「現代詩季評」ファイル

5、初源  大家正志

 

  前回、表意文字(イデオグラム)と表音文字(フォノグラム)ということに触れ、近代詩が培ってきたリズムと抑揚、やまと言葉(かな)をすこし見直してもいいのではないか、と書いた。

 実作でもすこしは意識してチャレンジしているが、なかなかうまくはいかない。もっとも、昨日決意して今日から実行、なんてことはハナから考えてはいない。じょじょに自分の詩が変われば、とおもっている。

 

 昔、ソシュールを読んでいて、語は、意味するものとしてのシニフィアンと、意味されるものとしてのシニフィエからなる、ということを教わった。(『一般言語学講義』(岩波書店))

 よく例に出されることだが、「海」ということを例に出すと、シニフィアンは「海」という文字や「うみ」という音声のことをいい、感覚的な部分を受け持つ。シニフィエは「海」という概念、意味内容を受け持つ。そういう意味ではシニフィアンもシニフィエもどちらか単独で存在することはできない。この一対になった語のことを「シーニュ(記号)」と呼ぶ。

 と、まあ、ソシュールは言語学の基本をそう述べているのだが、それを受けラカンは、シニフィアンの優位、ということをいっている。簡単にいうと、伝えたい意味(シニフィエ)があり、シニフィアンという道具を使うのではなく、道具の用法が意味を決定する、ということだ。

 ラカンは精神分析を職業にしているからその必要性から生まれたもので、「シニフィアンの遡及効果」というようなことで説明している。

 フランス語の文法に詳しくないから日本語の文法で言ってみると、たとえば、「私はあなたを愛している」というとき、「私は」でも、「私はあなたを」でも意味は到来していない。最後の「愛している」という語が発音されてはじめて、それまで不確定だった文全体の意味が「遡及的に決定」されるのだ。それはフロイトのいっている「事後性」と「心的外傷」ということに等しいことだろう。

 

 だから、なんなのだ、といわれれば、それだけのことだが、シニフィアンはやまと言葉(かな)に似ていないだろうか。「漢字」という表意文字は概念や意味内容を主張し、「かな」という表音文字は感覚的な部分を表出する。

 最初、「海」を見た日本人が「うみ」と発声したかどうかは知らないが、確かになにか「声」を発しただろう。そこに「漢字」はない。「かな」もない。「声」があっただけだろう。

「感動」や「驚嘆」という感情によって生み出された「声」がまずあるのだが、海を見た人が海を知らない人に、海を伝えたいという気持ちがおこり、その気持ちを伝達していくうちに「海」に意味や概念が付加してしまった、のではないだろうか、とかってにおもっている。そして、そのことによって「本来のうみ」(こんな観念的な海があるといってしまうのもためらってしまうのだが)は「うみ、と発音した快感」から遠く離れてしまった。

 それはそれで、社会的生活を営んでいくうえでは大切なことだったのだろう。しかし、おかげで、言葉を初めて発したヒトが肉体化していた感動や驚愕、快感、愉楽、恐怖、といった初源的なふるまいが顧みられることがなくなっている。いまや「海」は伝達や概念の対象でしかない。

 しかし、詩という表現形式にはまだ、初源の言葉を肉体化し、伝達や概念が幅を聞かせている世間という安易な環境に殴り込みたい、という願望が失われていない。

 

 清水恵子さんからいただいた『駄駄』(思潮社)という詩集を読んでいると、清水さんの「シニフィエが解読する世界」を拒否しながら、言葉が作者にも読者にも縛られない存在、でありたいと願っているのではないかとおもわせる愉楽を感じる。言葉は世間の効果的な、効率的な意味の俎上からすこし自由に振る舞っていいのではないか。自由に振る舞うことによって、「言葉」で生きている世間の風通しがすこしはよくなって、初源の快楽や愉楽といった触れることを忘れていた感情が甦ってくるのではないか。それが言葉に内在する力だということをおもいだしてもいいではないか、と清水さんはいっているようだ。そうだ、前に読ませていただいた『あっぷあっぷ』という一冊も言葉がシニフィエからの呪縛を解き放したいと願っていたことおもいだした。

 

    あ と言えば ああ と

    ああ と言えば  あああ と

    あああ と言えば ああああ と とぐろを巻いて

 

    あ・にめりこむ ん・

      をとりまく あ・

      がのみこむ ん・

      にくいこむ あ・

 

  締め付け合う声と声が鬱血して

   もはや

  という時にも

 

  しっ!

