壱はじめ「竝び机の詩窓」part2

第六回 「三行詩」ノート—石川啄木の近代性のための—

はじめに

本ノートは、詩の講座を承けての詩論ノートである。講座名は山羊塾、その第15回。期日は、2019810日(土)の午後のひと時。場所は、東京芸術劇場ミーティングルーム。講師は、詩人八木幹夫氏。同塾は、詩の出版社ミッドナイト・プレス(社主・岡田幸文氏)が主催するもので、第1回は201510月(宮沢賢治)。年4回のペースで行われている。詳しくは同社HP「山羊塾」。

今回のテーマは、石川啄木と若山牧水。講座タイトルは、「石川啄木と若山牧師の近代性と流浪の現代的な意味」(当日レジュメ・タイトル)。石川啄木については、以前小文を草したことがあり、また近代詩に対する関心度も本連載(連載24)のとおりなので、問題意識を高めながら臨んだ講座である。以下のノートは、旧稿(壱2012)を補う知見に恵まれたことからも、当日の刺激を受けて疾く筆を執ったものである。

 

1 「三行詩」への推移

 

1年に満たない渡道体験ながら、石川啄木の内面にとっては画期を超えた決定的な精神的体験、それが所謂「北海道漂泊」であった。結果、詩歌史上に三行詩形式の短歌(以下、「三行詩」あるいは括弧をつけずに単に三行詩)という表現形式が生まれる。この三行詩が重要なのは、ただ単に形式上の新しさを獲得しただけではなく、それ以上に新たな内面性を短歌としてよりは詩として獲得したことにある。まさに「石川啄木の近代性」にほかならない。今回、講座を介してあらためて三行詩を啄木のなかに辿り直すとともに、若山牧水と比べるとき、その違いがなにを意味するのかを問う。問うというよりは課題化である。

まずは啄木における三行詩の個人的意義について、実作例を掲げながら三行詩にいたる変遷過程を「「三行詩」への推移」として再確認しておく。ひとまず「森」を詠んだ作品に例をとる。引き方としては、形式別、時期別とする。形式別とは、短歌、詩(「長詩」)、三行詩のことである。なお引用元は、改造社版復刻『石川啄木全集』第3巻(1978年)である。引用に際しては、旧漢字は常用漢字に、ルビは一部にとどめた(ほか原則本稿全体としても)。年齢は数え年。

 

(1)短歌の場合

 以下の引用歌は、「森」を詠んだすべてではないが、時期別のおおよその傾向はつかめる程度に排列している。

 

①森深き院の(やれ)まど月洩りて小袖に寒し初秋の風

(明治351月「白洋会詠草」所載、17歳)

②森の水に墨染衣(すみぞめごろも)名を云はずうしや経の手涙にぬれぬ

(明治353月「盛岡中学校々友会雑誌」所載、17歳)

③朽ちもする(ぢん)よ不楽の森深く何しか高き香をば荷へる

(明治36年「白洋会十首集」所載、18歳)

④ゆく年の鐘なる夜の冬の森、髑髏がうめく荒墓に似る。

(明治37110日「岩手日報」所載、19歳)

⑤まだ人の足あとつかぬ森林に入りて見出でつ白き(こつ)とも

(明治417月『明星』所載、23歳)

⑥わが森に入り来るは誰ぞ高らかに歌うたひ青き馬車を駆りつつ

(明治419月『明星』所載、23歳)

⑦啄木鳥の木つつく音を心あてに君をたづねて森にさ迷ふ

(「明治41年のノートより」収載、23歳)

 

 じつは「森」を事例としたのは、⑦に明らかなように号とする「啄木」(啄木鳥)が棲息する場所(時空)であるため。啄木の命名は、明治3612月(18歳)から(具体的契機としては後掲⑧)。したがって④以降は、啄木号に即して自画像的に読み解くのも一手立てながら、歌意が赴くところは、非現実感を濃密に貯めこんだ、ロマンチシズムに傾きがちな時空感の創出にあり、かつ歌境の露呈に余念がないことである。「北海道漂泊」との関係で注目しておきたいのは、⑤以降の明治41年歌は、北海道から再上京した直後であったことである。

