岡田幸文の「聴無庵日乗」

聴無庵日乗06

 Mr.Sことスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが221日亡くなった。享年93歳。昨日、今日と、FMで追悼番組を聴いたが、今朝聴いたショスタコーヴィチの第五交響曲第二楽章は、ショスタコーヴィチと向かい合う若き日のスクロヴァチェフスキのテンションがリアルに伝わってくる演奏だった。いまでもザールブリュッケン放送交響楽団とのベートーヴェン第一交響曲を時々聴くことがある。聴くたびに、ベートーヴェンを再発見する。そんな演奏だ。

 

 

 詩の〈現在〉は、いま、ここにはない。そう考えることで、前に進めることもあるだろう。

 

 

偶成  ポオル・ヴェルレヱン(永井荷風訳)

 

空は屋根のかなたに

  かくも静かに かくも青し。

樹は屋根のかなたに

  青き葉をゆする。

 

打仰ぐ空高く御寺の鐘は

  やはらかに鳴る。

打仰ぐ樹の上に鳥は

  かなしく歌ふ。

 

あゝ神よ。質朴なる人生は 

  かしこなりけり。

かの平和なる物のひびきは

  街より来る。

 

君、過ぎし日に 何をかなせし。

  君今こゝに唯だ嘆く。

語れや、君。そも若き折

  なにをかなせし。

 

                       (2017.3.5)

聴無庵日乗05

極楽鳥花、サンシュ、クロメヤナギ、雪柳、アレカヤシ、ネコヤナギ

 詩について、書こうとすると、詩それ自体から遠ざかっていく。いま、詩についてよく考えるのは、送られてきた詩誌や詩集を読んでいるときだと思う。目の前に具体的に詩があるので、逃げる(?)ことができない。上昇と下降の像が交錯するとき、詩それ自体と相対している。

 

 

蜂  ポール・ヴァレリイ(堀口大學訳)

 

褐色(かちいろ)の蜂よ、汝(な)が針

かくも鋭く、かくも毒あるも

わが胸の美しき花籠を

われは思ひのダンテルをもて被ひたるのみ。

 

その上に「戀」の來て死にまた眠る

美しき瓢(ひさご)に似たる乳房をば刺せよ、蜂、

かくて紅(くれなゐ)のわれをして。いささかは、

圓(まろ)みある反(そむ)きがちなる肉の面(おもて)に滲(にじ)ましめよ!

 

われは速(すみやか)なる苦痛を希ふ

あらはに激しき痛み

故知らぬ悩みよりは堪へやすし!

 

わが感覚よ、痛ましきこの金色(こんじき)の針により

汝(なんじ)目さめてあれ、これなくば

戀は死に、戀は眠らんに!

 

                    (2017.2.15

聴無庵日乗04

サンシュ、雪柳、アルストロメリア

 このところ、よく散歩している。というか、一週間ほど前、思いたって、毎日散歩するようにした。歩いていると、一日一日、日が長くなっていくのが実感される。このところ、「古事記」を読んでいる。意味がとりやすいのでつい翻訳を読んでしまうが、やはり原文で読まないと真実はつかめないだろうということで、原文と翻訳とを交互に読みながらの、遅々たる時間である。読んでいるとき、アタマをよぎっていくのは、〈起源〉へのノスタルジーであろうか。

 

 まだよまぬ詩おほしと霜にめざめけり  田中裕明

 

                       (2017.2.6)

聴無庵日乗03

2017年1月12日、富士宮

 正月も十日を過ぎれば、いや、過ぎなくても、いつもと変わらぬ時間のなかにいるのだが、それでもこの一月は、昨年秋からの生活の変化とあいまって、なにやら新しい、未体験の時間を生き始めたような実感を覚えている。

 ところで、年が明けてから、「3.11以後……」と始まる文章をいくつか目にした。2011311日から6年が経つが、次第にボディブロウのようなものがきているのかもしれない。最近は書店の人文書コーナーに行っても、買ってみたいという気持ちにさせる本が少ない。いま読んでおもしろいのは小説である。きっかけは、野上弥生子の『秀吉と利休』であった。小説とはなにか。文学とはなにか。それはけっきょく人間とはなにかを考えることであった。

 数日前、ふとしたことから、本棚にあった村上龍の『空港にて』という短編集を手にとった。村上龍の短編小説はどれもおもしろいが、この『空港にて』も、小説家・村上龍の力量が遺憾なく発揮されていた。

 村上龍は、その「あとがき」で書いている。「社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に絶望と退廃があふれかえっている。強力に近代化が推し進められていたころは、そのネガティブな側面を描くことが文学の使命だった。(略)近代化が終焉して久しい時代に、そんな手法とテーマの小説はもう必要ではない」

 もとより、これは近代文学史の一面を、作家である村上龍が2003年当時に語ったものであり、いまの僕の問題意識と直接重なるところはあまりないのだが、いま詩が直面しているものと小説のそれとが、どのように同じで、どのように違うのか、考えるべきことはまだあると思わせた。

 