 

  と言う

  しっ! と言うと はい と応える のでまた

  しっ! と言う とあやまる のだ(こいつはバカか)

  俺の生命線がずたずたなのはそういうわけさ

  あのバカは口をふさぐと噛み付くんだ

 

    ち・がにじんで ゆ・

      がわらうと ち・

      はあばれて ゆ・

      をおかして   ち・

 

                               (「廊下(そして隣室)」部分)

 

                                                                  (10.12.28)

 

 

4、美しいもの  大家正志

 

 この世に美しいものはたくさんある。

 生物の細胞の姿、血管を流れる血液の姿、原子核とそれを回る電子の姿、etc.

 それらのなかでもっとも美しいのは宇宙に漂っている星雲の姿だ。宝石箱を覆したかのような輝きが、死にゆく星が噴出するガスのひろがりが、星雲が星雲をのみ込む姿などが、その色彩の限りを暗黒のなかに漂わせている姿は、美しいなどという、あるいは、神秘的などという陳腐な表現を、いや、人の讃美を拒否しているかのようだ──と、かつてはおもっていたが、暗黒を漂う星雲の美しさは人の目を通してしか美しくはない。青と黄の色しか感知しない生物(その生物はぼくらが見る赤い夕焼けの色は暗い緑色でしかない)が見る宇宙は「宝石箱を覆した」美しさではないだろう。(もっとも、かれらにはかれらなりの美しさを感じるだろうが)

 地上600㎞上空の軌道上を周回している宇宙望遠鏡ハッブルが昨年カメラを取り替えて40倍の性能になって、より鮮明な映像が送られてくるようになった、とNHKが特集番組を組んでいた。

 ひさしぶりに星雲の美しさを満足させてもらったが、コンピュータで解析した美しさでなく、ほんものの美しさを(人としての)この目で見たい欲望はけっして叶えられることはないだろう。

 その番組のメインは137億年前に誕生したといわれている宇宙の131億年前の天体が観察できた、ということだったが、そこには、コンピュータを駆使してビッグバン後の最初の星の輝きを導き出した東大数物連携研究所の吉田直樹准教授の物語が背景に語られ、かれが7年を費やして得た、最初の星の輝きは青白いか、白だった、という研究の結論を、改良したハッブル望遠鏡が捉えた131億年前の星の色が青い色だった、という研究成果が補強したという話がハイライトになっていた。

 

 ぼくは高知でちいさな出版の仕事をしているのだが、2年ほど前、日原正彦さんの近代詩評論集『ことばたちの揺曳──日本近代詩精神史ノート』という520ページ余りの本を作らせてもらった。そのとき、校正をかねて近代詩人の詩を繰り返し(520ページを5回ほど)読ませてもらった。そんな体験は初めてのことだった。

 そのとき感じたことは、(こんなことを短絡的に言ってしまうと、鼻先で笑われそうな気がするが)現代詩、というか、現在詩、にくらべて近代詩のほうが美しい、ということだった。

 なにがどう美しいのか。まず、詩にリズムがある。漢字書きはしているが基本的にやまと言葉(かな書き)である。だから言葉の立ち姿が美しくおもえた。そんな形だけのことを言ってもしかたないじゃないか、と再び鼻先で笑われそうだが、声に出して読むと、そのやまと言葉のリズムや抑揚が体内原子の欲望をかき乱してくるような快楽があった。

 日本語は世界的にもまれな構造を持っている。表意文字(イデオグラム)と表音文字(フォノグラム)である。前者は外来語であり、漢字に相当する。後者はやまと言葉であり、かなに相当する。

 養老孟司によると、脳のなかでは表意文字は画像処理され、表音文字は音声処理されるそうである。文字が脳のなかでふたつの処理をされるのだ。ということは脳は表意文字と表音文字を別物と扱っているということだ。漢字かな交じり文を読むとき、脳はほんとうにそんな面倒な操作をしているのか信じられないのだが、信じられないことは山ほどある。

