小林レントの「小さな場所から」
3 火の用心の変質
寒い空気を拍子木の鋭角な音がつらぬいてくる季節だ。「火の用心」という紋切り言葉は「慶安御触書」にすでに公的なものとして現れている。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉を挙げるまでもなく、江戸城下はたぐいまれな火災都市であった。過密集住とそれに伴う長屋の生活様式の押しとどめようのなさが、49回に渡って都市ごとを焼き払う災禍を招いた。「火事場泥棒」を目的とした「火付け」は、構造化された個人の貧困が構造自体を自壊させるありようを物語る。明暦の大火と天保の大火のあいだに遥か西方に起こったロンドンの炎上が、中世都市から石造りによる近代都市への転換点となったことと比して、江戸の火は明治維新まで絶えることがなかった。火は江戸においてついに征服されず「宵越しの金はもたない」精神のありかたを人間の側に刻印した。それは美意識と結びつくことによって、破壊の反復を構造として持つ場所に生じる究極的ニヒリズムから脱出する、一種の変則的な知性の形態であっただろう。
ギリシャ神話においてプロメテウスは種々の英知とともに火を人類に授けた。それは熱源として生の象徴であり、破壊をもたらすものとして死の象徴でもあった。キリスト教において最も忌み嫌われたからこそ制度としての機能を担いつづけた「火刑」の凄惨さは、その両面を一度に示している。焼身自殺や怨恨からの放火が絶えないのは、火が生命の非理性に通じるからだ。だからこそ火は当初から知恵とともにあらねばならなかった。知性の主要な仕事のひとつに、生活に不可欠でありながらも生活を破壊する、火との関係性の構築が常にあった。文字通り「心」を「用」いる必要があったのだ。
現代的生活の場から、火の直接的経験は失われつつある。「ライフライン」として不可視化されたガスが、細々と炊事場に火を灯していたが、その名前自体が火の姿をあらわす「焜炉」さえも電磁調理器にその座を譲りはじめている。風呂や暖房器具は言うまでもない。火力発電所や、科学の創造した火種である原発のなかに火は隠蔽されている。理性は自らを不確定な「人為」から切り離し、機械と化すことによって、生命の根源としての火を支配した。自己保存に不可欠の熱源が、それと関係性を築くべき思考とともに人間から隔離されたのだ。電子機器からの発火は、設計した企業の杜撰さもしくは違法性を物語るか、その製品ごとに定められたマニュアルに対する消費者の違反を警告するだけであり、被災者の火そのものへの知見が問われる契機はない。個人の思考と経験、事象への試行錯誤の段階は不要であり、客観的物質となった理性に盲目的に服従する方法は事前に取扱説明書に書いてある。白黒映画の時代から戯画化されつづけているように、機械的事物へと変身した合理性は逆流し、人間の日常的行動様式の機械化を要請するのであり、それにそぐわない一切の挙動は非合理と怠慢の烙印を押され、火刑に処されることとなる。いまだ征服されていない自然としての地震がガス管の破壊を地上に曝すとき、それは死のイメージのみを人に与えるだろう。火は日常生活においてそれ自体の持つあたたかさの側面を失い、例外的かつ暴力的な印象としてしかその姿を現さない。問題化されるのは消火の技術だけだ。だからこそ人類の合理性と、それ自体が含んでいる非合理性の噴出としての戦争において、火は逆説的に保存されつづけている。(10.1.1)
*こばやし れんと 1984年福岡県生まれ。詩人。最近、文芸誌『界遊』に作品を発表中。詩集『いがいが』(ミッドナイト・プレス)。
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