第一の悲歌」の最後の二連のみ引用する(最初の二行は見開きの一つ前頁からの引用)。

 

元より、奇しき思ひかな。この大地に最早我住まんともせず、

習ひも果てぬ人の世のしきたりを早ほどこさむとも思はず、

薔薇と、その他數ある希望に充てるものら、にも、

人の世の未來の意味を與へんとも思はず。

果なくも、不安の手の中に、憂ひ來しことよ、存(ながら)へて早

あらんとも思はず、さては己が有(もの)なる名をも

破れし玩具に似て、打ち棄てんと思ふ。

奇しき哉、この世の願ひ、早願ひとせず、奇しき哉、

關(かかは)りある、一切のもの、空の間にほどけて、

漂ふを見ばやと言ふ。かくて死は、得難く、

又怠りしを多く戻すよ、何故とて、漸く人、

やや不滅を思ひ到れば。――されど生ある人みな、

生と死を分つこと餘りなるは過てり。

天使は、(人傳ふ)しばしば、生者の許に立たむか、

あるは死者と共にあらむかをまどふと言ふ。永劫の流れ

兩者の域をひたし、一切の劫歷を滅して、

ひたに流れつつ、萬象を其の轟きに壓すといふ。

 

 この芳賀訳の難解さを良しとするかどうかは人によるが、堀のメモを見るに、ここからリルケ詩の本質を引きだす堀の頭脳は当時の昭和初期の文壇のおいて稀有であったと言える。しかし堀はそのリルケ詩を自己の作品に内在化させるためには、「本質」を覆うための方法でしかできなかった。『風立ちぬ』の「レクイエム」の部分引用、「死者達の間に死んでおいで。死者にもたんと仕事はある。」という詩句は、たとえ最後に「私の裡で」と刻まれてあっても、小説の文脈から、どうしてもこの「死者」は最愛の妻の幻影を何とか振り払うための言葉になってしまう。本来のリルケ詩の解釈であれば、詩人が「お前」と呼ぶ「死者」とは自己の内部に存在するより抽象的存在、つまり「本質」の一部なのであるが、堀の絶妙の引用によって、「本質」回避のための言辞と化してしまう。しかし、これは責められる問題ではなく、大震災による「本質」の露呈を目の当たりにした堀にとっても、また当時の「大衆」にとってもむしろ極めて自然な形で受け入れられた記憶を覆い隠す「救済の詩」であったと言える。

 そしてこれは私の現在のところのあくまで推論であるが、この「レクイエム」の「死者達」の「達」こそが、当時の「大衆」を導く言葉であった。ここに「死者達」と「生者達」の「共同体」が発生する。そしてこの地点で前に述べた保田與重郎の「日本浪曼派」における「死」の「共同体」と極めて密接に結びつく。たとえ一方が「死の賛美」であり、一方が「死の隠滅」と言えようとも、「死」に対峙しつづけた近代の文学者たちが辿らざるを得なかった大いなる「救済」への一つの結果である。確かに堀は戦争翼賛には背を向け沈黙を守ったが、太平洋戦争勃発後に書いた「花を持てる女」で「これでいい……」と述べた瞬間とは、母の「死」がもはや堀個人の「死」ではなく、日本人全体の「共同体」としての「救済」されるべき「死者達」への融合を完成させたことを意味している。そしてそれは翻って堀自身が「生者達」の一員として「大日本帝国」という国家「共同体」へと沈黙の姿勢で完全に参入したことをも同時に意味している。

 立原はしかし、この堀の態度に決別する。むしろ堀がリルケの詩にメモした「夭折者がいかに我々に必要であるか?」という問いの言葉そのままに、堀が教えたリルケの孤独者の「本質」を生きてしまったとも言える。その決別を述べた有名な立原の論考「風立ちぬ」にはこう書かれている。

 「僕は、救うといふことを、今はあまり信頼してゐない。従つて、《風立ちぬ》が、僕を救ふといふこともまた。」

 果たして立原は「共同体」による「救済」が、いかに「非人間的」であるかを知って堀と決別したのであったか。今回は紙数がこれ以上増えてはならないから、次回を「最終章(下)」として、立原を「廃墟」へと導いた「方法論」を検討し、そして私自身が「あのとき」にあまたの「死」を「見入った」心性を抉るとともに、「死とは何か」、果たして「詩」は「救済」たりえるのかを問うて終わりたい。

                       (2012.1.16)


 

 *なかむら たけひこ 1973年、横浜生まれ。2003年、詩集『壜の中の炎』。2010年、第二詩集『生の泉』を出版。(いずれもミッドナイト・プレス刊)