日本語には日本語特有の抑揚とリズムがある。その特性を受け持つのは当然、表音文字ということになる。

 小説の世界でも、太宰治や谷崎潤一郎などは表音文字を上手に使って独特の抑揚とリズムを生み出している。

 詩の世界では近代詩の多くが表音文字を上手に使って、独特の色と匂いを出している。

 若いころは、そういう論理的に把握できない「美的」なものに反発を感じ、そういう美的なものを吃音させることで「現在のぼく」が根拠を持つのだ、とおもったりしていたが、「根拠を持つ」と考えた根拠とはなんだったのか、明確に指示することができないでいた。ただぼんやりと、身の内の感情を歌うことよりも、投げ出されている「世界」という観念に対抗できる言語を構築しなければならない、というような表意文字的強迫性に心急かされていたようにおもう。(ほんとうはどうなんだろう。なんにも考えないで漠然と詩らしきものに追随していただけなのかもしれない)

 しかし、だからといって、近代詩を現在に復刻させよ、などとはおもっていない。ただ、近代詩が培ってきたリズムと抑揚、やまと言葉(かな)をすこし見直してもいいのでは、とおもったりしている。(現在詩でもそういう試みをしている詩人はいるので、ここであらためて強調することでもないかもしれないが、とりあえずはぼく自身の問題として)

 表意文字は現在、政治や経済の国の大本のところでその効果を発揮している。だったら、表意文字のしくみに絡め取られ、身動きならなくなってしまった「ひと」という孤独をともに生き延びていく言葉として、あるいは、表意文字の世界に対するアンチテーゼとして、表音文字の世界を捉えることができないのか、と考えはじめているのだが。(10.4.15

 


 

3 ネットの詩  大家正志

 

 『新潮』1月号に東浩紀と平野啓一郎の対談「情報革命期の純文学」が載っていたが、それは平野の小説『ドーン』と東の小説『クォンタム・ファミリーズ』を前提にしていたので、対談を読む前に『ドーン』を、そして12月20日発売を待って『クォンタム・ファミリーズ』を読んだ。

 『ドーン』は火星へ行ってきた日本人宇宙飛行士の愛の再生の物語で、どこか、大江健三郎のコンテクストを彷彿させるものだった。

『クォンタム・ファミリーズ』はエヴェレットの多世界解釈を背景に「家族」とは何なのか、というようなテーマが扱われていた。

ホーキングとシュレーディンガーのファンであるぼくにはそれなりにおもしろく読めた2冊だった。

『ドーン』は「分人主義」、『クォンタム・ファミリーズ』は「平行世界」といったふうに、「たったひとつの自我」が成立しない世界を描いている。

「分人主義」とは対人関係ごとに自分が分化する、ということらしいが、整形手術をして顔を変えるという設定はそんなに真新しいものでもないし、対人関係で自分の態度が変わるというのは、いまさら強調されなくてもぼくらは既に習得済みの技術でしかない。

「平行世界」を行き来する人格、という設定は量子力学好きのぼくには興味のある設定だったし(もっとも理論上では平行世界は接触することはできないのだが)、ネット全盛の昨今、「ネット上で行き来する複数化した人格」も違和感はなかったが、そういう背景の中で、主人公の児童淫行の贖罪が語られるのだが、そのことは古典的な小説の主題へ収束してしまったような違和感を感じてしまった。『存在論的、郵便的』以来、東浩紀を読みつづけているぼくはつい、「おいおい」と声をあげてしまった。

 

で、平野と東の「情報革命期の純文学」の件だが、「ネットとケータイにみんなが膨大な時間を費やしていて、あらゆるエンターテインメントのジャンルが人間の余暇の壮絶な奪い合いをしている時に、文学だけは常に優先的に読むなんて人は限られている」現状を分析し、市場原理では純文学はエンタメ文学にかなわないし、ライトノベルのことを人はサブカルチャーの問題だと思っているけどあれは実は新しい言文一致の問題だ、などとネット全盛期の「文学」の問題をフットワーク軽く語っていた。

詩の世界でもネットとケータイが勢力を増してきているらしい。ぼくはそこら辺の事情には詳しくないのだが、たしかに詩の投稿サイトには多くの詩が投稿されている。

従来の印刷物による詩の発表形式とネット上でのそれを比べると、まず、印刷費用がかからない。それと多様性のある不特定多数の読者にたどり着く可能性が高い、という利点がある。

 

だから、これからも手頃な発表機関としてネット上の詩投稿サイトはますます書き手と読者を増やしていくだろう。

が、還暦をすぎたぼくにはどうもネット上の詩は居心地が悪い。まず、モニター上で横書きの文字を読まなければならないことになれていないこともあるが、ネット上の詩は「自分の書きたいものを書く」という姿勢が強くて、膨大な情報としての詩が淘汰もされずデータ化されているだけ、というような印象を受けている。