 この「聴無庵日乗」を再開するに際して、「気の向くままに、一篇の詩を書き写していきたいと思う」と書いたが、日記(?)を書きながら「気の向くままに」一篇の詩を引用することなど、かんたんにできることではないと、すぐに気がつくべきであったと反省している。

 

 他の者に、魂について語ろうとすれば

 天使の舌が必要になる。しかしそうしようと思っても、

 ただ言葉の貧困を感じるだけだ。

 神聖な事柄を卑小な言葉で語り、

 そうすることで卑小なものにしてしまうことに

 おそれおののく。語ることが罪を犯すことになる。

   (ヘーゲル「エレウシス——ヘルダーリンへ」(高橋巖訳)より)

 

                                                  (2017.1.16

聴無庵日乗02

若松、行李柳、蠟梅、ドラセナなど

 生活の変化で、これまでのように電車で長編小説の類を読むことができなくなった。これからはそのときそのときに応じて読むしかないだろうということで、昨夜バッグに入れたのは、斎藤茂吉の『万葉秀歌』と『芥川龍之介全集』。芥川は、昭和29年に岩波書店から出版された、表紙が布クロスの新書判全集。これまで何度か読んできたが、次から次へと忘れていくので、読み返すたびに新たな発見がある。

 と、こういう雑文めいたものも時折交えて書いていこうかと思う。

 

 

戲れに(1)  芥川龍之介

 

汝と住むべくは下町の

水どろは靑き溝づたひ

汝が洗湯の往き来には

晝もなきづる蚊を聞かん

 

戲れに(2)

 

汝と住むべくは下町の

晝は寂しき露路の奥

古簾垂れたる窓の上に

鉢の雁皮も花さかむ

 

                      (2017.1.4

あけましておめでとうございます。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

2017年1月1日       ミッドナイト・プレス 岡田幸文

聴無庵日乗01

 いま、詩について書こうとしたら、どこから始めたらいいのだろう。かつて詩の入門書の類が書店に並べられていた時代があったが、いまは、そのような入門書も見られなくなったし、そもそも、いま詩の「入門」書が求められているのかどうかもはなはだあやしいところである。

 先ほどまで、僕は詩を書いていた。いや、詩を書こうとしていた。だが、そのときすでに、僕は途方に暮れていた。その、途方に暮れていることが、この文章を書くことを駆動させているのかもしれない。

 詩とはなんだろう? この問いを措いて、いまの僕には、ほかに惹かれるものはない。「まさに詩だけが、人間を回復できるのだ。」(ジュゼッペ・ウンガレッティ)

 ところで、いま詩はどのように語られているのだろう。思いついて書店の詩書コーナーをのぞいても、自分が知りたいことについて書かれた本をみつけることはむずかしい。また、最近はどんな詩集が出ているのかと書評記事など読むが、これがどうにもおもしろくない。取り上げられている作品よりも、それを取り上げている書き手(「詩人」)のほうが前面に出てきているからだ。そこに、「詩の現在」はない。あるのは、「詩人(たち)の現在」ばかりだ。

 詩とはなにか? それを徹底的に考えていかなくてはならないと思った。そのとき、なにを材料にすればいいのだろう。いかなる材料にもたよらず、独力で考え抜くという道もあるかもしれない。だが、それは僕の能力を超えている。やはり、なにかひとつとっかかりのようなものがほしい。そのとき、いま書かれている詩を材料にすることはむずかしいと思われた。詩とはなにかと考えるとき、対峙すべき「詩の現在」はそこにはないと思われた。「詩の現在」とはなにか。もとより、それは詩の現状を云うのではない。一篇の詩が不可避的に包含せざるをえない桎梏葛藤のありようを云うのである。そして、それを探るには、これまでどのように詩が書かれてきたのか、その一篇一篇をあらためて読み直していくしかない。そう思ったのは、最近刊行された、池澤夏樹編『日本文学全集』第29巻「近現代詩歌」で、池澤夏樹選による「詩」のアンソロジーを読んでいたとき、詩の歴史とはいったいなんなのか、とあらためて考えさせられたからである。これから書き継いでいこうと思っているのは、そのあたりのことである。日本の近現代詩がどこから始まったのか、もう一度よく考えてみたい。そこに、詩とはなにかを解く鍵が秘められているような気がしている。

 

 「聴無庵日乗」——この慣れ親しんだタイトルでまた書いていくことにした。それとともに、気の向くままに、一篇の詩を書き写していきたいと思う。第一回は中原中也の「寒い夜の自我像」にした。

 

 

寒い夜の自我像  中原中也

 

きらびやかでもないけれど

この一本の手綱をはなさず

この陰暗の地域を過ぎる!

その志明らかなれば

冬の夜を我は嘆かず

人々の憔懆のみの愁しみや

憧れに引廻される女等の鼻唄を

わが瑣細なる罰と感じ

そが、わが皮膚を刺すにまかす。

 

蹌踉めくままに静もりを保ち、

聊かは儀文めいた心地をもつて

われはわが怠惰を諫める

寒月の下を往きながら。

 

陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、

わが魂の願ふことであつた!

 

                     (2016.12.25)