この点、問題なのは、いまだ短歌という一行書き形式が心意に勝っていたことである。心意とは、北海道体験で味わった、人間存在に対する虚無感である。後掲引用作品から知られるように、すでに心は『明星』的抒情と一線を画していたはずである。それでも形式を踏襲せざるをえない。その従前性がなにを物語っているのか、三行詩の画期性を再評価する上にも留意しておかねばならない点である。それは次の「詩(「長詩」)」でも言える。

 

(2)詩(「長詩」)の場合

 以下に2篇の詩(「長詩」)を掲げる。なお、「長詩」とは、復刻版の『石川啄木全集』の分類(長詩、短歌)の用法による。

 

⑧聞け、今、巷に喘げる塵の疾風(はやち)

  よせ来て、若やぐ生命(いのち)の森の精

  聖きを攻むやと、終日(ひねもす)啄木鳥(きつゝきどり)

  巡りて警告(いましめ)夏樹(なつき)の髄にきざむ。

(明治3612月『明星』収載「啄木鳥」より一部、18歳)

⑨落ち行く夏の日緑の葉かげ漏れて

  森路(もりぢ)に布きたる村濃の染分衣(そめわけぎぬ)

  涼風(すゞかぜ)わたれば夢ともゆらぐ波を

  胸這ふおもひの影かと眺め入りて、

  静夜(しずかよ)光明(ひかり)を恋ふ子が清歓(よろこび)をぞ、

  身は今、木下(こした)の百合花あまき息に

  酔ひつつ、古事(ふるごと)絵巻に慰みたる

  一日(ひとひ)のやはらぎ深きに思い知るよ。

  (第2連略)

  胸なる小甕(をがめ)は『いのち』のつよき酒を盛るに堪へで

  (しみ)にぞ悲哀の塚辺に缺くるとても、

  底なる滴に尊き香り残す

  不滅の追懐(おもひで)まばゆく輝やきなば、

  (いつ)の日霊魂(たましひ)終焉(をはり)の朽あらむや。

   

啼け杜鵑よ、この世に春と霊の

   きえざる心を君我れ歌ひ行かば、

   歎きにかへりて人をぞ浄めうべし。

(明治385月『あこがれ』収載「森の追懐」より第1・3・4連、作詩年代は明治3612月、18歳)

 

 ⑩路はふと森に入れりき。

両側の高き老樹(おいき)

うち繁る枝さしかはし、

いく(まいる)、緑の屋根に

密々と路を蔽へり。

 

湿らへる苔を踏みつつ、

往来(ゆきき)する人にも逢わず、

黄泉路ゆく心地に行けば、

わが咳ぞ森に響きて

ひそひそと木魂おこれり。

ゆきゆきて路は曲りき。

大いなる白き獣

我が前に路を塞ぎて

うづくまり動くともせず。

と見て我が足はとまりぬ、

俄かにも胸ぞさわげり。

そは、あはれ、緑の屋根の

隙洩れて地を染めたる

日の光。いとも眩ゆく

目を射りてほのにゆるぎぬ。

我はそを避けて通りつ

すでにして森を出でにき。

(明治41317日「釧路新聞」所載「森の中」全篇、23歳)

 

 作詩当時の心持ちの時期的変遷に沿わせて読みとれば、⑧は、俗世を前にして塵埃にまみれまいとする思いを、「終日(ひねもす)啄木鳥(きつゝきどり)、/巡りて警告(いましめ)夏樹(なつき)の髄にきざむ。」として戒め気味に詠んだとしても、気概としては将来に開かれた輝ける才を自画自賛的に寿いだものである。このとき森は、俗世(「巷」)の対極に立つものであるにしても、「生命(いのち)の森の精の/聖き」を自らとし、その存在の正当性を生命力として憚らない側にとっては、それは最初から二項対立を示すのではない、一極への集約を高めるための修辞にすぎなくなる。

⑨も生存を是とした、⑧同然の詠いぶりである。自らに許す修辞力の冴えは、華美にはしるのも厭わない。すべては終連(第4連)の字下げ3行を詠いたいためである。故に第1連は、省略した第2連ともども、結局はそのために用意した長々しい枕詞でしかない。同詩篇末尾に添えられた詞書は、表面的には病魔という負性に傾く弱々しさを浮かべた筆致ながら、それを隠れ蓑とした、内面的には破綻を知らない、かつ自らの才能のさらに開け行く先に翳りを知らない生命への追記にほかならなかった。