そうかといって、印刷物のように、詩仲間や友人知人だけに配布して、閉じられた環境を循環する方法がいい、とはおもってはいない。

読者の問題は先の平野、東の対談でも重要なテーマのひとつだ。純文学は1万部も売れれば出版社も喜ぶが、西尾維新には20万人の読者がいる。だから純文学も、マイノリティのことを尊重しなさい、といっても意味がないから、マーケットに食い込んでいけるように文学をコンテンツのレベルから徹底的に考えないといけない、と煽っているが、読者が多ければいい、とはおもわないし、その「読者」とはなんなのかということも検証しなければならないとおもう。(読者とは他者のことだから、他者の問題も関わってくるのだが、それはまたの機会に)

 

ぼくは『SPACE』という小さな雑誌の編集発行人になっているが、発行部数は550冊である。読んでもらえる人数はマックス550人である。実質は半分ぐらいだろうか。詩を書いている人にも送っているが、詩を書いていない人、絵を描いている人や音楽をやっている人、あるいは詩など読んだことのない会社員や主婦の人にも積極的に送っている(読んでくれるかどうかは別の話)。それでも閉じられた世界だ。ネットのように、不意の批評家を得ることなどない。未知の人の不意の批評に耐えるという幸福感は味わえない。

 

ネット上の詩でもいい詩にはたくさん出合わせてもらっている。しかし、それらの詩は、ネットが初出の詩ではなく、印刷物へ発表した詩の転載である詩の場合がほとんどだ。

だからというわけでもないが、『SPACE』に発表した詩は、ぼくが開設しているHPに転載している。印刷物を送らなかった人の目にもしかしたら触れるかもしれないとおもって。ときどき、「HPで見たから送ってもらえないか」という幸運さに出合える。そんなときはいそいそとバックナンバーを送るのだが、先方も、ネット上で読むのではなく、印刷物を希望している。

やはり詩は、モニター上ではなく印刷物として読みたいとおもっている人が多いのだろうか。確信はない。確信はないのだがそうおもうことにしている。だから、あくまでも基本は印刷物で、ネットは副次的である、というのがいま現在のぼくの気持ちだ。(10.1.1.)

 

 

2 長嶋さんの語りは  大家正志

 

長嶋南子さんの詩集『猫笑う』(思潮社)は、語りの手前に長嶋さんと猫、語りの向こうに世間。この構図がすっきりしていて、その語りに誘われて、つい、うっとりしながら読んでいたが、読み進むにつれて、みょうに居心地の悪さを感じてしまった。この居心地の悪さはどこからきたのだろう。こんな詩がある。

 

  夜中

  おなかが空いて目覚めた

  炊飯器に手をつっこんで

  ご飯をにぎって食べる

  台所で立ったまま

  箸はつかわない

  どんどん人ではなくなっていく

  そのうち手もつかわなくなり

  そのうち口だけで

  ねこみたいに

 

  台所でひとり

  手づかみで食べている

  口をパカンとあけて

  ねこが足元にすり寄ってきて

  えさをねだっている

  ねこ

  そこで立ち食いしているのは

  わたしではないのだよ           (「ホータイ」全篇)

 

ここで、「わたし」という一人称がつかわれるのはただ一度。「わたしではないのだよ」と「わたし」を否定するために「わたし」がつかわれている。

ここまで快調に長嶋さんの語りを楽しんできたのに、見たこともない路線図で組み立てられた交差点の真ん中に立たされてしまった「不意感」を感じてしまった。

そう、ここで、はじめて長嶋さんの作為が露見することになる。快調に語りとばしてきた「わたし」は長嶋さんではなく、「わたし」だったのだ、と。

 (バルトは、テクストは書かれることと読まれることを同一のレベルに置く、と言った。そこでは読者がテクストの生成に参加するのだ、と。)

 いままで快調にとばしてきた長嶋さんの「わたし」が実は「作者そのもの」ではなく、「読者」の謂いであったことが露見するのだ。ここにきて、長嶋さんは不意に「わたしではないのだよ」と宣言する。それもえさをねだってきた「ねこ」にむかって言い聞かせているようなふりをして、読者の「わたし」に、作者と読者の安定した主従関係なんてどこにもない、ということを知らせている。

