久谷雉のお弁当箱

3 遠い言葉

 

十月、仕事で中国に行ってきた。たぶん日本の外を知らないまま自分は一生を終えるんだろうな、と昔から漠然と考えていたのだが、夏休みに突然、「現代詩手帖」の編集部から中国に行かないかという話が来た。自分のような者にまでこんな話が回って来るほど日本の現代詩は人材不足なのかとちょっと戸惑ったが、費用は全部主催の中坤投資集団(詩人の駱英こと黄怒波氏が率いている)が持ってくれるという。元々国際交流などというものに関心の薄い人間だが、海外に行けるだけのまとまったお金なんかしばらく手に入りそうもないから、この機会に日本の外を観てこようか。外国語がまったくできないのは不安だが、いざという時は物乞いか何かになったってかまわない。いままで海のむこうへの関心があまり向かなかったのと同様、ふるさとにも今くらしている町にもそれほど未練はない。

 

そういうわけでほぼ一週間、中国に滞在してきた。カメラも持っていかなかったし(携帯電話でいくつか写真を撮ったがすぐにバッテリー切れとなった)、ノートのようなものも採っていないし、土産の類もそれほど買わないという怠惰な旅となった。ゆえに、一週間前に入った居酒屋のつまみのメニューほどの淡い記憶しか、実はわたしの頭の中には残っていない。もうだいぶ前のことになるが、大学の学部時代の恩師に「きみは海外に行っても故郷の北埼玉の延長にしか感じられないだろうね」と言われたことがあった。たしかに、たとえば京都でいわゆる長屋の跡などをみても、自分のふるさとの農村に点在していた農機具置き場の古い蔵を小ぎれいにした程度のものにしか感じられないようなところがわたしにはある(またそれを関西出身の知人に正直に述べたところ激しい口調で非難された)。勿論、この鈍感さが中国でも発揮されたのは書くまでもない。が、それは決して目に映る景色に対してだけではなかった。

 

安徽省の名峰である黄山をハイキングしている時だった。旅も半ばを過ぎて、そもそも集団で行動をするということが苦手であるゆえに、精神的に大分疲労感をおぼえていた。ああ、一人になりたい。そこで可能な限り、日本から来た詩人や編集者、あるいは日本語を喋れる現地のスタッフの方から離れてみることにした。日本語の聴こえない空間にわたしは一人きりになれる場所を見つけ出そうとした。中国人の見知らぬ観光客たちが交わしている言葉にこっそりと聴き耳を立ててみる。意味はまったくわからない。プールで伏し浮きをする時のように体全体の力をぬく。・・・・・・おやおや。不思議なことに日本語が飛び交う空間にいる時みたいに、よいのかわるいのか判断がつかないような曖昧な居心地しか感じない。意味が分かるか、分からないか。単純にただそれだけの差なのだ。中国の言葉も日本の言葉もわたしから均等に離れた場所を漂っている。十代のなかばからおよそ十年、日本語のまるみやふくらみに淫しようとするきもちで詩を書いてきたが、まだまだ外国語とおなじくらい日本語は手が届きがたいものなのである。その遠さに「まだするべきことはある」と希望を見出すべきなのか、それとも徒労を感じるべきなのか。木々の枝々の重なりからのぞく青空をあおいで、おおきく息をすった。(10.1.1)

 

*くたに きじ 1984年生。詩集「昼も夜も」(ミッドナイト・プレス)、「ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩」(思潮社)。