 

葵卯(明治36年、引用者註)十二月十四日稿。森は郷校のうしろ。この年の春まだ浅き頃。漂浪の子病を負うて故山にかへり、薬餌漸く怠たれる夏の日、ひとり幾度か杖を曳きてその森にさまよひ、往時の追懐に寂寥の胸を慰めけむ。極月炬燵の楽寝、思い起こしては惆悵に堪へず、乃ちこの歌あり。(「森の追懐」後詞)

 

 そして⑩となる。明治36年(⑧)から数えれば約4年半後、詩集『あこがれ』から数えれば約3年後である。実際の森ではない。幻想の中の森である。それが分かるのは、掲載先が「釧路新聞」317日であるため。釧路は、場所としては北海道漂泊最終地である。3月半ばとはいえ、まだ春の訪れには遠い。しかし「うち繁る枝」「緑の屋根」で明らかなとおり、詩篇は夏季のさなかにある。詩心としては、あたかも十代の短歌を思わせるロマンチシズム風ながら、淡々とした叙法が物語るように、かつての濃密な森との一体感はない。かえって詩行に漂うのは、時空への没入を避けがちな距離感であり、その保ち方である。しかも主たるモチーフを探せば、「我はそを避けて通りつ」である。向日性に後ろ向きな(実際は喪失した)内実の吐露を詩的契機としていたのである。故に結果としての平叙を超えない叙法の選択であった。

 同時期、啄木が釧路の生活(記者生活)で記したのは、「我」への想いさえ容赦しない同地の、過酷で厳しい自然の猛威だった。離道後1年半の新聞(「東京毎日新聞」明治421112月)に掲載された回想を交えた一文(「食ふべき詩」)が、切々と綴ってみせるところである。

 

釧路は寒い処であつた。然り、唯寒い処であつた。時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえ大方姿を隠した北海道を西から東に横断して、着て見ると、華氏零下二十―三十度 といふ空気も(いて)たやうな朝が毎日続いた。凍つた天、凍つた土。一夜の暴風雪に家々の軒の全く塞つた様も見た。広く寒い港内には何処からともなく流氷が集まつて来て、何日も何日も、船も動かず波も立たぬ日があつた。私は生れて初めて酒を飲んだ。 (「食ふべき詩」(部分))

 

(3)「三行詩」の場合

以上を前提として「三行詩」への移行となる。

 

 ⑪森の奥より銃声聞ゆ

  あはれあはれ

  自ら死ぬる音のよろしさ

 

 ⑫時雨降るごとき音して

  木伝ひぬ

  人によく似し森の猿ども

 

⑬森の奥

  遠きひびきす

  木のうしろに臼ひく侏儒の国にかも来し

 

 ⑭世のはじめ

  まづ森ありて

  半神の人そが中に火や守りけむ

 

 いずれも『一握の砂』(明治4312月)所載作である。同歌集は5章からなり、各章の制作年代の考察(山本1967)によれば、1章「我を愛する歌」は大半が明治43年歌(夏に集中)、第2章「煙」は大半が43年歌、第3章「秋風のこころよさ」は一部4243年歌を含むが唯一の41年歌(主に秋)、第4章「忘れがたき人人」は時期不詳ながら上京後の回想歌、第5章「手套を脱ぐ時」は大半が43年歌で一部4142年歌とされている。上掲作品は、⑪が第1章、⑫~⑭が第3章である。一読、同じ「森」を読みこんでいても世界の違いの大きさに目をみはる思いであるが、分かたれた章と詩境は見事に一致している。

一見、『明星』掲載の年代の近い短歌と詩想を通じ合っているかにみえるが、⑫のように自分の森だったかつての時空を「猿」に手渡してしまっている点は、三行詩に顕在化する独自の詩境である。⑬⑭も、それが「侏儒」となり「半神」に姿を変えたとして読み取れば、総じて形式としての短歌が引きずるロマンチシズムとは一線を画しているとしなければならない。⑪は、明治43年の夏季と見なされる作。章題「我を愛する歌」とは、当時の啄木が浸かっていたニヒリズムを皮肉った命名である。同作の「銃声」は「ピストル」とは類似語以上に同義語として使い分けられているが、同章には人口に膾炙した「いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに」があり、「誰そ我に/ピストルにても撃てよかし/伊藤のごとく死にて見せなむ」のような「ピストル」もある。表出上の違いには著しいものがあるが、心情としては内側で繋がっている。