だから、この作品以降、「わたし」は長嶋さん以外の「わたし」であることを覚悟して読みつがればならない。そこにあらわれてくる世界は、不安定で、不定量で、不実かもしれない世界である。が、その世界は、長嶋さんの語りという形を通して、長嶋さん以外の「わたし」の世界を構成している。その残酷さを「わたし」は受け入れなければならない。なぜなら、長嶋さんの「作者」という擬態に「読者」というのっぺらぼうなよそ者面を演じてきた「わたし」が露見されたからである。右へも左へも逃げようがないのだ。この世間で「わたし」を演じているかぎりは。

それでも作者である長嶋さんはこう言うかもしれない。「だれがなにを言おうと、これが退職後のわたしの姿よ」。だから読者はこう言うしかない。「長嶋さんてだれなんだろう」。(09.12.06)


 

 

 

1 不在の享楽  大家正志

 

 

 J・ラカンを緩用して話をはじめると、「母」から生まれた子どもは幼児期、分断されていた身体を「鏡」で統一する(鏡に映った自分を「自分」と認識する)ことで、生存のための不可欠な存在であった「母」から独立する。「母親の乳房」という触覚の世界から、視覚の世界、そして言語の獲得、というダイナミックな過程を経て、子どもはおとなになっていく。

おとなにはなっていくが、「鏡の像」に映った自分は現実の自分ではなく、鏡の中に映っている、たぶん自分であろう自分、は鏡である他者が支えてくれているにすぎない。

だから、主体は表象のシステムである、という言い分がまかりとおってしまう。

では、「わたし」の身体性はどこにあるのだろう。

母親の乳房の感触を離れたときから「わたし」という他者性はなにをたよりに生きながらえているのだろう。

そんな疑問が湧いたとき、ふと、目の前にいる認知症の母親は、「ジャガイモのニョッキを食べる/さといもの揚げだんごを食べる/ふわふわオムレツを食べる」(「はるかな食卓」部分)幼児期の触覚の世界を堂々と生きているではないか。

そんなふうに坂多瑩子さんの詩集『お母さん ご飯が』(花神社)ははじまる。

 

誰か知らない人の記憶のなかに立っている

夢をみる

そこは

緑がかっていて

停車場があり

ごくまれにだが 汽車がやってくる

今朝

施設にいる母のところに行った

  この人誰ですか

 私を指して看護師さんが聞く

 母は

  私よ

 とこたえた

                        (「茂み」部分)

 

娘と立場を逆転させた母にたいして娘は介護をすることによって、かつての隷属と快楽の感触を追体験してしまうし、追体験していくうちに娘も、認知症の母親が自分自身を「不在」させているように、娘自身も「不在」へと誘われてしまう。

なぜ、人は不在であることに魅せられてしまうのだろう。

 

 色は何色かって

 いつも同じような色に見えるけど

 夢のなかにでてくる色みたいに

 すぐ分からなくなって

 だから 赤だって思った瞬間に

赤だよ赤

何回もくり返さないと

青になったりするんだよね

それで

なんだろか これは

って

思うと

やはり赤になっていたりするんだよね

                        (「赤」部分)

 

表象のシステムだ、という言い分に疲れてしまっているからだろうか。

いや、もしかしたら、認知症の母親を見ていると、鏡像で自己が統一された、と錯覚した幼児期の記憶がよみがえり、「存在していないからといって不在ではない」などという詭弁を一蹴してしまう「不在」の心地よさがよみがえるからだろうか。

鏡像で得た仮面を付けてここまで生きてきた。だからこの世のことは、社会や、母や、友のことは愛さなくては生きていけない。愛さなければ存在している意味がない。

ある日、ふと考える。

だとしたら、愛することはすでに強制されている。でも、なぜ、そんなふうに愛を強制されるのだろう。自由に愛している、と思っていたが、強制されたものを「自由意志」で選択していたにすぎない。

この「現実界」、言葉で語ることを拒否されているのなら、この唇で母の乳房を含んでいた記憶が「わたし」の存在を唯一助けてくれそうな気がする。強制された「存在」であることより、快楽的で身体的だ。

だから、坂多さんは認知症の母親とともに「不在」であることの心地よさに、ふと心奪われてしまうことを躊躇しない。

この詩集にはそのことがひっそりと書かれている。(09.09.07)