 

(4)「三行詩」の契機

三行書き形式の短歌におけることばと措辞とのあり方を考えるとき、叙法の水準として歌であるよりは詩を思わせるのはなぜか。かえって詩として読むことで形式感も高まるのはなぜか。「伊藤のごとく死にて見せなむ」のようなリアリズムの挿入にしてもそうである。形式上の躍動感に転化してしまっていることを含めて、三行に書き分ける改行形スタイルが獲得した表現性があらためて注目される。

石川啄木がたどり着いた叙法――それを体系だった一つのエクリチュールと捉えるなら、短歌や詩(長詩)からの連続的エクリチュールでもある――が、なにに由来するのか、なによりも啄木に固有の内的体験だったにちがいない。具体的な契機として早くから指摘されるのは、身辺歌人でもある土岐善麿が同年4月に発刊した、ローマ字三行書き歌集である『NAKIWARAI』からの影響である(齋藤1927)。なるほど啄木もさっそく歌集評(「東京朝日新聞」191083日)を認めているにしても、同評を読む限りは、改行形への言及はないし、内容としても「歌と日常とを接近せしめる方向に向つてゐる」(「NAKIWARAIを読む」復刻版全集第4巻)点の自己納得的な評価にとどまる。いずれもすでに作り上げた多くの自作の先にあるもので、かりに影響関係を云々するにしても、歌の日常化に意を強める契機になりえてたとしても、それは自作追認のための再契機でしかない。

それに斎藤茂吉の指摘にしても、歌集刊行時を基準にその時間的前後関係をすべてとしてしまったもので、実際の制作時期への斟酌はもとより、作歌(作詩)に至らしめた内実への配慮も欠いている。しかも作品引用に際しては、言うに事欠いて、「三行の歌を一行に書き、符号点などを除去してみた」とある。「した」ではなく「してみた」の述べ方が、すべてを明らかにしている。後述の仮借法からみても、まさにこれ以上なにをか言わんやである。

いずれにしても歌集評の筆を執らせたものは、三行形はではなかった。啄木の三行詩は、形式と個人の中のなにかが劇的に一致した、啄木の個体を通じて得られたことではじめて普遍的な意義が見出せるものであった。

 

 2 「三行詩」の意義

 

(1)叙法の違い

上述からも北海道体験の大きさを繰り返し強調しなければならないのであるが、今回、講座を通じて新たに考えさせられたのは、その結果として生まれた三行詩を詩歌一般として位置づけるとき、詩と歌の境界にかかわる、微妙な問題を抱えこんでいたかもしれないことである。しかも興味深かったのは、その問題が啄木の最期を看取った若山牧水の歌を通じて教えられたことである。

講座中の知見として触れるなら、講師八木幹夫氏の啄木へのオマージュとして書かれた詩篇(2010年、詩歌文学館で「啄木に捧げる詩歌特集に発表した作品」)が朗読されたときである。同詩篇(「トンデモナイ男」)では、仮借として啄木歌を引用している。引用元は『一握の砂』である。思わず目がとまったのは、それが一行書きに書き直されていた点である。以下に引用を挿んだ前後を掲げてみたい。

  

とんでもない男だった

  父も叔父もそしてぼくも その歌に

  あたまをガーンとやられた

  おお 少年の日々

 

  やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

 

  とんでもない男だった

  ことばが心の闇を蛍のように飛びまわり

  さわやかな清流を呼んだ

  おお 柳よ ふるさとの川よ    (八木幹夫「トンデモナイ男」第56連)

 

起句のリフレインが啄木への想いをいや増しに高めずにおかないが、それはともかく、原歌を示せば、いうまでもなく三行書きである。

 

  やはらかに柳あをめる

  北上の岸辺目に見ゆ

  泣けとごとくに     (第3章「煙」所載)

 

朗読に耳を傾けながら、そして引用歌の一行化に目を向けながら、それが一行化されていたことで、なにか三行書きが、姿形そしてあたかも初期設定し直されたかのような思いにとらわれる。しかも前後詩連の改行形によって際立たされた状態として。なにかトリックを目の当たりにしたかのようであった。もとの形(三行書き)で引用されていたのでは、おそらく芸術的な仮借にまでは高められていなかったにちがいないこと、すなわちたんなる引用(通有の字下げ引用)にとどまっていたのではないかということを考え、思わず「仮借法」に唸る。そして思う、かく見事に自作の一行一連化(流し書き化)に仕上がっている点は、原歌(詩)にすでに一行性が胚胎されていたからで、実はそれさえも抽き出した仮借ではなかったかと。

そこで疑問が湧くことになる。なぜ三行書きにしたのかのという疑いが。「やはらかに柳あをめる」の一首が「告発」しているように、一行書きの方が据わりがいい「一篇」も少なくない。それでも優先事項としては短歌からの離反であった。それが同歌を含め、歌集中の一行書きでも構わないもの、かえってそのほうが流れ(景)の好いものまでをも変形化(三行化)に意識的に仕向けることになる。本来一行化にすべきもの(当初は一行書きであったかもしれないもの)をも、あえて三行化してしまう。まさに啄木の創作意識のなかでは、分かりながらの強引さも、短歌からの離反を自己納得的に推し進める、その都度の機会に姿を変えていたにちがいない。

そう推し量れるのも、実際、よく知られているように啄木にとって短歌とは、「暇ナ時」の「戯レ」程度のものでしかなかったからである。しかし実際のところは、詩論としての「「暇ナ時」の「戯レ」」であった。それ故に離反であっても構わない。真っ当な詩論に発動していたからである。でも問題が残る。表現の正統性である。なにかを失っていなかったか。啄木の近代性の真価を問うには、この短歌的調べからの離反を詩として再評価する必要がある。

 

(2)「景」と短歌

再び講座の知見にかえる。若山牧水のくだりで興味深かったのは、「景」の捉え方についてであった。以下は関係するレジュメ引用歌。

 

 白鳥は哀しからずや空の青海の青に染まずただようふ

 幾山河越へさりゆかば寂しさの果てなむ國ぞけふも旅ゆく

 

 レジュメでは同歌を「景の大きさと悲哀の大きさ」として括る。二つの「大きさ」のいずれか一方を欠いても成り立たない牧水歌である。続けてレジュメは景の異なる2首を掲げてみせる。

 

 ちろちろと岩つたふ水に這ひてあそぶ赤き蟹ゐて杉の山しずか

 芹の葉の茂みがうへに登りゐてこれの子蟹はものたべてをり

 

 同歌に対してレジュメのコメントは、「細部を見る目に自然を慈しむ愛情が滲む」と記す。筆者のメモ上では、「この小さな景をとらえた牧水歌を好む」との八木氏の想いを書きつけている。歌に具わった目線によってはじめてよく捉えられる「景」である。歌の存立基盤であり、存在理由ともなる目線である。たんなる目線ではない。同時に叙法(声調)ともなるそれである。歌にしてはじめて存立し、存在し、かつ完了しえる、「日本語」による表現上のエクリチュールである。それとの離反を決め込んだとするなら、そのときの啄木の目線はどこにあったのか。「目線が下に降りたときから啄木の短歌の近代性が生まれた」とレジュメは指摘する。本稿に引きつければ、「目線が下に降りたときから啄木の短歌からの離反が生まれた」になる。

 

(3)「景」からの離反

再び問題を設定せねばならない。啄木に見出せる近代性とは、「景」からの離反を意味していたのか。それが目線を下げるであったとすれば、「下げる」に失なわれた「景」とはなにか。「ちろちろと」の蟹の歌にみる小さなものへの執着が逆に強めてみせる、大自然(「杉の山)との交感か。

そうだったかもしれない。ときには目線を上げるにしても、端から分離状態になってしまっているからである。たとえば『一握の砂』第3章「煙」から1篇を引けば、「青空に消えゆく煙/さびしくも消えゆく煙/われにし似るか」がある。詠みの深みからすれば、「白鳥は哀しからずや空の青海の青に染まずただようふ」に敵わない。後者には「われ」はない。ないのではなく潜ませている。その潜ませ方を含めての牧水の目線であり、一方に偏しない(求心しない)視野の獲得となっている。ここに在るのは「われ」を捨象し、かつ回帰にも繋がっている広がりであり、それを受け止められる目線である。そのまま心(「情念」)ともなる。「短歌には情念の憑依が百年、千年を越えて次の詩人へと受け継がれることがある」(講座レジュメ)とされるのも、こうした時空間に遍く差し渡される歌の力(創意)である。

そうだとするなら啄木は、「情念の憑依」と「受け継がれる」の双方をもろ共に失っていた(失っても構わないとしていた)ということになる。たしかに啄木の目線が、とかく下がり気味であったことは確かである。そして「景」を失うことにも自覚的であったことも。「森」という「景」をはじめ、『哀しき玩具』からはかつての「景」が平然と失われている。残っていたとしても対峙方が違う。それでも失ったままではなかった。失ったことで逆に得られたものもある。『一握の砂』でいえば、一連の「公園」詩篇である。

 

 公園のとある木陰の捨椅子に

 思ひあまりて

身をば寄せたる               (第5章「手袋を脱ぐ時」所載)

 

あらたな、目線を下げることで得た「景」である。『悲しき玩具』では、「深夜の町町」「郊外」(東京の郊外)「病院」へと範囲が広がっている。用語をはじめレトリックの域でもすでに「景」を逸脱している。まだ分離状態を脱し切れていなかった『一握の砂』での目線も、視野としては、すでに都市生活者の身辺から日常を見つめ続けるだけとなって、その狭窄化を強める。この目線(視野)をもって実質的にも「三行詩」の完成となる。同じ「公園」を若山牧水は次のように歌う。

 

 公園の木草かすかに黄に染みぬ馴れしベンチに今日もいこへる  (『別離』所載)

 

 明治414月から431月の間に作られた1首である。時期的には啄木のそれに若干先行する。牧水が、「馴れしベンチ」というところを啄木は「捨椅子」と吐き捨てる。牧水の「今日もいこへる」は、啄木では「思ひあまりて/身をば寄せたる」になる。季節と溶け合った牧水の目線は、歌語には表れていない情景を含めて、ベンチに憩える公園の目線の先(上)には季節の空が浮かんでいる。季節に後ろ向きでさえある啄木の公園は、内実的にも短歌のそれではなくなっている。もし短歌なら凡作以下となりかねない。

 

(4)「身体性」の問題

歌(短歌)と一線を画していながらも、表現上の形式としては歌との隔絶ではなく、歌との連続的営為、むしろその渦中から生み出されたものであったことが、啄木の意味を、すくなくとも、ことばと人のレベルとして捉えなおす限りは、近代詩としても未知にして未体験のエクリチュールであったことが、啄木の存在を現代詩の範囲を含めて表現史上の稀有なる実践者としている。

短歌からの離反性をより強めた『悲しき玩具』が、推敲のための時間的猶予を啄木の余命に許さず、本来なら『一握の砂』とあいまって口語自由詩としての先行性をより高めるはずだった詩的水準を十分高めきれなかったこと、さらには「詩(長詩)」への転化にまでは届かなかったこと――具体的には若山牧水主宰『創作』に発表した、明治446月作の「呼子と口笛」の表現史的問題――で、そのエクリチュール的意義が今一つ喧伝されていないにしても、三行詩への転換は、「日本の詩歌の伝統中でも画期的な事件」(講座レジュメ)であったことの指摘は再認識されねばならない。それが抱える口語詩的問題としても意識的に強調されてしかるべきである。

その上で啄木自身のなかでは極めて自然な成り行きであったにちがいない「三行詩」を前にして、啄木をそう仕向けた内因を思うとき、旧制盛岡中学校退学を皮切りとする時代からの脱落と、そのことによる相次ぐ苦難(困窮)を先行条件として、脱落さえも無意味と化してしまうほどの、圧倒的な自然体験であった北海道漂泊に再び立ち返ることになるにしても、そうした内圧度の高い人生遍歴の先に待ち構えていた、死を意識せずにはいられなかった生のなかで、いま在る生が選択したもの、せざるをえなかったことばを、あらためて啄木の最後の生の上に諮らねばならない。そういう意味でも「三行詩」とは、生の仕組みのなかでのことばの綴り直しであり、綴り直しが否応なしに求める、結核菌に冒された息苦しさのなかでの、声調ならぬ弱々しい呼気の吐息だった。

講座当日の言葉を当てるなら、「生の仕組み」とは「身体性」である。一義的には若山牧水の「移動・流浪」にかかわるが、講座前段で啄木の「遍歴」が強調されている点からも、当然、啄木のそれをも含みこんだものだったはずである。

先行するのは生であること、それが具体的な形をとった「流浪」は、ことばをより切実に生の仕組みとして捉える。しかし人は誰でも生を先行させている。われわれに「身体性」が欠落しているのは、生がことばを捉えるのか、逆にことばが生を捉えるのか、そうした対峙関係のせめぎ合いに立ち会わないこと、立ち会わずにいられるからである。実際、日常とはそうしたものの総体である。しかし一歩立ち止まれば、日常は常に非日常と背中合わせになっている。あるいは連れ立っている。表面化を回避しているだけである。

回避しえない生こそが「流浪」であるとき、それを「ことば」として捉えなければならない生からの突き上げ、しかもそれをも再び「ことば」として捉え直さなければならない、こうした悪循環ともいうべき心的機構のなかで再生されつづける生、それを外形として包みかつ内在とするものこそが「身体性」であるとするなら、講師八木氏が発する、「現代の詩人に欠落しているもの→表現の身体性と架空性が乖離」の批判的言辞が意味するところは、現代詩の渦中に身を置く者の忸怩たる想いを超えて、ひろくわれわれの聴くべき警句となる。

 

(5)一二の課題

その上での最後のノート。課題についてである。同じ「身体性」でも牧水と啄木とでは、それに基づくことばの表出方法が異なる。「三行詩」だけではなく、それに至る過程の「詩(長詩)」「短歌」のその都度の選択、あるいは併存、それに対して短歌のみを表現形式とする牧水。ならば牧水の「流浪」にとって形式とはなにか。それを踏襲することがあっても疑いの対象とならないことが、牧水のなかの表現性とどのように結びついているのか。思うのは再び詩と歌のこと。ここには両者の境があるのか否か。それとも「境」など問題にならないのか。「景」をまったきに捉えきれることの意味。その牧水にとってのことばとの関わり方。ことばは形式を超えていたのか、そのように捉えたときの詩と歌のこと。以上を一般論としてではなく、啄木と牧水の二者関係として両者の表現性のなかに突き詰めていくとき、その差をいかに現代詩を読む上に重ね合わせるべきか、あるいは現代詩を批判的に読み解く上の視点となすべきか、等々いずれにしても課題は拡大方向に向かうばかりである。

 

おわりに

刺激を受け、思いつくままに綴ったノートである。講座ではほかに興味深い話題として「啄木短歌の演劇性」や三行詩形式の和歌が生まれる時代的な背景としての「口語性」について、それを啄木の漢語的早熟性との関連で言及した点、こうした点を含めての、後段の討議の場での明治時代におけることばと表現の在り方(この点は二次会の一部席上にまで引き続いたのだが)などに話が及んだ。詩人のなかの人の在り方の問題として明治詩に少なからず関心を抱いている筆者としては、いずれも耳をそばだてずにはいられない話であった。

初回からの参加者ではないが、毎回、得るものが多い。最初から参加できていればと残念に思っている。本ノートを一読くださった方で、もし本講座に関心を示されたなら、とても開かれた、敷居の高くない(敷居がないがより正確)詩塾なので、ひろく詩(さらには文学)にご関心ある方の自由な参加をお薦めしたい。都心の穴場ともいうべき東京芸術劇場の一室で、芸術の香りに浸かりながら、午後のひと時をすごすのもまた一興である。参加方法などについては、同社HPの「お知らせ」をご参照のこと。

 

引用・参考文献

八木幹夫「資料・石川啄木と若山牧師の近代性と流浪の現代的な意味」山羊塾第15回レジュメ、2019810

ノーベル書房発行『改造社版復刻 石川啄木全集』第2・4巻、1978

山本健吉「解説」『石川啄木』日本詩人全集第8巻、新潮社、1967

斎藤茂吉「明治大正短歌史概観」『斎藤茂吉全集』第21巻、岩波書店、1972年、初出1929

壱はじめ「石川啄木の今―没後100年―」筆者ブログ『インナーエッセイ』、20125